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8.暗躍(5)
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気づかせるな、とラフィンニは忠告した。
ユーノは『誰か』を愛している。アシャが自分の想いを押し付けることは、ユーノを苦しませ傷つけこそすれ、決してユーノを救い得ない、と。
その通り、アシャが無理矢理奪ったキスは、ユーノを泣かせただけで、その頬に笑みを取り戻させはしなかった。
何度か唇を重ねているが、泣かれたのは初めてだ。
「…」
ふっとアシャは目を開けた。何が聞こえたと言うのでもない。が、何かが近づいて来る、そんな気配がした。
そのアシャの視界、見上げる星空を掠めて、白い塊のようなものが飛んだ。微かに風を切る音をたてて、ぽとっとアシャの真横に落ちる、白いふわふわとした毛皮を、細い黒糸できつく巻き締めてある小さな包み。
「っっ!」
瞬時にアシャの顔から血の気が引いた。跳ね起きると同時に、側で横になっているシャイラに叫ぶ。
「シャイラ! 起きろ!」
「ん…あ…? アシャ…?」
「寝ぼけてる場合じゃ、ないっ!」
再び飛んで来た白い毛玉がシャイラにぶつかりそうになり、アシャはとっさに相手を突き飛ばした。が、一瞬遅く、指先に毛玉がぶつかり、ぱふっと音を立てて糸が解ける。広がった黄色の粉が、空に舞うと同時にアシャの右手にも散る。
「その粉を浴びるな!」
荒々しい舌打ちをして叫び、アシャは水の革袋を掴んだ。噛んだ歯で引き絞った革紐を引っ張って革袋の口を開け、中身を全部、惜しげも無く右手に注ぎかける。
「アシャ?! 何を?!」
「『飢粉(シイナ)』だ!」
「っっ!」
アシャの右手から黄色の水となって流れ落ちる粉と『飢粉(シイナ)』と言うことばに、シャイラは立ち竦んだ。流石に『銀羽根』の長、この特殊な武器を名前なりと知っていたらしい。続けて飛んで来る幾つかの毛玉を、我に返った様子で避けながら、忌々しげに唸った。
「くそっ…奴ら…どこに…っ」
(そうだ、どこに居る?)
アシャもまた周囲を押し包む『泥土』の闇に目を凝らした。『飢粉(シイナ)』を浴びた右手はひりひりと赤く腫れて熱を持っている。ところどころ、直接粉を浴びた所が、薄い膜を張った水ぶくれになっていた。
『飢粉(シイナ)』は、ラズーンの東の辺境に群生する黄染花(マイルーヤ)の花弁を乾燥させ炒ったもので、咲いている時は愛らしい薄黄色の花も一転、肌を侵す猛毒と化す。それをアザオートと呼ばれる白い和毛の小動物の皮で包み、衝撃に弱い細い黒糸で縛ったものは、投げ玉の一種としてラズーン辺境でよく使われた。
もう一つ厄介なことに、この『飢粉(シイナ)』は泥獣(ガルシオン)の好物だ。これを喰らった泥獣(ガルシオン)は、その後しばらく酩酊状態になる。言わば、人間に対しての強い酒のような役割を果たすのだ。
それらの知識を思い出すまでもなく、アシャの耳には眠りについていた泥獣(ガルシオン)達の起き出す鈍いざわめきが聞こえ始めていた。
「アシャ様!」
「ああ!」
シャイラの警告の叫びに、アシャは地面を蹴った。月は雲に隠れ、辺りは物の輪郭も曖昧な薄暗い空間なのに、どうやって狙いをつけているのか、『飢粉(シイナ)』の毛玉は正確に腹と足の位置に飛んで来た。一度降り立ち、それでも次々飛んで来る玉に、とん、と再び空中に跳ね上がる。
(この角度だと…あそこか!)
猛々しい視線を送り、するすると気配を消したまま黒い人影に近寄って行く。
背中に革袋、左肩と腕をつなぐように木製の仕掛けの道具をくくりつけている。左手を上げて狙いを定め、右手で台の上に止められた金属の板をしならせ肩の留め具に引っ掛け、金属の板についている小さな木の皿に毛玉を乗せ、留め金を外す。たったそれだけの動作で、皮膚を侵し目を潰し飲み込んでしまえば血反吐を吐いて倒れる死の粉の塊が、確実に犠牲者に向かって飛ぶのだ。
(難点は、かなりの至近距離から狙わないとだめだと言うことか)
薄く笑ったアシャは、手にした短剣を抜き払い、未だ接近に気づいていない相手に襲いかかる。
「は…あぎゃ!」
それでもとっさに振り向いた相手の喉は、次の瞬間一文字に切り裂かれた血潮を吹き上げた。どうっと横倒しになる側を返り血さえ浴びずにアシャは走る。
(悪く思うな、ここで死ぬわけにはいかん)
胸で呟き、アシャは次の標的を探した。
月はまだ雲間から覗かない。有難くも疎ましくもある状況、わざわざ『飢粉(シイナ)』を用意していることから見ても、アシャ達を狩りに来た手合いだろう。だが、それがギヌアの差し金なのか、カルキュイの手配りなのかがわからない。
「ぎゃ!」
背後で絞り出すような悲鳴が響き、泥の上を走る濡れた足音が続いた。鋭い気合いとともに、再び別の場所で悲鳴が響く。
視界の隅で、シャイラの額の白い帯が光った。月が出たらしい。刷毛で掃いたように暗闇が薄れていく。
前方右寄りにもう一人、革袋を背負った男を見つけてアシャは目を細めた。走り寄る、音も立てずに気配も消して。
なのに、どうしたことか、アシャが襲いかかる瞬間に、男ははっとしたようにこちらへ目を向けた。ためらうことなく左手を上げる。ビョン、と金属の板の鳴る音が聞こえ、数瞬遅れて、毛玉がアシャの足元へ泥跳ねを上げて落ちた。衝撃に解けて死の煙を吐いただろう毛玉から逃れて、アシャは中空へ躍り上がる。金属の板は引き続いて鳴った、まるでアシャがどう動いたのか『はっきり』見えているように。
「?」
とっさの判断で空中で膝を抱え込み一転する。
月が出たとは言え、叢雲が何度もその面を過ぎるような光の中、いかに闇に慣れた目とは言え、予備動作なく常人の倍は軽く飛べるアシャの軌跡を、正体を知らぬ者がそれほど正確に読めるはずがない。
空中での一回転はその場しのぎの目くらまし、だが、予想以上に功を奏した。地上の男はまるで突然標的を見失ったようにうろたえた様子で、周囲をあたふたと見回し武器を構えたが、アシャが真横に降りた時には、『飢粉(シイナ)』を使うには遅すぎた。
ユーノは『誰か』を愛している。アシャが自分の想いを押し付けることは、ユーノを苦しませ傷つけこそすれ、決してユーノを救い得ない、と。
その通り、アシャが無理矢理奪ったキスは、ユーノを泣かせただけで、その頬に笑みを取り戻させはしなかった。
何度か唇を重ねているが、泣かれたのは初めてだ。
「…」
ふっとアシャは目を開けた。何が聞こえたと言うのでもない。が、何かが近づいて来る、そんな気配がした。
そのアシャの視界、見上げる星空を掠めて、白い塊のようなものが飛んだ。微かに風を切る音をたてて、ぽとっとアシャの真横に落ちる、白いふわふわとした毛皮を、細い黒糸できつく巻き締めてある小さな包み。
「っっ!」
瞬時にアシャの顔から血の気が引いた。跳ね起きると同時に、側で横になっているシャイラに叫ぶ。
「シャイラ! 起きろ!」
「ん…あ…? アシャ…?」
「寝ぼけてる場合じゃ、ないっ!」
再び飛んで来た白い毛玉がシャイラにぶつかりそうになり、アシャはとっさに相手を突き飛ばした。が、一瞬遅く、指先に毛玉がぶつかり、ぱふっと音を立てて糸が解ける。広がった黄色の粉が、空に舞うと同時にアシャの右手にも散る。
「その粉を浴びるな!」
荒々しい舌打ちをして叫び、アシャは水の革袋を掴んだ。噛んだ歯で引き絞った革紐を引っ張って革袋の口を開け、中身を全部、惜しげも無く右手に注ぎかける。
「アシャ?! 何を?!」
「『飢粉(シイナ)』だ!」
「っっ!」
アシャの右手から黄色の水となって流れ落ちる粉と『飢粉(シイナ)』と言うことばに、シャイラは立ち竦んだ。流石に『銀羽根』の長、この特殊な武器を名前なりと知っていたらしい。続けて飛んで来る幾つかの毛玉を、我に返った様子で避けながら、忌々しげに唸った。
「くそっ…奴ら…どこに…っ」
(そうだ、どこに居る?)
アシャもまた周囲を押し包む『泥土』の闇に目を凝らした。『飢粉(シイナ)』を浴びた右手はひりひりと赤く腫れて熱を持っている。ところどころ、直接粉を浴びた所が、薄い膜を張った水ぶくれになっていた。
『飢粉(シイナ)』は、ラズーンの東の辺境に群生する黄染花(マイルーヤ)の花弁を乾燥させ炒ったもので、咲いている時は愛らしい薄黄色の花も一転、肌を侵す猛毒と化す。それをアザオートと呼ばれる白い和毛の小動物の皮で包み、衝撃に弱い細い黒糸で縛ったものは、投げ玉の一種としてラズーン辺境でよく使われた。
もう一つ厄介なことに、この『飢粉(シイナ)』は泥獣(ガルシオン)の好物だ。これを喰らった泥獣(ガルシオン)は、その後しばらく酩酊状態になる。言わば、人間に対しての強い酒のような役割を果たすのだ。
それらの知識を思い出すまでもなく、アシャの耳には眠りについていた泥獣(ガルシオン)達の起き出す鈍いざわめきが聞こえ始めていた。
「アシャ様!」
「ああ!」
シャイラの警告の叫びに、アシャは地面を蹴った。月は雲に隠れ、辺りは物の輪郭も曖昧な薄暗い空間なのに、どうやって狙いをつけているのか、『飢粉(シイナ)』の毛玉は正確に腹と足の位置に飛んで来た。一度降り立ち、それでも次々飛んで来る玉に、とん、と再び空中に跳ね上がる。
(この角度だと…あそこか!)
猛々しい視線を送り、するすると気配を消したまま黒い人影に近寄って行く。
背中に革袋、左肩と腕をつなぐように木製の仕掛けの道具をくくりつけている。左手を上げて狙いを定め、右手で台の上に止められた金属の板をしならせ肩の留め具に引っ掛け、金属の板についている小さな木の皿に毛玉を乗せ、留め金を外す。たったそれだけの動作で、皮膚を侵し目を潰し飲み込んでしまえば血反吐を吐いて倒れる死の粉の塊が、確実に犠牲者に向かって飛ぶのだ。
(難点は、かなりの至近距離から狙わないとだめだと言うことか)
薄く笑ったアシャは、手にした短剣を抜き払い、未だ接近に気づいていない相手に襲いかかる。
「は…あぎゃ!」
それでもとっさに振り向いた相手の喉は、次の瞬間一文字に切り裂かれた血潮を吹き上げた。どうっと横倒しになる側を返り血さえ浴びずにアシャは走る。
(悪く思うな、ここで死ぬわけにはいかん)
胸で呟き、アシャは次の標的を探した。
月はまだ雲間から覗かない。有難くも疎ましくもある状況、わざわざ『飢粉(シイナ)』を用意していることから見ても、アシャ達を狩りに来た手合いだろう。だが、それがギヌアの差し金なのか、カルキュイの手配りなのかがわからない。
「ぎゃ!」
背後で絞り出すような悲鳴が響き、泥の上を走る濡れた足音が続いた。鋭い気合いとともに、再び別の場所で悲鳴が響く。
視界の隅で、シャイラの額の白い帯が光った。月が出たらしい。刷毛で掃いたように暗闇が薄れていく。
前方右寄りにもう一人、革袋を背負った男を見つけてアシャは目を細めた。走り寄る、音も立てずに気配も消して。
なのに、どうしたことか、アシャが襲いかかる瞬間に、男ははっとしたようにこちらへ目を向けた。ためらうことなく左手を上げる。ビョン、と金属の板の鳴る音が聞こえ、数瞬遅れて、毛玉がアシャの足元へ泥跳ねを上げて落ちた。衝撃に解けて死の煙を吐いただろう毛玉から逃れて、アシャは中空へ躍り上がる。金属の板は引き続いて鳴った、まるでアシャがどう動いたのか『はっきり』見えているように。
「?」
とっさの判断で空中で膝を抱え込み一転する。
月が出たとは言え、叢雲が何度もその面を過ぎるような光の中、いかに闇に慣れた目とは言え、予備動作なく常人の倍は軽く飛べるアシャの軌跡を、正体を知らぬ者がそれほど正確に読めるはずがない。
空中での一回転はその場しのぎの目くらまし、だが、予想以上に功を奏した。地上の男はまるで突然標的を見失ったようにうろたえた様子で、周囲をあたふたと見回し武器を構えたが、アシャが真横に降りた時には、『飢粉(シイナ)』を使うには遅すぎた。
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