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9.『西の姫君』(4)
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「ん…?」
誰かに呼ばれたような気がして、カートは来た方を振り返った。
が、そこには既にラルゴもデリンガもいない。遠くの方で何かが崩れるような音を耳にし、唐突に滴って来た水にきゃっ、と小さく声を上げて逃げ戻ってしまったのだ。
カートも振り返った瞬間、それまで何とか天井から落ちてくる水滴から守っていた松明が、じゅっと音を立てて最後のほのかな明かりを消した。
「ふん」
仕方ない、と鼻を鳴らして、カートは松明を捨てた。これから先、再度灯せる見通しはないし、手にしているだけ無駄で重い。
辺りは真の闇だった。
湿った空気が微かに前方へ流れて行く感覚が、通路であることをようやく知らせる。両手を伸ばし、濡れた岩に滑ることを注意しながら先を急ぐ。もう少しで出口があることを知っていた。そして、地下道の中を松明なしで歩く危険性も。
けれども、退くわけにはいかなかった。言いだしっぺでもあり、ラルゴ、デリンガが引き返した以上、自分まで引き返してはせっかくの楽しみが台無しになる、そう自分に言い聞かせて歩き続ける。
注意はしていたが、何度か滑ってこけ、しがみついた岩角で手を打ち足を打ち、ようよう出口へ辿り着いた時には、泥だらけ打ち身だらけになっていた。
外は風が冷たかった。その冷たさの中には、何かぞくぞくするようなものがあって、顔がほてるのを感じた。それでもカートは足を進めた。
何はともあれ、伝説の土地へ出掛けるのだ。ひょっとしたら、自分こそが、昔語りにある未来を覗き込む人間かもしれないではないか。
足元の草の丈がどんどん高くなっていく。足元をくすぐり、時折ちくちくするのは短い葉先かディグリスの若芽だろう。もう少し伸びていれば全身傷だらけになっているところだ。『長丈草』と呼ばれるほど伸びるこの草は、子どもの背ぐらい容易に越す。
やがて右前方よりに、パディスの古い遺跡の土台石が見えて来た。その向こう、長丈草(ディグリス)の黄色味がかった若芽が、夜闇に淡い光を放って輝いているような草波の中、ほの白い像が土台石に囲まれた中庭のようなところで、ぽつりと小さく浮かび上がっている。
「…」
どきりと高鳴った胸を掴んでしまったのも鬱陶しく、両手を強く振ってカートが近づいていくと、像はゆっくりと大きさを増していく。
「…ふぅ…」
ラズーン中央区にちょうど背中を向けている『パディスの偶像』に間近まで歩み寄ったカートは、像が抱いている水晶球の正面に回る前に、少し立ち止まって吐息をついた。
頭の中からは、仲間と交わした賭けのことなど、とっくの昔に消えている。今は、人が誰でもそうあるように、待たれていた人間がひょっとしたら自分かもしれないと言う想いだけに胸を躍らせている。
一歩一歩、左へ向かって、像を見上げながら歩いて行く。
跳ね躍る心臓がうるさいほどだ。ごくりと唾を飲む。
像が次第に向きを変えていく。暗い夜空を背景に、白い面輪をこちらへ振り向けていく。白くほっそりした腕が、体の前である空間を抱え込むように曲げられ重ねられて、その空間の玉座に、時に光の加減か血のような赤さをたたえるという水晶球が、ついに見え…………なかった。
「は…?」
カートはぽかんと口を開けた。あまりの驚きに、今の今まで速っていた胸の鼓動も瞬時に止まり、風も止まり血の流れも止まり、時も止まった。
「…」
目の前の光景をまじまじと眺める。
どれほど眺めても、そこに、水晶球はない。
ぽっかりと虚ろな空間だった。何もないのに、像はそこに何か大切なものがあるかのように静かに手を回して抱え込んでいて、カートは、本当は水晶球はあるのだが、単に自分にそれが見えていないだけではないかとさえ思った。
そろそろと像に近寄る。胡座をかいて座った像に手を掛け、よいしょと這い上がる。遺跡に対する敬いも、不可思議な魔の存在に対する恐怖も、今のカートの心にはなかった。手をのばし、像の手を掴んで伸び上がり、なよやかな腕の間を探る。
何も触れない。
「…ふ…ふふっ…」
「!」
唐突に楽しそうな含み笑いが響いて、カートは慌てて振り返った。
『パディス』の土台石の上、カートの背ほどある高さに小さな人影があった。淡い金髪を風になびかせ、片手に紫の布を掛け、その上に他でもない運命(さだめ)を映す水晶球を載せて、少年はくすくす笑う。
「何を捜しているのさ、カート?」
「ラル!」
相手が誰かを悟った途端、カートは像の膝から飛び降りた。うろたえた醜態を、事もあろうにラルに見られたのが腹立たしかった。鼻息荒く駆け寄り、足首を掴んで引きずり下ろしてやろうとしたが、相手の方が一枚上で、カートの手が届くより早く、ラルはひらりと土台石の上に飛び上がる。
「この……澄ましやがって!!」
ぶつけ損なった怒りに喚く。土台石の上に立つラルの、いたずらっぽい茶色の瞳を睨みつける。
「自分には関係ないって顔してたくせに!」
「ふ…ふふふっ」
ラルは含み笑いをして、わずかに目を伏せた。
「もちろん、君達の賭けには関係ないよ。ぼくも見たかったんだ、自分の未来という奴を」
静かな声にカートははっとした。
「…見えたのか?!」
咳き込んで尋ねる。だが、ラルはあっさり首を振った。
「ぼくの未来はね。でも、他のものを見た」
「何?」
「だから君に見せるわけにはいかない」
「ラル!」
「じゃあね、カート」
「持っていくのか!」
相手は身を翻しながらくすりと笑い、
「ぼくがやったって言いたけりゃ言えば?」
「誰が!」
カートはむくれた。そうとも、誰がこんなことを、泥だらけで必死に走って来たのに獲物一つも手に入らないで、しかも幼馴染に嗤われるようなみっともない出来事を、話して回りたい人間などいない。
「だけど、一体どうやって来た?」
「見張りの眼を抜けて、馬で」
溶け入るように姿を消した闇の彼方から、こともなげな声が響いた。
「馬…? 見張りの眼なんて…抜けられるわけがないだろ…」
混乱したカートの呟きに、返答はもう戻らなかった。
誰かに呼ばれたような気がして、カートは来た方を振り返った。
が、そこには既にラルゴもデリンガもいない。遠くの方で何かが崩れるような音を耳にし、唐突に滴って来た水にきゃっ、と小さく声を上げて逃げ戻ってしまったのだ。
カートも振り返った瞬間、それまで何とか天井から落ちてくる水滴から守っていた松明が、じゅっと音を立てて最後のほのかな明かりを消した。
「ふん」
仕方ない、と鼻を鳴らして、カートは松明を捨てた。これから先、再度灯せる見通しはないし、手にしているだけ無駄で重い。
辺りは真の闇だった。
湿った空気が微かに前方へ流れて行く感覚が、通路であることをようやく知らせる。両手を伸ばし、濡れた岩に滑ることを注意しながら先を急ぐ。もう少しで出口があることを知っていた。そして、地下道の中を松明なしで歩く危険性も。
けれども、退くわけにはいかなかった。言いだしっぺでもあり、ラルゴ、デリンガが引き返した以上、自分まで引き返してはせっかくの楽しみが台無しになる、そう自分に言い聞かせて歩き続ける。
注意はしていたが、何度か滑ってこけ、しがみついた岩角で手を打ち足を打ち、ようよう出口へ辿り着いた時には、泥だらけ打ち身だらけになっていた。
外は風が冷たかった。その冷たさの中には、何かぞくぞくするようなものがあって、顔がほてるのを感じた。それでもカートは足を進めた。
何はともあれ、伝説の土地へ出掛けるのだ。ひょっとしたら、自分こそが、昔語りにある未来を覗き込む人間かもしれないではないか。
足元の草の丈がどんどん高くなっていく。足元をくすぐり、時折ちくちくするのは短い葉先かディグリスの若芽だろう。もう少し伸びていれば全身傷だらけになっているところだ。『長丈草』と呼ばれるほど伸びるこの草は、子どもの背ぐらい容易に越す。
やがて右前方よりに、パディスの古い遺跡の土台石が見えて来た。その向こう、長丈草(ディグリス)の黄色味がかった若芽が、夜闇に淡い光を放って輝いているような草波の中、ほの白い像が土台石に囲まれた中庭のようなところで、ぽつりと小さく浮かび上がっている。
「…」
どきりと高鳴った胸を掴んでしまったのも鬱陶しく、両手を強く振ってカートが近づいていくと、像はゆっくりと大きさを増していく。
「…ふぅ…」
ラズーン中央区にちょうど背中を向けている『パディスの偶像』に間近まで歩み寄ったカートは、像が抱いている水晶球の正面に回る前に、少し立ち止まって吐息をついた。
頭の中からは、仲間と交わした賭けのことなど、とっくの昔に消えている。今は、人が誰でもそうあるように、待たれていた人間がひょっとしたら自分かもしれないと言う想いだけに胸を躍らせている。
一歩一歩、左へ向かって、像を見上げながら歩いて行く。
跳ね躍る心臓がうるさいほどだ。ごくりと唾を飲む。
像が次第に向きを変えていく。暗い夜空を背景に、白い面輪をこちらへ振り向けていく。白くほっそりした腕が、体の前である空間を抱え込むように曲げられ重ねられて、その空間の玉座に、時に光の加減か血のような赤さをたたえるという水晶球が、ついに見え…………なかった。
「は…?」
カートはぽかんと口を開けた。あまりの驚きに、今の今まで速っていた胸の鼓動も瞬時に止まり、風も止まり血の流れも止まり、時も止まった。
「…」
目の前の光景をまじまじと眺める。
どれほど眺めても、そこに、水晶球はない。
ぽっかりと虚ろな空間だった。何もないのに、像はそこに何か大切なものがあるかのように静かに手を回して抱え込んでいて、カートは、本当は水晶球はあるのだが、単に自分にそれが見えていないだけではないかとさえ思った。
そろそろと像に近寄る。胡座をかいて座った像に手を掛け、よいしょと這い上がる。遺跡に対する敬いも、不可思議な魔の存在に対する恐怖も、今のカートの心にはなかった。手をのばし、像の手を掴んで伸び上がり、なよやかな腕の間を探る。
何も触れない。
「…ふ…ふふっ…」
「!」
唐突に楽しそうな含み笑いが響いて、カートは慌てて振り返った。
『パディス』の土台石の上、カートの背ほどある高さに小さな人影があった。淡い金髪を風になびかせ、片手に紫の布を掛け、その上に他でもない運命(さだめ)を映す水晶球を載せて、少年はくすくす笑う。
「何を捜しているのさ、カート?」
「ラル!」
相手が誰かを悟った途端、カートは像の膝から飛び降りた。うろたえた醜態を、事もあろうにラルに見られたのが腹立たしかった。鼻息荒く駆け寄り、足首を掴んで引きずり下ろしてやろうとしたが、相手の方が一枚上で、カートの手が届くより早く、ラルはひらりと土台石の上に飛び上がる。
「この……澄ましやがって!!」
ぶつけ損なった怒りに喚く。土台石の上に立つラルの、いたずらっぽい茶色の瞳を睨みつける。
「自分には関係ないって顔してたくせに!」
「ふ…ふふふっ」
ラルは含み笑いをして、わずかに目を伏せた。
「もちろん、君達の賭けには関係ないよ。ぼくも見たかったんだ、自分の未来という奴を」
静かな声にカートははっとした。
「…見えたのか?!」
咳き込んで尋ねる。だが、ラルはあっさり首を振った。
「ぼくの未来はね。でも、他のものを見た」
「何?」
「だから君に見せるわけにはいかない」
「ラル!」
「じゃあね、カート」
「持っていくのか!」
相手は身を翻しながらくすりと笑い、
「ぼくがやったって言いたけりゃ言えば?」
「誰が!」
カートはむくれた。そうとも、誰がこんなことを、泥だらけで必死に走って来たのに獲物一つも手に入らないで、しかも幼馴染に嗤われるようなみっともない出来事を、話して回りたい人間などいない。
「だけど、一体どうやって来た?」
「見張りの眼を抜けて、馬で」
溶け入るように姿を消した闇の彼方から、こともなげな声が響いた。
「馬…? 見張りの眼なんて…抜けられるわけがないだろ…」
混乱したカートの呟きに、返答はもう戻らなかった。
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