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9.『西の姫君』(8)
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「嫌です」
再度、アリオははっきりとした口調で拒絶した。
「嫌、とおっしゃられてもねえ…」
ギャティは『一応』敬意を表して跪いた姿勢ではいるものの、かなり不遜な口調で溜め息混じりに呟いた。
「私は自分の意志でこちらにいるのですもの」
「ジーフォ公がご心配されておられますよ」
「ご勝手に」
つん、と横を向いたアリオの横顔は、ほんの少しも譲歩する気配がない。きつい黒の瞳は閉じられたまま、白い夜着の上に羽織った紅の長衣、艶のある黒髪は今は一つに束ねられて、肩に波打っている。
「カルキュイが何者なのか、ご存知なんですか?」
仕方ないとギャティは説明を加える。
「『穴の老人』(ディスティヤト)と言う、恐ろしい太古生物の末裔なんですよ」
「彼が何者かは知りません」
アリオは依然、ギャティ如きに向ける顔ではないとでも言いたげに、面をそむけたまま言い放った。
「『穴の老人』(ディスティヤト)だか、『泉の狩人』(オーミノ)だか、そんなことは私に関係ないことです。私はただ、まだここに居るつもりだ、そう申し上げているだけですわ」
最後は少し礼儀を慮ったのか、口調を改めた。
「しかし、『西の姫君』、我ら『金羽根』はセシ公命令にて」
「セシ公なぞ知りません。それとも」
ギャテイを横目で見やり、
「ここで大声を上げてもよろしいのよ」
「…」
ギャティは溜め息を重ねた。
何という愚かな扱いにくい女だろう。リヒャルティの方がよっぽど扱いやすい。こんなことなら、遅かったと文句を言われるにせよ、バルカと役目を代われば良かった。
困惑を見て取ったのだろう、アリオは少し譲る様子で、けれどもからかうように、
「そうね、それとも、ここへアシャを呼んで下さる? 彼が迎えに来てくれるなら、考えないでもないわ」
「それは困りますな、アリオ姫」
「!」「!!」
ふいに戸口から別の声が響き、アリオははっとしたように振り返った。
「あなたには、もう少しこちらにご滞在頂かないと……お約束したでしょう? 必ずアシャと逢わせて差し上げよう、と」
いつの間に近寄って来ていたのか、カルキュイの姿がそこにあった。にたり、とこの上もなく不気味な笑顔になって、
「最もお話になれるかどうかはちと疑問ですな。なにせ『泥土』の泥獣(ガルシオン)は貪欲、『飢粉(シイナ)』でも浴びた日には、骨一つ残りますまいよ……そして、あなたは…」
「ひ……ぃっ……」
「…」
アリオが掠れた声を上げ、バルカが身構えたのも道理、笑ったカルキュイの口がゆっくりと大きく開き、唇の端まで開いてもなお『開き続けて』いく。
めりっ、と嫌な音がした。
肉が裂けていく。堪え難い力で上下に引き裂かれていく。唇の両端で、ボロ屑のように裂けた肉片が、見るもおぞましい赤黒く柔らかな裳裾と化して、開いた口の両下縁に垂れ下がっていく。ぽたっと肉片から血が滴り落ちた。カルキュイの口元は真っ赤だ。爛れた傷口のようにでこぼこした肉のうねりが、何かある意図を持って口の奥の方へ向かって引き締められている。
「は…」
「アリオ姫!」
気を失って崩折れたアリオをとっさに抱きとめながら、ギャティは顔を背けた。無理もない、男のギャティでも胸が悪くなる。死体なら見飽きている、様々なもので彫り込まれた傷口も、しかしこれは。カルキュイが既に人間とは別のものになっていると言うことを、頭ではわかっていたが、これほどはっきり見せつけられると、腹立たしさよりおぞましさが先に立つ。
「く…くくくっ…」
口はなお開き続けていた。肉の避ける音だけではなく、骨が折れ砕け崩れる音も響いていた。カルキュイの顔がゆっくりと上下に裂けていっている、それなのに、その『口』は低い嗤い声を漏らした。
肉の襞が波打つ。波打って、ゆっくり収縮を始め、
「!!」
視界の端で何が起ころうとしているのかを悟って、ギャティは硬直した。
(リ、リヒャルティ…っ!!)
思わず胸の中で自らの長に向かって悲鳴を上げる。腰が今にも砕けてしまいそうだ、だが、砕ければ最後、自分もまたカルキュイと同じように、人ではない何者かに熔け崩れて行きそうな気がする。その恐怖だけが両足を支える。
そのギャティの前で、カルキュイの開き切った『口』は、ゆっくりと己を喰い始めていた。いや、カルキュイの中の『穴の老人』(ディスティヤト)が、と言った方がいいかも知れない。
再度、アリオははっきりとした口調で拒絶した。
「嫌、とおっしゃられてもねえ…」
ギャティは『一応』敬意を表して跪いた姿勢ではいるものの、かなり不遜な口調で溜め息混じりに呟いた。
「私は自分の意志でこちらにいるのですもの」
「ジーフォ公がご心配されておられますよ」
「ご勝手に」
つん、と横を向いたアリオの横顔は、ほんの少しも譲歩する気配がない。きつい黒の瞳は閉じられたまま、白い夜着の上に羽織った紅の長衣、艶のある黒髪は今は一つに束ねられて、肩に波打っている。
「カルキュイが何者なのか、ご存知なんですか?」
仕方ないとギャティは説明を加える。
「『穴の老人』(ディスティヤト)と言う、恐ろしい太古生物の末裔なんですよ」
「彼が何者かは知りません」
アリオは依然、ギャティ如きに向ける顔ではないとでも言いたげに、面をそむけたまま言い放った。
「『穴の老人』(ディスティヤト)だか、『泉の狩人』(オーミノ)だか、そんなことは私に関係ないことです。私はただ、まだここに居るつもりだ、そう申し上げているだけですわ」
最後は少し礼儀を慮ったのか、口調を改めた。
「しかし、『西の姫君』、我ら『金羽根』はセシ公命令にて」
「セシ公なぞ知りません。それとも」
ギャテイを横目で見やり、
「ここで大声を上げてもよろしいのよ」
「…」
ギャティは溜め息を重ねた。
何という愚かな扱いにくい女だろう。リヒャルティの方がよっぽど扱いやすい。こんなことなら、遅かったと文句を言われるにせよ、バルカと役目を代われば良かった。
困惑を見て取ったのだろう、アリオは少し譲る様子で、けれどもからかうように、
「そうね、それとも、ここへアシャを呼んで下さる? 彼が迎えに来てくれるなら、考えないでもないわ」
「それは困りますな、アリオ姫」
「!」「!!」
ふいに戸口から別の声が響き、アリオははっとしたように振り返った。
「あなたには、もう少しこちらにご滞在頂かないと……お約束したでしょう? 必ずアシャと逢わせて差し上げよう、と」
いつの間に近寄って来ていたのか、カルキュイの姿がそこにあった。にたり、とこの上もなく不気味な笑顔になって、
「最もお話になれるかどうかはちと疑問ですな。なにせ『泥土』の泥獣(ガルシオン)は貪欲、『飢粉(シイナ)』でも浴びた日には、骨一つ残りますまいよ……そして、あなたは…」
「ひ……ぃっ……」
「…」
アリオが掠れた声を上げ、バルカが身構えたのも道理、笑ったカルキュイの口がゆっくりと大きく開き、唇の端まで開いてもなお『開き続けて』いく。
めりっ、と嫌な音がした。
肉が裂けていく。堪え難い力で上下に引き裂かれていく。唇の両端で、ボロ屑のように裂けた肉片が、見るもおぞましい赤黒く柔らかな裳裾と化して、開いた口の両下縁に垂れ下がっていく。ぽたっと肉片から血が滴り落ちた。カルキュイの口元は真っ赤だ。爛れた傷口のようにでこぼこした肉のうねりが、何かある意図を持って口の奥の方へ向かって引き締められている。
「は…」
「アリオ姫!」
気を失って崩折れたアリオをとっさに抱きとめながら、ギャティは顔を背けた。無理もない、男のギャティでも胸が悪くなる。死体なら見飽きている、様々なもので彫り込まれた傷口も、しかしこれは。カルキュイが既に人間とは別のものになっていると言うことを、頭ではわかっていたが、これほどはっきり見せつけられると、腹立たしさよりおぞましさが先に立つ。
「く…くくくっ…」
口はなお開き続けていた。肉の避ける音だけではなく、骨が折れ砕け崩れる音も響いていた。カルキュイの顔がゆっくりと上下に裂けていっている、それなのに、その『口』は低い嗤い声を漏らした。
肉の襞が波打つ。波打って、ゆっくり収縮を始め、
「!!」
視界の端で何が起ころうとしているのかを悟って、ギャティは硬直した。
(リ、リヒャルティ…っ!!)
思わず胸の中で自らの長に向かって悲鳴を上げる。腰が今にも砕けてしまいそうだ、だが、砕ければ最後、自分もまたカルキュイと同じように、人ではない何者かに熔け崩れて行きそうな気がする。その恐怖だけが両足を支える。
そのギャティの前で、カルキュイの開き切った『口』は、ゆっくりと己を喰い始めていた。いや、カルキュイの中の『穴の老人』(ディスティヤト)が、と言った方がいいかも知れない。
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