『ラズーン』第五部

segakiyui

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10.アシャの封印(3)

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 セシ公のところを飛び立ったクフィラは、風にゆったりとその身を委せながら滑空し、ミダス公の屋敷に着いたのは昼過ぎのことだった。
 眼下のミダス公の屋敷は、そこはかとない慌ただしさに包まれている。
 無理もない。『泥土』へ出かけていたアシャが、アギャン公分領地でグードスの後継式を済ませ、今日ミダス公分領地へ帰ってくるとの知らせがあったのだ。
 ミダス公は、自身の傷もかなり癒えてきたところでもあるし、続く戦乱の中、リディノをはじめとする女子どもの沈んでいるのも見かね、好機とばかり労いの夜会を催すことにした。その準備ー姫君達の装いの取り寄せ、数々の珍味の厳選、酒蔵の開放ーに、屋敷は久しぶりの活気を帯びていた、2人を除いては。
 そのうちの1人、リディノは私室のテーブルに向かい、ほ、と小さく溜め息をついた。
 薄桃色に真珠を合わせたドレスに包まれた腕は、今、掌の小壜を支えている。小壜は紫水晶造りで荒縄をほぐして編まれたような網に入っている。両方の手で包み込めるほどの小さな壜が、今のリディノには、神々が人の命を詰め込んでおくと言う大瓶よりも重く大きなものに感じられた。
 アシャは今夜帰ってくる。今日は夜会なので見合わせるとして、使うのは明日か明後日だ。
 心の中では2つの心が相手を口汚く罵り合ってやまない。片方は薬などで心を自由にしようとするとは人のすることではないと叫び、もう片方は恋しい男性の心を何としても手に入れたいだけのいじらしい乙女心に何の邪念があるものかと叫び返す。
 ある瞬間には自分が歳経て多くの人々を操り続けて来た恐ろしい魔女のように思われるのに、ある瞬間には他の誰よりも一途にアシャだけを思い続ける可憐な恋する乙女以外の何者でもないように思える。
 溜め息混じりに揺らせる紫色の壜の中身は、たゆたゆと波打ってリディノの心をあちらへ押しやりこちらへ押し返す。
 やがて、リディノは小壜をそっと、元の通りに宝石箱の中にしまい込んだ。ほぼ同時に、部屋の扉をことこと叩く音が響き、ジノの控えめな声が彼女を呼んだ。
「姫さま? そろそろお支度を」
「…わかっています」
 リディノは振り切るように立ち上がった。

 そして、もう1人。
(アシャが帰ってくる)
 湯船に浸かって体を伸ばし、身動きひとつせずにいたユーノは、ゆっくりと目を開けた。そのままぼんやりと、天井の美しい浮き彫りを眺める。
 湯は甘い芳香を放つ湯気とともに、ユーノの身体を隅々まで包んでいた。そろそろと手首から腕、肩から胸を撫でていく。白い傷跡は湯の中で揺らめいてもくっきりと目立つ。余分な肉のない筋肉質の腹や腰、艶かしいというよりは元気一杯のと評するしか仕方のないような肉付きは、間近で見ても少女のものと考えにくいかもしれない。丸みも柔らかみもなく、甘やかな幻想を呼び起こすことさえ難しい、そっけない身体。
「…ふぅ…」
 溜め息を漏らして目を閉じる。額に宿っていた水滴が零れ落ちて鼻から唇に流れ落ちて来た。
(どんな顔をして会えばいい?)
 それでなくとも、命がけの使者に出かけるアシャに、平手打ちを食らわせて罵倒している状況だ。
(…あんなことを、するからだ)
 眉を寄せる。思い出すつもりはなかったが、唇を湿らせた水滴が否応無しに思い起こさせる。
 一瞬、顎を掴まれて、身を引く間もあらばこそ、強引に重ねられた唇。
 口づけしたのは初めてではない。旅の間に、成り行きとは聞こえが悪いが、そういうこともあった、だが、その中の一度でも、この前のような残酷な意味はなかった。
(姉さまを守れと言って……その後で私をからかう……ひどいよ、アシャ)
 唇を噛む。瞳を開く。潤んだ視界があっという間にもっとぼやけ、目尻から熱いものが流れた瞬間に鮮明になる。そのままなおも凝視し続ける、空中に浮かぶ、別れた時のアシャの顔を。
(わかってる……わかってるって言ってるじゃないか)
 なのに、どうして何度も思い知らせるのだろう、あの男は。
(あなたはレアナ姉さまを愛していて……私は女だとさえも見ていない…)
「…私じゃ役不足だって言うんだろ…?」
 なおも天井を見つめ続ける。苦笑いするアシャの困り顔、冷ややかな笑み、振り返りもせず闇に消えていく後ろ姿。
「当然じゃないか」
 美しい姫君は人殺しなぞしない。浴室に剣なぞ持ち込まない。怪物が現れれば悲鳴を上げてすがりつき、傷を受ければ痛みに涙を零し気を失う、たとえそこが戦場であっても。
 誰が自分で身を守れる人間を助けようと思うだろう。そう言う人間は守るべき存在ではない、あえて言えば、隣で肩を並べて競うべき人間だ。
「うん、当然のことなんだ。アシャの野郎がああ言うからかいを向けたのは、ほんと腹が立つけどさ」
『…それぐらい元気があれば大丈夫だな』
 にやりと笑ってみせるしたたかな顔。
 あんな危険な任務を背負って、不安そうなユーノを前に、ああ言うふざけたやり方で元気付けてくれたのかもしれない。いつか考えたようにレアナに向けられない想いをユーノにぶつけたのではなくて。
『安心しろ。もう襲わんさ、二度と』
「…もう、二度と」
 ああ言う距離に近づくことは、ない。
「…当然…だ…」
 アシャこそ大変な想いをして敵地に向かうのに、罵られて顔を殴られて。
「………」
 ちゃぷん、と膝を抱えて湯に沈む。
 ごめん、アシャ。
 そうだよな、まず何を言うかなんてはっきりしている。
 お帰りなさい。無事で嬉しい。お疲れ様。それから、ごめんなさい、いつも子どもで、うまく応じられなくて。
「っよしっ」
 ばしゃばしゃと湯を掬って顔を洗い、頭から浴び、わしゃわしゃ身体をこすって一気に湯から上がる。
「しっかりしろ、ユーノ!」
 声を出して叱りつけ、浴室から出た。
「…で、私が着るのはこれ、と」
 この前の、様々なドレスが揃えられた小部屋で、ドレスに背を向け、鏡の近くに重ねられた薄青の長衣、ズボン、紺の短衣などにしゃがみ込む。少年向きの礼装用をミダス公に頼んで揃えてもらった。
「身体を拭いて、髪乾かして」
 ごしごしと布で身体をこすり、下着もつけないまま髪を拭きにかかる。ちらりと鏡の中に視線を投げ、口を強く結んで向き直り、自分の裸身を睨みつけた。
「覚えておくんだ、ユーノ」
 低く呟く。
「これがお前、セレドの第二皇女、ラズーンの正統後継者候補、ユーノ・セレディス。これが他の誰でもない、私自身なんだから、ばかな後悔なんか、絶対するなよ」
(するものか)
 響くように、胸の内側で声が応じた。
 するものか。後悔など、ただの一瞬だってするものか。この道を選んだのは自分、ここまで生きて来たのは自分、たとえ、この先にどんな果てが待っていようと、一瞬だって振り返るものか。
(たじろぐな。ユーノ・セレディスの名にかけて)
 長衣をまとい、腰のところで紐を結ぶ、ズボンを押さえつけるようにしっかりと。その上から短上衣を羽織り、首のところ、胸元2ヶ所、腰の4ヶ所で銀の飾り紐を結ぶ。両方の袖の手首も同じような飾り紐で巻き、小さな銀の留め金にかけて留める。
 鏡の中には1人の少年がいる。蒼の礼服、肩に触れるか触れないほどの焦茶の髪、額に透き通った『聖なる輪』(リーソン)、腰には『泉の狩人』(オーミノ)から渡された剣を下げている。
 に、と不敵な笑みを浮かべた。
(よし、行け)
 屋敷が不意にざわめきを増したようだ。ぱたぱたと駆けてくる軽い足音、レスファートの嬉しそうな声が聞こえる。
「ユーノ!! アシャ、帰ってきたよぉ!!」
「今行く!」
 ユーノは顔を振り上げ、身を翻した。
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