『ラズーン』第五部

segakiyui

文字の大きさ
上 下
65 / 73

10.アシャの封印(4)

しおりを挟む
 暮れ切った空の下、夜会が始まった頃、イリオールは与えられた部屋でじっと横になっていた。よければ夜会にとミダス公に招かれていたが気が進まず、部屋に籠っている。
 目を閉じ、浮かんでくる様々なことをゆっくりと思い返す。
(ここには色々な音がある)
 密やかな溜め息をついて身動きし、イリオールは窓から顔を背けた。
 人々の話し声、慌ただしく廊下を走る足音、皿や酒瓶、壺や器の触れ合う音、笑い声、衣摺れ、波のようにうねって聞こえるジェブの葉鳴り。
 それらの物音は、不思議と心を寛がせてくれた。
(あそこには、ほとんど音がなかった)
 ギヌアの黒の後宮。
 数々の女達、イリオールのような少年少女達が居ただろうに、それらの気配も心を澄まさねば感じられず、ましてや生活の物音が聞こえることはまずなかった。
 時々、散歩しても良いと言われた庭内を二度ばかり歩いたことはあったが、二度目に酔っ払った兵士に絡まれ、危うく襲われかけてから、恐ろしくなって止めてしまった。
(人が居る)
 それが、これほど暖かな心地よいものだとは、今まで考えたこともなかった。いつ気づいたのかと思い返せば、心は一つの名前に行き着く。
(ユーノ・セレディス…なんて人だろう)
 ギヌアと交わった時にたまたま耳にしたその名前、あのギヌアがあれほど気にかけている人間とは一体どんな人なのだろうと気になって、見張りの兵士に唇と少しだけ肌を触れ合わせることを代償に抜け出した。飛び込んでしまった洞窟で見たものは、想像を絶するおぞましい太古生物だった。悲鳴を上げて必死に逃げ回り、もう駄目だと幾度思ったことか。
 そのイリオール、ユーノにしてみれば見も知らぬ少年を、ユーノは己を盾にして守り、助けてくれた。抱き寄せられ、しがみついて、自分とそれほど変わらぬ年頃の少女と知って、驚きとともに温もりに酔った。ギヌアの熱とは違う、もっと甘い、もっと優しい温度、それはイリオールの知らなかった世界だった。
(あなたは慰めてくれた……ぼくが泣き出した時も)
 にこりと笑った白い歯並、鋭くて、なのに優しい黒の瞳。
 眠り込んだイリオールが目覚めてみれば、ユーノは彼に毛布をかけて暖めておいてくれた。側に居ないことに不安になって、身体を起こし周囲を見回したイリオールは、花苑で佇むユーノを見つけた。
 祈りを捧げているように、じっと虚空の彼方を見つめている目が、微かに潤んでいる気がした。張り詰めた空気に息をするのさえ苦しくなって、けれども声をかけるのはためらわれて、身動きできずに見つめていたイリオールの視線に気づいたのか、ふとユーノは振り向いて静かに笑った、「目が覚めたね、イリオール」と。
(イリオール…)
 声の響きを思い返し、心の中でゆっくりと味わった。
 ギヌアに呼ばれるその名は、禍々しくて重苦しく、再び始まるのだろう昏く熱い夜の波間に熔け崩れ呑み込まれていく予感に満ちていた。イリオールをイリオールでなくす夜。もっと別の、荒れ狂ってのたうち、ギヌアの腕だけを求める下僕に貶める。
 けれどもイリオールはギヌアの身体しか知らない。ギヌアの温もりしか知らない。
 時々やるせなく哀しく、堪えかねて涙をこぼせば、愛撫が果てのない熱の深みへ彼を沈めて行く。
(イリオール)
 呪文のように、イリオールは再びユーノの声を蘇らせた。無意識に流れた涙にも関わらず、イリオールは微笑んだ。
(そうだ…ぼくはもう、あなたの温もりも知っているんだ…)
 幸福な感覚は、次の一瞬にかき消された。部屋の暗がりに目を凝らす、そこにギヌアか、その配下が蹲っているような気がして。
(どうして)
 疑問が嫌な汗とともに湧き上がる。
(どうして、ギヌア様はあれほどユーノを気にするんだろう)
 ギヌアは人に友情や愛情を示す人間ではない。覚えるのは敵の名前、考えるのは敵の屠り方……ギヌアの、ユーノの名前を口にした時の笑みが思い浮かんだ。にやりと嗤った薄い唇。細められた残忍な瞳。
(まさか、ギヌア様……あなたは、ユーノを…)
 ぎぃ。
「っっ」
 想いが形を作り上げたように、突然扉が開き、イリオールは身体を固くしてそちらを眺めた。灯りを点けぬ部屋は暗く、入ってきた人影が誰なのか、見定めるのも容易ではない。
 だが、その人影の発する気配に、イリオールは敏感に『魔』の匂いを嗅ぎ取った。ギヌアの周囲に居る得体の知れない男達と似た、闇の気配だ。
「…誰…」
 震えかける声をかろうじて保って、イリオールは問いかけた。
 声が応じる。
「視察官(オペ)…」
 ほっと気を抜いたのも束の間、
「ジュナ・グラティアス」
「!」
 イリオールは息を呑んだ。
 その名を知っていた。イリオールが知っているということは、とりもなおさず、ギヌアかアシャか、どちらかの側に付き従うもの、ただの視察官(オペ)とは言えない。
「騒がぬ方がいい……お前がギヌア様の夜伽の相手だと触れ回られたくなかったらな」
「く…」
 イリオールは身体を震わせ唇を噛んだ。彼の正体を知っているということは、他でもないギヌア側、つまりは視察官(オペ)の名に隠れてラズーンを売る裏切り者ということだ。もちろん、もし敵か味方かと言う話であれば、イリオールもまたユーノと相対しなければならない者、裏切り者には違いない。
 けれどそれよりも、イリオールは自分を『ギヌアの夜伽の相手』と見られたのが痛かった。ユーノが耳にした時に浮かべるだろう嫌悪、それがどんなものか、イリオールには想像がつく。事もあろうにギヌアの夜伽! 眉を寄せ、唇を曲げて、無言で責められるだろう。
 そんなことはたまらない。ユーノには、今ここに居る姿だけを見て欲しい。
「…何の……ご用でしょう…か…」
 気づかれるまいとした努力は徒労に終わった。くつくつ嗤う男の声が響き、ジュナはずいと近寄ってきた。昇った月に顔の半面、冷ややかに見下げた嘲りの笑みが照らし出される。
「ユーノ…が好きなのか」
「……」
「…ふ…まあいい。用は二つ。一つは、ここでの連絡役が俺だと知らせること」
「ぼくに何かやらせる気?」
 ぞっとしてイリオールは叫んだ。慌てて声を低め、けれどもきっぱりと拒む。
「嫌だ、ぼくは何もしない」
「それは、俺の決めることじゃない」
 ジュナは突き放した。
「…もう一つの用は?」
 早くこの会見を終わらせたくて、イリオールは促した。に、と下卑た嗤いがジュナの唇に広がる。
「お前、随分とギヌア様に仕込まれたんだろうな」
「っっ」
 イリオールの体が硬直した。無意識に後退りすると、ジュナは広間の方へ顎をしゃくった。
「夜会の最中だ、声を上げでもしたら、さぞかし騒ぎになるだろうな。ユーノも飛んでくるぞ」
「…う…」
 イリオールは呻いた。じっとりとした汗が滲み始める。逃げようにも、体が竦んで動かない。
「いい子だ」
「あっ」
 次の瞬間、イリオールは両手首を押さえつけられ、ベッドの上に仰向けに押し倒された。必死に顔を背ける、その頬を、首筋を、ジュナの視線が品定めするように動いていくのを感じた。
(どうせなら、さっさと…っ)
「っあ」
 思わず声を上げてイリオールは仰け反った。いきなり膝を割られ、有無を言わさず入り込んでくるジュナ、拒もうとする前に、頭の中が真っ白に濁る。
「悪いな…時間が…ないんだ…」
 声を堪えるイリオールの霞んだ意識の彼方で、掠れた声が弾んで揺れた。
しおりを挟む

処理中です...