『エターナル・ブラック・アイズ』

segakiyui

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10.離れた心

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(でも、どうして、怒っているのか、ほんとは私にはわかっている)
 『気配』がふいに静かにつぶやいた。
(答えは晃久の夢にあるよ)
『瑞穂はいつも喜んでくれない』
 長部のつぶやきがはっきりと瑞穂の耳によみがえった。
(そうだ、あたしは、忍が頑張っているのがわかっていた)
 あたりさわりのない、とても理想的な恋人として振る舞う長部、自分本位に瑞穂を振り回しているように見えて、その実、出掛ける場所一つ、食べる物一つに、長部は瑞穂の好みを気にしていた。
(けれど、それは見えていたから)
 瑞穂には素直に喜べなかった。
 瑞穂が喜ぶだろうと設定したデートが、その実、『長部の想像している瑞穂』が喜ぶデートであって、現実の瑞穂とはずれているのだということを、どうやって伝えればいいのか、瑞穂もまたわからなかった。
(そんなことをすれば、頑張っている忍を傷つけるとばかり思っていた)
 けれど、瑞穂の違和感は、その実長部には十二分に伝わっていたのだ。長部の努力に少しも満足してくれない不満として。
 だから、長部はますます努力し、不安になったと言っている。
(今こそ、きっと伝えなくちゃならないんだ、あたしが忍が頑張っていたことを知っていたことを。あたしがどうして忍のことをうまく受け入れられなかったかを)
 瑞穂は揺らめく意識を必死に引き戻した。
「…違って、たもの」
 かすれた声を何とか押し出す。
「え?」
 長部が瞬きして目を上げる。
「それは、忍の、したいことじゃ、なかった、よね? あたしのしたいこと、でもなかったの。だって、それは、忍が考えてた、『あたし』の、したいこと、だったから」
 傷のせいだろうか、一言話すたびに、ぐら、ぐら、と視界が陽炎に囲まれたように揺れる。息が少しずつ苦しくなってくる。
「だって」
 長部は混乱したように眉を寄せた。
「僕のしたいこと? だって、僕は、瑞穂と付き合ってるのに? 瑞穂のしたいことじゃなかった? でも、僕は瑞穂のことを、一所懸命に考えたのに?」
 長部の言っていることはどこか違う。
 けれど、今の瑞穂にはそれがうまくことばにまとまらない。
「僕だって、知ってたんだよ、瑞穂が僕の行きたいところとか、あんまり好きじゃないの」
 長部がぽつりとつぶやいた。
「瑞穂と僕じゃ趣味が違うって瑞穂の友達も言っていた。瑞穂は喜んでないって。でも、瑞穂は僕と一緒にいてくれて……だから、思ってた、瑞穂はきっといつかいなくなるに違いないって。僕なんかいらないって言い出すに違いないって」
 瑞穂はまた思い出した。
 長部があまりにも理想的な恋人だったから、瑞穂の方も自分が長部にとってふさわしい相手じゃないのではないかと不安になっていた時期だった。いつも一所懸命に瑞穂を喜ばせようとする、その長部の気持ちに息苦しくなる自分を持て余していたときだった。
「そしたら、瑞穂は一人暮らしを始めた、僕なんか要らないって証明したんだ」
(そんなこと、ない)
 瑞穂はあっけに取られた。離れていったのは長部だったはずだ。
「僕は、瑞穂が一人になったとき」
 長部はふいに苦しそうに胸を抱えて、座り込み丸くなった。
「これで、瑞穂が僕だけを好きでいてくれるって思った。瑞穂の家族が死んだの、瑞穂が悲しんでるの知ってたけど、ひょっとしたら、瑞穂は僕とずっと暮らすって言ってくれるかと思った。入院費とかお金が払えないといいって。そしたら、僕が、払う、それで瑞穂と暮らすんだって」
(そんな、ばかな)
 切なそうに続いた長部の独白に、瑞穂はことばを失った。
 長部の描いて見せた瑞穂との関わりは、どう聞いても長部が瑞穂に手ひどくふられた展開としか思えない。
 けれど、瑞穂の記憶の中では、長部こそが難しくなった瑞穂との関わりを避けて離れていったのではなかったのか。
 しかも、『気配』はそのことばが実はある意味では真実なのだと伝えてきている。瑞穂には瑞穂の真実があり、長部には長部の真実があったのだ、と。
 お互いの真実が違うだけで、相手を大切に想う気持ちは同じだったのだ、と。
(じゃあ、あたし達は、どうしてこんなふうに別れてしまったの?)
 瑞穂はもどかしい思いで長部を凝視した。
 こんなふうに異常な状況で二人が向かい合っているのは、いったい何が狂ったせいだと言うのだろう。何がつながっていたならば、二人は出会ったときのまま、互いの側にいられたのだろう。
「瑞穂が風邪を引いたときも不安でたまらなかった。一人でいられなかった。瑞穂の友達と会って、瑞穂の話を聞いていたら安心だったんだ、瑞穂は大丈夫だって思えたんだ。でも、そんなこと、瑞穂に話したら、瑞穂は僕を嫌うかもしれない。頼りない奴だって思って、もう僕と一緒にいてくれないかもしれないじゃないか?」
「そんな…」
 思わず瑞穂はつぶやいた。
「そんなこと、思わない」
「どうして? きっと思うよ、たいていの女の子はそう思う。だって、女の子っていうのは、頼りがいのある男が好きだろう?」
 たいていの女の子。
 そんなものが世界のいったいどこにいるというのだろう。
(それを、話してくれればよかったのに)
 長部の不安を瑞穂にも分けてくれればよかったのだ。
 瑞穂を失うかもしれない不安。瑞穂を好きになって止まらなくなる不安。瑞穂を幸せにできないかもしれない不安。
(それは、あたしと同じだったのに)
 長部が話したときに、瑞穂もまた自分のことばを見つけられたもしれない。お互いに大切すぎて、失いたくないと思い過ぎて、お互いの中に抱えた理想の恋人に奉仕してたとわかったかもしれない。
 でも、それは瑞穂も同じだった。長部を失いたくはなかった。大切にしたかった。自分がふさわしくないのがこわかった。確かめることさえも。
 では、同じ不安を抱えて、それも一人で抱え過ぎて、長部と瑞穂はだめになったということ、だったのか? それが今こういう状況に、二人を引き裂いたというのだろうか?
「だって、こわかったんだ!」
 長部は悲鳴を上げるように叫んだ。
「瑞穂は、僕のこと、タロットで言い当てた! 僕は、僕は、瑞穂以外、女の子は全部、だめなのを言い当てた! だからきっと、もっとたくさん、僕のことがわかっているだろうって思った! 僕がどんなにだめな奴で何もわかってない奴なのか、きっと全部わかってて、だからきっと、いつかきっと、瑞穂は僕を捨てるに違いないって!」
 長部は顔を振り上げた。
 頼りなく揺れた目が涙で一杯で、それよりも奥には不安と恐怖が一杯で、それらがまた紛れもなく真実で。
 その長部の気持ちに圧倒されて、瑞穂はそれ以上ことばが続かなかった。
「僕には瑞穂しかいないのに! 瑞穂は僕を家族みたいにしか扱ってくれない気なんだ! 別れようっていっても平気なんだ、他のもっといい人がいるって納得してたんだ! 僕は、瑞穂が幸せになってほしいとほんとにほんとに思ってたのに、瑞穂は僕なんか友達でしかないって思ってたんだ!」
「忍…」
(どこで、どうして)
 瑞穂と長部が自分の気持ちを差し出し合う機会がなくなってしまったのだろう。
 今こうして、殺人事件の会った現場で縛られて転がされている瑞穂と、その前でパニックになって泣きわめいている長部、あのタロットのどこにこんな未来が啓示されていただろう。
(あたしも話せばよかった、自分の不安、自分の怯み。でも、どこで、いつ、どうやって話せばよかったんだろう?)
 瑞穂は自分の体が細かく震えているのに気がついた。それこそは真実、おそらくはこの破局を避けることのできた唯一の方法だったのだろうに、瑞穂も長部もその機会を見逃し失っていたのだ、今このときまで。
「だから、わかった、瑞穂だって母さんと同じだ。父さんと僕を捨ててった母さんと」
 長部がいきなり口調を変えてつぶやき、瑞穂は我に返った。
「僕は、せいいっぱい努力したんだ、母さんのために。でも、そんなこと、全く関係がなかったんだ。瑞穂だって、母さんと同じだ。哲の奥さんみたいに、子どもを放って出て行く女はみんな同じなんだ!」
 長部がぎらぎらとした目になって立ち上がった。こぶしを今にも瑞穂を殴りつけそうな猛々しさで握りしめている。今までと一転して、暗い炎の宿る目だ。
(あたしを、見ていない?)
 瑞穂は気づいた。
 長部の視界に瑞穂は入っているのだが、彼が見ているのは、もはや瑞穂ではないのだ。
 瑞穂に重なっている自分を捨てた母親、自分に過大な努力を強いて、そのくせその努力一つに何も報いてくれない女達すべてだ。
「それで、やっと僕が安心できる家を見つけたら、母さんみたいに平気な顔して戻ってきて、それで僕から今度は父さんまで持っていくんだ。何もかも、持って行くんだ! だから」
 きゅ、と長部は唇を噛んだ。
 それまで叫んだことを恥じるような激しい仕草で、部屋の隅にあったものタンクのようなものを持ち出してきた。
 うっすらとした奇妙な笑みを浮かべながら、長部はゆっくりと上部にあるふたを回して開けて見せた。
 灯油の刺激臭が広がる。
 瑞穂の体が竦んだ。
「これで、みんな、終わりにしよう、瑞穂。哲も捕まった、もうみんな終わりだ、僕には何にも残らない」
 長部は笑みを広げた。何かとてつもない秘密をそっと話すように、声を低めてささやきかける。
「瑞穂が哲の奥さんを連れてきたんだろう? 僕は昨夜ずっと見てたんだよ、誰にもわかりっこないはずのことなのに、どうして奥さんはいきなり家に戻ってきたのか、不思議だった。でも、あそこに瑞穂がいたよね?」
 長部の唇がゆがんでねじれた。
「だから、今朝一番に哲に会いにいって、確かめたんだ。昨夜何があったのか。それから、哲の後輩のふりして、奥さんに聞いてみた、いったいどうして、急に帰ろうって思ったんですかって」
 長部はじっと瑞穂を見た。真っ暗な底無しの穴を思わせる、そしていつか紙に描かれた円を思わせる、虚ろな遠いまなざしだ。
「僕はあの奥さんの優柔不断なとこ、よく知ってるんだ。万が一ばれても、どうにもできないって哲も思ってた。けど、昨夜のあの人は違ってたって哲は言ってた。まるで、何か、新しい力が入ったみたいだったって。とても防げないほど、強くて大きな力が、あの奥さんの中に入ってたって、哲、びっくりしてたよ、瑞穂」
 声を低め、威力のある強い呪文を唱えるように、微妙なリズムと節をつけて、長部は続けた。
「それを、聞いて、僕には、すぐにわかった、そんなこと、できるのは、瑞穂、だけだ」
 ひきつって、けれどもどこか酔ったようなうっとりした笑みを長部は浮かべた。
「そんなふうに、人を動かせるのは、僕の瑞穂、だけだって」
「だめ……忍」
 瑞穂は首を振ろうとした。声がかすれる。
 けれど、このままではまた、瑞穂は再び防げるはずの破局を見守るだけの役割しか果たせないことにになってしまう。
「ううん、いいんだ、これで、瑞穂はずっと僕のものになる」
 長部はあでやかにほほ笑んだ。すっきりとした迷いのない笑みだった。
「それに哲も帰る所がなくなれば、僕の所に来る。哲だって、奥さんがいなくなったのに、今更世間体なんて言い出すから悪いんだよ。そうか、そういう意味でも、僕は瑞穂に感謝していいんだ」
 長部はタンクを置いて、身を屈めた。
 そっと大事なものを扱うように、まるで深い祈りをささげるように、瑞穂の顔を両手で包み、唇にもう一度、今度は丁寧な優しいキスをする。
「愛してる、瑞穂。ほうらね、今度はちゃんと言えたよね?」
 無邪気な微笑が長部の顔に広がった。
 何かをとうとう越えてしまったような、何かがとうとう離れてしまったような、取り返しのつかないところへ踏み込んでしまったようなものを感じさせるほほ笑みだ。
「忍…!」
「天国で、待っていて。いつか必ず、瑞穂と出会うよ、僕はそう確信している、」
 長部は片目をつぶって立ち上がり、タンクの中身をあたりに一面にまき出した。見る間に、部屋がむせ返るような灯油の臭いであふれ、瑞穂はせき込み、うめいた。
「警察は不思議がるだろうなあ、どうして瑞穂がこんなところにいるんだろうって。哲にどんな関係があったんだろうって」
 長部は笑う、楽しげに、うれしげに。
「僕しか知らない、僕しか知らないんだ。瑞穂がここにいる理由は僕しか知らない。僕だけが知っている、瑞穂のれーぞんでーとるは僕のものだ」
 長部は鼻歌混じりに灯油をまきながら、歌うように踊るように別の部屋へ移動していく。
 ざぶ、ざぶ、と続いていた音がふいにやみ、やがて、玄関の方でゆっくりとカギが閉まる音がした。
 それから、微かな、けれども、次第に大きくなってくる、何かがこすれるような音が始まった。
 じわじわとした熱気が長部の去っていった方向から広がってくる。
 長部が火をつけたのだ。
 もうまもなく、まかれた灯油を走って、炎が瑞穂にも迫ってくるだろう。
 それはあの炎の夢を思わせる。家族を焼いた炎に、瑞穂もまた身動きとれないままで焼かれていく、いつも襲ってくる悪夢が、今ここで現実化していく。
 だが、その危機の中、なぜか長部の声が瑞穂の耳に響いてきた。
 『気配』が反応し、泉が波紋を起こしてるのを瑞穂は感じ取った。
(れーぞんでーとる)
 それは、存在理由、と訳される。
(でも、誰だって、他の誰かのために生きているわけじゃない)
 絶え間なく痛み続ける頭と見る見る体を包む熱感の中、瑞穂はもうろうとする意識で考えた。
 長部は瑞穂が母親と同じだと言った。自分と父親を捨てていった母親、長部が必死に努力し評価してもらおうとしたのに一顧だにしなかった母親と同じだと。
 そういえば、付き合っている時、長部の母親は長部が幼いときに家を出たと聞いたことがある。
 理由はわからないんだよ、とそのときも長部は笑っていた。ただ、ふいにいなくなったんだ、と。
(今ごろになって)
 瑞穂は眉をしかめた。
 今ごろになって、長部の細かなあれこれを思い出す。
 それらすべて、『気配』の目からみれば、そして今考えてみれば、この状況の可能性は含まれていたのだ。
 なのに、瑞穂は自分の能力におびえてきちんと向かいあおうとしなかった。長部の中にある巨大な暗い虚ろさから、それが示す未来から、逃げ回ることしかしなかった。
 そして、そこには、瑞穂があの家族を失った惨劇から立ち直れなかったことが原因になっている。
(どうして? 何がいけなかったの?)
 その問い、幼い長部がいなくなった母親に、そして残った父親に尋ねただろう問いは、瑞穂が家族を失った火災に対して周囲に投げたものと同じだ。
 瑞穂はその問いに、自分の弱さを責める物語を作り上げた。
 だが、長部は、努力しても喜んでくれない女達への怒りという物語を紡ぎ上げた。晃久が自分の能力を受け入れがたい両親への怒りと悲しみを受け入れ認めるかわりに、人間というものの薄汚さに視線を転じて見ないふりをしたように、長部は自分を理不尽に捨てていった母親への怒りを、自分を利用しむさぼる女達におびえ振り回される自分に、そして女達すべてに押し付けたのだ。
 けれど、長部には一つの転機があった。瑞穂との出会いだ。
 瑞穂が長部に求めたのは、何もかも整った恋人ではなかった。ただ、不安な思いを分かち合ってくれる相手、お互いに弱い一人の人間として、一緒にいようということだけだった。
 だが、長部にはそれは伝わらなかった。瑞穂にも長部の焦りと不安は伝わらなかった。
 お互いの傷が深すぎて、癒したりわかりあったりするには、自分達の傷に立ち向かう必要があったから、きっと瑞穂もまた、長部の傷を見ないふりをしていたのだ。
 なぜなら、そこに映っているのは、自分の無力さへの怒りそのものだったから。
(もし、そこで別の物語を紡げたなら。せめてあたしが自分の無力さを受け入れて、違う物語を紡いでいたなら)
 この悲劇は防げただろうか。
 ベッドルームの扉の向こうに黄色とオレンジに弾ける炎が踊っている。煙がずるずると生き物のように扉を越えて天井を這っていく。
 せき込むだけで激しいめまいと吐き気がして、瑞穂は目を閉じた。
 体が重く動けない。このまま奈落に転がっていきそうだ。
(三津子さんは、物語を紡ぎ直したんだなあ)
 あのバーガーショップで、真実を確かめないまま、後悔に浸りながらパンをちぎるより、彼女は非情であっても現実の運命と向かい合う道を選んだ。
 それがよかったのか悪かったのか、今の瑞穂にはまだわからないけれど、きっと三津子は次にたじろいだときにとおるのことを思い出すだろう。許さない、と叫んだ声を思い出すだろう。自分が果たせたはずだった役割を、今度こそ自分で果たそうとするだろう。
 彼女は傷を抱えて生きる道を選び、確かにとおるという一つの物語を自分の中に飲み込むことで、現実に生き残る。そして、いつか新しい物語を作り上げていくに違いない。
 ならば瑞穂は?
 自分の傷に向かいきれなかった代償を、今こうして炎の中で果てていくことで支払うということなのだろうか?
(あたし、『グリーン・アイズ』に生き残らせてあげるって約束したのに)
 初めて瑞穂の鼻の奥につんとする痛みが広がった。
 ここで目覚めるまでに見ていた夢のリアルさは信じられないほどだった。晃久が瑞穂を失う恐怖に震えて泣き叫んでいる、それを自分のもののように感じた。
(『グリーン・アイズ』がいつもあんなふうに、誰かを感じていたら、本当に生きて行けないよね)
 だから、晃久が人と距離を保つのは無理もないことなのだ。
 けれど、それでは、晃久は自分の人生さえ生きられなくなってしまう。
(生きることは、人と関わること、だもんね)
 長部と晃久はきっと似ているのだ。
 二人とも、他の人間の望みや願いを自分のものと勘違いしてしまう。受け入れられる居場所を確保するために、孤独に一人落ち込まないために、自分を日々殺して、そうしてある日、空っぽで虚ろで何もない人生にふいに気がついてしまう。
 底の見えない穴が自分の人生だとわかってしまう。
(でも、その埋め方も知らないから)
 誰かにすがったり、誰かを殺したり、それでも穴が埋まらないから、自分を殺すしかなくなってしまう。
 そうするしか知らないから。
(あたしも、きっとおんなじ、だ)
 『気配』で人と関わっても、自分の傷を癒せない。
 『気配』で人の問題を読み取っても、自分の問題に向かえない。
(不器用で、情けない、あたし達みんな)
 瑞穂はもう一度目を開けた。
 呼吸が苦しい。煙のせいばかりではなく、何だか息をするのが難しい感じだ。空気がうまく吸い込めない。顔にフィルターがかかってきているような気がする。
(白い、布)
 そのイメージがぼんやりと瑞穂の意識を横切った。
 死者の顔にかけられる、白くてそっけない布の感触。
 家族の遺体は見せてもらえなかった。白い布に包まれて、あれじゃあ息ができないじゃないかとつぶやき、伯父にぎょっとされたのを覚えている。
(死ぬ、のかな)
 ベッドルームを炎がゆっくりと包みつつあった。思っていたよりずっと遅い。もっとも、瑞穂の感覚が、死を目の前にして間延びしてしまっているのかもしれないが。
(あれ?)
 音をたてて燃え広がりつつある炎の海を見ながら、体を打つ熱を感じながら、熱い空気が肺を焼くのを味わいながら、瑞穂はぼんやりと揺れる泉の『気配』を感じて驚いた。
(ここには誰もいないのに、どうして『気配』が反応してる?)
 目を閉じる、泉の『気配』に同調する。
 外界の炎の世界に比べると、そこは泣きたくなるほど静謐だ。
(死ぬんだな)
 瑞穂は思った。
 頭の痛みが全体に広がっている。割れて砕けた方がましみたいに。けれど、その痛みさえ、ただ『ある』だけの感覚にすり替わっていくような。
(ここで死ぬんだ、やっぱり、炎の夢にのまれて)
『みずほ……みずほぉ』
 すすり泣く声が炎のごうごうという音に紛れて聞こえる。
『みずほ……どうして助けてくれなかった……どうして救ってくれなかった』
(ごめんね、みんな)
 何度も夢で呼びかけてきたその声に、瑞穂は初めて答えを返した。
 胸を締めつける切なさが、死を前にして死よりも強く、なおも呼吸を妨げる。
『おまえは力があったのに……優れた力が……未来を理解する力があったのに……化け物のような力があったのに……どうして救ってくれなかった……その力は何のためにあったんだあ』
(救いたかったんだ、本当に救いたかったんだよ)
 ふと、ねじれた長部の暗い心を、それが映った虚ろな目を思い出した。
 もし、瑞穂にもう少し長部の中に踏み込む勇気があったのなら、長部はあそこまで追い詰められずにすんだのだろうか。そして、その遠くの運命にある、とおるの死も防げたのだろうか。
 それと同じように、瑞穂がほんの少し、あの夜、怒られても笑われても、たとえ化け物扱いされたとしても、家に電話をかけていたなら、家族の死は防げたのだろうか。
(ううん、わかってる、ほんとは。ほんと、ほんの少しだけは)
 閃光のように、突然瑞穂はそのもっと奥にあるものを理解した。
 あの電話をためらった一瞬、瑞穂が感じさえしなかった気持ちがあったことを。今の今まで、思い出さなかった、知らなかった気持ちがひそかに生きていたことを。
(あたしを受け入れてくれない家族なんていらない、と、あのときあたしは思ったんだ。だから電話をしなかった。最後の最後にあきらめた)
 だから、炎の夢は瑞穂を苦しめた。
 あまりにも『ひどい』考えだから。
 瑞穂の能力は家族のせいではないのに、それを受け入れられない家族を恨み憎んでいる、自分の気持ちに気づきそうになってしまったから。
 だから、感じなかったことにしてしまった気持ち、家族の死を望んだその気持ちは、巧みに罪悪感にすり替えられて、炎の夢を動かしていたのだ。
 夢の炎を点火していたのは、他でもない、瑞穂自身だったのだ。
 幸せに暮らしたかった。
 笑って過ごしたかった。
 自分の本当の姿を怯えずに受け入れて欲しかった。
 瑞穂も長部もそしておそらく晃久も。
(けれど、それは果たせなかったから)
 瑞穂は自分の絶望を、長部は自分の怒りを、晃久は自分の孤独を、それぞれ別のものでごまかし見ないふりをしたのだ。
 ちょうど三津子があのバーガーショップでやっていたように。
 今自分は大切なことをしてるはず、だから問題は見えないままに、いつか溶け去ってくれるはず。
 そんな空しい期待を抱いて。
 けれど、パンをちぎって幻の子どもに与えても、とおるはあの家でとっくに殺されてしまっていたのだ。
 必要だったのは、自分の気持ちを認めること、それを押さえつけようとするものに立ち向かうこと、起こる結果を受け入れること。
 ただ、それだけのこと。
(あたしには、それがなかった)
 瑞穂は薄れる意識の中でぼんやり思った。
(あたしは確かに、あたしを受け入れてくれないあんな家族なんていらないって思った)
 そう思ったとき、ふいに瑞穂はまたより深いところにある、別な気持ちが動くのを感じた。
(うん、確かにそうは思っていた。けど)
 唇を噛む。襲ってきた激情が何なのか、霧が晴れるようにその意味がわかる。
(それでも、やっぱり、みんなに生きていてほしかった。そのために頑張れなかった自分が悲しかった。情けなかった)
 ずっと忘れていた家族の笑顔を思い出した。父の笑い声と母の立ち働く様子、妹の飛びつく感触と祖母のいれるお茶の味を。
(あたしは、ずっと泣きたかったんだ、ずっとずっと泣きたかったんだ。もういなくなってしまった家族、最後まであたしを受け入れてくれなかった家族、けど、ほんとは失いたくなかった家族とあたしのために)
 胸を押し上げて熱い塊が目からあふれた。 
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