『エターナル・ブラック・アイズ』

segakiyui

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9.追憶

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 がつ、と音がして、激しい衝撃が頭に砕け、瑞穂は悲鳴を上げた。
「あ!」
 首を背後にへし折られるような痛みに跳ねた自分の体が、頼りなく脆く地面に落ちるのを感じる。
 気を失う瞬間に瑞穂が見たのは真っ赤に染まった青空だった。

 それは、瑞穂の夢の中の光景だ。
『待てよ、おい、待てったら』
 晃久は、自分の心の中の暗闇で、どんどん離れていこうとする瑞穂に呼びかけている。
『こら、どこへ行く気なんだよ、戻れ、戻れってば』
 晃久の実体、物理的な体はじりじりと温度を上げていく教室の窓辺で、いらいらした顔で眉を寄せ、シャーペンの端をかじっているのだが。
 険しい顔だ。今にも怒鳴りだしそうだ。
 晃久のいらだつ心は、いくら待っても教室に入ってきた気配のない瑞穂に向けられていた。
 校門まで確かに一緒にいたはずだ、と晃久は不安な思いで考え続けている。
 だって、まさか、あそこまで来てどこかへ行ってしまうなんて思わなかった、見えなかったんだ、と悔しがっている。
 とっさに飛ばした心がかろうじて、校門を入ったとたんにくるりと向きを変えて出て行き、そのまま学校を離れて行く瑞穂をとらえて、晃久は驚いた。
 ましてや、瑞穂の行き先が昨夜の事件現場だと気づいてからは、体中が沸騰するようで、そのくせじんわりとした冷たい汗が消えてくれない。
 必死に呼びかけてはいるものの、瑞穂はやはり反応しない。
『どうして一人でうろうろするんだよ。危ないってもうわかってるだろう?』
 晃久の胸に響いた内側の声は泣き出しそうな戸惑いに満ちている。
『昨夜のあいつの心を見なかったのか。あいつはあんたが占った時からずっと、あんたを疑って、憎んでいた。それはどろどろしてて、とんでもない汚さだった』
 晃久は夜の中から瑞穂の背後に走り寄った影を思い出している。
 その影が容赦なく瑞穂を襲うとわかったとたん、止められずに走り出した自分を覚えている。間に合わなかったらどうしよう、そう考えるのさえ振り切って、瑞穂の前に飛び出した瞬間も。
『僕が「エターナル・アイズ」であんたの部屋に押しかけたのは、占ってほしかったからじゃない。本当は』
 晃久はそれでも自分の心を確認するのをためらった。
 だが、振り返りもしないで離れていく瑞穂への不安は、心の堰をあっさりと砕いてしまう。
『そうだ、本当は、あんたが心配になったからだ。認めるよ、ああ、そうだ、認める、あっさり認めてやる。最初から、心配だった、だってあんたは、あんたって人はあまりにも無防備だったから』
 晃久は険しく眉を寄せたまま、シャーペンをきりきりと噛み続けている。
 本屋のおまけでもらった安っぽい緑のプラスチックのシャープペンシルは、ひしぎたわんで今にも割れそうになってしまっているがおかまいなしだ。
 晃久は何度も校庭を見ている。そこからいなくなってしまった瑞穂の姿を、その歩き去った道筋をなんとか探し出そうとしてにらみつけている。
 けれど、瑞穂はいない。まったく戻ってくる感覚がない。
 どこをどう通っていったものか、その気配さえ感じない。
 晃久は再び独り言を始める。胸の中で膨れ上がり持て余している瑞穂への気持ちを、どう処理していいのかわからない。
『僕は人間の汚さなんか慣れっこだ。うんざりしてて怒る気にもなれない。だけど、昨日、パーテーションの向こうから、こぼれていたあんたの心は』
 まるで、スモッグを追い払う美しい雨のような、濡れてさわやかな香りとなった瑞穂の心の動きが、晃久の感覚に広がった。
 一瞬目を閉じて、それを味わう晃久の心にも豊かで優しい湿り気を与えてくれる。強ばり乾いた地面に潤いと実りを与えてくれる泉のような気配。
『あんなに自分のことしか考えてない自己中男のことを、本気で心配して何とかしてやろうと思ってた。何でこいつはそんなことができるんだ、そう思ったんだ。「未来」が見えてるから、あいつの素晴らしい「未来」とやらに期待しているからなのかと思ったんだ。けど、そうじゃなかった。あんたは自分も傷ついてた』
 優しい甘い感覚は一瞬にして凍りついた。目を見開いた晃久の顔は以前に増して強ばりいらだち怒っている。
『あんたは思いっきり傷ついてた、なのに、あいつに優しかった』
 ぱき、と鋭い音がして、ついに晃久の唇の間でシャーペンが砕けてしまった。
 苦い顔をして破片を吐き出す晃久、授業中にはあまりにも不似合いな音に、一瞬教師の視線が止まる。
 その瞬間、晃久は心を決めた。
 机の上のものを手早く片づけ出す。不審がる教師に『気分悪いんで保健室に行ってきます』。
 ぶっきらぼうに言い捨てて、さっさと教室を出てきてしまう。
 廊下に出るや否や、晃久は全力ダッシュを開始した。
 呼び止めても戻らない、どんどん離れていく瑞穂の気配を追いかけながら、がんがんスピードを上げる。
『それに、あんたは』
 走ることに集中する晃久の胸に、それまでガードしていた揺れるような切ない想いがゆっくりと満ちた。
『僕の不安を、きちんと読み取って受け止めてくれた』
 晃久は走りながら顔をゆがめた。
 急に胸を締めつけた、泣き出したくなるような甘い想いに、一瞬呼吸が止まりそうな気がした。
『僕の苦痛を読み取って、破滅の未来を変えてくれると約束してくれた。あいつにしたように、僕にもあんたを分けてくれるって』
 晃久の心に瑞穂の顔が浮かんだ。
 真剣な黒のまなざし。
 疑いさえ越えて、人の心が迷う境をくぐり抜けて、真実の扉を開け放つ強くて明るい光のまなざし。
『あんたは、僕に……約束したんだ、ぼくの未来を守ってくれるって』
 晃久の脳裏に、今まで繰り返し味わった孤独が過る。
 ほんの小さいころから人が何を考えてるのかなんてお見通しだった。両親が晃久の能力を気味悪がっていることも、それを押し殺して暮らしていることもよく、よおく知っていた。
 だから親せき連中のところへは、なるべく遊びに行かなかった。両親が肩身の狭い思いをしているとわかったからだ。
 いっそ憎んでくれればよかったのに、両親はそれでも晃久を受け入れようと努力し続けてくれた。
 けれど、その努力は、しょせんは『努力』、なのだ。
 余裕がなければ続けられないし、ふとした拍子に忘れることだってある。疲れてしまえば続かない。
 ましてもっと無邪気なかわいい存在が現れれば。
 晃久に年の離れた弟が生まれたとたん、努力に支えられた愛情は自然と差し出される手に、見事なまでに打ち負かされる。
 ささやかなことで、晃久は両親が必死に気を使っているのを感じた。弟に兄の力を気づかせまいとする努力、その恐れを晃久に気づかせまいとする努力。
 重ねられる幾つもの努力、努力、努力。
 そして、それがひどいストレスになっていることも。
 特殊な力を持っている晃久を受け入れようとして受け入れかねて、父親は胃ガンになって入院したし、母親は精神安定剤が手放せなくなっている。
 友達との仲が保てるようになったのは中学からだ。晃久が自分を巧みに押し殺して、眼鏡をかけるようになったときから。
 無意識に自分に暗示をかけてみたこともある。眼鏡をかければ、人の心は読めなくなるんだ、などと。
 もっとも、それはひどくささやかな悲しい抵抗にしか過ぎなくて、ついには物さえ買い与えれば納得して笑ってくれる、おねだり傾向一杯の女の子としか付き合えなかった。
 そういう相手なら底が知れてる、心は物であふれてて、晃久の方だってはなからギブアンドテイク、期待せずにすむからだ。
 大事だと真剣に思えば思うほど、無意識に晃久は相手の心を読み取ってしまう。読み取ってしまえば、好かれたいから、傷つけたくないから、晃久は相手の望む幻を見事なまでに代行してしまう。
 そうして、晃久自身はどうしようもなく置き去られて、心の中では自殺を何度も繰り返す。
 脱ぎ捨てる仮面におぼれそうになりながら、それでもつかめるものがいつもそれしかなくて。
『けど、あんたはそうじゃなかった』
 晃久は繰り返し思い出す。
『あのとき、僕の力が飛び出しても、あんたを思いっきり罵倒しても、あんたは揺らがなかった。僕が死にそうなんだとわかってくれたのは、あんただけだ』
 瑞穂の部屋を飛び出したのは、こぼれた涙を見られたくなかったからだ。
 どう生きても、自分か人かを破滅に追いやるしかない晃久の未来を、瑞穂が守ってくれると言ったからだ。
『この人なら守ってくれると、その瞬間にわかって、ぼくはうれしかった。ただ、うれしかったんだ』
 幼い声が一瞬晃久の声を奪って小さくかすかにつぶやいた。
『なのに、そのあんたは何をしてるんだ。何でそんな所にでかけるんだ。今度こそ、やばいってわかってるのに? どうしてそこにでかけていくんだ』
 晃久の心は怒りと困惑で乱れている。
 同じほど乱れた呼吸を、酸素を求めて喘ぐ体をなおも痛めつけるように速度を上げた次の瞬間、
『わあっ!』
 晃久は悲鳴を上げてしゃがみこんだ。
 激しい痛みが頭を突き抜け、すぐに幻のように消え去っていく。
『瑞穂…?』
 晃久は震えながら立ち上がった。
 周囲を流れて行く人間達にぼんやりと目を向け、きょろきょろと見回す。視線を合わせるまいと慌てて急ぎ足になる人波の中、晃久は立ちすくんでいる。
『うそ…だろ?』
 のろのろと頭に手をやって呆然とした顔でつぶやくと、ゆるく首を振った。
『何も、感じない?』
 みし、と近くのショーウィンドゥのガラスがたわんだ。まるで巨大で透明な鉄槌が、外側からガラスを内へと圧し曲げてでもいくように。
 気づいた店員が不安そうな、続いて恐怖におびえた顔でショーウィンドゥからそろそろと店の奥に後退りする。
 晃久はまだ気づかない。
 自分の押さえそこねた力が、瑞穂を失う不安に注ぎ込まれて、周囲の空間に巨大な力を発生させているのに全く気づかない。
 その背後から、いつの間に、そして何に気づいてやってきたのだろう、境谷のスーツ姿が近寄ってきている。晃久のパニック、そして周囲のたわんだガラスや、風も吹いていないのにがらがらと強風に吹き飛ばされてでもいるように転がっていく看板などを見回しながら、速度を上げて走り寄って来る。
『ウソだ、そんなの』
 晃久の唇からこぼれた幼い声が不安な笑いを含んだ。笑い飛ばそうとゆがめた唇が意志を裏切って震えて凍る。髪の毛を、無意識にだろう、無骨な指が力いっぱい握りしめる。
 晃久は気持ちを静めようとしたのだろう、大きく目を見開いて首を振った。だがそれははっきりと失敗する。荒い呼吸がなお乱れ、乱れた呼吸が気持ちをあおる。
 唐突にこぼれた涙が臨界点だった。押さえようとした手が空をつかんで胸元に引き寄せ握りしめられる。何もつかめなかったその頼りなさに晃久の中身が一つ、砕け散る。
『うそ、だって…そんな、ばかな…誰か、うそだって…うそだっていえよおっ』
 悲鳴を上げながら自分が粉々になるのを必死にこらえるように体を抱いた晃久の回りで、ガラスというガラスが一瞬にして砕け散った。
 晃久自身の身代わりのように……晃久の涙を隠すように…次々と、次々と。
 晃久が天を振り仰ぐ。声を限りに名前を呼ぶ。
『み、ず、ほーっ!』

「んっ…」
 夢の中の悲鳴が現実でも鳴り響いた気がして、瑞穂は目覚めた。
「あっつ…」
 顔を上げかけて襲いかかった痛みに耐えられずに、頭を落とす。
(あたし、どうしたんだろう?)
 ゆっくり瞬きをする。
 暗い部屋の中だった。
 明かりは小さくて黄色のものが、少し離れたテーブルの上のスタンドに灯っている。空気は押しつぶされたように重い。
 目が慣れてくると、どうやらそこがベッドルームらしいとわかった。
 瑞穂は、二つ並べられたシングルベッドの足元のフローリングに引かれたミニラグの上に転がされている。
(転がされて?)
 確かにそうだ。
 瑞穂の両腕は後ろに回されてロープで固定されているし、両足も膝と足首をしっかりと何重にもロープで巻かれていた。口には頬から頬へべったりとしたテープが張り付いけられている。
 頭が妙にごわごわ、ばしばしした感じだ。髪の毛が何かにぬれて固まっている。
(何?)
 ずきずきした痛みが頭の右上の方から圧迫するように広がっていて、ぬるぬるした熱いものがときどき首筋を流れていく。それは、額や耳のあたりにも流れているようだ。
(この、臭い)
 ふいに瑞穂は遠山家を見ていたときに、突然殴られたことを思い出した。
 それと同時に、このベッドルームを押しつぶすような吐き気のするような臭いが何で、どこにいるのかにも気がついた。
(とおるくんの家なんだ……これは死体の臭い……そして、血の……)
「目が、覚めたんだね、瑞穂」
 物柔らかな声がして、いつからそこに座っていたのか、ベッドの端の暗がりから人影が体を起こした。慣れた場所を歩く動作でベッドを回り、瑞穂の顔の前に立つ。
 きれいに洗われて新品のように見える靴、すらっと伸びた濃い色のジーンズの脚、そこから上はうまく視界に入らない。
 瑞穂は見上げようとして頭の痛みに顔をしかめ、あきらめた。
 それに気づいたように相手がそうっとしゃがみこむ。
「おはよう。気分はどうだい?」
 しっとりとした黒く光る目が瑞穂をのぞきこんでいた。
(忍)
 わかっていたこと、のような気がした。けれど、できれば信じたくなくて、瑞穂は相手を凝視した。
 穏やかに笑う顔だけを見ていれば、ここが明るい日差しの入る新婚家庭のベッドルームだと勘違いするような声で、長部は瑞穂に話しかけてきた。
「何か言いたそうだね、瑞穂。でもちょうどいいや、僕も瑞穂に聞きたかったことがあるから」
 長部はにこにこ笑って瑞穂の顔をてのひらで支えて持ち上げた。無理な姿勢でねじ曲げられた首と頭にずきんとした痛みが走って、ガラス細工の鳥のように首から砕けていきそうな気がする。
 顔をゆがめた瑞穂にはかまわず、頬にくっついたガムテープの端をつまんだ長部は、にこやかな顔のままそれを一気に引き剥いだ。「んっ!」
 とっさに唇を引き締めたのがあだになった。鋭い痛みが口元に走って、温かいものが唇に膨れ上がり、塩辛い味がにじむ。
 一瞬目を閉じてそれに耐えた後、瑞穂は目を見開いた。そっと唇の血をなめとると、苦みをともなった鉄の味が広がった。
 自分が今瑞穂に与えた痛みなどなかったことのように、長部が細心の注意を払っているといいたげに、そっと瑞穂の顔をラグの上に戻す。
 どこかがひどくちぐはぐな、優しくて冷ややかな行動だった。
「どうして、わかった?」
 長部は微笑を消さないまま、小さな子どもが珍しい動物を見ているような顔で床の上の瑞穂をのぞきこみながら尋ねた。
「な…に」
 瑞穂は声を出そうとしてむせた。
 喉が干からびているみたいで、声にならない。せき込み涙ぐんでうつむいてしまう。と、ふわりと長部の手が空中に舞った。ためらうことなく、瑞穂の頬を平手で打つ。
 ぱあん。
 乾いた無機質な音が響いた。
 頬から頭の天辺に激痛が弾け、くらっと世界が暗転した感覚に、瑞穂は目を閉じた。。
「答えるんだ、尋ねてるだろ」
 静かな長部の声がした。
「いつだって、そうだ。自分だけが何もかもわかってる顔してて。ずっとうっとうしかった、うざい相手だった。だけど」
 しばらく長部がことばを切って、瑞穂はようよう目を開けた。
 また、頭の傷からだろうか、とろ、と粘度のある血が額を伝っていくのがわかる。それがなぜか焼けつくような熱さに感じた。溶けた金属が傷をえぐりながら、体に軌跡を彫り込みながら、ゆるゆる流れていくようだ。
「実際、瑞穂はわかってたんだろう? 家族だって、哲だって気づいてなかったのに。僕が一番大事なのは自分だけだって、瑞穂はわかってたよね、どうしてかな。僕はどこでミスったんだろう」
 長部はまるでテストの間違いを尋ねるように平板な口調でつぶやき、不思議でたまらないと言った顔で首をかしげた。
「何のこと…」
 答えかけて瑞穂はまたむせた。
「ああ、そうか、喉が乾いてるんだね」
 長部はうれしそうな声を上げた。
「ちょっと待ってて、飲ませてあげるよ」
 なぞなぞが一つ解けた子どものようにはしゃいで、長部は立ち上がり、いそいそとすぐに戻ってきた。
「哲がいないから、あんまりお構いできなくて悪いね。僕はまだここに住んでないんだ、哲のお母さんが反対してるから。せっかく、奥さんはいなくなってくれて、やっかいな子どもも哲が始末してくれたのに」
 長部の口調は縛られ転がされている瑞穂を前に、当たり前のおしゃべりをかわしているようだ。
 台所から持ってきたのか、長部はミネラルウォーターのペットボトルを手にしていた。
 何かをたくらむようにほほ笑んで瑞穂を見つめると、水を一口含み、無造作に瑞穂の顔を押し上げる。
「く…」
 意図を察して背けかけた顔は無理やり戻された。意外に大きな手で顔を固定され、いやおうなしに口移しで水を含まされる。
 押し当てられた長部の唇はひやりとして冷たかった。
 傷の熱のせいなのか、それともこの部屋が熱いのか、ほてった瑞穂の口に長部がミネラルウォーターを流し込む。
 唇を食いしばってそれを拒んだたつもりだったが、それも長部が無造作に頭の傷のあたりを押さえつけたせいで、痛みについ悲鳴を上げた。そのすきに、水はとろとろと血の味を伴って瑞穂の喉を下っていった。
 生ぬるい、真夏の水の気配。
 含まれている微生物ごと熱に浮かされて、崩れ腐っていく水の。
 吐き気が瑞穂の胸を押し上げ、かろうじて耐えた。
「感謝してほしいな。懐かしいだろ、たくさんキスもしたよね。ほんとは別れた人間になんかこんなことしない。ましてや、女にキスするなんて。瑞穂は特別なんだよ」
 長部は満足そうにつぶやいた。
 体を動かされた痛みと、思ってもみなかったキスにエネルギーのすべてを持っていかれた気がして、瑞穂は体がぐずぐずと崩れるのを感じた。
 長部が再び瑞穂をラグに戻す、その動作にされるがままに横たわる。
「そうだ、瑞穂は、特別なんだ」
 長部が妙な機嫌のよさから一転、ふいに暗い声で繰り返し、瑞穂は薄く目を開けた。
「どうしたの、瑞穂。水、欲しかったんだろ? でも、今、瑞穂は僕が上げた水を喜んでないね? 僕、間違ってたかい?」
 長部が瑞穂の前の床に座り込み、どこか放心したような表情で瑞穂を見ている。
 ペットボトルは近くの床にふたがあいたままで転がっている。とくとくと水がこぼれているのも気にならないらしい。
「そうだ、瑞穂は何をしても喜んでくれないんだ。他の子なら、絶対喜んでくれるデートコースでも瑞穂は楽しそうじゃない。他の子なら、絶対欲しがるものも、瑞穂は欲しがらない」
 長部がふいと眉を寄せた。
「なぜなんだろう?」
 瞳の奥に暗い怒りが動いている。
「だから、僕はいつも不安になった。瑞穂が欲しいものがいつも全然わからなかった。どうしてわからないのかって思うと、とても不安だった」
 その声はさっきまでの声とは違った。
 どこか危うい狂気を思わせる上機嫌さが冷め、静かに自分の内側を見つめる感じがあった。
 ふ、と胸に『気配』が応じた感触があって瑞穂はぎょっとした。
(何だろう。忍の中で何かが始まった)
 そして、『気配』はそれに対応しようと反応している。瑞穂の中の泉が長部を映し始めている。
 瑞穂はゆっくりとそれに意識を集めた。
(見えないもの、見えなかったものが、今映りだす)
 付き合っていたころの長部の姿がよみがえってきた。
 微かな違和感を感じたときの長部だ。
 そう、スマートでそつのない長部の動きと表情がときどき不自然に崩れることがあったのだ。
 たとえば、遊園地で自分の買ってきたアイスクリームが瑞穂の苦手なものだと知ったとき。たとえば、瑞穂が疲れているのを気づかずに、自分の買い物に熱中していたと感じたとき。
 それは、今の水のように長部の差し出したものが瑞穂を喜ばせないと長部が感じたときだ。
 そんなとき、長部は謝るより怒ることが多かった。そしていつも、瑞穂にはわけを話さないまま、体の内側で暗く静かに怒り続けていた。
 態度も口調も優しいまま、けれど、それは、突然そこから、長部の体から長部の心が立ち去ってしまったような、そんな不安定な感覚を瑞穂に与えた。
 そして、それはさっきまで瑞穂が見ていた晃久の夢にも出てきたもののような気がする。
 さっきの夢でも、昨夜でも、晃久はいつも瑞穂を怒ってどなりつける。瑞穂がうまくわかってくれないと言って。
 けれど、何がそれほど腹立たしいのか、どうしてそれほど怒っているのか、そもそも怒っているのかどうかさえ、晃久にはよくわかっていないのだ。
 たぶん、自分の気持ちそのものがよくわかっていない。
 だから、瑞穂に怒っていると指摘されても戸惑うばかりで話せなくなる。自分は確かに瑞穂に対していらだっているとは思いながら、どうしてなのかがわからない。
 なのに、その気持ちをきちんと伝えてほしいと言われても、それは無理なことなのかもしれない。
 今の長部のように。
 何かが足りない。長部の内側で熟成しているはずのもの、その何かがうまく表現されていないのだ。
 だから瑞穂と彼らはすれ違い、わかりあえない。わかりあえないままに、お互いを誤解し、いら立ち怒り攻撃している。
(それは何?)                          
 瑞穂だけがわかろうとしてもわかりきれないもの。彼らの中にあり、まだうまく育っていなくて、だからこそ外にもきちんと表現されていないもの。
(何が足りない? なぜ足りない? どうしたら、それは表現されるの?)
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