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それから数日、バイトをしながら、心の中には、ボックスの途切れた話とみやの緊迫した口調、バイト先の朝刊で確かめたオオトモかもしれない事故死の記事で一杯だった。
もし、あれが本当にオオトモだったら。ボックスの話を聞いたせいだとしたら。
その先を考えまいとして、僕はバイトに打ち込んだ。体をひたすら動かして疲れ切って帰ってくる。主任は「店の話が励みになったか」と笑っている。
けれども、一人になると、あの疑問が心にどす黒く広がってくる。
もし、みやの言っていることが本当だったとしたら……僕は……どうなる?
目に見えない壁に少しずつ閉じ込められていくようなある日、僕は再びラインにつないでいた。
かたわらには、二枚の新聞記事がある。
一枚は、やくざに殺された『サロンピンク』のさくらと呼ばれていた娘の記事。もう一枚は受験ノイローゼで自殺したと思われる学生の記事。
学生の口癖は『片道切符しかもたされなかった人生だ』だったそうだ。
誰もそれが桜子とカタミチのことだとは証明できない。みやのほうもあれから何の連絡もない。
けれど、いや、だからこそ、というのか、罠と知っていて引き寄せられる小動物のように、僕は電話をかけていた。
『……もしもし……やあ、久しぶりだね……えーと、ケン君』
「そうですね」
『他人行儀だな……いつぞやの元気はどこへいった?』
どこか疲れたようなボックスの声が、まるで待ち構えていたかのように、見えない暗がりのそこから響いてくる。
「…話を……聞きたくて」
乾いてくる喉に唾を飲み込んで、僕は言った。
「いつかの……あの話です」
『ああ……どこまで話したかな』
「鍵穴を壊したところ…」
『よかろう……だが、君も何か知っているんだろう……みや、とかに聞いて』
「……確かめたいんです…」
僕は答えて、それが心の底に隠れていた真実のことだとふいに気が付いた。
この数日間、僕は怯え続けていた。
みやから、オオトモらしい男の死を聞かされてから、いや、本当は、それよりずっと前から、いろんな時に、いろんなものに対して。
そして、僕の不安はもう限界だった。
これ以上、わけがわからないままいられない。
そんな奇妙な強迫観念が、夜となく昼となく、僕の心を圧迫し始めていた。
『……君は強いな…』
「強くなんかない」
僕は否定した。
「ただの、二浪した、アルバイト代も親からの仕送りも、こんなことにつぎ込んでいる情けない奴だ……落ちこぼれないようにとばかり考えて、うまくいかないんじゃないかと怯え続けて……でも、もう、これ以上、わけがわからないまま怯えられないんです……もう、たくさんだ」
そう。
あるかないかわからない将来の展望とか、持つかどうかわからない家庭とか、そういうもののために、人の波の中で不安だけを握り締めているのは、もう、たくさんだ。
『……鍵は開いたよ。だが、中には何も入っていなかった』
「それは聞いた」
『ところが、中には確かに入っていたのだよ、とんでもないもの……ある細菌が』
僕は凍りついた。
『空気感染する。新しい種で、感染すると一定の潜伏期間を経て発病する。幻覚、幻聴、嘔吐にめまいが続き、ものが食べられなくなる。抵抗力が落ち、感染症に簡単にかかる。発病後、数日で原因不明の呼吸停止を起こし、死亡する。死亡率は今のところ、百パーセントだ』
ことさら淡々と話すボックスの声に、僕は唾を飲んだ。
『研究所はあっと言う間に死の家になった。それでも、国家というものは化け物だな、外部から人を送り込んで、何とかその細菌を支配しようとした。ワクチンや解毒剤か……そういったものがわかれば、その細菌は最高の武器になる。…ところが、わかったのは、通常考えられる破壊……熱や酸や塩基、低温、真空、他の細菌による生物的破壊、放射能……そういったものでは効果がないということだけだ……人がバタバタ死んでいく。それでも研究は続けられた。ようやく、ある化合物が、この細菌の働きを低下させるということがわかった。その構
成を分析していると、何かに似ている、と一人が言い出した。……何だと思う?』
暗い笑いが満ちた。
『鍵……さ。言っただろう、鍵を造ろうとしたらしい図があった、と。鍵なんかじゃなかったんだ。細菌を閉じ込めて、その働きを支配する化合物の構造を、鍵穴に残していたというわけだ。……悪魔のユーモアじゃないか。……鍵穴を壊すことでしか、中のものを手に入れる方法を思いつかないようなものは滅ぶしかない。……それを正しい方法で扱えるものにしか、神の力は与えられない……昔から人類が何度も教えられてきたことだったのだが、ね…』
僕は息を殺してボックスの声を聞いていた。
ボックスの声はしだいに低くかすれていった。
『もう……話は長くない……巻き込むつもりじゃなかったが……いや、巻き込むつもりだったのかな……』
くっくっく、と押し殺したように笑うボックスの声に混じった、ボタボタと言う水の滴るような重い音に、僕は身動きさえできなかった。
『……研究所は封印された。この細菌を封じ込めるためには、もうそれしか手がない、、と判断されたのだ……我々を閉じ込めたまま…ね……』
死の家。
死が閉じ込められた、巨大な箱。
『……私が……電話したのは……そういう…わけだ…』
声は途切れた。
そしてどれほど待っても、もう二度と聞こえてこなかった。
もし、あれが本当にオオトモだったら。ボックスの話を聞いたせいだとしたら。
その先を考えまいとして、僕はバイトに打ち込んだ。体をひたすら動かして疲れ切って帰ってくる。主任は「店の話が励みになったか」と笑っている。
けれども、一人になると、あの疑問が心にどす黒く広がってくる。
もし、みやの言っていることが本当だったとしたら……僕は……どうなる?
目に見えない壁に少しずつ閉じ込められていくようなある日、僕は再びラインにつないでいた。
かたわらには、二枚の新聞記事がある。
一枚は、やくざに殺された『サロンピンク』のさくらと呼ばれていた娘の記事。もう一枚は受験ノイローゼで自殺したと思われる学生の記事。
学生の口癖は『片道切符しかもたされなかった人生だ』だったそうだ。
誰もそれが桜子とカタミチのことだとは証明できない。みやのほうもあれから何の連絡もない。
けれど、いや、だからこそ、というのか、罠と知っていて引き寄せられる小動物のように、僕は電話をかけていた。
『……もしもし……やあ、久しぶりだね……えーと、ケン君』
「そうですね」
『他人行儀だな……いつぞやの元気はどこへいった?』
どこか疲れたようなボックスの声が、まるで待ち構えていたかのように、見えない暗がりのそこから響いてくる。
「…話を……聞きたくて」
乾いてくる喉に唾を飲み込んで、僕は言った。
「いつかの……あの話です」
『ああ……どこまで話したかな』
「鍵穴を壊したところ…」
『よかろう……だが、君も何か知っているんだろう……みや、とかに聞いて』
「……確かめたいんです…」
僕は答えて、それが心の底に隠れていた真実のことだとふいに気が付いた。
この数日間、僕は怯え続けていた。
みやから、オオトモらしい男の死を聞かされてから、いや、本当は、それよりずっと前から、いろんな時に、いろんなものに対して。
そして、僕の不安はもう限界だった。
これ以上、わけがわからないままいられない。
そんな奇妙な強迫観念が、夜となく昼となく、僕の心を圧迫し始めていた。
『……君は強いな…』
「強くなんかない」
僕は否定した。
「ただの、二浪した、アルバイト代も親からの仕送りも、こんなことにつぎ込んでいる情けない奴だ……落ちこぼれないようにとばかり考えて、うまくいかないんじゃないかと怯え続けて……でも、もう、これ以上、わけがわからないまま怯えられないんです……もう、たくさんだ」
そう。
あるかないかわからない将来の展望とか、持つかどうかわからない家庭とか、そういうもののために、人の波の中で不安だけを握り締めているのは、もう、たくさんだ。
『……鍵は開いたよ。だが、中には何も入っていなかった』
「それは聞いた」
『ところが、中には確かに入っていたのだよ、とんでもないもの……ある細菌が』
僕は凍りついた。
『空気感染する。新しい種で、感染すると一定の潜伏期間を経て発病する。幻覚、幻聴、嘔吐にめまいが続き、ものが食べられなくなる。抵抗力が落ち、感染症に簡単にかかる。発病後、数日で原因不明の呼吸停止を起こし、死亡する。死亡率は今のところ、百パーセントだ』
ことさら淡々と話すボックスの声に、僕は唾を飲んだ。
『研究所はあっと言う間に死の家になった。それでも、国家というものは化け物だな、外部から人を送り込んで、何とかその細菌を支配しようとした。ワクチンや解毒剤か……そういったものがわかれば、その細菌は最高の武器になる。…ところが、わかったのは、通常考えられる破壊……熱や酸や塩基、低温、真空、他の細菌による生物的破壊、放射能……そういったものでは効果がないということだけだ……人がバタバタ死んでいく。それでも研究は続けられた。ようやく、ある化合物が、この細菌の働きを低下させるということがわかった。その構
成を分析していると、何かに似ている、と一人が言い出した。……何だと思う?』
暗い笑いが満ちた。
『鍵……さ。言っただろう、鍵を造ろうとしたらしい図があった、と。鍵なんかじゃなかったんだ。細菌を閉じ込めて、その働きを支配する化合物の構造を、鍵穴に残していたというわけだ。……悪魔のユーモアじゃないか。……鍵穴を壊すことでしか、中のものを手に入れる方法を思いつかないようなものは滅ぶしかない。……それを正しい方法で扱えるものにしか、神の力は与えられない……昔から人類が何度も教えられてきたことだったのだが、ね…』
僕は息を殺してボックスの声を聞いていた。
ボックスの声はしだいに低くかすれていった。
『もう……話は長くない……巻き込むつもりじゃなかったが……いや、巻き込むつもりだったのかな……』
くっくっく、と押し殺したように笑うボックスの声に混じった、ボタボタと言う水の滴るような重い音に、僕は身動きさえできなかった。
『……研究所は封印された。この細菌を封じ込めるためには、もうそれしか手がない、、と判断されたのだ……我々を閉じ込めたまま…ね……』
死の家。
死が閉じ込められた、巨大な箱。
『……私が……電話したのは……そういう…わけだ…』
声は途切れた。
そしてどれほど待っても、もう二度と聞こえてこなかった。
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