『ラズーン』第三部

segakiyui

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13.失われた都より(2)

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「……」
 ユーノはそろりとベッドから滑り降りた。
 右肩の傷は動かしてもほとんど痛みを感じなくなっていた。
 着ていた夜着を脱ぎ、自分用に仕立てられた白の短衣を着る。膝より少し上までの長さ、その上に深い紺のチュニック、腰のあたりで白い紐を締める。上から体に巻き付ける布を手に、ユーノは部屋を出た。
 アシャから『氷の双宮』へ行くと知らせがあったのだ。
(いよいよ、謎が解ける)
 ハイラカが受けたような説明で、納得するつもりはなかった。
 ハイラカが『氷の双宮』で感じたという眠気は、おそらく人為的なものだろうと見当をつけている。その眠りの間に、洗礼を終わらせられるとともに、今ユーノがこれほど鮮明に覚えているラズーンの成り立ちも、多くの他の昔語りのようにあやふやな不思議な物語の一つとなってしまうのだろう。
 その前に、何とかして『太皇(スーグ)』に疑問を突きつけ、答えを得る機会を掴みたい。
(それに)
 回廊の窓からは、既に沈んだ陽が最後の残光を空に撒いているのが見えた。
(アシャのことを『太皇(スーグ)』に頼まなくてはならない)
 どんなことでもしよう、この体で払える代償があるというなら、何としても払ってみせよう。
(どうか、『太皇(スーグ)』よ)
 憐れみをもって、アシャをセレドに、姉の夫としてお遣わし下さい。
 幸福になるだろうことは、私が保証します。もし、代わりに残れとおっしゃるならば、このラズーンで命尽きるまでお仕えいたしましょう、アシャの指先ほどの価値もない命かも知れませんが。
(よし)
 頭の中で願いを繰り返すと、心のどこかが鋭い痛みを訴えた。
 嘘つき。
 ののしることばも谺する。強く激しい糾弾となる。
 それでいいのか。一度誓えば、その誓いこそ、二度とは破れないのだぞ。
(それでも、きっと)
 嘘も死ぬまでつき通せば、真実になる。
 ユーノはきゅっと唇を結んで、広間の入り口を潜った、とたん。
「っ」
 リディノがアシャの首にしがみつき、頬に唇を寄せているのを見てしまって、思わず立ちすくむ。
「はい、アシャ兄さま!」
 ちゅ、と小さな音をたてて、リディノは唇を離した。
「これが私の守り札よ。旅が無事に済みますように、アシャ兄さまが少しでも早くお帰りになりますように」
「旅…?」
「あ、ユーノ」
 レスファートが振り返り走り寄ってくる。
 広間の両端には夜だというのに、ミダス公配下の姿がずらりと並んでいた。『銀羽根』の姿も幾人か見え、シャイラもいる。
 シャイラはなぜか奇妙に強張った表情でアシャを見つめている。
「アシャ、旅に出るの?」
「ああ」
 アシャは振り返って、少し微笑った。
「ちょっと面倒事が持ち上がってな。お前を『氷の双宮』に送ったら、その足でラズーンを出る」
 ラズーンの後継者がようやく国に戻ってきた、それをあれほど喜んで迎えた人々を置き去りにするようなことはもうするまい、ならば、言うようにそれほど大した用事ではないのかもしれない。だが。
(それほど大したことでなければ、なぜ『アシャ』が出る?)
「どこへ?」
 思わず問いかけていた。
 アシャが微かに目を細める。紫色の瞳が一瞬闇を宿すように暗くなる。
「すぐに戻るさ」
(嘘をついた…?)
「アシャ、」
「ユーノ!」
 問いを重ねようとしたユーノは、いきなり腕を強く引っ張られて振り向いた。
「ぼくもキス! ね、ユーノが早く帰ってきますように」
「あ、ああ」
 屈み込んだユーノの頬に唇を当て、レスファートは何かを待つようにはにかみながら微笑んだ。
「ありがと、レス。はい、お返し」
「ふふ」
 少年の頬にキスを返して体を起こし、アシャを振り返る。だが、相手はミダス公と何か込み入った話をしている最中、向けている背中は取りつく島もない。
「ユーノ」
 そのユーノに、今度はリディノが心配そうに近寄ってきた。
「無事に帰ってきてね」
「大丈夫だよ」
「だって、この前のこともあるし」
 そっと顔を近づけてくるのに、頬を向ける。甘い香りと柔らかな感触が触れてすぐに離れた。
「あなたにも守りの札よ」
「ありがとう、リディ」
「僕も…」
 リディノの後ろに立っていたハイラカがおずおずと近寄ってくる。ユーノがたじろいでいる間に素早く唇を頬に擦らせて、
「気をつけて」
 優しい囁きを耳に吹き込んで、ハイラカは身を離した。相手の照れくさそうな気配がこちらまで伝わってきて、少し頬が熱くなる。
「あ、ありがとう」
 口ごもりながら俯いた。
「んじゃ、俺も」
 イルファが喜々としてアシャの方へ足を踏み出す。
「おい、よせ!」
 アシャがぎょっとした顔で身を引いた。
「ちぇ」
「何がちぇ、だ、何が」
 沈んでいた広間はわっと明るい笑い声に包まれた。そうしてみると、ミダス公配下も、『銀羽根』も、動乱の中、頼みの綱のアシャが出て行くのが、どれほど重い影を落としているのかよくわかる。
(なのに、アシャを止めない、誰も)
 むしろ、止めたいが止められない、そういう気配だ。
「じゃ、行くか、ユーノ」
「うん」
「お気をつけられますように」
 ミダス公のことばに頷いて、ユーノとアシャは広間を出て行った。


 ラズーンの中央部を囲む白い内壁は、いつかの夜のように厳然として聳えたっていた。扉は固く閉ざされていて、誰一人の侵入も許さない。
「よし、お帰り」
 アシャは馬の背を叩いて合図した。辺りに漂う異様な気に怯えたのか、ユーノとアシャを乗せて来た馬は、すぐに向きを変えて去っていく。
「……馬を使わないの?」
 不思議に思って尋ねると、アシャは肩越しに視線を投げて苦笑した。
「馬で行けるような場所じゃない」
「さっき、どこへ行くか答えなかったね」
 もう一度の問い、だが、アシャはなお応じない。そのまま扉に向き直って待つこと少し、やがて扉がきしみ音一つたてずにするすると開いていく。
「おいで」
 アシャがこれほど問いに応じてくれないのは初めてだ。
(そんなに難しい問いをしているのか?)
 それとも、それほど難しい仕事に出かけようとしているのか。
「…うん」
 不安を抱えたまま、ユーノは先に立つアシャに続いて中に入った。
 この前は、意識がないまま『氷の双宮』に来ていた。アシャはユーノの体の回復に、ラズーンにある特別な設備が必要だったのだ、と説明してくれたが、こうしてみると、特にそんな奇妙な建物がある様子はない。
 人の気配があまりないのは、聖なる場所だからだろう。
 眩いほどに白い石畳と、同じような白い石で造られた建物が、月光を反射しあって、辺りは壁の外よりかなり明るい。上からの光だけではなく、横から下から、淡い光が吹き上がり、押し寄せてくるようだ。
 正面には、それこそ光そのもののような噴水がさらさらと音をたてている。というか、その音しか聞こえないほどだ。
 静まり返った夜の静まり返った場所。
 ユーノの視線は、噴水を巡る通路を辿って、少し先にある、鏡で映しあったようにそっくりな、向かい合った二つの建物に止まった。壁面には、逆巻き波打ち、今にもそこから溢れ出しそうな水流の浮き彫りで飾られている。
「あれが…『氷の双宮』なんだね?」
 なんて、見事な浮き彫りだろう。
「生命の流れの象徴だ」
 低く応じたアシャは、何か物思いにふけるように、じっとそれを見つめている。
(アシャ?)
 わけのわからぬ不安が、再びユーノの心に過る。
(今日のアシャは変だ)
 何かをずっと考えている。それが何か全く読めない。アシャの気持ちが表情からも姿からも読み取れない。
 旅の空で、アシャがこういう気配になった時は、必ずラズーンに関わること、アシャの正体に関わることだった。だが、今はもう、アシャがラズーンの正統後継者であることは知れているし、ラズーンが何をしているのかも大方掴めている。アシャがこんな風に沈黙を守ろうとする奥に、一体何があると言うのだろう。
「どうした?」
 聞きたい。
 あなたがまだ抱えている秘密は一体何なのか、と。
(でも聞いてどうする)
 脳裏を掠めたのはリディノがアシャに唇を寄せる場面、ふと上げた視線に、アシャがまっすぐ自分を見つめていたと気づいてどぎまぎして、目を逸らせる。
「ちょっと緊張しちゃって…」
 くすり、とアシャが笑った。
「行かないの?」
「行くよ」
 ユーノの促しに微笑んだまま歩き出す。ユーノも慌てて後を付き従っていく。
 白い石畳を踏んで行くと、その足音がわずかな反響を呼び起こす。
「静かだね」
「ああ」
 それだけで、沈黙がまた続いた。
 近くに見えた『氷の双宮』はかなり歩いてようやく辿り着けた。見上げる偉容、圧倒する雰囲気はないが、簡単に足を踏み入れることができる気配でもない。
 どちらからともなく立ち止まり、ユーノとアシャは見つめあった。
「…じゃあ」
「ああ」
「気をつけてね」
「わかっている」
 素っ気ないアシャのことばに諦めて背中を向け、ユーノは階段を上がった。
 ここから先は柱廊で、まっすぐ進んで行けば、今は入り組んだ柱に隠れて見えない『太皇(スーグ)』の玉座の前に出るはずだった。
 一本目の柱までゆっくりと歩いていった時、
「ユーノ」
「え?」
 振り返ると、アシャが悪戯っぽい笑いを浮かべながら、階段を上がってきていた。
「何?」
 何か話し忘れただろうか。それとも、さっきの問いに応えてくれる気になったのか。数歩戻ったユーノに、アシャは目を細めた。
「お前は守り札をくれないのか?」
「え…だって…」
 一気に頬に血が昇った。
「レスファートだってイルファだって、アシャに上げなかっただろ?」
「お前な」
 アシャはむっつりした顔になった。
「男からもらって、何が嬉しい」
「へええ?」
 久しぶりにきけた軽口が嬉しくなって笑った。
「私を女だって認めてくれるの?」
「お前は女だよ。自覚がなさ過ぎるがな」
「……」
(急になんだ)
 どきりとして口を噤んでしまった。慌ててうろたえたのを隠すように元気よく続ける。
「口がうまいんだから!」
「それに」
 ユーノの混ぜ返しにアシャは少し笑みを消した。
「今度の旅には、少々守り札が欲しい」
「……危険な旅なの?」
「…ああ」
 今度はちゃんと応じてくれた。
「わかった」
 アシャが屈み込む。ユーノは少し伸び上がって目を閉じ、頬に唇を当てた。
(どうか無事で帰ってきて…)
「えっ」
 突然、体にアシャの腕が回って目を見開いた。抵抗する間もなく、アシャ、と呼ぼうとした唇を塞がれる。もがこうとしたのを嫌というほど抱き締められ、体中が熱くなった。
(アシャ、何、一体)
 体を竦めると腕が緩んだ。怯えさせたのを謝るかのように、そっと唇が解放される。瞬間、ユーノの体をある感覚が走った。
(あの時の、包まれた感覚と、似てる)
 眠り続けた夢の中、ユーノを誰かが抱き締めてくれていたような気がしていた。どこへとも知れず落ち込んでいきそうな不安を、しっかりと抱えて守ってくれていた誰か。
(あれはまさか)
 茫然として見上げるユーノを見下ろしていたアシャが、ふと笑み綻んだ。
「とっておきの守り札だな」
「っ、アシャっっ!」
(この人はどうしてこんな風に)
 どこかが蕩けていきそうな熱を込めた声を出すんだろう。
 そう感じた自分が何だかひどく恥ずかしくて、ユーノは思いつく限りの罵倒を並べようとした。
 だがその時、どこから聞こえるというのでもない、孤管(クート)に似た音色の音律が漂ってきた。
(『太皇(スーグ)』!)
 加熱していた頭が一気に冷める。同時に、自分を包んでいたアシャの腕がするりと解かれて、はっとして相手を振り仰いだ。
 月光を浴びてきらきらと輝く金褐色の髪に縁取られた端整な顔、掠めていったのがレアナの優しく美しい微笑。
(ああ…そうだっけ…)
 この人は、姉の想い人だったんだ。
(どうしていつも、忘れちゃう、のかな)
 今更のように胸に沁みて、ユーノはそっと身を引いた。
「呼んでる……行かなきゃ」
「ああ」
 アシャは引き止めることなく、両腕を広げた。
(やっぱり)
 私のものじゃ、ないんだ。
「いってきます」
 痛みが心に鮮烈な傷を刻み付ける。
 ユーノはくるりと身を翻し、一歩、また一歩と、『氷の双宮』の中へ入り込んでいった。
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