44 / 45
13.失われた都より(2)
しおりを挟む
「……」
ユーノはそろりとベッドから滑り降りた。
右肩の傷は動かしてもほとんど痛みを感じなくなっていた。
着ていた夜着を脱ぎ、自分用に仕立てられた白の短衣を着る。膝より少し上までの長さ、その上に深い紺のチュニック、腰のあたりで白い紐を締める。上から体に巻き付ける布を手に、ユーノは部屋を出た。
アシャから『氷の双宮』へ行くと知らせがあったのだ。
(いよいよ、謎が解ける)
ハイラカが受けたような説明で、納得するつもりはなかった。
ハイラカが『氷の双宮』で感じたという眠気は、おそらく人為的なものだろうと見当をつけている。その眠りの間に、洗礼を終わらせられるとともに、今ユーノがこれほど鮮明に覚えているラズーンの成り立ちも、多くの他の昔語りのようにあやふやな不思議な物語の一つとなってしまうのだろう。
その前に、何とかして『太皇(スーグ)』に疑問を突きつけ、答えを得る機会を掴みたい。
(それに)
回廊の窓からは、既に沈んだ陽が最後の残光を空に撒いているのが見えた。
(アシャのことを『太皇(スーグ)』に頼まなくてはならない)
どんなことでもしよう、この体で払える代償があるというなら、何としても払ってみせよう。
(どうか、『太皇(スーグ)』よ)
憐れみをもって、アシャをセレドに、姉の夫としてお遣わし下さい。
幸福になるだろうことは、私が保証します。もし、代わりに残れとおっしゃるならば、このラズーンで命尽きるまでお仕えいたしましょう、アシャの指先ほどの価値もない命かも知れませんが。
(よし)
頭の中で願いを繰り返すと、心のどこかが鋭い痛みを訴えた。
嘘つき。
ののしることばも谺する。強く激しい糾弾となる。
それでいいのか。一度誓えば、その誓いこそ、二度とは破れないのだぞ。
(それでも、きっと)
嘘も死ぬまでつき通せば、真実になる。
ユーノはきゅっと唇を結んで、広間の入り口を潜った、とたん。
「っ」
リディノがアシャの首にしがみつき、頬に唇を寄せているのを見てしまって、思わず立ちすくむ。
「はい、アシャ兄さま!」
ちゅ、と小さな音をたてて、リディノは唇を離した。
「これが私の守り札よ。旅が無事に済みますように、アシャ兄さまが少しでも早くお帰りになりますように」
「旅…?」
「あ、ユーノ」
レスファートが振り返り走り寄ってくる。
広間の両端には夜だというのに、ミダス公配下の姿がずらりと並んでいた。『銀羽根』の姿も幾人か見え、シャイラもいる。
シャイラはなぜか奇妙に強張った表情でアシャを見つめている。
「アシャ、旅に出るの?」
「ああ」
アシャは振り返って、少し微笑った。
「ちょっと面倒事が持ち上がってな。お前を『氷の双宮』に送ったら、その足でラズーンを出る」
ラズーンの後継者がようやく国に戻ってきた、それをあれほど喜んで迎えた人々を置き去りにするようなことはもうするまい、ならば、言うようにそれほど大した用事ではないのかもしれない。だが。
(それほど大したことでなければ、なぜ『アシャ』が出る?)
「どこへ?」
思わず問いかけていた。
アシャが微かに目を細める。紫色の瞳が一瞬闇を宿すように暗くなる。
「すぐに戻るさ」
(嘘をついた…?)
「アシャ、」
「ユーノ!」
問いを重ねようとしたユーノは、いきなり腕を強く引っ張られて振り向いた。
「ぼくもキス! ね、ユーノが早く帰ってきますように」
「あ、ああ」
屈み込んだユーノの頬に唇を当て、レスファートは何かを待つようにはにかみながら微笑んだ。
「ありがと、レス。はい、お返し」
「ふふ」
少年の頬にキスを返して体を起こし、アシャを振り返る。だが、相手はミダス公と何か込み入った話をしている最中、向けている背中は取りつく島もない。
「ユーノ」
そのユーノに、今度はリディノが心配そうに近寄ってきた。
「無事に帰ってきてね」
「大丈夫だよ」
「だって、この前のこともあるし」
そっと顔を近づけてくるのに、頬を向ける。甘い香りと柔らかな感触が触れてすぐに離れた。
「あなたにも守りの札よ」
「ありがとう、リディ」
「僕も…」
リディノの後ろに立っていたハイラカがおずおずと近寄ってくる。ユーノがたじろいでいる間に素早く唇を頬に擦らせて、
「気をつけて」
優しい囁きを耳に吹き込んで、ハイラカは身を離した。相手の照れくさそうな気配がこちらまで伝わってきて、少し頬が熱くなる。
「あ、ありがとう」
口ごもりながら俯いた。
「んじゃ、俺も」
イルファが喜々としてアシャの方へ足を踏み出す。
「おい、よせ!」
アシャがぎょっとした顔で身を引いた。
「ちぇ」
「何がちぇ、だ、何が」
沈んでいた広間はわっと明るい笑い声に包まれた。そうしてみると、ミダス公配下も、『銀羽根』も、動乱の中、頼みの綱のアシャが出て行くのが、どれほど重い影を落としているのかよくわかる。
(なのに、アシャを止めない、誰も)
むしろ、止めたいが止められない、そういう気配だ。
「じゃ、行くか、ユーノ」
「うん」
「お気をつけられますように」
ミダス公のことばに頷いて、ユーノとアシャは広間を出て行った。
ラズーンの中央部を囲む白い内壁は、いつかの夜のように厳然として聳えたっていた。扉は固く閉ざされていて、誰一人の侵入も許さない。
「よし、お帰り」
アシャは馬の背を叩いて合図した。辺りに漂う異様な気に怯えたのか、ユーノとアシャを乗せて来た馬は、すぐに向きを変えて去っていく。
「……馬を使わないの?」
不思議に思って尋ねると、アシャは肩越しに視線を投げて苦笑した。
「馬で行けるような場所じゃない」
「さっき、どこへ行くか答えなかったね」
もう一度の問い、だが、アシャはなお応じない。そのまま扉に向き直って待つこと少し、やがて扉がきしみ音一つたてずにするすると開いていく。
「おいで」
アシャがこれほど問いに応じてくれないのは初めてだ。
(そんなに難しい問いをしているのか?)
それとも、それほど難しい仕事に出かけようとしているのか。
「…うん」
不安を抱えたまま、ユーノは先に立つアシャに続いて中に入った。
この前は、意識がないまま『氷の双宮』に来ていた。アシャはユーノの体の回復に、ラズーンにある特別な設備が必要だったのだ、と説明してくれたが、こうしてみると、特にそんな奇妙な建物がある様子はない。
人の気配があまりないのは、聖なる場所だからだろう。
眩いほどに白い石畳と、同じような白い石で造られた建物が、月光を反射しあって、辺りは壁の外よりかなり明るい。上からの光だけではなく、横から下から、淡い光が吹き上がり、押し寄せてくるようだ。
正面には、それこそ光そのもののような噴水がさらさらと音をたてている。というか、その音しか聞こえないほどだ。
静まり返った夜の静まり返った場所。
ユーノの視線は、噴水を巡る通路を辿って、少し先にある、鏡で映しあったようにそっくりな、向かい合った二つの建物に止まった。壁面には、逆巻き波打ち、今にもそこから溢れ出しそうな水流の浮き彫りで飾られている。
「あれが…『氷の双宮』なんだね?」
なんて、見事な浮き彫りだろう。
「生命の流れの象徴だ」
低く応じたアシャは、何か物思いにふけるように、じっとそれを見つめている。
(アシャ?)
わけのわからぬ不安が、再びユーノの心に過る。
(今日のアシャは変だ)
何かをずっと考えている。それが何か全く読めない。アシャの気持ちが表情からも姿からも読み取れない。
旅の空で、アシャがこういう気配になった時は、必ずラズーンに関わること、アシャの正体に関わることだった。だが、今はもう、アシャがラズーンの正統後継者であることは知れているし、ラズーンが何をしているのかも大方掴めている。アシャがこんな風に沈黙を守ろうとする奥に、一体何があると言うのだろう。
「どうした?」
聞きたい。
あなたがまだ抱えている秘密は一体何なのか、と。
(でも聞いてどうする)
脳裏を掠めたのはリディノがアシャに唇を寄せる場面、ふと上げた視線に、アシャがまっすぐ自分を見つめていたと気づいてどぎまぎして、目を逸らせる。
「ちょっと緊張しちゃって…」
くすり、とアシャが笑った。
「行かないの?」
「行くよ」
ユーノの促しに微笑んだまま歩き出す。ユーノも慌てて後を付き従っていく。
白い石畳を踏んで行くと、その足音がわずかな反響を呼び起こす。
「静かだね」
「ああ」
それだけで、沈黙がまた続いた。
近くに見えた『氷の双宮』はかなり歩いてようやく辿り着けた。見上げる偉容、圧倒する雰囲気はないが、簡単に足を踏み入れることができる気配でもない。
どちらからともなく立ち止まり、ユーノとアシャは見つめあった。
「…じゃあ」
「ああ」
「気をつけてね」
「わかっている」
素っ気ないアシャのことばに諦めて背中を向け、ユーノは階段を上がった。
ここから先は柱廊で、まっすぐ進んで行けば、今は入り組んだ柱に隠れて見えない『太皇(スーグ)』の玉座の前に出るはずだった。
一本目の柱までゆっくりと歩いていった時、
「ユーノ」
「え?」
振り返ると、アシャが悪戯っぽい笑いを浮かべながら、階段を上がってきていた。
「何?」
何か話し忘れただろうか。それとも、さっきの問いに応えてくれる気になったのか。数歩戻ったユーノに、アシャは目を細めた。
「お前は守り札をくれないのか?」
「え…だって…」
一気に頬に血が昇った。
「レスファートだってイルファだって、アシャに上げなかっただろ?」
「お前な」
アシャはむっつりした顔になった。
「男からもらって、何が嬉しい」
「へええ?」
久しぶりにきけた軽口が嬉しくなって笑った。
「私を女だって認めてくれるの?」
「お前は女だよ。自覚がなさ過ぎるがな」
「……」
(急になんだ)
どきりとして口を噤んでしまった。慌ててうろたえたのを隠すように元気よく続ける。
「口がうまいんだから!」
「それに」
ユーノの混ぜ返しにアシャは少し笑みを消した。
「今度の旅には、少々守り札が欲しい」
「……危険な旅なの?」
「…ああ」
今度はちゃんと応じてくれた。
「わかった」
アシャが屈み込む。ユーノは少し伸び上がって目を閉じ、頬に唇を当てた。
(どうか無事で帰ってきて…)
「えっ」
突然、体にアシャの腕が回って目を見開いた。抵抗する間もなく、アシャ、と呼ぼうとした唇を塞がれる。もがこうとしたのを嫌というほど抱き締められ、体中が熱くなった。
(アシャ、何、一体)
体を竦めると腕が緩んだ。怯えさせたのを謝るかのように、そっと唇が解放される。瞬間、ユーノの体をある感覚が走った。
(あの時の、包まれた感覚と、似てる)
眠り続けた夢の中、ユーノを誰かが抱き締めてくれていたような気がしていた。どこへとも知れず落ち込んでいきそうな不安を、しっかりと抱えて守ってくれていた誰か。
(あれはまさか)
茫然として見上げるユーノを見下ろしていたアシャが、ふと笑み綻んだ。
「とっておきの守り札だな」
「っ、アシャっっ!」
(この人はどうしてこんな風に)
どこかが蕩けていきそうな熱を込めた声を出すんだろう。
そう感じた自分が何だかひどく恥ずかしくて、ユーノは思いつく限りの罵倒を並べようとした。
だがその時、どこから聞こえるというのでもない、孤管(クート)に似た音色の音律が漂ってきた。
(『太皇(スーグ)』!)
加熱していた頭が一気に冷める。同時に、自分を包んでいたアシャの腕がするりと解かれて、はっとして相手を振り仰いだ。
月光を浴びてきらきらと輝く金褐色の髪に縁取られた端整な顔、掠めていったのがレアナの優しく美しい微笑。
(ああ…そうだっけ…)
この人は、姉の想い人だったんだ。
(どうしていつも、忘れちゃう、のかな)
今更のように胸に沁みて、ユーノはそっと身を引いた。
「呼んでる……行かなきゃ」
「ああ」
アシャは引き止めることなく、両腕を広げた。
(やっぱり)
私のものじゃ、ないんだ。
「いってきます」
痛みが心に鮮烈な傷を刻み付ける。
ユーノはくるりと身を翻し、一歩、また一歩と、『氷の双宮』の中へ入り込んでいった。
ユーノはそろりとベッドから滑り降りた。
右肩の傷は動かしてもほとんど痛みを感じなくなっていた。
着ていた夜着を脱ぎ、自分用に仕立てられた白の短衣を着る。膝より少し上までの長さ、その上に深い紺のチュニック、腰のあたりで白い紐を締める。上から体に巻き付ける布を手に、ユーノは部屋を出た。
アシャから『氷の双宮』へ行くと知らせがあったのだ。
(いよいよ、謎が解ける)
ハイラカが受けたような説明で、納得するつもりはなかった。
ハイラカが『氷の双宮』で感じたという眠気は、おそらく人為的なものだろうと見当をつけている。その眠りの間に、洗礼を終わらせられるとともに、今ユーノがこれほど鮮明に覚えているラズーンの成り立ちも、多くの他の昔語りのようにあやふやな不思議な物語の一つとなってしまうのだろう。
その前に、何とかして『太皇(スーグ)』に疑問を突きつけ、答えを得る機会を掴みたい。
(それに)
回廊の窓からは、既に沈んだ陽が最後の残光を空に撒いているのが見えた。
(アシャのことを『太皇(スーグ)』に頼まなくてはならない)
どんなことでもしよう、この体で払える代償があるというなら、何としても払ってみせよう。
(どうか、『太皇(スーグ)』よ)
憐れみをもって、アシャをセレドに、姉の夫としてお遣わし下さい。
幸福になるだろうことは、私が保証します。もし、代わりに残れとおっしゃるならば、このラズーンで命尽きるまでお仕えいたしましょう、アシャの指先ほどの価値もない命かも知れませんが。
(よし)
頭の中で願いを繰り返すと、心のどこかが鋭い痛みを訴えた。
嘘つき。
ののしることばも谺する。強く激しい糾弾となる。
それでいいのか。一度誓えば、その誓いこそ、二度とは破れないのだぞ。
(それでも、きっと)
嘘も死ぬまでつき通せば、真実になる。
ユーノはきゅっと唇を結んで、広間の入り口を潜った、とたん。
「っ」
リディノがアシャの首にしがみつき、頬に唇を寄せているのを見てしまって、思わず立ちすくむ。
「はい、アシャ兄さま!」
ちゅ、と小さな音をたてて、リディノは唇を離した。
「これが私の守り札よ。旅が無事に済みますように、アシャ兄さまが少しでも早くお帰りになりますように」
「旅…?」
「あ、ユーノ」
レスファートが振り返り走り寄ってくる。
広間の両端には夜だというのに、ミダス公配下の姿がずらりと並んでいた。『銀羽根』の姿も幾人か見え、シャイラもいる。
シャイラはなぜか奇妙に強張った表情でアシャを見つめている。
「アシャ、旅に出るの?」
「ああ」
アシャは振り返って、少し微笑った。
「ちょっと面倒事が持ち上がってな。お前を『氷の双宮』に送ったら、その足でラズーンを出る」
ラズーンの後継者がようやく国に戻ってきた、それをあれほど喜んで迎えた人々を置き去りにするようなことはもうするまい、ならば、言うようにそれほど大した用事ではないのかもしれない。だが。
(それほど大したことでなければ、なぜ『アシャ』が出る?)
「どこへ?」
思わず問いかけていた。
アシャが微かに目を細める。紫色の瞳が一瞬闇を宿すように暗くなる。
「すぐに戻るさ」
(嘘をついた…?)
「アシャ、」
「ユーノ!」
問いを重ねようとしたユーノは、いきなり腕を強く引っ張られて振り向いた。
「ぼくもキス! ね、ユーノが早く帰ってきますように」
「あ、ああ」
屈み込んだユーノの頬に唇を当て、レスファートは何かを待つようにはにかみながら微笑んだ。
「ありがと、レス。はい、お返し」
「ふふ」
少年の頬にキスを返して体を起こし、アシャを振り返る。だが、相手はミダス公と何か込み入った話をしている最中、向けている背中は取りつく島もない。
「ユーノ」
そのユーノに、今度はリディノが心配そうに近寄ってきた。
「無事に帰ってきてね」
「大丈夫だよ」
「だって、この前のこともあるし」
そっと顔を近づけてくるのに、頬を向ける。甘い香りと柔らかな感触が触れてすぐに離れた。
「あなたにも守りの札よ」
「ありがとう、リディ」
「僕も…」
リディノの後ろに立っていたハイラカがおずおずと近寄ってくる。ユーノがたじろいでいる間に素早く唇を頬に擦らせて、
「気をつけて」
優しい囁きを耳に吹き込んで、ハイラカは身を離した。相手の照れくさそうな気配がこちらまで伝わってきて、少し頬が熱くなる。
「あ、ありがとう」
口ごもりながら俯いた。
「んじゃ、俺も」
イルファが喜々としてアシャの方へ足を踏み出す。
「おい、よせ!」
アシャがぎょっとした顔で身を引いた。
「ちぇ」
「何がちぇ、だ、何が」
沈んでいた広間はわっと明るい笑い声に包まれた。そうしてみると、ミダス公配下も、『銀羽根』も、動乱の中、頼みの綱のアシャが出て行くのが、どれほど重い影を落としているのかよくわかる。
(なのに、アシャを止めない、誰も)
むしろ、止めたいが止められない、そういう気配だ。
「じゃ、行くか、ユーノ」
「うん」
「お気をつけられますように」
ミダス公のことばに頷いて、ユーノとアシャは広間を出て行った。
ラズーンの中央部を囲む白い内壁は、いつかの夜のように厳然として聳えたっていた。扉は固く閉ざされていて、誰一人の侵入も許さない。
「よし、お帰り」
アシャは馬の背を叩いて合図した。辺りに漂う異様な気に怯えたのか、ユーノとアシャを乗せて来た馬は、すぐに向きを変えて去っていく。
「……馬を使わないの?」
不思議に思って尋ねると、アシャは肩越しに視線を投げて苦笑した。
「馬で行けるような場所じゃない」
「さっき、どこへ行くか答えなかったね」
もう一度の問い、だが、アシャはなお応じない。そのまま扉に向き直って待つこと少し、やがて扉がきしみ音一つたてずにするすると開いていく。
「おいで」
アシャがこれほど問いに応じてくれないのは初めてだ。
(そんなに難しい問いをしているのか?)
それとも、それほど難しい仕事に出かけようとしているのか。
「…うん」
不安を抱えたまま、ユーノは先に立つアシャに続いて中に入った。
この前は、意識がないまま『氷の双宮』に来ていた。アシャはユーノの体の回復に、ラズーンにある特別な設備が必要だったのだ、と説明してくれたが、こうしてみると、特にそんな奇妙な建物がある様子はない。
人の気配があまりないのは、聖なる場所だからだろう。
眩いほどに白い石畳と、同じような白い石で造られた建物が、月光を反射しあって、辺りは壁の外よりかなり明るい。上からの光だけではなく、横から下から、淡い光が吹き上がり、押し寄せてくるようだ。
正面には、それこそ光そのもののような噴水がさらさらと音をたてている。というか、その音しか聞こえないほどだ。
静まり返った夜の静まり返った場所。
ユーノの視線は、噴水を巡る通路を辿って、少し先にある、鏡で映しあったようにそっくりな、向かい合った二つの建物に止まった。壁面には、逆巻き波打ち、今にもそこから溢れ出しそうな水流の浮き彫りで飾られている。
「あれが…『氷の双宮』なんだね?」
なんて、見事な浮き彫りだろう。
「生命の流れの象徴だ」
低く応じたアシャは、何か物思いにふけるように、じっとそれを見つめている。
(アシャ?)
わけのわからぬ不安が、再びユーノの心に過る。
(今日のアシャは変だ)
何かをずっと考えている。それが何か全く読めない。アシャの気持ちが表情からも姿からも読み取れない。
旅の空で、アシャがこういう気配になった時は、必ずラズーンに関わること、アシャの正体に関わることだった。だが、今はもう、アシャがラズーンの正統後継者であることは知れているし、ラズーンが何をしているのかも大方掴めている。アシャがこんな風に沈黙を守ろうとする奥に、一体何があると言うのだろう。
「どうした?」
聞きたい。
あなたがまだ抱えている秘密は一体何なのか、と。
(でも聞いてどうする)
脳裏を掠めたのはリディノがアシャに唇を寄せる場面、ふと上げた視線に、アシャがまっすぐ自分を見つめていたと気づいてどぎまぎして、目を逸らせる。
「ちょっと緊張しちゃって…」
くすり、とアシャが笑った。
「行かないの?」
「行くよ」
ユーノの促しに微笑んだまま歩き出す。ユーノも慌てて後を付き従っていく。
白い石畳を踏んで行くと、その足音がわずかな反響を呼び起こす。
「静かだね」
「ああ」
それだけで、沈黙がまた続いた。
近くに見えた『氷の双宮』はかなり歩いてようやく辿り着けた。見上げる偉容、圧倒する雰囲気はないが、簡単に足を踏み入れることができる気配でもない。
どちらからともなく立ち止まり、ユーノとアシャは見つめあった。
「…じゃあ」
「ああ」
「気をつけてね」
「わかっている」
素っ気ないアシャのことばに諦めて背中を向け、ユーノは階段を上がった。
ここから先は柱廊で、まっすぐ進んで行けば、今は入り組んだ柱に隠れて見えない『太皇(スーグ)』の玉座の前に出るはずだった。
一本目の柱までゆっくりと歩いていった時、
「ユーノ」
「え?」
振り返ると、アシャが悪戯っぽい笑いを浮かべながら、階段を上がってきていた。
「何?」
何か話し忘れただろうか。それとも、さっきの問いに応えてくれる気になったのか。数歩戻ったユーノに、アシャは目を細めた。
「お前は守り札をくれないのか?」
「え…だって…」
一気に頬に血が昇った。
「レスファートだってイルファだって、アシャに上げなかっただろ?」
「お前な」
アシャはむっつりした顔になった。
「男からもらって、何が嬉しい」
「へええ?」
久しぶりにきけた軽口が嬉しくなって笑った。
「私を女だって認めてくれるの?」
「お前は女だよ。自覚がなさ過ぎるがな」
「……」
(急になんだ)
どきりとして口を噤んでしまった。慌ててうろたえたのを隠すように元気よく続ける。
「口がうまいんだから!」
「それに」
ユーノの混ぜ返しにアシャは少し笑みを消した。
「今度の旅には、少々守り札が欲しい」
「……危険な旅なの?」
「…ああ」
今度はちゃんと応じてくれた。
「わかった」
アシャが屈み込む。ユーノは少し伸び上がって目を閉じ、頬に唇を当てた。
(どうか無事で帰ってきて…)
「えっ」
突然、体にアシャの腕が回って目を見開いた。抵抗する間もなく、アシャ、と呼ぼうとした唇を塞がれる。もがこうとしたのを嫌というほど抱き締められ、体中が熱くなった。
(アシャ、何、一体)
体を竦めると腕が緩んだ。怯えさせたのを謝るかのように、そっと唇が解放される。瞬間、ユーノの体をある感覚が走った。
(あの時の、包まれた感覚と、似てる)
眠り続けた夢の中、ユーノを誰かが抱き締めてくれていたような気がしていた。どこへとも知れず落ち込んでいきそうな不安を、しっかりと抱えて守ってくれていた誰か。
(あれはまさか)
茫然として見上げるユーノを見下ろしていたアシャが、ふと笑み綻んだ。
「とっておきの守り札だな」
「っ、アシャっっ!」
(この人はどうしてこんな風に)
どこかが蕩けていきそうな熱を込めた声を出すんだろう。
そう感じた自分が何だかひどく恥ずかしくて、ユーノは思いつく限りの罵倒を並べようとした。
だがその時、どこから聞こえるというのでもない、孤管(クート)に似た音色の音律が漂ってきた。
(『太皇(スーグ)』!)
加熱していた頭が一気に冷める。同時に、自分を包んでいたアシャの腕がするりと解かれて、はっとして相手を振り仰いだ。
月光を浴びてきらきらと輝く金褐色の髪に縁取られた端整な顔、掠めていったのがレアナの優しく美しい微笑。
(ああ…そうだっけ…)
この人は、姉の想い人だったんだ。
(どうしていつも、忘れちゃう、のかな)
今更のように胸に沁みて、ユーノはそっと身を引いた。
「呼んでる……行かなきゃ」
「ああ」
アシャは引き止めることなく、両腕を広げた。
(やっぱり)
私のものじゃ、ないんだ。
「いってきます」
痛みが心に鮮烈な傷を刻み付ける。
ユーノはくるりと身を翻し、一歩、また一歩と、『氷の双宮』の中へ入り込んでいった。
0
あなたにおすすめの小説
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
わたしにしか懐かない龍神の子供(?)を拾いました~可愛いんで育てたいと思います
あきた
ファンタジー
明治大正風味のファンタジー恋愛もの。
化物みたいな能力を持ったせいでいじめられていたキイロは、強引に知らない家へ嫁入りすることに。
所が嫁入り先は火事だし、なんか子供を拾ってしまうしで、友人宅へ一旦避難。
親もいなさそうだし子供は私が育てようかな、どうせすぐに離縁されるだろうし。
そう呑気に考えていたキイロ、ところが嫁ぎ先の夫はキイロが行方不明で発狂寸前。
実は夫になる『薄氷の君』と呼ばれる銀髪の軍人、やんごとなき御家柄のしかも軍でも出世頭。
おまけに超美形。その彼はキイロに夢中。どうやら過去になにかあったようなのだが。
そしてその彼は、怒ったらとんでもない存在になってしまって。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
異世界転移物語
月夜
ファンタジー
このところ、日本各地で謎の地震が頻発していた。そんなある日、都内の大学に通う僕(田所健太)は、地震が起こったときのために、部屋で非常持出袋を整理していた。すると、突然、めまいに襲われ、次に気づいたときは、深い森の中に迷い込んでいたのだ……
『召喚ニートの異世界草原記』
KAORUwithAI
ファンタジー
ゲーム三昧の毎日を送る元ニート、佐々木二郎。
ある夜、三度目のゲームオーバーで眠りに落ちた彼が目を覚ますと、そこは見たこともない広大な草原だった。
剣と魔法が当たり前に存在する世界。だが二郎には、そのどちらの才能もない。
――代わりに与えられていたのは、**「自分が見た・聞いた・触れたことのあるものなら“召喚”できる」**という不思議な能力だった。
面倒なことはしたくない、楽をして生きたい。
そんな彼が、偶然出会ったのは――痩せた辺境・アセトン村でひとり生きる少女、レン。
「逃げて!」と叫ぶ彼女を前に、逃げようとした二郎の足は動かなかった。
昔の記憶が疼く。いじめられていたあの日、助けを求める自分を誰も救ってくれなかったあの光景。
……だから、今度は俺が――。
現代の知恵と召喚の力を武器に、ただの元ニートが異世界を駆け抜ける。
少女との出会いが、二郎を“召喚者”へと変えていく。
引きこもりの俺が、異世界で誰かを救う物語が始まる。
※こんな物も召喚して欲しいなって
言うのがあればリクエストして下さい。
出せるか分かりませんがやってみます。
「強くてニューゲーム」で異世界無限レベリング ~美少女勇者(3,077歳)、王子様に溺愛されながらレベリングし続けて魔王討伐を目指します!~
明治サブ🍆スニーカー大賞【金賞】受賞作家
ファンタジー
作家志望くずれの孫請けゲームプログラマ喪女26歳。デスマーチ明けの昼下がり、道路に飛び出した子供をかばってトラックに轢かれ、異世界転生することになった。
課せられた使命は魔王討伐!? 女神様から与えられたチートは、赤ちゃんから何度でもやり直せる「強くてニューゲーム!?」
強敵・災害・謀略・謀殺なんのその! 勝つまでレベリングすれば必ず勝つ!
やり直し系女勇者の長い永い戦いが、今始まる!!
本作の数千年後のお話、『アイテムボックス無双 ~何でも収納! 奥義・首狩りアイテムボックス!~』を連載中です!!
何卒御覧下さいませ!!
【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。
しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!?
助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、
「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。
幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。
ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく!
ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる