24 / 45
7.国境(3)
しおりを挟む
「え?」
ユーノはアシャのことばに振り返った。
モスの遠征隊との戦いから既に一週間以上たち、右肩の傷も、まだ剣を操れるまでは戻っていないが、日常生活に支障がないところまでは回復していた。
裏切り者コクラノの死体からは野戦部隊(シーガリオン)の衣服、鎧が剥ぎ取られ、名もない男としてスォーガの草原に葬られていた。もう一人、ジャルノンの方は野戦部隊(シーガリオン)から追放され、その後の消息は聞かなかったが、ああいう二重の裏切り者は、たとえモスを頼っていたとしても、碌な末路ではないだろうと思われた。
そして今、野戦部隊(シーガリオン)は、アシャ達三人を加え、再びラズーンへの帰還の旅に出ようとしていた。
「お前の傷がもう少し落ち着くまで言わないでおこうと思ったんだが、レスファートが…」
続くことばにユーノは大きく目を見開く。
「レスが…反応しない?」
「たぶん、星の剣士(ニスフェル)としてのお前の心象を読んで、そこに自分がいないことに衝撃を受けたんだと思うが」
みなまで聞かず、ユーノは天幕(カサン)を飛び出した。
「よう、星の剣士(ニスフェル)!」「もういいのか?」
野戦部隊(シーガリオン)の面々の呼びかけにも頷くだけで応じ、イルファとレスファートが寝起きしている天幕(カサン)に飛び込む。
「イルファ!」
「おう、ユーノ、傷はもう」
「レスは?!」
「ああ…」
イルファはやや疲れた顔で頷いた。
「何とかしてくれ。俺の方が堪える」
「どこにいるの?」
「一人になりたいらしくて、大抵は草地に出てるが」
再びユーノはイルファの天幕(カサン)を飛び出す。
草地、とは、野戦部隊(シーガリオン)の野営場所から少し離れた、赤褐色の草はらのことだ。
(いくらモスを撃退したからって)
子ども一人放置しておくものじゃないだろう。
苛立ちながら周囲を見渡し、声を上げる。
「レス!」
一渡り眺めた草地に少年の姿はない。
「レス! どこにいるんだ?!」
「…」
ふ、とどこかで気配が動いた感じがして、口を噤んで感覚を研ぎすませた。
さわさわと草が風に波打つ。弱い日差しが赤茶色の草原を淡く照らしている。
その草波を追っていた目をある一点で止めた。白銀の光がきらりと草の波間に輝いたのだ。
「レス? ……そっちへ行くよ?」
呼びかけながら、それでも怯えさせないように、一歩、また一歩と草を掻き分け進んでいく。案じたように、レスファートはすぐに立ち去らず、プラチナブロンドが風に煌めく光がみるみる間近になった。だが。
「レス…」
少年のすぐ側まで来て、ユーノはことばを失った。
レスファートは小柄な体に、野戦部隊(シーガリオン)の茶色の長衣を着ていた。子ども用というのはなかったのだが、手先の器用な者がレスファート用に余分の布で仕立ててくれたのだ。アシャやイルファは先のモス遠征隊との戦いの功を認められ、額帯(ネクト)を授けられていたが、レスファートは茶色と緑の紐を組み合わせた額飾りを巻いている。
そして、少年は、草の波の中、何をするでもなく、ぼんやりと膝を抱えて座っていた。
瞳の虚ろさはぞっとするほど、薄い色だけに余計に生気がないように見える。結んだ唇は笑みもせず、白い頬には微かな血の色が頼りなく浮かんでいるだけだ。
「レスファート?」
声をかけても、少年はユーノを振り向きもしなかった。
じっと前方、いやおそらくは、この世界ではない、何か遠いものを見つめている。
「レス」
手を伸ばし、ユーノはそっと少年の肩に触れた。
だが、やはりレスファートの反応はない。ユーノの手を払いのける仕草はないが、それを受け入れる様子もない。
「レス…」
熱く苦いものが湧き上がってきて、ユーノは跪いてそっとレスファートの肩を引き寄せ抱き締めた。
「ごめん……レス…」
謝っても少年は身動き一つしなかった。抱かれたまま、人形のように無言で身を委ねている。自分がこれから何をされようと、どういうことになろうと全く関心がない、その無関心さにぞっとする。
「レス…」
(どうしよう)
自分が愚かな夢に漂っている間に、繊細な心をここまで砕いてしまった。
(どうしよう)
苦しくて哀しくて、眉を寄せ唇を噛む。
「ユーノ………ユーノ!」
アシャの声が響いて、ユーノは滲んで来た涙を飲み下し、立ち上がった。
「ここだよ、アシャ」
「食事だぞ」
「わかった。お腹減ったな」
強いて元気に笑ってみせ、ユーノは頷いた。再びしゃがんで、レスファートに囁きかける。
「レス、ご飯だって。一緒に行こう」
「……」
「レス」
答えぬ少年の手を握り、そろそろと引いた。一瞬、拒むような抵抗を見せたレスファートは、心の中の何かにふいに気づいたように唐突に立ち上がる。無表情のまま、ユーノに手を引かれて歩き出す。
心得て、アシャは草地の端で待っていてくれた。痛ましいという顔でユーノに肩を並べる。
「辛かったら、俺が代わるぞ」
「……ううん」
ユーノは首を振った。一瞬目を閉じ、胸を食い破る傷みを堪え、弱く笑ってアシャを見る。
「…ボクの責任だ。ボクが側にいるよ」
するりとアシャの手が頭に回り、ユーノの髪を優しくまさぐった。
「わかった。無理するな?」
「…うん…」
目を閉じ、その温かさに憩ったユーノは、ふいにぐいと太腿のあたりを押されて目を開いた。見ると、レスファートが彼女とアシャの間に潜り込んできて、二人を離そうとしている。相も変わらず無表情なままだが、唇を引き締め、やや緊張してるようだ。
「レス…そうか」
アシャが思いついたように顔を上げた。やや芝居がかった大袈裟さでレスファートを押しのけんばかりにユーノを引き寄せ、抱き締める。
「な、なに…っ」
かあっ、と顔に血が昇ってくるのに慌てて問いかけると、アシャはじっとレスファートを見下ろしている。
「見ろよ」
「え…あ…レス?」
それまで全く表情のなかったレスファートの瞳が、生き生きと潤んできつつあった。手を伸ばし、ユーノの長衣を掴み、引っ張りながら小さく唇を開く。
「や……っ……や…っ」
「お前がよほど深く刻みつけられてるんだ」
アシャが静かに呟いた。
「俺がお前を奪っていくと思ってるのさ」
「レス…」
「さっき、お前がレスの手を引いてきたから、もしかしたらと思ったんだ。何せ、これまでイルファからさえ逃げていたからな」
「やあ…っ……やっ…」
レスファートはぽろぽろと涙をこぼしながら、赤ん坊の片言のように繰り返した。ユーノの長衣をしっかり握り、渾身の力で引っ張っている。表情が次第に切羽詰まった怯えたようなものになってくるのに、ユーノは急いでアシャから離れた。
「あ…っ」
勢い余ってよろけ、うろたえたように手を伸ばしたレスファートを思い切り抱き締めてやる。そのユーノの首にぎゅっとしがみつき、レスファートは小さくしゃくり上げ始めた。
「えっ……えっ……や……やぁっ……」
「大丈夫だよ、レス」
しがみついて泣き続けるレスファート、その温かみが愛おしく切なく、自分もまた泣きそうになりながら、ユーノは繰り返し頷いた。
「もう、どこへも行かない。ずっとここにいるから」
レスファートはそれから以後、片時もユーノの側を離れなくなった。食事の時も、移動するにも、ユーノの長衣を片手で握ってくっつき回る。
「どうなってんだ、ありゃ」
小さな器に入れた食べ物を吹いて冷ましてやったユーノが、一さじ、また一さじとレスファートに食べさせてやるのに、イルファがぼやく。
「あれじゃ、まるっきり赤ん坊だぜ」
「今のところは、それでいいんだ」
アシャは考え込んだ声になっている。
「レスは心の拠り所を失ってしまった。自分がどこにいるのか、わからなくなっている。ああやってユーノと接触することで、ちょっとでも心が開いてくれるなら、それに越したことはない」
「へえ、ややこしいな」
イルファが溜め息をついた。
「まあ、確かに前よりは今の方がましか」
「レス、あーん」
「あー…」
二人の会話を耳に、ユーノは次の一さじを開いたレスファートの口に入れてやる。
時間はかかるだろう、だが前のようにレスファートが笑うなら、ましてやそれが自分のせいなのだから、どれほど時間がかかっても構わない。幸い、野戦部隊(シーガリオン)と同道するなら、カザドや『運命(リマイン)』もそうおいそれと手を出さないだろうし、ラズーンへの道案内も得られているのだから、焦る必要はない。
「んむ」
「しっかり噛んで…って、ほら、レス」
口の回りについた食べかすに苦笑して、ユーノは指を伸ばす。セアラでもこんなことはしてやらなかった。もし、子どもが産まれたら、こんな感覚なのだろうか。自分の与える一さじをもぐもぐと含む唇も、一所懸命にこちらを見つめている瞳も、このままずっと食べさせていてもいいぐらい愛おしい。
「……」
ふい、とレスファートは口を動かすのを止めて、小首を傾げた。ユーノを見つめる瞳の奥に、一瞬もがくような苛立たしげな波が動いた、と見えた。
「もう一口…いらないのか?」
「……」
レスファートは無言で頷き、いきなりぴったりとユーノに身を寄せてきた。膝にしがみつくようにくっついているのに、なお不安なように小さな両手でユーノの長衣をきつく握りしめる。
ここ数日、時折こんな様子がある。
それは何かを思い出そうとしかけて、その思い出すことに伴う気持ちの揺れを何とかやり過ごそうとするような仕草だ。
まるでちょっと前の私だよな、そう苦笑しかけて、ユーノは顔を引き締める。
(ことばがでないな)
器を置き、そっとレスファートの頭を撫でる。始めの頃は触れるたびごとに体を強張らせていたのだが、最近はユーノがレスファートのどこに触れようが、任せ切ったように身動き一つしない。
心は緩やかに開かれている、進歩は進歩だ。進歩は進歩なのだが。
(このままってことは、ないよな)
ずきりと胸が痛んだ。
甘えん坊だけど、元気一杯はしゃいでいたレスファートが脳裏に浮かぶ。パチッ、と鋭い音をたてて爆ぜた炎に、日差しを浴びて満面の笑みのレスファートが重なる。
(それほど……私が必要だったの、レス…?)
心の中で囁いて、レスファートの髪を手櫛で梳いた。気持ち良さそうに目を閉じているレスファートの指が、次第に緩んでくる。ふっとレスファートが目を開けた。ユーノがそこにいるのを確かめると、再び眠そうに目を閉じる。
(あ)
その唇がほのかに笑んだのに、慌てて顔を上げた。
(アシャ!)
「ん?」
じっと彼女を見守っていたらしいアシャが気づいて、足音を忍ばせ近づいてくる。そっと背後から覗き込んでくるのに、ほっとしながら告げる。
「今ね、レスが笑ったよ」
「そうか」
「うん…にこって、ほんの少し…」
「ああ」
「大丈夫だよね、少しずつ、戻ってくるよね…」
小声で話しながら、ついつい目頭が熱くなってくる。
「元のレスに…戻ってくれる…よね…?」
「…もう少しだな」
アシャが低い声で囁き返してくる。
「後はきっかけだ」
「うん……野戦部隊(シーガリオン)の行程、遅れてるんだろ…? ……ごめん、ボクのせいで」
「気にするな」
ぽん、と温かな掌が頭に載った。
「それより、レスを天幕(カサン)に運ぼうか。このままでは寝冷えする」
「頼むよ。もう寝入ってるから」
「よし」
アシャがそっとレスファートを抱き上げ、天幕(カサン)へ連れていく。後に従ったユーノは、レスの笑顔に広がった安堵で胸が一杯で、背後でぶつくさ唸ったイルファの声は聞き取れない。
「…気のせいか、夫婦に見えるぞ。気のせいだよな? ええ? 俺の気のせいだよな?」
ユーノはアシャのことばに振り返った。
モスの遠征隊との戦いから既に一週間以上たち、右肩の傷も、まだ剣を操れるまでは戻っていないが、日常生活に支障がないところまでは回復していた。
裏切り者コクラノの死体からは野戦部隊(シーガリオン)の衣服、鎧が剥ぎ取られ、名もない男としてスォーガの草原に葬られていた。もう一人、ジャルノンの方は野戦部隊(シーガリオン)から追放され、その後の消息は聞かなかったが、ああいう二重の裏切り者は、たとえモスを頼っていたとしても、碌な末路ではないだろうと思われた。
そして今、野戦部隊(シーガリオン)は、アシャ達三人を加え、再びラズーンへの帰還の旅に出ようとしていた。
「お前の傷がもう少し落ち着くまで言わないでおこうと思ったんだが、レスファートが…」
続くことばにユーノは大きく目を見開く。
「レスが…反応しない?」
「たぶん、星の剣士(ニスフェル)としてのお前の心象を読んで、そこに自分がいないことに衝撃を受けたんだと思うが」
みなまで聞かず、ユーノは天幕(カサン)を飛び出した。
「よう、星の剣士(ニスフェル)!」「もういいのか?」
野戦部隊(シーガリオン)の面々の呼びかけにも頷くだけで応じ、イルファとレスファートが寝起きしている天幕(カサン)に飛び込む。
「イルファ!」
「おう、ユーノ、傷はもう」
「レスは?!」
「ああ…」
イルファはやや疲れた顔で頷いた。
「何とかしてくれ。俺の方が堪える」
「どこにいるの?」
「一人になりたいらしくて、大抵は草地に出てるが」
再びユーノはイルファの天幕(カサン)を飛び出す。
草地、とは、野戦部隊(シーガリオン)の野営場所から少し離れた、赤褐色の草はらのことだ。
(いくらモスを撃退したからって)
子ども一人放置しておくものじゃないだろう。
苛立ちながら周囲を見渡し、声を上げる。
「レス!」
一渡り眺めた草地に少年の姿はない。
「レス! どこにいるんだ?!」
「…」
ふ、とどこかで気配が動いた感じがして、口を噤んで感覚を研ぎすませた。
さわさわと草が風に波打つ。弱い日差しが赤茶色の草原を淡く照らしている。
その草波を追っていた目をある一点で止めた。白銀の光がきらりと草の波間に輝いたのだ。
「レス? ……そっちへ行くよ?」
呼びかけながら、それでも怯えさせないように、一歩、また一歩と草を掻き分け進んでいく。案じたように、レスファートはすぐに立ち去らず、プラチナブロンドが風に煌めく光がみるみる間近になった。だが。
「レス…」
少年のすぐ側まで来て、ユーノはことばを失った。
レスファートは小柄な体に、野戦部隊(シーガリオン)の茶色の長衣を着ていた。子ども用というのはなかったのだが、手先の器用な者がレスファート用に余分の布で仕立ててくれたのだ。アシャやイルファは先のモス遠征隊との戦いの功を認められ、額帯(ネクト)を授けられていたが、レスファートは茶色と緑の紐を組み合わせた額飾りを巻いている。
そして、少年は、草の波の中、何をするでもなく、ぼんやりと膝を抱えて座っていた。
瞳の虚ろさはぞっとするほど、薄い色だけに余計に生気がないように見える。結んだ唇は笑みもせず、白い頬には微かな血の色が頼りなく浮かんでいるだけだ。
「レスファート?」
声をかけても、少年はユーノを振り向きもしなかった。
じっと前方、いやおそらくは、この世界ではない、何か遠いものを見つめている。
「レス」
手を伸ばし、ユーノはそっと少年の肩に触れた。
だが、やはりレスファートの反応はない。ユーノの手を払いのける仕草はないが、それを受け入れる様子もない。
「レス…」
熱く苦いものが湧き上がってきて、ユーノは跪いてそっとレスファートの肩を引き寄せ抱き締めた。
「ごめん……レス…」
謝っても少年は身動き一つしなかった。抱かれたまま、人形のように無言で身を委ねている。自分がこれから何をされようと、どういうことになろうと全く関心がない、その無関心さにぞっとする。
「レス…」
(どうしよう)
自分が愚かな夢に漂っている間に、繊細な心をここまで砕いてしまった。
(どうしよう)
苦しくて哀しくて、眉を寄せ唇を噛む。
「ユーノ………ユーノ!」
アシャの声が響いて、ユーノは滲んで来た涙を飲み下し、立ち上がった。
「ここだよ、アシャ」
「食事だぞ」
「わかった。お腹減ったな」
強いて元気に笑ってみせ、ユーノは頷いた。再びしゃがんで、レスファートに囁きかける。
「レス、ご飯だって。一緒に行こう」
「……」
「レス」
答えぬ少年の手を握り、そろそろと引いた。一瞬、拒むような抵抗を見せたレスファートは、心の中の何かにふいに気づいたように唐突に立ち上がる。無表情のまま、ユーノに手を引かれて歩き出す。
心得て、アシャは草地の端で待っていてくれた。痛ましいという顔でユーノに肩を並べる。
「辛かったら、俺が代わるぞ」
「……ううん」
ユーノは首を振った。一瞬目を閉じ、胸を食い破る傷みを堪え、弱く笑ってアシャを見る。
「…ボクの責任だ。ボクが側にいるよ」
するりとアシャの手が頭に回り、ユーノの髪を優しくまさぐった。
「わかった。無理するな?」
「…うん…」
目を閉じ、その温かさに憩ったユーノは、ふいにぐいと太腿のあたりを押されて目を開いた。見ると、レスファートが彼女とアシャの間に潜り込んできて、二人を離そうとしている。相も変わらず無表情なままだが、唇を引き締め、やや緊張してるようだ。
「レス…そうか」
アシャが思いついたように顔を上げた。やや芝居がかった大袈裟さでレスファートを押しのけんばかりにユーノを引き寄せ、抱き締める。
「な、なに…っ」
かあっ、と顔に血が昇ってくるのに慌てて問いかけると、アシャはじっとレスファートを見下ろしている。
「見ろよ」
「え…あ…レス?」
それまで全く表情のなかったレスファートの瞳が、生き生きと潤んできつつあった。手を伸ばし、ユーノの長衣を掴み、引っ張りながら小さく唇を開く。
「や……っ……や…っ」
「お前がよほど深く刻みつけられてるんだ」
アシャが静かに呟いた。
「俺がお前を奪っていくと思ってるのさ」
「レス…」
「さっき、お前がレスの手を引いてきたから、もしかしたらと思ったんだ。何せ、これまでイルファからさえ逃げていたからな」
「やあ…っ……やっ…」
レスファートはぽろぽろと涙をこぼしながら、赤ん坊の片言のように繰り返した。ユーノの長衣をしっかり握り、渾身の力で引っ張っている。表情が次第に切羽詰まった怯えたようなものになってくるのに、ユーノは急いでアシャから離れた。
「あ…っ」
勢い余ってよろけ、うろたえたように手を伸ばしたレスファートを思い切り抱き締めてやる。そのユーノの首にぎゅっとしがみつき、レスファートは小さくしゃくり上げ始めた。
「えっ……えっ……や……やぁっ……」
「大丈夫だよ、レス」
しがみついて泣き続けるレスファート、その温かみが愛おしく切なく、自分もまた泣きそうになりながら、ユーノは繰り返し頷いた。
「もう、どこへも行かない。ずっとここにいるから」
レスファートはそれから以後、片時もユーノの側を離れなくなった。食事の時も、移動するにも、ユーノの長衣を片手で握ってくっつき回る。
「どうなってんだ、ありゃ」
小さな器に入れた食べ物を吹いて冷ましてやったユーノが、一さじ、また一さじとレスファートに食べさせてやるのに、イルファがぼやく。
「あれじゃ、まるっきり赤ん坊だぜ」
「今のところは、それでいいんだ」
アシャは考え込んだ声になっている。
「レスは心の拠り所を失ってしまった。自分がどこにいるのか、わからなくなっている。ああやってユーノと接触することで、ちょっとでも心が開いてくれるなら、それに越したことはない」
「へえ、ややこしいな」
イルファが溜め息をついた。
「まあ、確かに前よりは今の方がましか」
「レス、あーん」
「あー…」
二人の会話を耳に、ユーノは次の一さじを開いたレスファートの口に入れてやる。
時間はかかるだろう、だが前のようにレスファートが笑うなら、ましてやそれが自分のせいなのだから、どれほど時間がかかっても構わない。幸い、野戦部隊(シーガリオン)と同道するなら、カザドや『運命(リマイン)』もそうおいそれと手を出さないだろうし、ラズーンへの道案内も得られているのだから、焦る必要はない。
「んむ」
「しっかり噛んで…って、ほら、レス」
口の回りについた食べかすに苦笑して、ユーノは指を伸ばす。セアラでもこんなことはしてやらなかった。もし、子どもが産まれたら、こんな感覚なのだろうか。自分の与える一さじをもぐもぐと含む唇も、一所懸命にこちらを見つめている瞳も、このままずっと食べさせていてもいいぐらい愛おしい。
「……」
ふい、とレスファートは口を動かすのを止めて、小首を傾げた。ユーノを見つめる瞳の奥に、一瞬もがくような苛立たしげな波が動いた、と見えた。
「もう一口…いらないのか?」
「……」
レスファートは無言で頷き、いきなりぴったりとユーノに身を寄せてきた。膝にしがみつくようにくっついているのに、なお不安なように小さな両手でユーノの長衣をきつく握りしめる。
ここ数日、時折こんな様子がある。
それは何かを思い出そうとしかけて、その思い出すことに伴う気持ちの揺れを何とかやり過ごそうとするような仕草だ。
まるでちょっと前の私だよな、そう苦笑しかけて、ユーノは顔を引き締める。
(ことばがでないな)
器を置き、そっとレスファートの頭を撫でる。始めの頃は触れるたびごとに体を強張らせていたのだが、最近はユーノがレスファートのどこに触れようが、任せ切ったように身動き一つしない。
心は緩やかに開かれている、進歩は進歩だ。進歩は進歩なのだが。
(このままってことは、ないよな)
ずきりと胸が痛んだ。
甘えん坊だけど、元気一杯はしゃいでいたレスファートが脳裏に浮かぶ。パチッ、と鋭い音をたてて爆ぜた炎に、日差しを浴びて満面の笑みのレスファートが重なる。
(それほど……私が必要だったの、レス…?)
心の中で囁いて、レスファートの髪を手櫛で梳いた。気持ち良さそうに目を閉じているレスファートの指が、次第に緩んでくる。ふっとレスファートが目を開けた。ユーノがそこにいるのを確かめると、再び眠そうに目を閉じる。
(あ)
その唇がほのかに笑んだのに、慌てて顔を上げた。
(アシャ!)
「ん?」
じっと彼女を見守っていたらしいアシャが気づいて、足音を忍ばせ近づいてくる。そっと背後から覗き込んでくるのに、ほっとしながら告げる。
「今ね、レスが笑ったよ」
「そうか」
「うん…にこって、ほんの少し…」
「ああ」
「大丈夫だよね、少しずつ、戻ってくるよね…」
小声で話しながら、ついつい目頭が熱くなってくる。
「元のレスに…戻ってくれる…よね…?」
「…もう少しだな」
アシャが低い声で囁き返してくる。
「後はきっかけだ」
「うん……野戦部隊(シーガリオン)の行程、遅れてるんだろ…? ……ごめん、ボクのせいで」
「気にするな」
ぽん、と温かな掌が頭に載った。
「それより、レスを天幕(カサン)に運ぼうか。このままでは寝冷えする」
「頼むよ。もう寝入ってるから」
「よし」
アシャがそっとレスファートを抱き上げ、天幕(カサン)へ連れていく。後に従ったユーノは、レスの笑顔に広がった安堵で胸が一杯で、背後でぶつくさ唸ったイルファの声は聞き取れない。
「…気のせいか、夫婦に見えるぞ。気のせいだよな? ええ? 俺の気のせいだよな?」
0
あなたにおすすめの小説
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
わたしにしか懐かない龍神の子供(?)を拾いました~可愛いんで育てたいと思います
あきた
ファンタジー
明治大正風味のファンタジー恋愛もの。
化物みたいな能力を持ったせいでいじめられていたキイロは、強引に知らない家へ嫁入りすることに。
所が嫁入り先は火事だし、なんか子供を拾ってしまうしで、友人宅へ一旦避難。
親もいなさそうだし子供は私が育てようかな、どうせすぐに離縁されるだろうし。
そう呑気に考えていたキイロ、ところが嫁ぎ先の夫はキイロが行方不明で発狂寸前。
実は夫になる『薄氷の君』と呼ばれる銀髪の軍人、やんごとなき御家柄のしかも軍でも出世頭。
おまけに超美形。その彼はキイロに夢中。どうやら過去になにかあったようなのだが。
そしてその彼は、怒ったらとんでもない存在になってしまって。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
異世界転移物語
月夜
ファンタジー
このところ、日本各地で謎の地震が頻発していた。そんなある日、都内の大学に通う僕(田所健太)は、地震が起こったときのために、部屋で非常持出袋を整理していた。すると、突然、めまいに襲われ、次に気づいたときは、深い森の中に迷い込んでいたのだ……
『召喚ニートの異世界草原記』
KAORUwithAI
ファンタジー
ゲーム三昧の毎日を送る元ニート、佐々木二郎。
ある夜、三度目のゲームオーバーで眠りに落ちた彼が目を覚ますと、そこは見たこともない広大な草原だった。
剣と魔法が当たり前に存在する世界。だが二郎には、そのどちらの才能もない。
――代わりに与えられていたのは、**「自分が見た・聞いた・触れたことのあるものなら“召喚”できる」**という不思議な能力だった。
面倒なことはしたくない、楽をして生きたい。
そんな彼が、偶然出会ったのは――痩せた辺境・アセトン村でひとり生きる少女、レン。
「逃げて!」と叫ぶ彼女を前に、逃げようとした二郎の足は動かなかった。
昔の記憶が疼く。いじめられていたあの日、助けを求める自分を誰も救ってくれなかったあの光景。
……だから、今度は俺が――。
現代の知恵と召喚の力を武器に、ただの元ニートが異世界を駆け抜ける。
少女との出会いが、二郎を“召喚者”へと変えていく。
引きこもりの俺が、異世界で誰かを救う物語が始まる。
※こんな物も召喚して欲しいなって
言うのがあればリクエストして下さい。
出せるか分かりませんがやってみます。
「強くてニューゲーム」で異世界無限レベリング ~美少女勇者(3,077歳)、王子様に溺愛されながらレベリングし続けて魔王討伐を目指します!~
明治サブ🍆スニーカー大賞【金賞】受賞作家
ファンタジー
作家志望くずれの孫請けゲームプログラマ喪女26歳。デスマーチ明けの昼下がり、道路に飛び出した子供をかばってトラックに轢かれ、異世界転生することになった。
課せられた使命は魔王討伐!? 女神様から与えられたチートは、赤ちゃんから何度でもやり直せる「強くてニューゲーム!?」
強敵・災害・謀略・謀殺なんのその! 勝つまでレベリングすれば必ず勝つ!
やり直し系女勇者の長い永い戦いが、今始まる!!
本作の数千年後のお話、『アイテムボックス無双 ~何でも収納! 奥義・首狩りアイテムボックス!~』を連載中です!!
何卒御覧下さいませ!!
【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。
しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!?
助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、
「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。
幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。
ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく!
ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる