『ラズーン』第三部

segakiyui

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7.国境(4)

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 寝苦しい夜、寝苦しい闇。
「んん…」
 今一つ眠りに落ちることもできず、ユーノは片腕を枕にしているレスファートを見やる。温もりが、レスファートの小柄な体から広がってくる。
(子どもって……体温が高いんだな)
 前も同じようなことを思った、とぼんやり考えた。
 あれはいつ頃だっただろう、レアナのベッドに潜り込んで叱られたのは。夜の孤独に耐え切れず、そっと母親の元へ忍んでいった夜は。
 柔らかく刻まれる呼吸のリズム、乾いたスォーガの冷えた大地の上で、人の吐息はこれほどまでに温かい。
 温もりには、独特の甘さがあることを、ずっと忘れていた気がする。
(ううん……覚えていたら、私は今頃生きていない…)
 自室のベッドで一人凍えて、胸を抱いて泣きながら眠った夜があったからこそ、刺客はユーノを狙って部屋を襲った。レアナやミアナ、セアラ等を巻き添えにしなくて済んだのだ。
 長く重い夜、刺客の気配に身を竦めながらも剣を手元に引き寄せていたからこそ、今日まで生き抜けたのだ。傷ついても倒れても、絶対に生き延びると決意したいたからこそ、幾度もの危機を乗り越えられた。
(一人で……頑張ったから)
 今さら孤独やその夜の代償を求める気はなかったが、レスファートの温もりは胸を甘く締め付ける。レクスファの白亜城の中で、やはりレスファートとともに眠って、自分がどれほど凍えていたのか気づいた時のように。
 薄く開いていた目を閉じる。
(でも……ずっと……こうして一人……なんだろうなあ…)
 くすり、と笑った。残った片腕で目を覆う。
 一人で生き、一人で死ぬ。
 自分の生きる道がどれほど厳しいものなのか、重々わかっている。その道を共に歩ける人など、まずいない。
 もっと美しい娘だったら、誰か申し出てくれただろうか。もっと素直で優しい娘だったら? もっと賢く可愛らしい娘だったら? もっと……もっと。
(もっと、守りたいと思うような、娘であれば?)
「ふ…」
 それでも、夢見たことはあったのだ。誰か愛しい人のために、美しい花嫁衣装を身に着ける日を。
 ここまで傷だらけになった体では、もう遠い、遠い夢ではあったが。
 だから、覚悟はしている。
 この先も一人だ。
 これまで同様、一人で生きて、一人で死ぬ。
 おそらくは、誰も気づくことない荒野の果てで。
 今ここで関わり合っている人々は、幻のようなもの。
 けれど、その幻の、なんと温かく美しいことだろう。
(ひどいね…アシャ…)
 当てた腕の下から熱いものが流れ落ちた。
(誰がこんな運命を組んだんだろう。二度、あなたを好きになって、二度とも駄目だって思い知らされるなんて。一度で十分なのに……もう一度……あなたがレアナ姉さまのものだって、心に刻ませるなんて…)
 心が揺らいだせいだろうか。
 一瞬でも、アシャが自分にだけ微笑みかけてくれればいいと願ってしまったせいだろうか。だからこうして、その望みは全く愚かなことなのだと、改めて思い知らされるのだろうか。
(どうしてユカルを好きにならなかったのかな)
 そうすればこんな想いをすることはない。親切で優しいあの目を、辛そうに瞬かせることもなかった。
『いいよ』
 ユカルはそっと呟いた。
『こればっかりはどうしようもないんだ。それに…』
 続きは何だったのだろう。口にせず、そのままふいと、茶色のマントを翻して離れていってしまったけれど。
(どうしようもない……)
「はは…当たってるよ、ユカル」
 ユーノにできるのは、この焦がれる想いを封じ込めてしまうことだけだ。
(アシャ……アシャ…)
 唇を噛み、声を堪える。
(頑張れ)
 想いを封じろ。
(頑張れ)
 外に見せるな。
(がんばれ…)
 そうしなければ、側にさえ居られなくなる。
「ん…」
 レスファートが身動きして、慌てて涙を拭った。
「レス?」
「ん…ーノ…」
 レスファートは身悶えするように体を動かし、唐突に目を開けた。アクアマリンの瞳が真正面からユーノを見つめる。愛らしい顔立ちにほっとしたような安堵が浮かび、レスファートは両手を伸ばしてユーノの首にしがみついた。
「ユーノ…」
「どうしたの? ……汗びっしょりじゃないか」
 気づけば少年の体が熱っぽく濡れている。体調が悪いのかと覗き込む。
「怖い夢を見たんだ……ユーノがぼくを置き去りにしていってね……ぼく、一人で……ユーノはぼくのこと忘れちゃうの…」
「大丈夫だよ、レスを忘れやし……レス?!」
 笑って応じかけ、ユーノは跳ね起きた。
「レス、元に戻ったの?!」
「な、なに…?」
 レスファートはきょとんとしたまま座り込んでいる。
「元にもどる…? 何のこと?」
「レス!」
「きゃ」
 ぎゅっと抱き締められて、訳がわからぬように目を瞬いたが、そのうち嬉しそうに目を細めてユーノの頬ずりを受け止める。
「わかんないけど……ぼく、ユーノ大好き」
「うん…うん…私もレスが大好きだからね!」
 ちゅっ、ちゅっ、と思わずその頬にキスを降らせていると、くすぐったそうに肩を竦めていたレスファートも顔を寄せてきた。
「ぼくもー」
 甘えて頬をすり寄せ、小さな唇を当ててくるのは、全くいつもの通りだ。
「レス……よかった……っ」
 思わずにじんだ涙のまま、ユーノは抱きついてくるレスファートを強く強く抱き締め返した。

「しかしなあ……一時はどうなることかと思ったぜ」
「本当」
「ふん、だ」
 イルファとユーノの会話に、レスファートは小さく拗ねてみせた。
「イルファなんか、ハクジョーなんだから! ユーノはちゃんと側にいてくれたのに、イルファなんかぜんぜんっ、どっこにもっ、いなかったんだ」
 ヒストの前に乗せられた体をユーノの腕と腕の間に押し込み、レスファートが見上げてくる。邪気のない笑みを満面に広げて、甘えるようにユーノの腕にもたれた。
「おい、そいつぁ誤解だぜ!」
 イルファが不服そうに反論する。
「俺だって、ちゃんと居た! ユーノがどうしても添い寝を代わるって言うから、代わったんだぞ」
「ふーんだ、イルファの嘘つき!」
 びーっ、と舌を出して、レスファートは悪態をついた。
「嘘じゃないってば! おい、アシャ、何とか言ってくれ!」
「普段の行いが物を言うな」
「ほら!」
「あ、この! アシャ!」
「ははは…」
 イルファとレスファートのやり取りに、アシャは明るい笑い声を上げる。
 空はスォーガ特有の気流の澱んだような薄曇りだ。
 アシャ達を含む野戦部隊(シーガリオン)は、二日前に移動を始め、三日目の今日にはラズーンとスォーガの国境にかかろうとしていた。
(本当に良かった)
 ユーノは腕の間で楽しそうに笑うレスファートを見下ろしながら、しみじみ思う。あのままだったら、旅を続けていくのも辛かっただろう。それに何と言っても、レクスファの王達に申し訳が立たない。
 ふと頭を巡らせて、後方、シートスの平原竜(タロ)と並んで馬を進めてくるアシャを見る。野戦部隊(シーガリオン)の武骨な着衣を身に着けていても、その姿は目にしみるほど美しかった。
(アシャ…)
 心の中でそっと呼ぶと、まるでそれが聞こえたように、こちらを向いたアシャが淡く微笑んだ。
 心の底に微かな波紋が広がる。温かな、心を寛がせてくれるその笑みを、ずっと見つめていたいような気がして、ユーノは慌て気味に目を逸らせる。
 レスファートが元気になったのと、いよいよラズーンという想いが入り交じって重なり、ひどく感じやすくなっている。胸の内を浸すような、切ない甘さをじっくりと噛み締める。
(全て、元通り、だよね…?)
 記憶を失っていた間、アシャとひどく親しくしていたような気がした。かけがえのない長年の友人のように、何ためらうこともなく背中を預けて戦える安心、疲れ切った夜には柔らかな体温の側で、深く安らかな眠りを貪れる幸福。だがそれも、もうすぐ。
「ユーノ、見て!」
 ふいに、レスファートがはしゃいだ声を上げて伸び上がり、ユーノははっとして目を上げた。
(凄い…)
 そこには、頂上に雪を頂く峻険な山々があった。スォーガの赤茶けた草原を後方に、焦茶の土を踏みしめているユーノ達の少し前方から、まばらな緑の草が次第に多くなり、やがて一面、緑の野となる。その緑はセレドの穏やかな緑とは違って、何かはっとするほど鮮やかな色合いを含んでおり、彼方に広がっていく先で青みを帯び、そびえ立つ山の裾へと繋がっている。
 今の今まで重苦しく押さえつけるようにのしかかっていた灰色の空も、水分を含んだ気流が急速に上昇しているのか、山へ近づくに従って晴れ晴れとした青に変わっている。
 背後に青白い峰、そして前に広がる瑞々しく清冽な野、溢れんばかりの光と生命力に満ちた光景のほぼ中央に、今まで見たどんな都市よりも眩く光を跳ね返す、広大な白亜の都市があった。
 人が住まうというよりは、この世ならぬ特別な存在が祭られるような、都市全体が巨大な神殿でもあるようなその気配。
「ラズーン…」
 唐突にその理解が心に湧いた。
 おそらくは、これこそが、世界の統合府、性を持たぬ神々の住処であるラズーンに違いない。
「きれい……きれいだね! ユーノ!!」
 レスファートが感極まったように歓声を上げる。
「すげえな」
 ごくりとイルファが唾を呑み込む。
「…帰ってきたな」
 静かなアシャの声が響いて、ユーノはぎくりとした。
(そうか…アシャはここの住人だったんだ)
 では、ここで別れなのか、と胸苦しくなった。
(もう、ここで)
 ついに辿り着いたのだ。だから、ユーノとアシャの関係は繋がる理由を失ってしまう。
(もう、終わる)
 鋭く胸を刺すその想いに呼応するように、レアナの面影がユーノの心を過った。
(でも…姉さまのために)
 ユーノは少し眉を潜めて、目を伏せて唇を噛んだ。
(姉さまのために……『太皇(スーグ)』にお願いするんだ。アシャをお遣わし下さい、と。どんな代償がいるのかはわからないけど)
 『太皇(スーグ)』の許しさえ得られれば、レアナを愛しているアシャはセレドに降りてくれるだろう。そして、アシャさえいれば、セレドはまず安泰とみていい。
(アシャと姉さまが結婚して、セレドを守ってくれて)
 ユーノは必死に想像を重ねた。
 アシャがいるならカザドも動きを控えるだろう、何せラズーンと直接繋がる王だ。
(いつか世継ぎが生まれて)
 二人の子どもはきっと愛らしいだろう。どちらに多く似ているだろうか。今セレドには養育係はいない。セアラがそれに応じるとは思えないから、何ならユーノがその任を引き受けてもいい、でも。
(……その時、私…生きているのかな…)
 虚ろな笑みが唇に浮かぶ。
(生きて……いたい…)
 それがどれほど遠い望みか、ユーノにはわかっている。カザドが狙っている。『運命(リマイン)』が狙っている。ギヌアが狙っている。災い全てを引きずり込んで、もろとも闇に沈んでいくとも、ユーノ一人の生命ではとても賄い切れないだろう。
(でも、やらなきゃならない)
 ゆっくりと、しかし昂然と頭を上げたユーノの目に、白亜の都市はきらきらと眩い光を放っているように見えた。
 神々の里、ラズーン。
 全ての謎を含んで、なお沈黙するラズーン。
(よし、行け)
 心で自らに命じて、ユーノは静かにヒストを進め始めた。
 
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