『ラズーン』第三部

segakiyui

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8.ミダスの姫君(1)

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 白亜の都市に近づくに従って、ユーノは都市を包んでいる微妙な緊張感に気づいた。
「アシャ…」
「…」
 無言で頷くアシャの顔も、いつもの甘い面立ちはどこへやら、厳しい表情で前方を見つめている。視線に促されるように、ユーノも再び前方へ目を向けた。
 都市が真白く輝いて見えたわけはすぐわかった。都市の周囲をぐるりと白い石の城壁が取り囲んでいるのだ。どちらかというと守りに重点をおいた反り返った壁は、石を積んだとは思えないほど滑らかで、日の光を跳ね返しながらも妙に白々とした冷たさをたたえている。
 冷たい、氷の都市じみた印象を与える理由はもう一つあった。
 ユーノ達の目指している、おそらく都市の中央の門と思われるところが閉ざされているのだ。
「シートス!」
 アシャはふいに肩越しに振り返り、呼んだ。すぐさま、平原竜(タロ)を蹴立てて、シートスが近づいてくる。
「どう思う?」
 正面の門を見ながら、アシャは問いかけた。シートスが難しい顔になって、黒く短い髭をしごきながら答える。
「我々が出て来た時はここまではしていなかったんですが………これは明らかに臨戦体勢ですね」
「そうだな」
 アシャは紫の瞳を猛々しい色に染めた。
「俺が知っている限りでも、『黒の流れ(デーヤ)』の反乱以来だ」
 澄んだ青空から吹き下ろす風が、アシャの金褐色の髪を梳っていく。それを見るともなく見ていたユーノは、視界の端から一頭の馬が近づくのに気づいて、鋭く目を向けた。体の隅々に緊張が蘇る。無意識に左手を剣に滑らせながら、騎士の一頭に続く騎馬隊を凝視する。
「アシャ、あれは」
「ああ」
 シートス達も気づいたらしい。ユーノの視線を追うように頭を巡らせたが、アシャは微笑を零した。
「そうか。こっちはミダス公の分領地になるからな」
「とすると、あれはミダス公の?」
「ミダス公?」
 アシャのことばに、ユーノは改めて騎士達を見やる。
 騎士達はおよそ十騎ほどいるだろうか。屈強な体を白銀の鎧に包み、ラズーンの山の雪がかくやと思わせる白馬に跨がっている。片手には縦長の盾をかざし、兜に飾った銀色の羽根とともに煌めくような一群だ。
 その中の、どうやら頭領格らしい一人の青年だけは、白い布を一筋額に巻いているだけで、兜を着けていない。今しもぴたりと馬を止め、朗々と響く声で言い放った。
「そこにおられるのは、野戦部隊(シーガリオン)隊長シートス殿と、聖なる方、アシャ・ラズーンとお見受けいたしました。私達は、ラズーン四大公が一人、ミダス公の下に仕える『銀羽根』、物見(ユカル)の塔からお迎えに上がりました」
「物見(ユカル)…そうか」
 アシャはつい、と、白銀の騎士達の来た方向へ視線を投げて頷いた。
「御苦労!」
 シートスが同じように声を張り上げ、ゆっくりと、紅の房の槍を突き上げた。
「確かに我らは野戦部隊(シーガリオン)! 来られるがよい、『銀羽根』の諸君!」
「はっ」
 見事なまでに足並みを揃えて、『銀羽根』と呼ばれた一隊が近寄ってきた。栗毛の馬に跨がり、飾り気のない野戦部隊(シーガリオン)の装束を身に着けたアシャを、声をかけてきた男が眩そうに見つめる。
「よく御帰還なされました、聖なる方」
「よく見分けられたな」
「それはもちろん!」
 男は熱を込めて大きく頷き、周囲の視線に少し赤くなった。
「あなたほどの方が、他におられるわけはありません」
 深い尊敬を思わせる声で続け、馬上から飛び降りて深々と頭を下げ、片膝を突いた。後ろに居た騎士達が一糸乱れず、それを真似る。
「本当に、よく……御帰還なされました、アシャ・ラズーン」
「すまなかったな」
 アシャは生まれながらの皇族の持つ威厳を漂わせて、唇を笑ませた。
「あのまま、もうラズーンへは帰還されないとも伺っておりましたが…」
「帰るつもりはなかったが、妙なことになった」
 にやりと悪戯っぽい笑みになって、ユーノ達の方へ視線を投げる。
「『銀の王族』、セレドのユーノだ」
「それでは!」
 男ははっとしたように顔を上げた。
「ラズーンのことをお聞き及びでしたか」
「うむ…ラズーンの中央門が閉ざされているところを見ると…」
「はい、なりを潜めていた『運命(リマイン)』の跳梁は、今や『太皇(スーグ)』おわすラズーンそのものに迫っております。中央門は閉ざされ、出入りは我ら『銀羽根』、或いはアギャン公の『銅羽根』、ジーフォ公の『鉄羽根』、セシ公の『金羽根』など、大公方の『羽根』に守りを受けた者のみが、通行を許されております。それで、私達がお迎えに上がったのです」
「そうか…」
 アシャは険しい表情を強めたが、ユーノ、レスファート、イルファとそれぞれの顔を見ていって、最後にユーノに目を止めた。ユーノの剣にかけている左手を見つめて眉を寄せ、男を振り返る。
「名前は?」
「はいっ」
 男は名高いアシャに尋ねられた喜びからだろうか、ぱっと瞳を輝かせて答えた。
「『銀羽根』のシャイラと申します。ミダス公より一隊を任せられている者です」
「わかった、シャイラ」
 にっこりと、おそらくはどんな女もここまで鮮やかには微笑めまいという笑顔を無造作に投げて、アシャはことばを継いだ。
「では、守りを頼もう」
「はっ! 命に代えましても!」
 シャイラは、再び深々と頭を下げると、急ぎ立ち上がって白馬に飛び乗った。


「開門!」
 シャイラが二度目を叫ぶ間もなかった。
 一足先に伝令を送っておいたということばに違わず、白く磨かれ、見事な彫りが施された金属の門は、ぎりぎりとねじ切られていくような音をたてて開いた。
「アシャ!」
「アシャ・ラズーン!!」
「聖なる方!」
「我らがアシャ!!」
「っっ…」
 門が開くと同時に、わああっという歓声がユーノ達を包み、一瞬その場に立ち竦む。
 門から大通りと思われる真っ白な石を敷き詰めた通りがまっすぐに伸びている。その道の両側に黒山のような人だかりがしていた。
 男も女も老いも若きも、まるで数々の栄誉を勝ち得た武将を出迎えるように、満面に笑みを浮かべ手を振って、口々にアシャの名を叫んでいる。着飾った娘達はラフレスらしい白い花を撒き、頬を染めてアシャの視線を捉えようとしている。男達は誇らしげに、そしてどこか妬ましげにアシャの名を呼び、側に居るシートス、シャイラ、ユーノ達に羨ましそうな視線を投げてくる。
「へえ……こいつぁ…」
 イルファは物珍しげに都の中を見回し、少しでも彼らに近づこうとして『銀羽根』に制される群衆を見て、今にも口笛を吹きそうだ。
「わあ…」
 華やかな催しには慣れているはずのレスファートさえ、さすがに声もなく、辺りの光景に目を奪われている。長かった旅の終わりが、こんな賑やかな形で迎えられることになろうとは、予想もしていなかったに違いない。
「……」
 だがユーノは、その華々しさに息を呑みながら、全く別のことに気をとられていた。
(何と言う熱狂)
 そっとアシャの方を盗み見る。
 そこには、セレドの付き人のアシャとも、また天幕(カサン)の下に寝そべる旅人のアシャとも、全く違う人間が居た。これほどの興奮を、情熱を、気負いなく受け入れる姿、その存在が多くの人々に望まれて来た者の自信をたたえる、ラズーンの第一正統後継者、アシャ・ラズーン。
 そこに居るのは、どれほどのボロを纏い、どれほど土に塗れようと、覆い隠されることのない高貴、世継ぎとしてのアシャの姿だった。
(これほど、ラズーンの人々に愛されているアシャが、本当にもう一度、この地を離れることなんてできるんだろうか)
 夜の色を含んだようだと表現される自分の目が、なお暗く翳ったのを意識する。
(そして、このアシャを、このラズーンから奪っていく代償は、どこまで求められるんだろう)
 自分の命など、秤にも載らないのではないか?
「ユーノ」
「!」
 声をかけられ、ぎくりとして我に返る。
 いつの間にか、隣に轡を並べていたアシャが、心配そうな表情でこちらを覗き込んでいるのに気づく。
「傷が痛むのか?」
「あ、ううん、ごめん、ちょっと」
 強いてにっこり笑ってみせる。
「びっくりしてたんだ。まさか、ラズーンでこんな歓迎を受けるとは思ってなかったから」
「いや…」
 道の向こうをちらっと見たアシャが、ちょっと困ったような笑みになる。
「これからだよ、歓迎は」
「え?」
「ほら、この辺りの領主、ミダス公だ」
 囁かれて、ユーノは前方へ目を移した。シャイラがユーノ達から離れて馬を走らせ、近づいていく相手を見つける。
 それは、色とりどりの糸で織った旗を先頭にした一行だった。
 旗には、緑地を主体として、白銀のクフィラが描かれている。
「ミダス公の紋章だ」
「ふうん」
 アシャの声に、その旗の後ろに続く一人の男に目を留める。
 首の辺りで切りそろえたプラチナがかった金の髪、薄緑の穏やかな瞳、年の頃は五十すぎと思われる温和な印象の男だ。襟が広がったブラウスに胴着、マントを身に付け、ゆったりとした動作でこちらに馬を進めてくる。周囲のざわめきから、ミダス公その人であるらしい。
 周囲の熱狂が次第に静まっていく。その中を堂々と進み続けて、ミダス公はユーノ達の前に馬を止めた。
「よく戻られましたな、アシャ・ラズーン」
「その称号は、私にとってはそろそろ照れくさいよ、ミダス公」
「滅相もない」
 ミダス公は穏やかに驚いてみせた。
「ラズーン動乱のこの時期に、あなたの名は輝かしい祈りです、アシャ・ラズーン。シャイラ、御苦労だったな」
「はい」
 シャイラは深く体を曲げ、名残惜しそうに向きを変えた。肩越しに振り返りつつも、『銀羽根』を従えて、再び中央門の外に戻っていく。
「話にききますと、長い旅をされたそうですね」
「ええ、まあ」
「さぞかし、お疲れでしょう。今宵ささやかな宴を張りますので、旅の疲れをお癒し下さい」
 ミダス公はユーノ達の方にも笑みを向けた。
「どうぞ、あなた方も。娘のリディノが喜びます」
「ありがとうございます」
 軽く会釈を返し、ユーノは微笑んだ。
「ミダス公、残念なことだが」
 シートスが遠慮がちに口を挟む。
「我ら野戦部隊(シーガリオン)はそうもしていられないのだ。ラズーン外縁に良からぬ企みが動き出しているのでな。明日か明後日には、再びラズーンを出る」
 ちらっとユカルがユーノを見たが、すぐにシートスに目を戻す。
「それは残念なことだ」
 ミダス公は鷹揚に頷いた。
「それでは、せめて、一夜二夜の宿を提供しよう」
「かたじけない」
「それでは、アシャ・ラズーン、こちらへ」
 ミダス公が向きを変えるのに、ユーノ達はようやく馬を進めた。


 陽はもう薄暗い闇に沈んでいた。
 ユーノ達はミダス公の屋敷の一室で様々な話を聞き、話をし、そして多少なりとも、この統合府について、この世界が今迎えようとしている事態について知識を得ていた。
 今は今夜の宴のために準備をしているところだ。
「どうぞ、こちらへ」
 侍女がユーノを導いていく。幾つかの回廊を巡ったところで立ち止まり、深く腰を曲げた。
「ここが湯殿でございます。何かお手伝いすることは…」
「いいよ、自分でやれる」
「わかりました。もし御用がございましたら、その戸口の花の細工をお押し下さい。すぐに参ります」
「ありがとう」
「では…」
 侍女は再び軽く腰を曲げ直し、元来た通路を戻っていく。
(どっちにせよ)
 ユーノは溜め息をついて向きを変え、湯殿の入り口を飾っている花の彫り物を見つめた。
(戻る時は呼ばなきゃな。とっても一人じゃ帰れそうにない)
 ミダス公はラズーン四大公の一人、いわば小領主だと聞いていたが、この屋敷の広さ大きさは、とてもセレド皇宮の比ではなかった。入り組んだ回廊があちこちの小部屋に繋がり、あるものは物見用の部屋、あるものはテラスへと突き出して終わっている。
 今更ながら、世界の大きさと、自分が生きていたセレドの小ささを感じる。
 湯殿の入り口を入ると、薄赤く煙ったような半透明の色の石板が互い違いにたてられていた。その間を擦り抜けていくと、こじんまりとした、だが嫌というほど手の込んだ造りの脱衣所に出る。
 ラフレスの花を象ったらしい衣類入れ、二人の乙女の像によって支えられている等身大の鏡、壁一面に浮き彫りが施されているのは言うに及ばす、天井まで続く柱にはびっしりと小さなライクの花が彫り込まれている。床はおそらく、一度浮き彫りを施した上に、透き通った水晶のような板を重ねてあるのだろう、足の下の方に複雑な模様が立体的に浮かび上がって見える。
「ふう…」
 隣から漂う甘い匂いと熱気に頬が熱くなる。急いでチュニックを脱ぎにかかって、つい右肩を強く擦り、眉をしかめる。傷は塞がっているものの、動かすのにはまだ傷みが残る。
『ユーノが女あ?!』
 唐突にイルファの素っ頓狂な声を思い出して、くすりと笑った。
 湯殿へ案内しようとした侍女が、ユーノだけを自分達と違う別のところに連れていこうとするのに、どうしてなんだと尋ねたのだ。アシャがきまり悪そうな顔で事情を説明しても、イルファはどうにも合点がいかないと首を捻り続けていた。
『ユーノが女かもしれないと思ったことはあるぞ、そりゃな。だが、あいつが女なら、俺だって女って可能性もあるかも知れんだろ? だがそれはあり得ないからな』
『…どういう理屈だ、それは』
『いいかげんに失礼なこというの、やめてよ!』
 訝しそうに眉を寄せたアシャときりきりしたレスファート、あげくには証拠を見せてみろと言い出しかねないイルファに、急いで引き上げてきたのだが。
(女、なんだよね、残念なことに)
 シートスの口調を真似て心で呟き、額帯(ネクト)を外す。
 星の剣士(ニスフェル)としての役目ももう終わりだ。本来の、もっとも苦手な『ユーナ』・セレディスの役を務めなければならない。
(ユーナ・セレディス、か)
 アシャがつい最近、ユーノのことをそう呼んだ。妙に生真面目な、不思議に熱っぽい目で見つめながら。
(アシャ)
 あれは何だったんだろう。
(もしかして)
 付き人としてとか、友人としてなら、あんな目をするだろうか。
(もしか、して…)
「ごめんなさい。アシャと一緒に来た人って」
「!」
 ふいに声がして、ぎくりとして振り返る。半透明の石板を透して深緑のドレスが動き、制止をかける間もなく、ひょいと石板の端から顔を出したのは、プラチナがかった金髪に、日差しに淡く透けそうな薄緑の目、白い肌にほんのりとした紅の唇の少女。
「何かお手伝い……きゃ…」
 あどけなく笑みかけたその顔が、一気に強張った。小さく上げてしまった悲鳴を恥じたように、口元に握った小さなこぶしをあてる。
「あ…」
 その目が自分の体の傷に注がれていると悟って、思わず顔が熱くなった。
「ご、ごめんなさい」
 少女は慌てて身を翻し、立ち去っていく。
 その足音を聞きながら、ユーノは次第に体中の力が抜けてくるのを感じた。のろのろと落とした目が、咄嗟に掴んだ片手の剣を見つける。
 もし、今の少女が刺客であったなら、ユーノは確実に左手で剣を抜き放ち、一刀のもとに切り捨てていたに違いない。
(私…)
 ぼんやりと目を上げる。自分の姿が鏡に映っている。ばさばさの短い髪、ぎらつくような黒の瞳、乾いた唇、片手に剣を持ち、腰布一枚の半裸の体には大小無数の白い傷痕がある。右肩には星形の大きく引き攣れたような傷痕。
「星の剣士(ニスフェル)、か」
 何と皮肉な呼び名だろう。
 そっと手を伸ばし、鏡に触れて、ユーノは淡く笑った。
(これじゃ確かに、怖がるのも無理ないや)
 疲労が一気に溢れ出す。
(可愛いひとだったのにな)
 金の髪、薄緑の目、あどけないおもむきの、だが、この配色はどこかで見たことがある。
(どこでだ?)
 ユーノは考えを巡らす。
(昼間だ……ミダス公…?)
「!」
 剣を降ろしかけてはっとした。入り口の方を慌てて振り返る。
 ミダス公の一人娘、リディノ・ミダスか。
(確か…同い年…)
 自分との間に、何と隔たりがあるものか。剣を手に荒くれるしか能のない娘と、愛らしいとまず思ってしまう少女と。
「…」
 胸の中に広がった靄を、首を振って払いのける。
(今はそんなことより考えなくてはならないことが一杯ある)
 剣を置き、腰布をとり、湯殿へ、これまた精緻な浮き彫りの施された入り口をくぐる。
 広々とした湯船は、他の部分とは対照的に、黒地にほのかに白い筋が入った石で作られていた。卵形になっていて、ややとがり気味の両端には、同じ石から彫り上げられたものらしいクフィラが一羽ずつ羽根を広げている。開いた鋭い嘴の間から、熱い清らかな湯が音をたてて、湯船の中へ落ちていた。これほどの湯をこれほど無尽蔵に用意して振舞える、ミダス公の力に驚く。
「あつ…」
 少し足先を浸し、小さく声を上げた。しゃがみ込んだ時にまた、右肩の筋肉を捻った。
(早く治さなきゃ)
 同じ場所を怪我し続けているから、治りが遅いのは感じている。だが、それだけではない、体の奥から見えない支配が届いているような気がする。
(怪我をしている部分を知らせるな)
 傷ついていると知らせるな。痛みがあると悟られるな。なぜなら、そこを攻められる。そこから崩される。そしてやがて、身動きできなくなっていく、傷ついた部分を癒しもしない、庇いもしない、むしろ晒して歩くようなことをして、なお繰り返し傷つけてしまうから。
(剣の罠)
 ゼランがユーノに植え込んだという、危険に自分を晒すような動き方は、こんなところにまで響いているのだろうか。
「…」
 唇を引き締め、右肩をそっと左手で覆った。
 傷にこんなふうに労るように触れるのは初めてかも知れない。でこぼこしてつるつるした奇妙な手触りを感じると、心のどこかが記憶を思い出して悲鳴を上げる。傷つけられた瞬間の恐怖、また傷つけられるかもしれないという不安、そしてさっきのリディノのようにただただ恐れられ、どれほど訴えようと誰にも伝わることのない苦痛を、扱いあぐねる脆い自分が剥き出しになって。
(そうか…)
 ふいに気づいた。
 ユーノが危険に飛び込むのは、ゼランの植え込んだ罠のためだけではなく、きっとそういう自分を見たくないからだ。恐怖と不安と苦痛に向き合えない自分に気づきたくないからだ。
 剣を握っていないと生きていくことさえできない、脆くて弱い自分を知りたくないからだ。
(アシャは…気づいてたのかな…)
 繰り返し、傷をきちんと治せと言われた、その裏には、強く雄々しい振舞いで突っ張りながら、その実、自分の弱さにも脆さにも向き合えない未熟さを読み取られていたからかも知れない。
(気づいていたよな……きっと)
 仮にもラズーンを継ぐ存在であったとしたら。それに。
(そりゃ…剣士としては…困るよな…)
 ましてや、自分が守らなくてはいけない相手で、しかも時に背中を預けなくてはならない存在だとしたら。
(……怖いよな……)
 きっと、アシャにとって、ユーノとの旅は本当に心身ともに負担だったはずだ。
(私ってほんと……子どもだよなあ………)
 そんな娘を、どうにかしようと思うはずもないだろうに。
「…」
 落ち込みながら湯に滑り込むと、湯に浮かべられたライクの、甘い独特の香りが中枢を柔らかく浸し、蕩けさせていくのを感じた。ゆっくりと体を伸ばし、首を仰け反らせ、もたれかかれるようになっている窪みに体を寄せる。そろそろと左手を外していきながら、無意識にしかめていた眉を緩めた。
「ふぅ……」
 意識して息を吐くと、体の緊張が解けた。腕が重く、体が重く、湯の中にやんわりと抱き取られている自分を感じる。
(こうやって、きっと、ずっと、見えないところで守られてきたんだろうなあ…)
 夜の闇を怖がっているくせに、わざわざそちらへ背中を向けて強がっている子どものユーノを、アシャが、イルファが、時にはレスファートでさえ、そっと支えてくれていたのだ。
(他に皆……一杯、いろんな人が守って……支えていてくれたんだ……きっと…)
 だからこれほど弱い自分でも、こうして今、生き永らえてこれたのだ。
(だから、何とかここまで辿り着けた)
 セレドを飛び出したとき、一人で何とか切り抜けていけると思っていた自分は、何と幼かったのだろう。何と視野が狭く、愚かだったのだろう。身近の敵、カザドを凌げているからと、ただそれだけで、生きる術も旅する知恵もないまま発っていたら、レクスファでさえ抜け切れなかったかも知れない。
(レスファートやイルファを巻き込み、どうなるかさえ考えないで)
 どれほどの命の重みを背負うのかも理解していないまま。
(そう、だよな…)
 額から流れる汗に目を閉じる。
(守ることなんて…わかってなかったんだ…)
 自分一人が守れない者に、他の誰が守れるのだろう。
(怖くて死にたくなくて生き延びたくて、ただただ必死に走ってきただけなんだ…)
 そうして駆け抜けている世界は、遥かに大きく遠く果てなく、様々なもので満ち溢れていて、ユーノ一人など幻のように呑み込んでしまいそうだ。
「小さい……なあ…」
 脳裏に、得たばかりの知識が湧き上がってくる。
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