『ラズーン』第三部

segakiyui

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9.刺客(3)

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「そう、遠くには行けなかったはずだ」
 アシャは机の上の地図を睨みつけた。
「あれからすぐにミダス公の領境に『銀羽根』を手配したが、まだどこからも連絡は来ていない」
「もう分領地を出ちまったんじゃないのか?」
「いや」
 イルファのことばに、アシャは首を振った。
「そんな暇はなかったはずだ。いくらギヌアだろうと、あれほど早くこっちが反応するとは思っていなかったに違いない」
「こっちにレスがいることを忘れてたんだな」
「能力を過小評価してたんだろう。……レスにユーノを探させる手も考えたが」
 アシャは唇を噛んだ。部屋の隅で丸まって眠っているレスファートに目をやるが、首を振りながら続ける。
「ユーノが瞬間に気を失うぐらいだ。ギヌアだったら、傷を抉り直すぐらいのことはやりかねない」
 ぎりぎりと体中を締め付けてくる痛みをしばし耐える。
「そいつは、まずいな、レスがもたん」
 イルファも難しい顔になった。
「ユーノ一人、それもあれだけ出血している人間を、そう簡単に移動させることはできない。まだ、ミダス公の領地から出ていないはずだ。領内中に緊急の告示が回っているから、おいそれとは動けないだろう」
「もし『銀羽根』の中に裏切り者がいたら?」
 イルファの問いは、アシャが何度も考えたものだ。
「可能性はあるが…」
 自分の唇が吊り上がるのがわかった。おかしくはない、楽しくもないのに零れるこの笑みは、縛られ遮られている昏い欲望が満たされるのを待っている、雌伏している獣の笑みだ。
「今夜は動けない。動いたとたんに、自分の命がなくなることぐらいわかっているだろう」
「ふ、ん…」
 机の火皿の灯が揺らめいて、不気味な影を部屋の壁に踊らせる。
「それに……おそらく、裏切り者は視察官(オペ)だ」
 苦いものを噛み潰す声になった。歯ぎしりしたくなる怒り、揺らぐ世界を同じように支え守っているはずの仲間が、こともあろうに、かけがえのない存在を卑劣な手口で奪い去ろうとしている。
「宙道(シノイ)の時に、そうじゃないかとは思っていたが」
「とすると、何か」
 イルファはラズーン全土を地図で眺めた。
「今、ラズーンに集まっている視察官(オペ)の中にそいつがいると?」
「ああ」
 アシャは目を細めた。
「ユーノを連れ出すに連れ出せず、どこかに押し込めて、自分は何食わぬ顔で別の屋敷に居るんだろう……そうしているだけで、ユーノは確実に死ぬからな」
 ユーノが死ぬ。
 考えたくないその状況を、己が易々と口にしているのに呆れるが、ことばにためらっているほど余裕はない。今必要なのは、的確な現状把握と残された時間の算定、その間に何をどうすれば、ユーノを生き延びさせられる策が打てるか考えることだけだ。
(もし、そいつを見つけたら)
 アシャは目を細めて、地図をゆっくり見渡した。
(何をしよう?)
 幸い、ここはアシャの本拠だ。全権限がアシャには与えられる。誰の何をどのように扱おうとも、正面からアシャを止められる者などいない。
「ふ…」
 小さく漏らした吐息に、イルファが何か言いたげに上目遣いにアシャを見る。
(もし、それが……ユーノの屍体を見つけた後だったとしたら)
 そいつは何かを考え何かを感じる人間であったことを後悔するような状況になるはずだ。
(俺に自制は期待するなよ?)
 誰にともなく嘲笑する。
 もっとも、今の状態では、ユーノが生きている間に見つけたとしても、そう待遇を変える気にならないが。
「…同情するな」
 ぼそり、とイルファが呟いた。
「ん?」
「ユーノを襲った奴に」
「…どういうことだ」
「おいおい、勘違いするなって」
 じろりと見返したアシャに、イルファがぱたぱたと両手を振る。
「お前がそれほど殺気だってるのを見るのは、初めてだってことだ」
「そうか?」
 イルファの目に浮かんだ恐れに、にっこり笑い返してみせる。さぞ、凄まじい笑みだったのだろう、珍しくイルファがぎくりと身を縮めた。
「だからだなあ…『そいつ』を俺に向けるなって…」
 ぶつぶつぼやきながら、小さく溜め息をつく。
 それには構わず、アシャは再び地図を眺める。
(動け)
 同じ視察官(オペ)の考えること、ユーノを連れて潜めそうな所を、今、片端から『銀羽根』にあたらせていた。それも、できるだけ派手に騒がしく、言い換えれば何か大事があったのだと周囲が噂するぐらいにやってのけろと命じている。
 ユーノがまだ生きている可能性があって、繰り返される捜索に次第に場所が絞られていき、見つかる可能性が大きくなっていけば、裏切り者は危険を冒してでもユーノを隠した場所に走るだろう。ユーノが見つかれば、彼女は裏切り者の顔を知っている。その口から破滅がもたらされるのは必至、何が何でもユーノにとどめを刺そうとするはずだ。
 全てを読み込み、アシャは万に一つの機会を待っている。牙を立てる瞬間に己の力を叩き込むべく、獲物が目の前に現れるまで静かに毛繕いしている野獣。
 首から背中の産毛が勝手に立ち上がっていくような感覚、静謐で残忍な心がふつふつと満ちていく。
(動け)
 包囲網が狭まっていく。その場しのぎの発想の愚かさが、じりじりと襲撃者の心を火あぶりにしていくだろう。
(うろたえて、動け)
 その時が、お前の最後だ。
「!」
 ふいに屋敷の端がざわめいた。
 救いを得たようにイルファが跳ね起き、アシャが戸口を振り返る。
「アシャ・ラズーン!」
 突然開け放たれた扉から、はあはあと息を切らせて、『銀羽根』の一人が飛び込んできた。
「わかりましたっ」
「誰だ」
「セータ・ルムです!」
 駆け通しに駆けてきたのだろう、今にも頽れそうな体を膝に手をついて支え、
「自宅近くの、古い空き家に急いで駆け込んでいくのを見たとのことです」
 知らされた場所は、ミダス公の花苑からそれほど離れていない。何より、手配した捜索は領域周辺からミダス公邸に収束していく形の包囲、セータが駆け込んでいった空き家は、まだ捜索の手が届いていないはずだ。
 そこへわざわざ仲間から離れて単独で駆け込む何があったのか、アシャの命に背いてまで。
 理由は火を見るより明らかだ。
「イルファ!」
「おう!」
 ほっとしたようにイルファが剣を掴む。その側を擦り抜け、ようやく息が整った『銀羽根』に続いて、アシャはイルファと共に部屋を飛び出した。


「悪いな…」
「……」
 空き家の屋根の破れ目から差し込む月光に、一枚の黒い布になったような人影の低い掠れ声を、ユーノは夢うつつで聞いていた。
「はっ…はっ…はっ…」
 荒い呼吸を続けながら、何とか相手の言っていることを理解しようとする。気持ち悪い汗が、体中をぐっしょり濡れさせている。剣に刺し貫かれた右肩は麻痺して既に感覚はなかったが、汗とは違う生暖かいものが絶え間なく流れ続けているのはうすぼんやりと感じていた。
「本当は、もう少し生きられるはずだったんだが……。ギヌア様が殺してはならんとおっしゃっていたから、このまま本拠へ連れていく予定だったんだ」
「は…、うっ」
 乱れる呼吸に額から汗が流れ落ちていく。
「ギヌア様は先に戻られたから、あの包囲にはひっかかってはおらんよ」
 男は含み笑いをしてユーノを覗き込んだ。
「お前は無駄死にと言う訳さ」
(裏切り…者…)
 呼吸が苦しく、ことばにならない。必死に空気を求めるのに、いつまでたっても息苦しさはなくならなかった。
 この空き家に運び込まれ、気がついてからずっとそうだ。
 そればかりか、息苦しさはじわじわと増していって、呼吸を続けることさえ苦痛になりつつあった。息苦しさから逃れようと喘ぐ。喘ぐことが苦しくて、呼吸が止まりそうになる。呼吸が止まりそうになると、息苦しさに耐え切れず、できるだけの空気を吸い込まずにはいられない。
 ユーノはさっきから、その堂々巡りを繰り返していた。
「放っておいても、いずれは死ぬだろうがな……その出血じゃ」
 男は、ユーノの右肩辺りに眼をやり、ぶるっと体を震わせた。
「槍傷を抉るなんて……ギヌア様らしいさ……並の人間にできることじゃない…」
 語尾が怯んだように戸惑った。それを振り切るかのように相手は、一つ顔を振り、はっきりした声音で言い放った。
「だが、あのアシャが余計な手配をしてくれてな。こっちが危ないんだ。悪いが死んでもらう」
 ユーノの頭上に掲げられた短剣が月の光を明るく跳ねる。天を突き上げていた切っ先はくるりと向きを変え、容赦なくユーノの胸元に一気に下がってくる。
(い、やだ…)
 霞む意識に半ば本能的に片手を伸ばして近くの柱を掴み、短剣の進路から逃れようとぐっと体を引き寄せた。
「っっ…」
 激痛が体中を駆け巡って気が遠くなる。が、少なくとも、相手の気は削ぐことはできたらしく、短剣は中空に浮いたまま止まった。
「ほ……まだ……けるのか……たいした……だね、お前……さ」
 男の声は波打つように響いて、よく聞き取れない。
 耳鳴りがする。吐き気が込み上げる。目眩がして、体の力が抜けてくる。手放すまいとたぐり寄せた気力が、今の動きで一気に削られた。
 ユーノはぐったりと首を落とした。呼吸だけが別人のもののように活発に、いや切羽詰まって最後の足掻きのように続いている。
「可哀想だな。安心しろ、今、楽にしてや…っ!」

 ふいに、空き家の中に光が満ちた。
 短剣を振り上げ、今しも振り下ろそうとした男が、ぎくりと動きを止める。首を薙ぎ払うように突き出した長剣に、震え声で誰何してきた。
「だ、誰だ」
「それを聞くのか」
 アシャは冷笑した。
「ここで何をしているのか、俺に説明してもらいたいものだな、セータ・ルム」
「アシャ……ラズーン…」
 声が今にも泣き出しそうに掠れた。
「剣から手を離せ。小細工をするなよ」
 冷ややかに命じると、は、と如何にもかしこまって答えた相手の手から、突然力が抜けて緩んでしまったと言いたげに短剣がユーノめがけて落下する。あまりにも唐突、あまりにもさりげない、他の人間相手なら絶妙の間合い、だが。
 チン!
「小細工をするな、と」
 セータの手からまっすぐ落ちた短剣は、アシャの蹴りで進路を狂わされ、遠くに跳ね飛んだ。
「言ったはずだが? お前の耳は使い物にならないようだな」
 同時にアシャは首筋にあてていた剣を軽くセータの首に食い込ませた。とろり、と溢れた血の色は鈍い。まだまだ表皮一枚傷つけただけだ。
「無用なものなら、このまま一気に削ぎ飛ばしてみるか」
「…ひ…っ」
 セータが絶句して体を凍り付かせた。それもそのはず、剣の刃の向きを少し変え、首の皮を剥ぎながらそのまま耳へ振り上げてみようかという気配を滲ませたからだ。
「う、う、あ」
 じりじりと這い上がろうとする刃は、僅かに角度がついている。耳どころかざっくりと、かなりの厚みで皮膚を削ぎ落としかねない深みへ食い込んでいく。
(それでもまだ、死ぬまでには至らない)
 アシャは淡々と考える。
 どこまで押し上げれば命に関わるか、どのあたりまでならただの脅しで済むか、とっくに熟知している事柄だ。ユーノの命を危険に晒しているのはわかっているが、多少この相手でも殺気を逃がしておかないと、とんでもないことまでやりかねない自分がいる。
「こっちを向け」
「え、あ…」
 首に刃を当てられたままで振り向けば、自ら首を切断するようなもの、男の戸惑いと恐怖に薄く嗤う。
「死にたいんだな」
 ぐ、となおも強く剣を押し付けると、セータが絶叫した。
「わ、あっ! 向きます、向きます! だから、お願いです、その剣を緩めて、くだ…さいっ」
 喉は既に朱色に濡れている。求めに応じて刃を少し離してやると、みるみる流れる血が増えた。
「な…んで……なんでこんな…小娘に…」
 セータは泣き声だ。
「なんで、アシャ・ラズーンが…っ」
 慌てて首の傷を手で押さえながら、ひい、と声にならぬ悲鳴を漏らしたセータの震える脚が今にも崩れそうだ。壊れかけた操り人形のようにぎちぎちと必死に振り向こうとする相手の側を、さっと通り抜けながら、数カ所の急所を一気に殴りつける。
「がぶっ…」
 くるんと白目を剥いた相手が前へのめるのを、アシャはイルファに向かって押した。
「こいつを縛っておいてくれ。後でじっくり訊きたいことがある」
「あ…ああ」
 イルファが呆れ返った顔でセータを受け止めた。
「お前、魔物(パルーク)の顔をしてるぞ」
 満更冗談でもないそのことばは、もうアシャの意識には入らなかった。
 床の上に倒れたまま、息を喘がせているユーノを覗き込み、用意の布を裂く。
「あ…あうっ」
 止血薬をしみ込ませた布を右肩に巻くと、ユーノが小さく声を上げて仰け反った。
(やっぱり槍傷の中央を抉られてる)
 顔が強張ったのがわかった。床に広がった出血量、忙しく浅い呼吸を繰り返す様子、傷の状況を改めて確認する。
(ここでは駄目だ)
 胸の奥が氷河のように冷えた。
(回復どころか、保たせられない)
 荒々しい呼吸を続けるユーノの、汗で濡れそぼっている髪をかきあげながら、静かに声をかける。
「ユーノ? わかるか、ユーノ?」
「あ…」
「答えなくていい。わかるんだな」
「ん…」
 慌ただしく呼吸を続けながら、ユーノは弱々しく首を上下に動かした。少しほっとしながら、手持ちの袋から緑の粒を出す。
「痛み止めだ。呑めるか?」
「……」
 半分意識がないのだろう、あやふやにユーノの首が上下に揺れた。見えているとは思わないが、頷き返してアシャは開いたままのユーノの口の中、舌の上にそっと薬を載せた。苦しげにもがいて口を閉じ、ユーノが顔を歪めて飲み下す。何とか喉を通ったとたん、はああっ、と深い息を吐いて、再び荒い呼吸に戻る。
「もう一粒」
「…ぐ…」
 ユーノは目を閉じて唇をきつく締め、粒を呑み込んだ。呼吸を奪われたのと同じなのだろう、反動でしばらくはせわしなく呼吸し続けるだけ、アシャの呼びかけにも反応しない。次々と流れ落ちる汗が苦痛を物語る。
「…ユーノ」
 堪え切れず、アシャはそっと、その頬に触れた。
 震えながらぼんやり見開いた相手の眼の中を覗き込むように、ことばを繋ぐ。
「ちょっときついが、すぐ薬が効いてくる、我慢しろよ」
「…」
 微かに首が縦に動いた。
 その体の下へ静かに、けれど一歩も引くことのない強さで手を差し入れる。
「あ…!…!!……っ!」
 上げかけた声を、歯を食いしばってユーノが堪えた。床から掬い上げられる動作さえ激痛を生むのだろう、ぎいっ、と歯のきしむ音がする。
「もう少し……よし…いいぞ」
「う…ふ…」
 吐息とともに、ユーノはアシャの腕に頼りなく抱かれ、胸に頭をもたせかけてくる。細心の注意を払って立ち上がり、振り返る。
「イルファ」
「ん?」
「俺はこれから『氷の双宮』に行く」
 セータを丁寧に馬に縛り付けていたイルファが、生真面目な顔で見返した。
「ここではユーノが保たない。あそこなら、何とか助かる」
「わかった。で、こいつ、どうする?」
「地下牢見つけて放り込んどけ。何があっても逃がすな。死なせるな」
 声音は激していない、だが言い切ったことばの容赦なさが届いたのだろう、イルファがぞくりとした顔になった。
「それから、ミダス公に事情を伝えてくれ」
「わかったよ」
 いつもなら俺もついて行くだの、二人きりになるつもりなのかだの、本気か冗談かわからない絡み方をされる状況だが、さすがにイルファも茶化す気にならないのだろう。
「充分わかった」
 誓いを立てるように神妙に繰り返した。
 
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