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10.『氷の双宮』(4)
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(ユーノ…)
アシャはじっと、水槽の中に漂っているユーノを見つめた。
水色の栄養液のせいか、肌が透けるほど蒼白く見える。昏々と眠り続けているユーノの右肩には、細胞の再生が行われていることを示す微かな泡がまとわりついている。
だが、その速さは嫌になるほど緩慢で、三日目だというのにまだ半分も蘇生していない。通常の傷ならばとっくに塞がっていていいはずなのに。
(逝ってしまう気か)
まろやかな膨らみの胸が、緩やかに上下するのを見ながら、胸の中で問いかける。呼吸に合わせて僅かに浮き沈みする体は全裸、両手を少し広げ、短い髪が水草のように顔にまとわりつき、アシャの知らなかった傷をも癒している姿はまるで水死した者のように生気がない。
(もう、二度と目を開けない気…か?)
抱き寄せられないのが苦しい。水槽の蓋にすがりつくような自分のみっともなさも意識の外だ。拳を握りしめて叩き割りたくなる、ユーノを隔てる透明な壁を。
(戻ってくれ)
この装置はそれほど長期のためのものではない。回復力を増強するように調整はされているが、基本になるのは本人の持つ生命力、水中に沈んでいる体への負荷と回復度のバランスを考えてはじき出された期間は五日、後二日と少ししかない。
(戻ってきてくれ……ユーノ)
脳裏に鮮血の記憶が重なっていく。レクスファでの、ガズラでの、キャサランでの、そしてこともあろうにラズーン、ミダス領地での。アシャの腕の中で、止め切れずに流れ落ちていく血の生暖かさを、これほどの恐怖で見守ったことなどない。
戻って欲しいと切に願う。だが戻った体が何に供されるか、アシャは考えまいとしている。
(何のための代償だ)
唇を噛む。眉を寄せる。聞くまでもない。ラズーンを守るために、ユーノの中に植え付けられた力は、あっさりと死ぬことを選ばなかった、そういうことだ。
(何のための)
世界を守るため……だが、その世界は、ユーノにこれほどの苦痛を耐えさせるほど価値があるものなのか?
「アシャ」
「…」
呼びかけられて体を起こし、振り返る。
「またここにおったのか」
「『太皇(スーグ)』…」
老人が近づいてくるのに、アシャは暗く笑った。
「クェアッ!」
相手の肩からふわりとサマルカンドが飛び上がり、沈んでいるアシャの肩に乗り移る。そのまま、気遣うように水槽の中のユーノを覗き込み、クェッ、と小さく怯えたような声をたてた。
「お前にもわかるか?」
滑らかな羽を撫でてやる。
「今の回復率は?」
「…二割弱です」
アシャは『太皇(スーグ)』を振り向いた。
「二日前と状況は変わっていません」
わかってしまう自分が情けないと思ったのは初めてだった。
『太皇(スーグ)』は頷き、ゆっくりと白の長衣の裾をさばいて近づいてくると、同じようにユーノを覗き込んだ。
「幼い娘だな」
「はい…回復力も」
あまり望めない。ことばを口に出せずに噛み殺す。回復力は少しずつ増してはいる。調整も怠っていない。だが、それを支えてくれる体力がどこまで持ってくれるだろう。疲弊しきっているユーノの体は救急処置が第一選択、栄養を注入しかけたとたんに体液バランスを崩しかけたせいで、十分に補給できていない。今ユーノは自分の体を食い尽くしながら、傷を治しているようなものだ。
「『銀の王族』じゃな」
「…はい」
重い『太皇(スーグ)』の声に、続くことばを察して、体が震えた。
「この娘を失うわけにはいかないのじゃ」
「は、い」
(俺も同じだ)
叫びそうになるのをアシャは堪える。
(あなたより、いや、他の誰より、俺もユーノを失うわけにはいかない)
「たとえ、この命が終わろうとも」
「っ」
思わず相手を睨み据えてしまった。
「このままでは、この娘は死んでいくのみじゃよ」
「わかっています」
「ラズーンの『太皇(スーグ)』として、この娘をむざむざ死なせるわけにはいかん」
わかっておろう、と『太皇(スーグ)』は語る。『銀の王族』を回収してくるはずの視察官(オペ)が次々と『運命(リマイン)』の襲撃を受けていることを。
「必要数が欠ける恐れさえあるのじゃ」
「しかし、『太皇(スーグ)』」
「この娘は」
アシャの反論を、『太皇(スーグ)』は一言で封じた。じっとアシャを見つめてくる瞳は暗い灰色、穏やかに、だが反論することを許さない強さでことばを継ぐ。
「この娘は『銀の王族』として、この世に生を受けた。ならば、その務めを果たしてから死ぬのが、摂理というものではないのか?」
「しかし…」
『太皇(スーグ)』のことばは正論だ。この世界は非常にあやふやな力で成り立っている。しかも、『運命(リマイン)』が覇権を望む今、ラズーンの力をこれ以上削るわけにはいかないのもわかる。
「ユーノは今、体力を使い果たしています。こんな状態で『洗礼』を受ければ、それこそ命の保証がありません」
幼い愚かな言い訳だとわかっていた。
「この娘が『銀の王族』の務めを果たさぬまま死ねば、どのようなことが世界を待ち構えているか、ラズーンの名を持つそなたならわかっておろう」
『太皇(スーグ)』は静かに続けた。
「動乱どころではない、ラズーンは崩壊し、世界そのものが一変するじゃろう。今穏やかに暮らしている人々の日々は破壊され荒廃し、この世界をどんなものが支配するのか、想像できるはずじゃ」
「………」
アシャの脳裏に旅先で出会った多くの人々が蘇る。
たびたび同じ危機はあった、だが、人間やラズーンに憎しみを持つ『運命(リマイン)』の勢力がここまで伸びた二百年祭はない。ユーノに『洗礼』を受けさせずに失うことは、ラズーンだけではない、この世界に現在存在する生命体全ての未来を閉ざすことにもなりかねない。
(だが、今『洗礼』を受けさせれば、ユーノは)
心身ともに弱り切っているユーノの命は確実に保たないだろう。健康な『銀の王族』でも、心の弱いものはそれまでの世界の見え方を一変させられて衝撃を受け、時に元の生活に戻れない場合もある。明かされた真実を、お伽噺のように呑み込める強さも『銀の王族』の特徴のはずだが、ユーノは既に規格外だ、どんな反応を起こすのかわからない。
「世界をその手で滅ぼすのか」
『太皇(スーグ)』の問いに応えないまま、アシャは無言で水槽を離れ、水晶体が輝く部屋を横切り、もう一方の入り口に入った。足を踏み入れたと同時に照明がついたが、ユーノが眠る部屋に比べると遥かに薄暗い光だ。
その陰気な光の中、目が慣れるに従って見えてくる、奇妙な光景をアシャは一つ一つ眺めた。
ぎらぎら光る、ラズーン支配下(ロダ)では見かけない金属の台の上に、透き通った円筒形のものが立てられている。天辺は台と同じような金属の蓋で覆われ、そこから何本ものくねる、滑らかな管が天井へと繋がっている。円筒の中には、薄い黄緑色の液体がたたえられ、思い出したように下方から銀色に光る泡が立ちのぼる。
円筒形の下にある台はかなり大きなもので、つるりと滑らかな表面には何の模様も文字もない。だが、時折、すうっと光が過るような白い色が、表面をちらちらと動きながら流れていくのが見えた。
円筒は、動物の子宮の代用品だ。動物の小さな細胞から新たな命を発芽させ、成長させるための容器、付属している管はそれを管理している機器に繋がっている。二十個以上ある円筒のほとんどは埋まり、液体の中に鳥や動物、そして人間の赤ん坊らしいものまで浮かんでいる。
だが、その半数は、鳴き鳥(メール)や平原竜(タロ)や馬などではなく、クフィラやレガやガジェスなどの、いわゆる太古生物の赤ん坊だった。
「ここまできていたんですか」
アシャは苦い口調で唸った。
「そうじゃ。もう…半数近くがコントロールを外れておる」
『太皇(スーグ)』は重い口調で返した。
「このままでいけば、我らの滅亡は必至、この世は太古生物の跳梁する闇となり、せっかく根付いた生物は死滅し、やがては太古生物どもも互いを喰い合い、世界は再び死に絶えてしまうじゃろう。……我らにできることは、あらゆる手立てを尽くして『銀の王族』を集め、その『種の記憶』を取り出し、保存し直すことだけじゃ」
老人の声は底知れぬ憂いに満ちている。
アシャは沈黙したまま、もう一歩、部屋に踏み込んだ。他の円筒の影になっていた円筒が新たに見える。
「……」
奥まった、一つだけ色の違う円筒には今何も浮かんでいない。薄黄緑の液体がたゆたゆと揺れ、泡を立ちのぼらせているだけだ。だが、その三つばかり隣の円筒に、人の姿をしたものがふわりふわりと頼りなげに浮いていた。藻草のように揺れる黒髪、半開きになった目の色は紅、おそらく『運命(リマイン)』だろう。
「『運命(リマイン)』が…」
「ああ…おそらくは、我らに歯向かう道を選ぶのじゃろう」
『太皇(スーグ)』の声がまるで聞こえたように、その赤ん坊はぱちりと目を開け、こちらを見つめた。にんまりと禍々しい哄笑を感じさせる笑みを漏らし、再び目を伏せる。
災いを、今のうちに叩き潰すことができたなら。
きっと歴代の『太皇(スーグ)』も、この二百年祭の時に生み出される太古生物を、苛立ちを込めて見つめたことだろう。
だが、この装置そのものをアシャ達が扱う術はない。伝わっているのは、ほんの簡単な操作でしかなく、生み出された存在がどのように世界に放たれているのかさえわからないのだ。
わかっているのは、この装置がなければ、充分な繁殖力のない種の幾つかはすぐに滅ぶということだ。実のところ、人間も例外ではなく、子ども達はまだまだ充分ではない。まだ世界に対して数の少ない人間は、この二百年、少しは自らを自衛できるようになったとはいえ、装置が止まれば、あっという間に自然や太古生物に淘汰されて消えていってしまうだろう。
世界はずっと、こうしてラズーンの見えない泉によって、命を保たれ繋がれてきている……それを知るのは、極僅かだ。
「……わかりました」
ラズーンは『運命(リマイン)』を厳しく見つめた後、肩越しに告げた。
「しかし、もう少しだけ待って下さい。せめて、後、二日」
「……最後じゃぞ」
「……」
『太皇(スーグ)』の確認に、アシャはきつく唇を噛んで、水槽の部屋を見つめた。
アシャはじっと、水槽の中に漂っているユーノを見つめた。
水色の栄養液のせいか、肌が透けるほど蒼白く見える。昏々と眠り続けているユーノの右肩には、細胞の再生が行われていることを示す微かな泡がまとわりついている。
だが、その速さは嫌になるほど緩慢で、三日目だというのにまだ半分も蘇生していない。通常の傷ならばとっくに塞がっていていいはずなのに。
(逝ってしまう気か)
まろやかな膨らみの胸が、緩やかに上下するのを見ながら、胸の中で問いかける。呼吸に合わせて僅かに浮き沈みする体は全裸、両手を少し広げ、短い髪が水草のように顔にまとわりつき、アシャの知らなかった傷をも癒している姿はまるで水死した者のように生気がない。
(もう、二度と目を開けない気…か?)
抱き寄せられないのが苦しい。水槽の蓋にすがりつくような自分のみっともなさも意識の外だ。拳を握りしめて叩き割りたくなる、ユーノを隔てる透明な壁を。
(戻ってくれ)
この装置はそれほど長期のためのものではない。回復力を増強するように調整はされているが、基本になるのは本人の持つ生命力、水中に沈んでいる体への負荷と回復度のバランスを考えてはじき出された期間は五日、後二日と少ししかない。
(戻ってきてくれ……ユーノ)
脳裏に鮮血の記憶が重なっていく。レクスファでの、ガズラでの、キャサランでの、そしてこともあろうにラズーン、ミダス領地での。アシャの腕の中で、止め切れずに流れ落ちていく血の生暖かさを、これほどの恐怖で見守ったことなどない。
戻って欲しいと切に願う。だが戻った体が何に供されるか、アシャは考えまいとしている。
(何のための代償だ)
唇を噛む。眉を寄せる。聞くまでもない。ラズーンを守るために、ユーノの中に植え付けられた力は、あっさりと死ぬことを選ばなかった、そういうことだ。
(何のための)
世界を守るため……だが、その世界は、ユーノにこれほどの苦痛を耐えさせるほど価値があるものなのか?
「アシャ」
「…」
呼びかけられて体を起こし、振り返る。
「またここにおったのか」
「『太皇(スーグ)』…」
老人が近づいてくるのに、アシャは暗く笑った。
「クェアッ!」
相手の肩からふわりとサマルカンドが飛び上がり、沈んでいるアシャの肩に乗り移る。そのまま、気遣うように水槽の中のユーノを覗き込み、クェッ、と小さく怯えたような声をたてた。
「お前にもわかるか?」
滑らかな羽を撫でてやる。
「今の回復率は?」
「…二割弱です」
アシャは『太皇(スーグ)』を振り向いた。
「二日前と状況は変わっていません」
わかってしまう自分が情けないと思ったのは初めてだった。
『太皇(スーグ)』は頷き、ゆっくりと白の長衣の裾をさばいて近づいてくると、同じようにユーノを覗き込んだ。
「幼い娘だな」
「はい…回復力も」
あまり望めない。ことばを口に出せずに噛み殺す。回復力は少しずつ増してはいる。調整も怠っていない。だが、それを支えてくれる体力がどこまで持ってくれるだろう。疲弊しきっているユーノの体は救急処置が第一選択、栄養を注入しかけたとたんに体液バランスを崩しかけたせいで、十分に補給できていない。今ユーノは自分の体を食い尽くしながら、傷を治しているようなものだ。
「『銀の王族』じゃな」
「…はい」
重い『太皇(スーグ)』の声に、続くことばを察して、体が震えた。
「この娘を失うわけにはいかないのじゃ」
「は、い」
(俺も同じだ)
叫びそうになるのをアシャは堪える。
(あなたより、いや、他の誰より、俺もユーノを失うわけにはいかない)
「たとえ、この命が終わろうとも」
「っ」
思わず相手を睨み据えてしまった。
「このままでは、この娘は死んでいくのみじゃよ」
「わかっています」
「ラズーンの『太皇(スーグ)』として、この娘をむざむざ死なせるわけにはいかん」
わかっておろう、と『太皇(スーグ)』は語る。『銀の王族』を回収してくるはずの視察官(オペ)が次々と『運命(リマイン)』の襲撃を受けていることを。
「必要数が欠ける恐れさえあるのじゃ」
「しかし、『太皇(スーグ)』」
「この娘は」
アシャの反論を、『太皇(スーグ)』は一言で封じた。じっとアシャを見つめてくる瞳は暗い灰色、穏やかに、だが反論することを許さない強さでことばを継ぐ。
「この娘は『銀の王族』として、この世に生を受けた。ならば、その務めを果たしてから死ぬのが、摂理というものではないのか?」
「しかし…」
『太皇(スーグ)』のことばは正論だ。この世界は非常にあやふやな力で成り立っている。しかも、『運命(リマイン)』が覇権を望む今、ラズーンの力をこれ以上削るわけにはいかないのもわかる。
「ユーノは今、体力を使い果たしています。こんな状態で『洗礼』を受ければ、それこそ命の保証がありません」
幼い愚かな言い訳だとわかっていた。
「この娘が『銀の王族』の務めを果たさぬまま死ねば、どのようなことが世界を待ち構えているか、ラズーンの名を持つそなたならわかっておろう」
『太皇(スーグ)』は静かに続けた。
「動乱どころではない、ラズーンは崩壊し、世界そのものが一変するじゃろう。今穏やかに暮らしている人々の日々は破壊され荒廃し、この世界をどんなものが支配するのか、想像できるはずじゃ」
「………」
アシャの脳裏に旅先で出会った多くの人々が蘇る。
たびたび同じ危機はあった、だが、人間やラズーンに憎しみを持つ『運命(リマイン)』の勢力がここまで伸びた二百年祭はない。ユーノに『洗礼』を受けさせずに失うことは、ラズーンだけではない、この世界に現在存在する生命体全ての未来を閉ざすことにもなりかねない。
(だが、今『洗礼』を受けさせれば、ユーノは)
心身ともに弱り切っているユーノの命は確実に保たないだろう。健康な『銀の王族』でも、心の弱いものはそれまでの世界の見え方を一変させられて衝撃を受け、時に元の生活に戻れない場合もある。明かされた真実を、お伽噺のように呑み込める強さも『銀の王族』の特徴のはずだが、ユーノは既に規格外だ、どんな反応を起こすのかわからない。
「世界をその手で滅ぼすのか」
『太皇(スーグ)』の問いに応えないまま、アシャは無言で水槽を離れ、水晶体が輝く部屋を横切り、もう一方の入り口に入った。足を踏み入れたと同時に照明がついたが、ユーノが眠る部屋に比べると遥かに薄暗い光だ。
その陰気な光の中、目が慣れるに従って見えてくる、奇妙な光景をアシャは一つ一つ眺めた。
ぎらぎら光る、ラズーン支配下(ロダ)では見かけない金属の台の上に、透き通った円筒形のものが立てられている。天辺は台と同じような金属の蓋で覆われ、そこから何本ものくねる、滑らかな管が天井へと繋がっている。円筒の中には、薄い黄緑色の液体がたたえられ、思い出したように下方から銀色に光る泡が立ちのぼる。
円筒形の下にある台はかなり大きなもので、つるりと滑らかな表面には何の模様も文字もない。だが、時折、すうっと光が過るような白い色が、表面をちらちらと動きながら流れていくのが見えた。
円筒は、動物の子宮の代用品だ。動物の小さな細胞から新たな命を発芽させ、成長させるための容器、付属している管はそれを管理している機器に繋がっている。二十個以上ある円筒のほとんどは埋まり、液体の中に鳥や動物、そして人間の赤ん坊らしいものまで浮かんでいる。
だが、その半数は、鳴き鳥(メール)や平原竜(タロ)や馬などではなく、クフィラやレガやガジェスなどの、いわゆる太古生物の赤ん坊だった。
「ここまできていたんですか」
アシャは苦い口調で唸った。
「そうじゃ。もう…半数近くがコントロールを外れておる」
『太皇(スーグ)』は重い口調で返した。
「このままでいけば、我らの滅亡は必至、この世は太古生物の跳梁する闇となり、せっかく根付いた生物は死滅し、やがては太古生物どもも互いを喰い合い、世界は再び死に絶えてしまうじゃろう。……我らにできることは、あらゆる手立てを尽くして『銀の王族』を集め、その『種の記憶』を取り出し、保存し直すことだけじゃ」
老人の声は底知れぬ憂いに満ちている。
アシャは沈黙したまま、もう一歩、部屋に踏み込んだ。他の円筒の影になっていた円筒が新たに見える。
「……」
奥まった、一つだけ色の違う円筒には今何も浮かんでいない。薄黄緑の液体がたゆたゆと揺れ、泡を立ちのぼらせているだけだ。だが、その三つばかり隣の円筒に、人の姿をしたものがふわりふわりと頼りなげに浮いていた。藻草のように揺れる黒髪、半開きになった目の色は紅、おそらく『運命(リマイン)』だろう。
「『運命(リマイン)』が…」
「ああ…おそらくは、我らに歯向かう道を選ぶのじゃろう」
『太皇(スーグ)』の声がまるで聞こえたように、その赤ん坊はぱちりと目を開け、こちらを見つめた。にんまりと禍々しい哄笑を感じさせる笑みを漏らし、再び目を伏せる。
災いを、今のうちに叩き潰すことができたなら。
きっと歴代の『太皇(スーグ)』も、この二百年祭の時に生み出される太古生物を、苛立ちを込めて見つめたことだろう。
だが、この装置そのものをアシャ達が扱う術はない。伝わっているのは、ほんの簡単な操作でしかなく、生み出された存在がどのように世界に放たれているのかさえわからないのだ。
わかっているのは、この装置がなければ、充分な繁殖力のない種の幾つかはすぐに滅ぶということだ。実のところ、人間も例外ではなく、子ども達はまだまだ充分ではない。まだ世界に対して数の少ない人間は、この二百年、少しは自らを自衛できるようになったとはいえ、装置が止まれば、あっという間に自然や太古生物に淘汰されて消えていってしまうだろう。
世界はずっと、こうしてラズーンの見えない泉によって、命を保たれ繋がれてきている……それを知るのは、極僅かだ。
「……わかりました」
ラズーンは『運命(リマイン)』を厳しく見つめた後、肩越しに告げた。
「しかし、もう少しだけ待って下さい。せめて、後、二日」
「……最後じゃぞ」
「……」
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