静かで穏やかな生活を望む死神と呼ばれた皇子と結婚した王女の人生

永江寧々

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彼の真実2

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 後頭部を殴られた感覚があったような、心臓が鷲掴みにされたような感覚があったような気はするが、ずっと浮遊し続けていた疑問がスッと解決した感覚のほうが強かった。
 アーデルは彼の髪を撫でる手を止めないまま「虐待……」とだけ呟いた。虐待されていたということか、とハッキリ聞くには口が重かったから。

「アーデルは不思議に思っていたでしょう。結婚のための顔合わせの日からずっと……」
「はい……」

 ふふっ、とラビが小さく笑う。当然だ。

「皇族として生きる事になったのは表向きだけで、実際は使用人以下の暮らしでした」

 サンドバッグ──その言葉がアーデルの胸に重くのしかかっている。生まれてすぐ親に捨てられ、十年もの間、劣悪な環境で生きてきたのに、ようやく明るい未来がと思った矢先、また地獄を味わう事になった。それは今でも続いているのだ。
 あの城の中にいた使用人がラビを見ようとしなかったのも彼がワーナー家の一員として認識されていないから使用人達もそうする。自分達に接するようにラビに接するなと言われてきたのだろう。
 ラビの髪に指を絡め、梳くように毛先まで動かす動作を繰り返しながらアーデルは怒りによって彼の髪を掴んでしまわないように気をつけていた。

「絨毯が廊下全てに敷かれていたわけではない事に気付きましたか?」
「はい。少し細めでしたよね」
「あれは使用人が絨毯の上を歩かないようにするためです。ワーナー家の人間及び賓客だけが絨毯の上を歩き、使用人は絨毯の外を歩く。僕もそうでした」

 彼の名前はラビ・ワーナー。ワーナー家の七男。それはやはり表向きの情報であり、ワーナーの血を継ぐ者達は彼を家族として受けて入れてはいなかった。

「皇帝陛下は僕を息子達に紹介すると『好きにしろ』と言ったんです。僕は、その言葉が彼らにではなく僕に言っているのだと思っていたのですが、わかっていなかったのは僕だけでした。一歩踏み出した瞬間、ジュベール兄さんに顔を叩かれてこう言われました。誰の許可を得て歩こうとしているんだ、と」

 耳を疑う言葉にアーデルの手が止まる。

「歩くのに……許可を得ろ、と……?」
「家族でもなければ使用人ですらない僕は行動一つにしても長男の許可を得なければならないと言われました」
「それはどこまで……」
「勝手な行動はもちろん、発言も。基本的に僕が喋っていいのは『はい』『わかりました』『ごめんなさい』の三つでした」

 アーデルはもう、どういいのかがわからなくなっていた。生まれながらにして王女の称号を得ており、大切に育てられてきたアーデルは虐待という言葉しか知らなかった。実際に虐待された子供を見た事はなかったし、小説でその実態を読むだけ。
 ジュベールは『教育』と言って手を伸ばしてきた。殴ろうとした。剣を抜こうとした。サンドバッグ。それは揶揄ではなく言葉どおりの意味だろう。
 聞けば聞くほど息を吐き出す事さえ辛くなるアーデルが目を閉じると彼の頭に置いていた手が握られ、止めていた手を再開させる。

「僕に与えられた部屋には三つ並べられた木箱の上にマットが敷いてあって、薄手の毛布が一枚。それから樽が一つと太い蝋燭が一本とマッチ一箱があっただけです」
「それは……」

 施設から子供を引き取る行為はルーカスに自分の評価を上げるためでしかなかった。だから、記者の前で大々的に発表する事で評価を上げ、記者が入れない城の中では彼を第七皇子として扱かう事はしなかった。
 子供達は父親の背中を見て立派に育っている。最悪なほどに。
 なぜラビだけが異色なのか。その疑問がようやく解決された。染まるはずがない。ワーナー家の人間として育ったわけではないラビが彼らのような傲慢で横暴な人間に育つはずがないのだ。押し付けられる理不尽な要求に彼は必死に応えてきたのだろう。反論も拒否も許されない環境の中で、どんなに理不尽でも受けなければならず、失敗すれば土下座の謝罪を強要されてきた。
 自分が悪い。自分のような人間が。自分のせいで。そう言わされれきたから彼は自分には価値がないと思うようになった。
 寝床さえ満足に整えてもらえない中で彼はよく生きてきたとアーデルは子供を褒めるように彼の頭を撫でる。

「よく頑張りました」
 
 撫で方が変わったアーデルからの言葉にラビは震える唇を噛み締めてギュッと目を閉じる。
 
「そんな中でシャンディと出会ったから、僕はシャンディに依存していたんです。いつも家に呼んでくれて、お城では食べられないご馳走を振る舞ってくれたから。食べたいだけ食べられたから硬いパンと水しか出ない生活にも耐えられた。城にいなければ彼らから暴言や暴力を受ける事もなかったから」

 今ならその理由も理解できる。自分だってそんな環境下で生まれ育てば、相手が多少は傲慢な人間であろうと我慢できる。むしろ可愛いものだとさえ思ってしまうかもしれない。普通の生活をさせてくれるのだから居心地良く思うのは当然かもしれない。
 彼が辛い時を支えたのはシャンディで、そうする事で同時にシャンディも彼に依存するようになった。“自分が与えてやっている“という満足感はいつしか“与えてやっているのだから自分に従うべき”へと変わってしまったが、それでも二人の関係は続いた。互いにそれでいいと暗黙の了解が存在していたのだ。そこに突然降って湧いた結婚話により関係に変化が起こる。すぐに受け入れるのは不可能。それも今ならわかる。だからといってこれからシャンディの家に行って「納得できたからこれからも二人の関係を継続してください」と言うつもりはない。

「理解できます」

 短くそれだけ返したアーデルをラビが少し身じろぎして顔を見た。怒っている様子が見られない事に小さく安堵の息を吐き出す。

「扱いは最低なものでしたが、僕は皇帝陛下に一つだけ感謝しているんです」
「感謝?」

 あの男に感謝とはと怪訝な表情で首を傾げるアーデルから再び暖炉へと顔を戻して頷いた。

「僕には剣の才能があった。それを見抜いて剣術を習わせてくれたのは皇帝陛下でしたから」

 彼が常に腰から下げている剣。戦場に向かう時も日常でも離さない。唯一外しているのは家の中でぐらい。それでもラビはいつも手の届く場所に置いていた。それは彼の才を見出したルーカスが与えた物なのだろうか。戦えという意を込めて。

「……引くなというほうが無理だとわかってはいるのですが……」
「引きません」

 何を言うつもりかはわからないが、彼にどんな過去があろうと引く事はないと確信があったアーデルの強い口調にラビが微笑む。
 ゆっくりと身体を起こし、身体を向けたラビがアーデルの目を見つめる。

「この仮面の下がどんなものか、大体の想像はついていると思います。だけど、あなたは一度だって見たいとは言わなかった。震えながらでも僕を庇ってくれました」
「誰だって見られたくない事はあります。怖いのに抵抗していたあなたをあのままにできなかっただけです」

 震えていたのはアーデルも同じ。ジュベールのあの圧に平然としていられるはずがない。わかっていたはずなのにそれを知ったのはアーデルを抱きしめた時だった。
 恐怖を飲み込んで必死に守ろうとしてくれた相手にこれ以上隠しているのは失礼だと思い至ったラビが仮面に触れた。

「外しても大丈夫なのですか? 無理しなくても……」
「見てほしいんです」

 受け入れてほしいとは言えない。見せたら引くかもしれない。汚いと、怖いと思われるかもしれない。でもアーデルはそれを口にしたりはしない。これは甘え。アーデルなら、というラビの甘え。
 だからそんなに気が重いわけではない。今だから、今この瞬間だから見せられるのだと覚悟を決めた。
 穏やかな、でも少し緊張している面持ちで仮面を掴んだラビがゆっくりとそれを外した。
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