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番外編
番外編4
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ラビがルスに帰化してから二年が経った頃、アーデルのもとに一通の手紙が届いた。
「妊娠!?」
送り主は妹のフォスからで、妊娠したという知らせ。
十六歳となったフォスにとってようやくといったところだろうかと安堵すら与える知らせにアーデルはこの上ない喜びを感じていた。
【妊娠したけど、男の子じゃなかったらどうしようって不安が消えないの。女の子でもいいって言ってくれるけど、周りはやっぱり世継ぎを期待してるから男の子がいいなって思う。だけど、こればっかりは神様からの贈り物だから私の願いどおりにいくわけないし、女の子だったからって愛さないわけじゃない。男の子がいいって口では皆に言ってるけど、私は女の子がいいなって思ってるんだ。だって、可愛いお洋服をたくさん着せてあげたいから。パパとお姉様がそうしてくれたように。でも男の子だったら教育係に取られちゃうでしょ? 私も色々学んではいるけど、彼が受けてきた教育を聞いたら男の子は可哀想だなって思うし】
何がなんでも女の子を産みたいと思っているのだろうことがよく伝わってくる書き方に微笑みながら二枚目に進む。
【でもね、やっぱり初子は男の子がいい。そしたらプレッシャーから解放されるもの。男の子を産むまで子供を作らなきゃいけないなんて絶対に嫌。子作りを義務になんてしたくない。もうね、最悪なんだから。いつから始まっていつ終わったから妊娠に良いタイミングはこの日、って管理までされて、終わってからその日までメニューが特別仕様なの。それ見るだけで気持ち悪くなるし、最適日の朝なんていちいちお知らせまでしてくれるの。ほんっっっっとーにありがたい】
連なる嫌悪と嫌味に笑いが止まらない。年齢にしては大人びているのはフォスも同じ。積極的に交流の場に出ていたからこそ同年代だけでなく大人とも接する機会があり、得てきた情報量はアーデルよりも多い。だからアーデルよりもマセていた部分もあった。それでもやはり一緒にいた十三年間はアーデルにとってまだまだ子供な妹だったのに、今ではすっかり一国の母になる準備をしているのだから驚きだと目を細める。
【そっちはどう? 次期女王様】
きっとこの言葉を笑いながら書いたのだろう。文字が少し揺れている。
【親族の説得に時間がかかったってパパからの手紙に書いてあった。当然よね。自分の息子が継ぐと思ってたのにいきなりムリ~って言われたんだから人生設計狂った!って怒るのもムリない。ましてや女になんて!とかあったんじゃないかな? パパは詳細を書いてくれなかったから知り得ないけど、お姉様がルスを継いでくれるのはとても嬉しいと思ってるの。だって、アステルはこれからもルスと仲良くしていきたいから。私が、じゃないよ? アステルが、ね? まあ、私の故郷だし、親交を深めるのは当然だけど】
素直に安心したと書けばいいものを手紙の中でさえ少し本音を隠すフォスがどんな表情でこの一文を書いたのか、それを想像するだけで楽しくなるし、成長しただろう妹に会いたくなる。
【先日、ラビお義兄様がアステルまで来てくださったの。なんだか少ししっかりして見えたからすごく驚いちゃった。顔合わせのときはあんなに根暗な感じだったのに、なんだかイケメンって感じだった。あ、私が根暗って書いたのは内緒にしてね?】
「根暗……」
一緒に読んでいるラビに内緒も何もないと心の中でフォスに謝りながらラビの背中を撫でると頬を掻く。
昔に比べての話なのだから喜んでいいのだろうが、会うまではずっとそう思われていたのだと思うと切なかった。
【お姉様のほうは子供はできそう? 急いでないってお義兄様は言ってたけど、お姉様の考えはどうなのかなって少し気になってたの。ほら、男の人って自分の考えをまるで妻も同意であるように話すときがあるでしょ? まるで二人でちゃんと話し合って出した答えです、みたいな言い方。お義兄様はどっちかと言えばお姉様ファーストみたいだから心配ないかもしれないけど、妊娠だけは天地がひっくり返っても男の人にはできないんだから勝手に答えないでほしい。お伺いを立てろって思う】
「何かあったのね」
「みたいですね」
「何か言ってました?」
「あー……一応、子供の希望人数とか……あと……頑張らないとって笑ってました」
ジョシュアのせいだと納得したアーデルはそのままラビを見つめる。首を傾げるラビだが、アーデルが何を言いたいのかハッとして顔を俯かせて指先を合わせた。
「ぼ、僕は、が、頑張らないとですね、って、その、笑って……しまいました……」
大きな溜息をこぼすアーデルにビクッと肩を跳ねさせると手紙が目の前のローテーブルに置かれた。
膝を突き合わせるように身体を向けたアーデルが膝の上で手を重ねる。
「妊娠するのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「出産するのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「壮絶な苦しみに十ヶ月耐えるのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「壮絶な痛みに耐えるのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「その間、夫は何をしていますか?」
「最愛の妻の無事と我が子が無事に産まれてきてくれることを祈るしかできません」
「ですよね? では、頑張るのは?」
「最愛の妻です」
「頑張らないといけないと夫が笑いながら言うのは?」
「愚行です」
よろしいと頷いたアーデルの前でラビがソファーの上で土下座する。
「すみません! 僕はジョシュア王子の意見に合わせてしまい、同席されたフォス王女のお気持ちなど何も考えずにいました! 僕みたいな根暗がなんて無礼なことをしてしまったのか! 申し訳ありません!」
ここまで小さくなれるのかと驚くほど背を丸めてシートに額を押し付けながらする謝罪にそこまで求めてはいないと苦笑するアーデルが優しく背中を叩いた。ゆっくりと顔を上げたラビの目に映ったアーデルは苦笑のままで、ラビは首を傾げる。
置いた手紙を再度手にしてフォスの書いた一文に目を通すアーデルが指したそこをラビが読んだ。
【どうして女ばかりこんな拷問みたいな機能が備わってるの? 男の人は妊娠させるために出すだけでいいのに、女は妊娠のための出血があって、出産しても老婆になるまでそれが続くのよ。私が老婆になるまでまだ五十年もある。女がそうやって苦しい時間を過ごしてる間は男も同じ苦しみを味わうべきだと思わない? そうでなきゃ女の苦しみなんてわからないもの。例えば──】
そこから先に綴られている具体的な苦しみは男にとって拷問でしかなく、ラビは苦笑にもならないどこか引いたような表情で目を逸らした。
「アーデルもそう思いますか? も、もしアーデルがそう思うのでしたら僕は何か罰を──」
首と手を同時に左右に振るアーデルの苦笑が深まる。
「確かに毎月訪れるものは重たいですし、早く終わればいいなとも思いますが、同じ目に遭えばいいとは思いません。ほとんどの国が第一子を世継ぎと捉えます。国を背負うのは重責です。それから逃れたいと思っても男として生まれただけで強制的に背負わなければならないのです。フォスが書いていたように受けてきた教育は私たち女性からすれば可哀想だと思ってしまうほどのものなのでしょう。あなたもそうです」
「僕は皇子という肩書を持っていただけの人間ですから……」
「でも、とても辛い思いをした」
奥底に封じ込めてしまいたい記憶と感情に今もまだ振り回されるときがある。思い出したくないはずなのに夢に見ては飛び起きる。
女であれば施設から引き取られることはなかっただろう。仮面で隠さなければならないほどの傷を受けることもなかった。だが、幸せになれたかはわからない。施設で日常化していた最低の行為を引き取られた先でも受けたかもしれない。歪んだ道に走った可能性もある。
男に生まれたから強くなれた。アイリスもシャーレも相当に訓練を受けてきたが、あくまでも任務をこなせる程度の話。
無意識に握っていた手を包み込むように手を重ねてくれるアーデルに顔を向けると微笑んで額に唇が押し当てられる。
「女性は命懸けで自分たちの子供を産んでくれるのに、男が口にできることって何もないですよね」
「口にできることは、ね。女性が命懸けで産んだら男性は命懸けで妻子を守る使命ができます」
「もちろんです! 僕はアーデルもお腹の子も守ります! 何があろうと絶対に!」
「そこについては心配していません」
ソファーに手をついて触れるだけのキスをしたあと、ラビがアーデルの腹部を触る。細いと見るたびにそう思っていた腹部は今、少しだけふっくらとしている。絶対に守らなければならない存在がもう一人増えた。でも今はまだ自分はなんの役に立たないと実感する日々。
「長生きもします!」
「約束ですよ」
指切りを交わし、もう一度腹部に触れた瞬間、ラビが目を輝かせた。
「蹴った……! わかりましたか!? 今、お腹蹴りましたよ!!」
「お腹の中で育てているのでわかります」
「すごい! この子は強くなりますよ! だってこんなに力強く蹴るんですから! あっという間に負ける日が来るかもしれないなぁ……」
男でも女でも剣術の稽古は受けさせると決めた。平和な国は存在しても世界中が平和ではない以上、いつどうなるかはわからない。ヒュドールの死神が幸せになることを許さない者もこれから出てくるかもしれない。そうした危機感からラビはアーデルの意見に賛成した。
どちらが生まれてもいいと二人で話したが、アーデルもやはり男の子がいいとは内心思っている。まだまだ女は男に見下される。女に生まれたというだけで。アーデルもヒース亡きあとは戦っていかなければならない。苦しい道になる、とヒースからも言われているだけにいつかのことを考えると今から緊張を覚えるが、それでも逃げたいとは思わない。夫であるラビ・ハインツが常に見守り、慰め、応援し、背を押してくれるだろうから。
今のアーデルは出産の痛みのほうが恐怖である。
「僕は夫として何もできないですけど、出産中の暴言ならちゃんと受け止めますので気にせず吐いてくださいね!」
「たぶん、ラビを気にしている余裕はないと思います」
「あ、じゃあ大丈夫です。僕が勝手にいるだけなので」
「できれば外に出ていてほしいですけどね」
「け、検討させてください。お願いします」
風呂に何度か一緒に入り、互いの身体を見るのに慣れた頃、ベッドの上で正座しながら向かい合った初夜の日を二人は懐かしく思い出す。
ラビが触れると過剰反応を起こしたアーデルにラビが謝る。行為は知っていても大まかな手順しか知らず、どこからどういう風に触っていくのが正解なのかまではラビも知らなかった。緊張で手が痺れるのを感じながら伺い祭りの初夜は今思い出しても互いに苦笑するレベル。それでも二人は嬉しかった。そこから猿のように、とはいかず、慣れた日常を過ごしては互いの気持ちが重なったときにまた正座して向かい合うといった感じだった。
「お願いしますって頭を下げましたよね、お互いに」
「え?」
「初夜の日」
「あ、ああ! 下げました。変ですよね」
「流れがなかったですもんね」
「僕に余裕がなかったばかりに」
あれだけキスだ囁きだと大人の余裕を見せていたラビも本番になるとあまり余裕がなかった。今でこそ少し余裕を見せることもあるが、終わったあとは一人バタバタと動き回ってアーデルの身体を気遣っていた。妊娠が終わったらまた再開と約束し、それまではハグやキスまで。
でもあれこそ自分たちらしいと思っていた。
「僕は、良い夫ではないし、良い父親になれるかもわからない。自信がないんです。でも、覚悟はあります。あなたと子供を守る覚悟だけは」
「それを自信に繋げていけばいいんです。逆にまだなってもいないのに自信があると豪語されても困ります。こればかりは結果を見て判断するものでしょうから」
「が、頑張ります!」
親に捨てられ、引き取られた先で真っ当な教育は受けておらず、良き父親や良き夫がどういうものか手本がいなかった。ヒースを手本にすると言ってはいるものの、子育ての姿は見ていないだけに手探りでやっていかなければならない。
この血塗られた手で抱いてもいいものかと今もまだ迷いはあれど、それを口にすることはアーデルが許さないため胸の内で留めている。
「フォスに返事を書かないと」
「驚きますよ」
「んー、たぶん怒るでしょうね」
「あー……ですね」
安定期に入るまで言うつもりはなかったため年内に何度か交わしたやり取りの中で妊娠については触れなかった。それを読んだらフォスは絶叫しながら怒って手紙を叩くだろう。電話があったら怒鳴られているところだ。
ラビでも容易に想像がつき苦笑を滲ませる中、アーデルは笑顔だった。
ラビに支えられながらゆっくりと立ち上がり、テーブルへと向かう。インクとペン、紙を用意するのはラビの役目。ペン先をインクに浸したら少し落として返事を書き始めた。
【フォス、手紙ありがとう。それと妊娠おめでとう。すごく嬉しい知らせだわ。男の子だといいわね。プレッシャーから解放されたらゆっくり次の子をどうするか考えられるものね。初めての妊娠で戸惑うことばかりでしょうけど、不安や愚痴は全部手紙に書いて、周りにはゆっくり丁寧に話すこと。あなたが大好きだったお菓子を贈るわね。食べ過ぎないように管理してもらって。先に謝っておくわね。先日、ラビがジョシュア王子と子供の話で盛り上がってしまったこと。妊娠しない人が何を頑張るのって思ったわよね。私も聞いて思った。妊娠中のあなたを不快にさせてごめんなさい。ストレスは禁物なのにね。あとそれからこれも謝らせて。安定期に入るまで妊娠を内緒にしてたこと──】
フォスがくれたように何枚分もの言葉を綴った。手紙への返事。妊娠のこと。これからのこと。ラビのこと。きっと怒るだろうと思いながらもアーデルは笑っていた。
「楽しそうですね」
「ええ、とっても」
「あ、また蹴りましたよ!」
「楽しそうですね」
「はい、とっても」
手紙を書いている間、床に座ってお腹に手を当てるラビにもアーデルは笑っていた。
「妊娠!?」
送り主は妹のフォスからで、妊娠したという知らせ。
十六歳となったフォスにとってようやくといったところだろうかと安堵すら与える知らせにアーデルはこの上ない喜びを感じていた。
【妊娠したけど、男の子じゃなかったらどうしようって不安が消えないの。女の子でもいいって言ってくれるけど、周りはやっぱり世継ぎを期待してるから男の子がいいなって思う。だけど、こればっかりは神様からの贈り物だから私の願いどおりにいくわけないし、女の子だったからって愛さないわけじゃない。男の子がいいって口では皆に言ってるけど、私は女の子がいいなって思ってるんだ。だって、可愛いお洋服をたくさん着せてあげたいから。パパとお姉様がそうしてくれたように。でも男の子だったら教育係に取られちゃうでしょ? 私も色々学んではいるけど、彼が受けてきた教育を聞いたら男の子は可哀想だなって思うし】
何がなんでも女の子を産みたいと思っているのだろうことがよく伝わってくる書き方に微笑みながら二枚目に進む。
【でもね、やっぱり初子は男の子がいい。そしたらプレッシャーから解放されるもの。男の子を産むまで子供を作らなきゃいけないなんて絶対に嫌。子作りを義務になんてしたくない。もうね、最悪なんだから。いつから始まっていつ終わったから妊娠に良いタイミングはこの日、って管理までされて、終わってからその日までメニューが特別仕様なの。それ見るだけで気持ち悪くなるし、最適日の朝なんていちいちお知らせまでしてくれるの。ほんっっっっとーにありがたい】
連なる嫌悪と嫌味に笑いが止まらない。年齢にしては大人びているのはフォスも同じ。積極的に交流の場に出ていたからこそ同年代だけでなく大人とも接する機会があり、得てきた情報量はアーデルよりも多い。だからアーデルよりもマセていた部分もあった。それでもやはり一緒にいた十三年間はアーデルにとってまだまだ子供な妹だったのに、今ではすっかり一国の母になる準備をしているのだから驚きだと目を細める。
【そっちはどう? 次期女王様】
きっとこの言葉を笑いながら書いたのだろう。文字が少し揺れている。
【親族の説得に時間がかかったってパパからの手紙に書いてあった。当然よね。自分の息子が継ぐと思ってたのにいきなりムリ~って言われたんだから人生設計狂った!って怒るのもムリない。ましてや女になんて!とかあったんじゃないかな? パパは詳細を書いてくれなかったから知り得ないけど、お姉様がルスを継いでくれるのはとても嬉しいと思ってるの。だって、アステルはこれからもルスと仲良くしていきたいから。私が、じゃないよ? アステルが、ね? まあ、私の故郷だし、親交を深めるのは当然だけど】
素直に安心したと書けばいいものを手紙の中でさえ少し本音を隠すフォスがどんな表情でこの一文を書いたのか、それを想像するだけで楽しくなるし、成長しただろう妹に会いたくなる。
【先日、ラビお義兄様がアステルまで来てくださったの。なんだか少ししっかりして見えたからすごく驚いちゃった。顔合わせのときはあんなに根暗な感じだったのに、なんだかイケメンって感じだった。あ、私が根暗って書いたのは内緒にしてね?】
「根暗……」
一緒に読んでいるラビに内緒も何もないと心の中でフォスに謝りながらラビの背中を撫でると頬を掻く。
昔に比べての話なのだから喜んでいいのだろうが、会うまではずっとそう思われていたのだと思うと切なかった。
【お姉様のほうは子供はできそう? 急いでないってお義兄様は言ってたけど、お姉様の考えはどうなのかなって少し気になってたの。ほら、男の人って自分の考えをまるで妻も同意であるように話すときがあるでしょ? まるで二人でちゃんと話し合って出した答えです、みたいな言い方。お義兄様はどっちかと言えばお姉様ファーストみたいだから心配ないかもしれないけど、妊娠だけは天地がひっくり返っても男の人にはできないんだから勝手に答えないでほしい。お伺いを立てろって思う】
「何かあったのね」
「みたいですね」
「何か言ってました?」
「あー……一応、子供の希望人数とか……あと……頑張らないとって笑ってました」
ジョシュアのせいだと納得したアーデルはそのままラビを見つめる。首を傾げるラビだが、アーデルが何を言いたいのかハッとして顔を俯かせて指先を合わせた。
「ぼ、僕は、が、頑張らないとですね、って、その、笑って……しまいました……」
大きな溜息をこぼすアーデルにビクッと肩を跳ねさせると手紙が目の前のローテーブルに置かれた。
膝を突き合わせるように身体を向けたアーデルが膝の上で手を重ねる。
「妊娠するのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「出産するのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「壮絶な苦しみに十ヶ月耐えるのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「壮絶な痛みに耐えるのは誰ですか?」
「最愛の妻です」
「その間、夫は何をしていますか?」
「最愛の妻の無事と我が子が無事に産まれてきてくれることを祈るしかできません」
「ですよね? では、頑張るのは?」
「最愛の妻です」
「頑張らないといけないと夫が笑いながら言うのは?」
「愚行です」
よろしいと頷いたアーデルの前でラビがソファーの上で土下座する。
「すみません! 僕はジョシュア王子の意見に合わせてしまい、同席されたフォス王女のお気持ちなど何も考えずにいました! 僕みたいな根暗がなんて無礼なことをしてしまったのか! 申し訳ありません!」
ここまで小さくなれるのかと驚くほど背を丸めてシートに額を押し付けながらする謝罪にそこまで求めてはいないと苦笑するアーデルが優しく背中を叩いた。ゆっくりと顔を上げたラビの目に映ったアーデルは苦笑のままで、ラビは首を傾げる。
置いた手紙を再度手にしてフォスの書いた一文に目を通すアーデルが指したそこをラビが読んだ。
【どうして女ばかりこんな拷問みたいな機能が備わってるの? 男の人は妊娠させるために出すだけでいいのに、女は妊娠のための出血があって、出産しても老婆になるまでそれが続くのよ。私が老婆になるまでまだ五十年もある。女がそうやって苦しい時間を過ごしてる間は男も同じ苦しみを味わうべきだと思わない? そうでなきゃ女の苦しみなんてわからないもの。例えば──】
そこから先に綴られている具体的な苦しみは男にとって拷問でしかなく、ラビは苦笑にもならないどこか引いたような表情で目を逸らした。
「アーデルもそう思いますか? も、もしアーデルがそう思うのでしたら僕は何か罰を──」
首と手を同時に左右に振るアーデルの苦笑が深まる。
「確かに毎月訪れるものは重たいですし、早く終わればいいなとも思いますが、同じ目に遭えばいいとは思いません。ほとんどの国が第一子を世継ぎと捉えます。国を背負うのは重責です。それから逃れたいと思っても男として生まれただけで強制的に背負わなければならないのです。フォスが書いていたように受けてきた教育は私たち女性からすれば可哀想だと思ってしまうほどのものなのでしょう。あなたもそうです」
「僕は皇子という肩書を持っていただけの人間ですから……」
「でも、とても辛い思いをした」
奥底に封じ込めてしまいたい記憶と感情に今もまだ振り回されるときがある。思い出したくないはずなのに夢に見ては飛び起きる。
女であれば施設から引き取られることはなかっただろう。仮面で隠さなければならないほどの傷を受けることもなかった。だが、幸せになれたかはわからない。施設で日常化していた最低の行為を引き取られた先でも受けたかもしれない。歪んだ道に走った可能性もある。
男に生まれたから強くなれた。アイリスもシャーレも相当に訓練を受けてきたが、あくまでも任務をこなせる程度の話。
無意識に握っていた手を包み込むように手を重ねてくれるアーデルに顔を向けると微笑んで額に唇が押し当てられる。
「女性は命懸けで自分たちの子供を産んでくれるのに、男が口にできることって何もないですよね」
「口にできることは、ね。女性が命懸けで産んだら男性は命懸けで妻子を守る使命ができます」
「もちろんです! 僕はアーデルもお腹の子も守ります! 何があろうと絶対に!」
「そこについては心配していません」
ソファーに手をついて触れるだけのキスをしたあと、ラビがアーデルの腹部を触る。細いと見るたびにそう思っていた腹部は今、少しだけふっくらとしている。絶対に守らなければならない存在がもう一人増えた。でも今はまだ自分はなんの役に立たないと実感する日々。
「長生きもします!」
「約束ですよ」
指切りを交わし、もう一度腹部に触れた瞬間、ラビが目を輝かせた。
「蹴った……! わかりましたか!? 今、お腹蹴りましたよ!!」
「お腹の中で育てているのでわかります」
「すごい! この子は強くなりますよ! だってこんなに力強く蹴るんですから! あっという間に負ける日が来るかもしれないなぁ……」
男でも女でも剣術の稽古は受けさせると決めた。平和な国は存在しても世界中が平和ではない以上、いつどうなるかはわからない。ヒュドールの死神が幸せになることを許さない者もこれから出てくるかもしれない。そうした危機感からラビはアーデルの意見に賛成した。
どちらが生まれてもいいと二人で話したが、アーデルもやはり男の子がいいとは内心思っている。まだまだ女は男に見下される。女に生まれたというだけで。アーデルもヒース亡きあとは戦っていかなければならない。苦しい道になる、とヒースからも言われているだけにいつかのことを考えると今から緊張を覚えるが、それでも逃げたいとは思わない。夫であるラビ・ハインツが常に見守り、慰め、応援し、背を押してくれるだろうから。
今のアーデルは出産の痛みのほうが恐怖である。
「僕は夫として何もできないですけど、出産中の暴言ならちゃんと受け止めますので気にせず吐いてくださいね!」
「たぶん、ラビを気にしている余裕はないと思います」
「あ、じゃあ大丈夫です。僕が勝手にいるだけなので」
「できれば外に出ていてほしいですけどね」
「け、検討させてください。お願いします」
風呂に何度か一緒に入り、互いの身体を見るのに慣れた頃、ベッドの上で正座しながら向かい合った初夜の日を二人は懐かしく思い出す。
ラビが触れると過剰反応を起こしたアーデルにラビが謝る。行為は知っていても大まかな手順しか知らず、どこからどういう風に触っていくのが正解なのかまではラビも知らなかった。緊張で手が痺れるのを感じながら伺い祭りの初夜は今思い出しても互いに苦笑するレベル。それでも二人は嬉しかった。そこから猿のように、とはいかず、慣れた日常を過ごしては互いの気持ちが重なったときにまた正座して向かい合うといった感じだった。
「お願いしますって頭を下げましたよね、お互いに」
「え?」
「初夜の日」
「あ、ああ! 下げました。変ですよね」
「流れがなかったですもんね」
「僕に余裕がなかったばかりに」
あれだけキスだ囁きだと大人の余裕を見せていたラビも本番になるとあまり余裕がなかった。今でこそ少し余裕を見せることもあるが、終わったあとは一人バタバタと動き回ってアーデルの身体を気遣っていた。妊娠が終わったらまた再開と約束し、それまではハグやキスまで。
でもあれこそ自分たちらしいと思っていた。
「僕は、良い夫ではないし、良い父親になれるかもわからない。自信がないんです。でも、覚悟はあります。あなたと子供を守る覚悟だけは」
「それを自信に繋げていけばいいんです。逆にまだなってもいないのに自信があると豪語されても困ります。こればかりは結果を見て判断するものでしょうから」
「が、頑張ります!」
親に捨てられ、引き取られた先で真っ当な教育は受けておらず、良き父親や良き夫がどういうものか手本がいなかった。ヒースを手本にすると言ってはいるものの、子育ての姿は見ていないだけに手探りでやっていかなければならない。
この血塗られた手で抱いてもいいものかと今もまだ迷いはあれど、それを口にすることはアーデルが許さないため胸の内で留めている。
「フォスに返事を書かないと」
「驚きますよ」
「んー、たぶん怒るでしょうね」
「あー……ですね」
安定期に入るまで言うつもりはなかったため年内に何度か交わしたやり取りの中で妊娠については触れなかった。それを読んだらフォスは絶叫しながら怒って手紙を叩くだろう。電話があったら怒鳴られているところだ。
ラビでも容易に想像がつき苦笑を滲ませる中、アーデルは笑顔だった。
ラビに支えられながらゆっくりと立ち上がり、テーブルへと向かう。インクとペン、紙を用意するのはラビの役目。ペン先をインクに浸したら少し落として返事を書き始めた。
【フォス、手紙ありがとう。それと妊娠おめでとう。すごく嬉しい知らせだわ。男の子だといいわね。プレッシャーから解放されたらゆっくり次の子をどうするか考えられるものね。初めての妊娠で戸惑うことばかりでしょうけど、不安や愚痴は全部手紙に書いて、周りにはゆっくり丁寧に話すこと。あなたが大好きだったお菓子を贈るわね。食べ過ぎないように管理してもらって。先に謝っておくわね。先日、ラビがジョシュア王子と子供の話で盛り上がってしまったこと。妊娠しない人が何を頑張るのって思ったわよね。私も聞いて思った。妊娠中のあなたを不快にさせてごめんなさい。ストレスは禁物なのにね。あとそれからこれも謝らせて。安定期に入るまで妊娠を内緒にしてたこと──】
フォスがくれたように何枚分もの言葉を綴った。手紙への返事。妊娠のこと。これからのこと。ラビのこと。きっと怒るだろうと思いながらもアーデルは笑っていた。
「楽しそうですね」
「ええ、とっても」
「あ、また蹴りましたよ!」
「楽しそうですね」
「はい、とっても」
手紙を書いている間、床に座ってお腹に手を当てるラビにもアーデルは笑っていた。
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