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聖女
わけもわからぬまま連れて行かれたのは賓客室ではなく、パーティーなどを開く大ホール。あまりにも大仰すぎやしないかと思ったが、誰もが不安になっていた闇を祓い、誰よりも国民に安堵を与えた聖女を狭い部屋でもてなすわけにはいかないと考えたファーディナンドの考えもわかる。
淡い赤のドレスに身を包み、大ホールの玉座に腰掛けたまま目の前に広がる光景を冷静に見つめるイベリスの後ろにはサーシャとウォルフが待機している。
大勢の貴族と使用人全員が集まった大ホールには豪勢な食事と酒が振る舞われ、玉座へと続く階段の前にはドアから続く赤い絨毯。
(晴れました記念パーティーの開催ね)
結婚式のときよりもずっと盛り上がっているような気がすると不貞腐れたくなりながらも仕方ないと理解はしている。自分はただ闇雲に皆を困惑させただけ。聖女は国民の心を救ったのだから。
だが、肝心の聖女はまだ登場していない。
〈聖女は?〉
〈お化粧直しではないですか?〉
〈女は化粧し始めると長いからな。そんな大した女には見えなかったけど〉
聖女を嫌っている二人はさほど興味がないようだった。
すぐ近くにファーディナンドがいるためウォルフでさえ筆談をする。この国を救ってくれた聖女に感謝しているファーディナンドに今の言葉は聞かせられない。
〈俺はイベリス様のほうがずっと愛らしくて美人だと思いますよ〉
〈美人って初めて言われた〉
〈俺は出会った瞬間からそう思ってました〉
〈あら、思ってただけで伝えるほどじゃなかったってことね?〉
「ち、違いますよ! なんてこと言うんですか!」
「ウォルフ、静かにしろ」
あえて意地悪に言ったせいで焦ったウォルフが声を出し、叱られた。むくれたような顔をイベリスに向けるウォルフに声が出ていればヒヒヒッと笑っただろう悪戯めいた笑顔を返す。
サーシャから再びペンを借りて書いた言葉をイベリスに見せた。
〈イベリス様は既婚者で、俺は独身。愛らしくて美人だ、なんて言ったら下心あるみたいじゃないですか〉
〈純粋な好意ってこと?〉
〈純粋にそう思ったというだけです〉
〈口説いてるって陛下に思われでもしたら大変なことになりますから〉
〈あら、手を引いてグラキエスに連れて逃げてはくれないの?〉
あきらかにからかっているとわかっていながらもウォルフは少し迷った。どう答えるべきか。からかいにはからかいで返すべきか、それとも真実か。ジッとメモ帳に書かれてある言葉を暫し見つめたあと、ウォルフが返事を書いた。
〈もし、あなたがそれを望む日が来たときは、必ずそうします〉
驚いたように目を瞬かせるイベリスが見たウォルフの表情は真剣なもので、冗談だと笑って指先を揺らすこともできなかった。だって、これはイベリスにとってとても嬉しい言葉だったから。
逃げ出したいと思う日がないわけではない。ただボーッとしているだけの瞬間に、湯に浸かって髪を洗ってもらっているときに、鏡の中の自分と見つめ合っている時間に、唐突に逃げ出したくなる。夜の闇に紛れて、裸足のまま、外へと飛び出して、ここからできるだけ遠くまで逃げる。そんな妄想をする日がある。
実行しようとしたことはない。裸足で外に出たところでそう遠くまで逃げられるはずがない。イベリスにとってここは知らない国、知らない土地だが、国民はイベリスの顔をよく知っている。裸足で走っている少女が一体誰なのか確認したらすぐに城に連絡が入るはず。そしたら騎士が駆けつけ、あっという間に捕まる。ファーディナンドからまた嫌味を言われ、今度は閉じ込められるかもしれない。
残り少ない月日を自由に過ごせないなどごめんだし、現実的ではないとわかっているため実行せずにいる。
だが、ウォルフが本気なら心強い。一緒に逃げてくれる人がいるというだけで乗り越えられる気持ちが湧いてくる。イベリスは今、とても幸せな気持ちで満たされていた。
〈ありがとう〉
手話で返されるとウォルフは笑顔で頷く。そしてドアが開くと表情を無に変え、イベリスに前を向くよう促した。
顔を前へと戻すといつの間にかドアが開いていた。聖女の姿はまだない。まるでこれからお色直しをした新郎新婦が入ってくるような演出だと思いながらその登場を待つ。
(あれが聖女)
会場内がワッと沸く。耳が聞こえないイベリスでもその声がわかる気がするほど彼らの表情は明るい。
カールロングヘアの黒髪をふわりと揺らしながら赤い絨毯の上を優雅に歩く褐色肌の女性が聖女かと確認するまでもない。隣に座るファーディナンドの表情が明るいのだ。
「そなたがテロスの闇を払ってくれた聖女だな?」
促されるがまま玉座へ続く階段前で止まった聖女が恭しくカーテシーをし、上品に微笑んだ。
(ファーディナンドが好きそうな笑顔ね)
彼の計画を知ったときはロベリアになろうとしたが、バカバカしくなってやめてから上品に笑ったことはほとんどない。距離を取ろうとしたが、ファーディナンドが詰めてくるため避けるほうが面倒になってやめた。
自分はあんな風に上品には笑えない。淑女と言われる女性にはなれそうもない。だからだろうか、一目見てあまり好きじゃないと思った。
(嫉妬……?)
ロベリアには会ったことはないが、どことなくロベリアと似た人種なのではないかと感じるのは笑顔のせいか。イベリスは誰にも言っていないが、ロベリアの笑顔が嘘くさくて嫌いだった。気取っているとかそういうことではなく、肖像画にしろ写真にしろ、どれも不気味に思えて仕方なかった。聖女の笑顔もそれによく似た感覚を覚えた。
「イーリス・ラ・サルメンハーラと申します」
「おお、イーリスと申すのか。俺の妻はイベリスという。聖女と妻の名が近しいのは嬉しいな」
顔を向けてくるファーディナンドを無視する。名前が近いからなんだ。名前が近いと何が嬉しいんだと反発したい気持ちすらある。良くないとわかっていてもイベリスは愛想を振り撒く気にはなれなかった。
「続く闇は大いなる災いをもたらし、全てを破滅へと導くだろう。聖人だった父の言葉です。微力ではございますが、私の力がテロスのお役に立てたのであれば幸い。持てる力は誰かのために。それが私の信念ですから」
「立派な信念だ。おかげで民を不安の渦から救い出すことができた」
「不安は怒りへ変わり、怒りは暴力と殺意に変わる。それが防げてよかったです」
「感謝する。何か望むことはないか? テロスを救ってくれた救世主をそのまま返すわけにはいかん。なんでも言ってくれ」
鼻が痒い。小指を突っ込んで掻きたい衝動に駆られている。皇妃として公衆の面前では許されない行為だろうが、そうしてしまいたいぐらいにはイベリスにはどうでもよかった。
民が不安から解放されたのは喜ぶべきなのだろうが、正直、ファーディナンドほど喜んではいない。ロベリアと似すぎているせいで戸惑いを見せ、仕方ないことではあるが、四回目の命日では民は新たな皇妃を歓迎していないと示すような視線を向けてきた。言えばきっと最低だと非難されるし、失望されるだろうから言わないと決めているが、実際のところイベリスの中ではその程度。
後ろを振り返ってサーシャとウォルフとお喋りをしているほうがずっと楽しい。
退屈を顔に出さないよう表情を固定していると聖女と目が合った。ニコッと微笑まれたためニコッと返す。嫌いな笑顔だと改めて思う。
「はじめまして、皇妃様。イーリスと申します」
「妻は耳が聞こえないんだ」
「あ、そうでしたか! そうとは知らず、失礼いたしました!」
「かまわん。気にしていない」
(それはあなたが言うことじゃないでしょ?)
「どうした?」
人の感情を読み取るのが下手というよりは人の心を読み取るのが下手な男だと呆れてしまう。後ろを振り返って二人と目を合わせたイベリスは片頬だけ上げてオエッと言い出しそうな顔を見せ、二人は同意するように頷いた。
淡い赤のドレスに身を包み、大ホールの玉座に腰掛けたまま目の前に広がる光景を冷静に見つめるイベリスの後ろにはサーシャとウォルフが待機している。
大勢の貴族と使用人全員が集まった大ホールには豪勢な食事と酒が振る舞われ、玉座へと続く階段の前にはドアから続く赤い絨毯。
(晴れました記念パーティーの開催ね)
結婚式のときよりもずっと盛り上がっているような気がすると不貞腐れたくなりながらも仕方ないと理解はしている。自分はただ闇雲に皆を困惑させただけ。聖女は国民の心を救ったのだから。
だが、肝心の聖女はまだ登場していない。
〈聖女は?〉
〈お化粧直しではないですか?〉
〈女は化粧し始めると長いからな。そんな大した女には見えなかったけど〉
聖女を嫌っている二人はさほど興味がないようだった。
すぐ近くにファーディナンドがいるためウォルフでさえ筆談をする。この国を救ってくれた聖女に感謝しているファーディナンドに今の言葉は聞かせられない。
〈俺はイベリス様のほうがずっと愛らしくて美人だと思いますよ〉
〈美人って初めて言われた〉
〈俺は出会った瞬間からそう思ってました〉
〈あら、思ってただけで伝えるほどじゃなかったってことね?〉
「ち、違いますよ! なんてこと言うんですか!」
「ウォルフ、静かにしろ」
あえて意地悪に言ったせいで焦ったウォルフが声を出し、叱られた。むくれたような顔をイベリスに向けるウォルフに声が出ていればヒヒヒッと笑っただろう悪戯めいた笑顔を返す。
サーシャから再びペンを借りて書いた言葉をイベリスに見せた。
〈イベリス様は既婚者で、俺は独身。愛らしくて美人だ、なんて言ったら下心あるみたいじゃないですか〉
〈純粋な好意ってこと?〉
〈純粋にそう思ったというだけです〉
〈口説いてるって陛下に思われでもしたら大変なことになりますから〉
〈あら、手を引いてグラキエスに連れて逃げてはくれないの?〉
あきらかにからかっているとわかっていながらもウォルフは少し迷った。どう答えるべきか。からかいにはからかいで返すべきか、それとも真実か。ジッとメモ帳に書かれてある言葉を暫し見つめたあと、ウォルフが返事を書いた。
〈もし、あなたがそれを望む日が来たときは、必ずそうします〉
驚いたように目を瞬かせるイベリスが見たウォルフの表情は真剣なもので、冗談だと笑って指先を揺らすこともできなかった。だって、これはイベリスにとってとても嬉しい言葉だったから。
逃げ出したいと思う日がないわけではない。ただボーッとしているだけの瞬間に、湯に浸かって髪を洗ってもらっているときに、鏡の中の自分と見つめ合っている時間に、唐突に逃げ出したくなる。夜の闇に紛れて、裸足のまま、外へと飛び出して、ここからできるだけ遠くまで逃げる。そんな妄想をする日がある。
実行しようとしたことはない。裸足で外に出たところでそう遠くまで逃げられるはずがない。イベリスにとってここは知らない国、知らない土地だが、国民はイベリスの顔をよく知っている。裸足で走っている少女が一体誰なのか確認したらすぐに城に連絡が入るはず。そしたら騎士が駆けつけ、あっという間に捕まる。ファーディナンドからまた嫌味を言われ、今度は閉じ込められるかもしれない。
残り少ない月日を自由に過ごせないなどごめんだし、現実的ではないとわかっているため実行せずにいる。
だが、ウォルフが本気なら心強い。一緒に逃げてくれる人がいるというだけで乗り越えられる気持ちが湧いてくる。イベリスは今、とても幸せな気持ちで満たされていた。
〈ありがとう〉
手話で返されるとウォルフは笑顔で頷く。そしてドアが開くと表情を無に変え、イベリスに前を向くよう促した。
顔を前へと戻すといつの間にかドアが開いていた。聖女の姿はまだない。まるでこれからお色直しをした新郎新婦が入ってくるような演出だと思いながらその登場を待つ。
(あれが聖女)
会場内がワッと沸く。耳が聞こえないイベリスでもその声がわかる気がするほど彼らの表情は明るい。
カールロングヘアの黒髪をふわりと揺らしながら赤い絨毯の上を優雅に歩く褐色肌の女性が聖女かと確認するまでもない。隣に座るファーディナンドの表情が明るいのだ。
「そなたがテロスの闇を払ってくれた聖女だな?」
促されるがまま玉座へ続く階段前で止まった聖女が恭しくカーテシーをし、上品に微笑んだ。
(ファーディナンドが好きそうな笑顔ね)
彼の計画を知ったときはロベリアになろうとしたが、バカバカしくなってやめてから上品に笑ったことはほとんどない。距離を取ろうとしたが、ファーディナンドが詰めてくるため避けるほうが面倒になってやめた。
自分はあんな風に上品には笑えない。淑女と言われる女性にはなれそうもない。だからだろうか、一目見てあまり好きじゃないと思った。
(嫉妬……?)
ロベリアには会ったことはないが、どことなくロベリアと似た人種なのではないかと感じるのは笑顔のせいか。イベリスは誰にも言っていないが、ロベリアの笑顔が嘘くさくて嫌いだった。気取っているとかそういうことではなく、肖像画にしろ写真にしろ、どれも不気味に思えて仕方なかった。聖女の笑顔もそれによく似た感覚を覚えた。
「イーリス・ラ・サルメンハーラと申します」
「おお、イーリスと申すのか。俺の妻はイベリスという。聖女と妻の名が近しいのは嬉しいな」
顔を向けてくるファーディナンドを無視する。名前が近いからなんだ。名前が近いと何が嬉しいんだと反発したい気持ちすらある。良くないとわかっていてもイベリスは愛想を振り撒く気にはなれなかった。
「続く闇は大いなる災いをもたらし、全てを破滅へと導くだろう。聖人だった父の言葉です。微力ではございますが、私の力がテロスのお役に立てたのであれば幸い。持てる力は誰かのために。それが私の信念ですから」
「立派な信念だ。おかげで民を不安の渦から救い出すことができた」
「不安は怒りへ変わり、怒りは暴力と殺意に変わる。それが防げてよかったです」
「感謝する。何か望むことはないか? テロスを救ってくれた救世主をそのまま返すわけにはいかん。なんでも言ってくれ」
鼻が痒い。小指を突っ込んで掻きたい衝動に駆られている。皇妃として公衆の面前では許されない行為だろうが、そうしてしまいたいぐらいにはイベリスにはどうでもよかった。
民が不安から解放されたのは喜ぶべきなのだろうが、正直、ファーディナンドほど喜んではいない。ロベリアと似すぎているせいで戸惑いを見せ、仕方ないことではあるが、四回目の命日では民は新たな皇妃を歓迎していないと示すような視線を向けてきた。言えばきっと最低だと非難されるし、失望されるだろうから言わないと決めているが、実際のところイベリスの中ではその程度。
後ろを振り返ってサーシャとウォルフとお喋りをしているほうがずっと楽しい。
退屈を顔に出さないよう表情を固定していると聖女と目が合った。ニコッと微笑まれたためニコッと返す。嫌いな笑顔だと改めて思う。
「はじめまして、皇妃様。イーリスと申します」
「妻は耳が聞こえないんだ」
「あ、そうでしたか! そうとは知らず、失礼いたしました!」
「かまわん。気にしていない」
(それはあなたが言うことじゃないでしょ?)
「どうした?」
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