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子守唄
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ハロルドは睡眠は六時間と決めているため起きる時間から逆算して眠りに入る準備をするのだが、今日はベッドに入っても眠れないでいた。
寝る前にコーヒーを飲んだのが間違いだっただろうかといつもはハーブティーを飲んで寝るのを今日は気分的にコーヒーにしてしまったため体内時計が狂ってしまった。
無理して寝ようとするとストレスを感じるため諦めて散歩でもしてリラックスしようとガウンを羽織って準備をすると窓から“ユズリハ邸”の明かりがついているのが見えた。
「まだ起きてるのか?」
時刻はとっくに日付を変えている。普段、寝る前にユズリハの家を見ることはないため明かりをどうしているのかは知らないが、朝食時に訪ねてもしっかりと髪型も服装も整えているため寝起きを見たことはない。
何かあったのだろうかと物音を立てないように部屋を出て外へと急ぐと門の前で立ち止まった。
大門と呼ばれる門が閉まっているのは見たことがない。ヘインズ家の敷地内で閉める必要はないが、意味のない物をなぜ付けたんだと疑問に思う。そのおかげで中に入れるわけだが、こっちでも物音を立てないように忍足で向かうとユズリハが起きているのが見えた。縁側に座って夜空を見上げている。
「また趣味の覗きかい?」
「ッ!? うわぁああああああああああッ!?」
「な、なんじゃ!? 何事じゃ!?」
入る前に後ろを確認したが誰もいなかった。気配はなかったのに声は後ろからした。それも耳のすぐ近くで。
驚きのあまり今が何時かも忘れて大声を上げるハロルドの声に驚いたユズリハが飛び上がって庭に出た。
パパパパパパッとヘインズ家の明かりがついて窓が開く。そこから一番に顔を出したのは祖父のウォルター。
「シキ! 何があった!」
シキが仕留めたのだと確信して言葉をかけるウォルターに「ご安心を。お孫さんです」と答えると「始末しておけ」と言葉が返ってきた。睡眠を邪魔されるのを嫌う祖父らしい言葉に苦笑しながら「悪い」と謝るとシキが離れた。
「まさか本格的に夜這いをかけに来るとはねぇ」
「ち、違う! 夜這いじゃない!」
「ああ、なんじゃ……そなたであったか。脅かすな」
「それはシキに言ってくれ。僕は心臓が止まるかと思った」
「すまぬな。シキは気配に敏感で、そなたを不審者と思うのじゃろう」
日付が変わった頃に訪問するのは非常識で、誰も歓迎はしない。眠れないから散歩に出たのならそのまま散歩をして帰ればいいだけのこと。わざわざ人の家を訪ねる理由はない。
勘違いさせてしまった自分が悪いと謝ると後頭部を掻きながら眠たげに欠伸をするシキが「茶は出さんぜ」と念押しして家の中へと入っていった。
「そなたも眠れぬのか?」
「も、ってことはお前も眠れないのか?」
「月明かりが眩しゅうてな」
ユズリハの視線を追って空を見上げると確かに月が出ている。普段見るよりも大きく見える月明かりが確かに庭を照らしている。
「眠れぬから夜這いに来たのか? わらわ、なんの準備しておらぬぞ」
「夜這いじゃないって言ってるだろ。僕はそこまで飢えてない」
「アーリーンで済ませたか」
「……お前、本当に下品な女だな」
最低な発言だと非難するもユズリハは笑う。
「父上譲りでな」
迎えた初日の宴でも大声で下ネタを言っていた気がすると曖昧な記憶を辿っては女である相手がそれを継いでしまったのが残念だと横目で見ると目が合った。
「眠れぬのなら子守唄でも歌ってやろうか?」
「子供じゃないんだ、必要ない」
「そうか。わらわは時々、父上にせがまれて歌ってやったがのう」
「あの人が子守唄をせがむ? 想像できないな……」
「よほど疲れておるときだけじゃがな」
娘に子守唄をせがむダイゴロウを想像しようとしてもできない。それこそ気持ち悪い駄々っ子のような姿で、ありえないと首を振ってはユズリハのあとを追って縁側に腰かける。
ユズリハが座ったことで揺れた髪から漂う匂いにドキッとした。女きょうだいのいないハロルドはそういう経験がない。母親と風呂に入ったことはないし、髪が濡れた母親を見たこともない。
髪から香水ではない良い匂いがするのは変な感じだった。
「風呂に入ったのか?」
「そなたが夜這いに来ると知っておったらもっと念入りに準備したのじゃがのう」
「…………なんの準備だよ」
呟くように問いかけたハロルドを見るユズリハの顔はひどいもので、からかってくる同級生よりもニヤついている。
「気になるか? 気になるのか?」
「は!? 違う! お前がずっと準備準備って言うからなんの準備があるんだって聞いただけで気になったから聞いたわけじゃないしお前に興味があるわけでもないし僕は絶対に夜這いなんかしないからな!!」
一度も息を吸わないまま全て息を吐き出すと同時に言いきったハロルドに拍手をする。これさえもからかいなのだからと眉を寄せる。
「僕をからかって楽しんでるお前は性悪だ」
「ああ、そうじゃな。わらわはそなたをからかうのが楽しい。そなたとこうして話していること自体が楽しいのじゃ」
そう言われると悪い気はしない。
「お前は寛大だな。僕はお前にずっとひどい態度を取り続けていたのに。許してもらえなくても当然なことばかりしたんだぞ。なんで許すんだ?」
「許さぬ理由がないからじゃ」
当たり前のように言う相手の優しさを感じるだけで自分がどれだけ小さい人間かを思い知る。
貴族としてあるべき姿を持っているのは貴族として生まれた自分ではなく商家の娘として生まれたユズリハのほうだと情けなくて膝を抱えた。
膝に顎を乗せて前後に身体を小さく揺らすハロルドに微笑みながらユズリハは足を揺らす。
「わらわは人を恨むな、人を許せと教えられて育った。騙されても相手を恨んではいけない。信用していた相手に騙されたときは相手には騙さなければならない理由があったのだと思え。ただ騙された場合は相手の悪意を見抜けなかった自分を恨め、と」
「騙されて相手を恨むなっておかしいだろ」
「わらわも幼き頃はそう思うておった。じゃが、それが自分のためだとわかった」
「わかったキッカケは?」
「父上の人生がそうであるから、かのう」
どういう意味だと安易には聞けなかった。騙されても許せという話をしている中でダイゴロウの人生と掛けられると嫌な想像に頭が働く。
何か言おうと口を開いては何も言わずに口を閉じるハロルドを見て「大した話ではない」と続けた。
「商人の仕事は賭け事にも似ていると父上は言う。己が目と口と行動だけで儲けを出さなければならない。自分と相手の一騎打ち。そこにあるのは平穏か不穏か、というときもあるらしい。父上は人を騙す人間ではないが、騙される人間ではあった。商品だけ取られて金が入ってこなんだことも一度や二度ではない。それでも父上は怒りを爆発させるわけでもなく、頭を抱えて言うのじゃ。やっちまった、とな」
その姿は見たことがないのに、まるで見たことがあるかのように鮮明に映像として浮かんでくる。情けない笑みを浮かべながらそう言って皆に謝るのだろう。そして一人になったときに悔しがる。
それは彼のことを知らないハロルドでもダイゴロウらしいと思った。
「八年前だったか……仕事仲間に売上金の半分を持ち逃げされたことがあったが、父上はそれを怒らなかった。長年やってきた相手、事情があると思うのじゃろう。裏切り者と憤慨するわらわに父上は怒るなと言った。そうしなきゃいけないだけの理由があった。全部持っていくこともできたのに半分残したんだ。半分あれば今月はなんとかなる。アイツはその半分がなきゃ明日どうなるかわからないことになってんのかもしれねぇだろ、と。そんなことは七歳のわらわには父上の言うておることは強がりにしか聞こえなんだが、その五年後、そやつは金を返しに来た」
「よく顔出せたな……」
「じゃろう? わらわもそう思う。大の大人が泣きじゃくって土下座をする様は嘘でも微笑ましいとは言えぬものよ。父上の手前、誰も何も言わなんだが、皆の目には怒りが宿っておった。父上だけが、奴を抱きしめて許した。もう大丈夫なのか?と声をかけて……」
足元を見ながら肩の力を抜くように息を吐き出したユズリハが少し話を止める。当時のことを思い出しているのだろう。
泣いているのだろうかと少し顔を覗き込んでみるも泣いてはいない。
「人を許すことが自分のためだと父上は言った。人を恨めばその感情に死ぬまで取り憑かれることになる。相手を恨み続けるぐらいなら許したほうが楽になれる。大事なのは自分の感情を操ること。父上はいつもそう言うておる。いつだって笑顔でいることが大事だ。そして人を恨まず許すこと。父上の信念を見習いたいと思うて日々過ごしておる。あの志は気高く美しいものなのじゃ」
ダイゴロウはずっと笑っていた。港に着いてから帰るまでずっと笑顔だった。何がそんなに面白いのかと怪訝に思っていたが、実際は見せ物のように見てくる異国人に良い気はしていなかったのかもしれない。それでも笑顔でいれば悪印象を与えることはないから笑顔でいる。
ユズリハもそうなのだと微笑む相手の横顔を見つめて手を伸ばした。
夜よりも暗い真っ黒な髪色。指先で触れるそれはシルクを触っているような触り心地で傷みがない。髪の長さを計るように毛先へと指を下ろすハロルドの表情をユズリハがジッと見つめる。
「どうした?」
「え? あっ、や、違っ、あの、えっと、あれ、何やって……! 悪い……無意識だ……」
確認なしに女性に触れるのはマナー違反であることはわかっている。だから紳士は必ず女性に伺いを立ててから行動する。ハロルドもそう教わってきたのに、ユズリハの髪に触れたのは完全に無意識から。何やってるんだと顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、膝の間に顔を埋めた。
「言い訳だから言い訳として聞いてほしいんだけど……」
「うむ」
「お前もいつだって笑顔だったなと思ったらなんか……なんかわからないけど……」
言葉にできない感情が込み上げている。それを言葉にするのはあまりにも無責任で勝手すぎるからと喉元まで込み上げている言葉を必死に飲み込んだ。
嫌悪していた相手にこれだけ感情を動かされている理由がわからない。
「触れたくなった」
一応選んだ言葉を告げてギュッと目を閉じるハロルドの耳に言葉は聞こえない。大笑いするか、からかうかのどちらかが聞こえてくると思っていたのに、何も聞こえてこないことが不安になって顔を上げるとユズリハがこちらを見て微笑んでいる。いつもの笑顔。
「感謝する」
予想外の言葉に目を瞬かせるとユズリハが自分の太ももをトントンと叩く。
「どれ、眠れぬそなたに子守唄を歌ってやろう」
「い、いいよ! 帰って横になったら寝れる!」
「まあ、そう言うな。明日も学校であろう。寝不足はいかぬぞ。物は試しじゃ。ほれ、遠慮するな」
「おい、やめろ! 僕はするなんて言ってな……この馬鹿力ッ!」
その小柄な身体のどこにそんな力を秘めているんだと女であることを疑いたくなるほどの力に負けてバランスを崩したハロルドの頭がユズリハの太ももに落ちた。
ドレスのように分厚くない生地が太ももの感触を生々しくわからせる。緊張で力が入ってしまうハロルドの顔を覗き込んで「これ」と注意した。
「身体の力を抜かぬと眠れぬであろう」
「僕は自分のベッドじゃなきゃ眠れないんだ。枕が変わっても眠れなくなるんだよ」
「やれやれ、そんな繊細で生きていけるのか心配じゃのう」
「だから部屋に帰……」
「とりあえず目を閉じよ。ここからはお喋りは厳禁じゃ」
ハロルドの目の上にユズリハが手を置く。やはり小さい。アーリーンの手も小さいと思ったが、ユズリハの手はそれよりも小さかった。指が長いアーリーンと違ってそれほど指の長さは感じない、子供のような手。だが、程よく冷たくて気持ちいい。
ゆっくりと息を吐いて身体の力を抜いたのを合図のようにユズリハが歌い始める。
聞いたことのない歌。耳心地の良い歌声が夜空に流れていく。
胸の上で手が一定のリズムを刻むのも心地良さに抵抗する気も起きず、ハロルドは泥の中の落ちるように久しぶりに深い眠りに落ちていった。
寝る前にコーヒーを飲んだのが間違いだっただろうかといつもはハーブティーを飲んで寝るのを今日は気分的にコーヒーにしてしまったため体内時計が狂ってしまった。
無理して寝ようとするとストレスを感じるため諦めて散歩でもしてリラックスしようとガウンを羽織って準備をすると窓から“ユズリハ邸”の明かりがついているのが見えた。
「まだ起きてるのか?」
時刻はとっくに日付を変えている。普段、寝る前にユズリハの家を見ることはないため明かりをどうしているのかは知らないが、朝食時に訪ねてもしっかりと髪型も服装も整えているため寝起きを見たことはない。
何かあったのだろうかと物音を立てないように部屋を出て外へと急ぐと門の前で立ち止まった。
大門と呼ばれる門が閉まっているのは見たことがない。ヘインズ家の敷地内で閉める必要はないが、意味のない物をなぜ付けたんだと疑問に思う。そのおかげで中に入れるわけだが、こっちでも物音を立てないように忍足で向かうとユズリハが起きているのが見えた。縁側に座って夜空を見上げている。
「また趣味の覗きかい?」
「ッ!? うわぁああああああああああッ!?」
「な、なんじゃ!? 何事じゃ!?」
入る前に後ろを確認したが誰もいなかった。気配はなかったのに声は後ろからした。それも耳のすぐ近くで。
驚きのあまり今が何時かも忘れて大声を上げるハロルドの声に驚いたユズリハが飛び上がって庭に出た。
パパパパパパッとヘインズ家の明かりがついて窓が開く。そこから一番に顔を出したのは祖父のウォルター。
「シキ! 何があった!」
シキが仕留めたのだと確信して言葉をかけるウォルターに「ご安心を。お孫さんです」と答えると「始末しておけ」と言葉が返ってきた。睡眠を邪魔されるのを嫌う祖父らしい言葉に苦笑しながら「悪い」と謝るとシキが離れた。
「まさか本格的に夜這いをかけに来るとはねぇ」
「ち、違う! 夜這いじゃない!」
「ああ、なんじゃ……そなたであったか。脅かすな」
「それはシキに言ってくれ。僕は心臓が止まるかと思った」
「すまぬな。シキは気配に敏感で、そなたを不審者と思うのじゃろう」
日付が変わった頃に訪問するのは非常識で、誰も歓迎はしない。眠れないから散歩に出たのならそのまま散歩をして帰ればいいだけのこと。わざわざ人の家を訪ねる理由はない。
勘違いさせてしまった自分が悪いと謝ると後頭部を掻きながら眠たげに欠伸をするシキが「茶は出さんぜ」と念押しして家の中へと入っていった。
「そなたも眠れぬのか?」
「も、ってことはお前も眠れないのか?」
「月明かりが眩しゅうてな」
ユズリハの視線を追って空を見上げると確かに月が出ている。普段見るよりも大きく見える月明かりが確かに庭を照らしている。
「眠れぬから夜這いに来たのか? わらわ、なんの準備しておらぬぞ」
「夜這いじゃないって言ってるだろ。僕はそこまで飢えてない」
「アーリーンで済ませたか」
「……お前、本当に下品な女だな」
最低な発言だと非難するもユズリハは笑う。
「父上譲りでな」
迎えた初日の宴でも大声で下ネタを言っていた気がすると曖昧な記憶を辿っては女である相手がそれを継いでしまったのが残念だと横目で見ると目が合った。
「眠れぬのなら子守唄でも歌ってやろうか?」
「子供じゃないんだ、必要ない」
「そうか。わらわは時々、父上にせがまれて歌ってやったがのう」
「あの人が子守唄をせがむ? 想像できないな……」
「よほど疲れておるときだけじゃがな」
娘に子守唄をせがむダイゴロウを想像しようとしてもできない。それこそ気持ち悪い駄々っ子のような姿で、ありえないと首を振ってはユズリハのあとを追って縁側に腰かける。
ユズリハが座ったことで揺れた髪から漂う匂いにドキッとした。女きょうだいのいないハロルドはそういう経験がない。母親と風呂に入ったことはないし、髪が濡れた母親を見たこともない。
髪から香水ではない良い匂いがするのは変な感じだった。
「風呂に入ったのか?」
「そなたが夜這いに来ると知っておったらもっと念入りに準備したのじゃがのう」
「…………なんの準備だよ」
呟くように問いかけたハロルドを見るユズリハの顔はひどいもので、からかってくる同級生よりもニヤついている。
「気になるか? 気になるのか?」
「は!? 違う! お前がずっと準備準備って言うからなんの準備があるんだって聞いただけで気になったから聞いたわけじゃないしお前に興味があるわけでもないし僕は絶対に夜這いなんかしないからな!!」
一度も息を吸わないまま全て息を吐き出すと同時に言いきったハロルドに拍手をする。これさえもからかいなのだからと眉を寄せる。
「僕をからかって楽しんでるお前は性悪だ」
「ああ、そうじゃな。わらわはそなたをからかうのが楽しい。そなたとこうして話していること自体が楽しいのじゃ」
そう言われると悪い気はしない。
「お前は寛大だな。僕はお前にずっとひどい態度を取り続けていたのに。許してもらえなくても当然なことばかりしたんだぞ。なんで許すんだ?」
「許さぬ理由がないからじゃ」
当たり前のように言う相手の優しさを感じるだけで自分がどれだけ小さい人間かを思い知る。
貴族としてあるべき姿を持っているのは貴族として生まれた自分ではなく商家の娘として生まれたユズリハのほうだと情けなくて膝を抱えた。
膝に顎を乗せて前後に身体を小さく揺らすハロルドに微笑みながらユズリハは足を揺らす。
「わらわは人を恨むな、人を許せと教えられて育った。騙されても相手を恨んではいけない。信用していた相手に騙されたときは相手には騙さなければならない理由があったのだと思え。ただ騙された場合は相手の悪意を見抜けなかった自分を恨め、と」
「騙されて相手を恨むなっておかしいだろ」
「わらわも幼き頃はそう思うておった。じゃが、それが自分のためだとわかった」
「わかったキッカケは?」
「父上の人生がそうであるから、かのう」
どういう意味だと安易には聞けなかった。騙されても許せという話をしている中でダイゴロウの人生と掛けられると嫌な想像に頭が働く。
何か言おうと口を開いては何も言わずに口を閉じるハロルドを見て「大した話ではない」と続けた。
「商人の仕事は賭け事にも似ていると父上は言う。己が目と口と行動だけで儲けを出さなければならない。自分と相手の一騎打ち。そこにあるのは平穏か不穏か、というときもあるらしい。父上は人を騙す人間ではないが、騙される人間ではあった。商品だけ取られて金が入ってこなんだことも一度や二度ではない。それでも父上は怒りを爆発させるわけでもなく、頭を抱えて言うのじゃ。やっちまった、とな」
その姿は見たことがないのに、まるで見たことがあるかのように鮮明に映像として浮かんでくる。情けない笑みを浮かべながらそう言って皆に謝るのだろう。そして一人になったときに悔しがる。
それは彼のことを知らないハロルドでもダイゴロウらしいと思った。
「八年前だったか……仕事仲間に売上金の半分を持ち逃げされたことがあったが、父上はそれを怒らなかった。長年やってきた相手、事情があると思うのじゃろう。裏切り者と憤慨するわらわに父上は怒るなと言った。そうしなきゃいけないだけの理由があった。全部持っていくこともできたのに半分残したんだ。半分あれば今月はなんとかなる。アイツはその半分がなきゃ明日どうなるかわからないことになってんのかもしれねぇだろ、と。そんなことは七歳のわらわには父上の言うておることは強がりにしか聞こえなんだが、その五年後、そやつは金を返しに来た」
「よく顔出せたな……」
「じゃろう? わらわもそう思う。大の大人が泣きじゃくって土下座をする様は嘘でも微笑ましいとは言えぬものよ。父上の手前、誰も何も言わなんだが、皆の目には怒りが宿っておった。父上だけが、奴を抱きしめて許した。もう大丈夫なのか?と声をかけて……」
足元を見ながら肩の力を抜くように息を吐き出したユズリハが少し話を止める。当時のことを思い出しているのだろう。
泣いているのだろうかと少し顔を覗き込んでみるも泣いてはいない。
「人を許すことが自分のためだと父上は言った。人を恨めばその感情に死ぬまで取り憑かれることになる。相手を恨み続けるぐらいなら許したほうが楽になれる。大事なのは自分の感情を操ること。父上はいつもそう言うておる。いつだって笑顔でいることが大事だ。そして人を恨まず許すこと。父上の信念を見習いたいと思うて日々過ごしておる。あの志は気高く美しいものなのじゃ」
ダイゴロウはずっと笑っていた。港に着いてから帰るまでずっと笑顔だった。何がそんなに面白いのかと怪訝に思っていたが、実際は見せ物のように見てくる異国人に良い気はしていなかったのかもしれない。それでも笑顔でいれば悪印象を与えることはないから笑顔でいる。
ユズリハもそうなのだと微笑む相手の横顔を見つめて手を伸ばした。
夜よりも暗い真っ黒な髪色。指先で触れるそれはシルクを触っているような触り心地で傷みがない。髪の長さを計るように毛先へと指を下ろすハロルドの表情をユズリハがジッと見つめる。
「どうした?」
「え? あっ、や、違っ、あの、えっと、あれ、何やって……! 悪い……無意識だ……」
確認なしに女性に触れるのはマナー違反であることはわかっている。だから紳士は必ず女性に伺いを立ててから行動する。ハロルドもそう教わってきたのに、ユズリハの髪に触れたのは完全に無意識から。何やってるんだと顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、膝の間に顔を埋めた。
「言い訳だから言い訳として聞いてほしいんだけど……」
「うむ」
「お前もいつだって笑顔だったなと思ったらなんか……なんかわからないけど……」
言葉にできない感情が込み上げている。それを言葉にするのはあまりにも無責任で勝手すぎるからと喉元まで込み上げている言葉を必死に飲み込んだ。
嫌悪していた相手にこれだけ感情を動かされている理由がわからない。
「触れたくなった」
一応選んだ言葉を告げてギュッと目を閉じるハロルドの耳に言葉は聞こえない。大笑いするか、からかうかのどちらかが聞こえてくると思っていたのに、何も聞こえてこないことが不安になって顔を上げるとユズリハがこちらを見て微笑んでいる。いつもの笑顔。
「感謝する」
予想外の言葉に目を瞬かせるとユズリハが自分の太ももをトントンと叩く。
「どれ、眠れぬそなたに子守唄を歌ってやろう」
「い、いいよ! 帰って横になったら寝れる!」
「まあ、そう言うな。明日も学校であろう。寝不足はいかぬぞ。物は試しじゃ。ほれ、遠慮するな」
「おい、やめろ! 僕はするなんて言ってな……この馬鹿力ッ!」
その小柄な身体のどこにそんな力を秘めているんだと女であることを疑いたくなるほどの力に負けてバランスを崩したハロルドの頭がユズリハの太ももに落ちた。
ドレスのように分厚くない生地が太ももの感触を生々しくわからせる。緊張で力が入ってしまうハロルドの顔を覗き込んで「これ」と注意した。
「身体の力を抜かぬと眠れぬであろう」
「僕は自分のベッドじゃなきゃ眠れないんだ。枕が変わっても眠れなくなるんだよ」
「やれやれ、そんな繊細で生きていけるのか心配じゃのう」
「だから部屋に帰……」
「とりあえず目を閉じよ。ここからはお喋りは厳禁じゃ」
ハロルドの目の上にユズリハが手を置く。やはり小さい。アーリーンの手も小さいと思ったが、ユズリハの手はそれよりも小さかった。指が長いアーリーンと違ってそれほど指の長さは感じない、子供のような手。だが、程よく冷たくて気持ちいい。
ゆっくりと息を吐いて身体の力を抜いたのを合図のようにユズリハが歌い始める。
聞いたことのない歌。耳心地の良い歌声が夜空に流れていく。
胸の上で手が一定のリズムを刻むのも心地良さに抵抗する気も起きず、ハロルドは泥の中の落ちるように久しぶりに深い眠りに落ちていった。
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