18 / 69
子守唄
しおりを挟む
ハロルドは睡眠は六時間と決めているため起きる時間から逆算して眠りに入る準備をするのだが、今日はベッドに入っても眠れないでいた。
寝る前にコーヒーを飲んだのが間違いだっただろうかといつもはハーブティーを飲んで寝るのを今日は気分的にコーヒーにしてしまったため体内時計が狂ってしまった。
無理して寝ようとするとストレスを感じるため諦めて散歩でもしてリラックスしようとガウンを羽織って準備をすると窓から“ユズリハ邸”の明かりがついているのが見えた。
「まだ起きてるのか?」
時刻はとっくに日付を変えている。普段、寝る前にユズリハの家を見ることはないため明かりをどうしているのかは知らないが、朝食時に訪ねてもしっかりと髪型も服装も整えているため寝起きを見たことはない。
何かあったのだろうかと物音を立てないように部屋を出て外へと急ぐと門の前で立ち止まった。
大門と呼ばれる門が閉まっているのは見たことがない。ヘインズ家の敷地内で閉める必要はないが、意味のない物をなぜ付けたんだと疑問に思う。そのおかげで中に入れるわけだが、こっちでも物音を立てないように忍足で向かうとユズリハが起きているのが見えた。縁側に座って夜空を見上げている。
「また趣味の覗きかい?」
「ッ!? うわぁああああああああああッ!?」
「な、なんじゃ!? 何事じゃ!?」
入る前に後ろを確認したが誰もいなかった。気配はなかったのに声は後ろからした。それも耳のすぐ近くで。
驚きのあまり今が何時かも忘れて大声を上げるハロルドの声に驚いたユズリハが飛び上がって庭に出た。
パパパパパパッとヘインズ家の明かりがついて窓が開く。そこから一番に顔を出したのは祖父のウォルター。
「シキ! 何があった!」
シキが仕留めたのだと確信して言葉をかけるウォルターに「ご安心を。お孫さんです」と答えると「始末しておけ」と言葉が返ってきた。睡眠を邪魔されるのを嫌う祖父らしい言葉に苦笑しながら「悪い」と謝るとシキが離れた。
「まさか本格的に夜這いをかけに来るとはねぇ」
「ち、違う! 夜這いじゃない!」
「ああ、なんじゃ……そなたであったか。脅かすな」
「それはシキに言ってくれ。僕は心臓が止まるかと思った」
「すまぬな。シキは気配に敏感で、そなたを不審者と思うのじゃろう」
日付が変わった頃に訪問するのは非常識で、誰も歓迎はしない。眠れないから散歩に出たのならそのまま散歩をして帰ればいいだけのこと。わざわざ人の家を訪ねる理由はない。
勘違いさせてしまった自分が悪いと謝ると後頭部を掻きながら眠たげに欠伸をするシキが「茶は出さんぜ」と念押しして家の中へと入っていった。
「そなたも眠れぬのか?」
「も、ってことはお前も眠れないのか?」
「月明かりが眩しゅうてな」
ユズリハの視線を追って空を見上げると確かに月が出ている。普段見るよりも大きく見える月明かりが確かに庭を照らしている。
「眠れぬから夜這いに来たのか? わらわ、なんの準備しておらぬぞ」
「夜這いじゃないって言ってるだろ。僕はそこまで飢えてない」
「アーリーンで済ませたか」
「……お前、本当に下品な女だな」
最低な発言だと非難するもユズリハは笑う。
「父上譲りでな」
迎えた初日の宴でも大声で下ネタを言っていた気がすると曖昧な記憶を辿っては女である相手がそれを継いでしまったのが残念だと横目で見ると目が合った。
「眠れぬのなら子守唄でも歌ってやろうか?」
「子供じゃないんだ、必要ない」
「そうか。わらわは時々、父上にせがまれて歌ってやったがのう」
「あの人が子守唄をせがむ? 想像できないな……」
「よほど疲れておるときだけじゃがな」
娘に子守唄をせがむダイゴロウを想像しようとしてもできない。それこそ気持ち悪い駄々っ子のような姿で、ありえないと首を振ってはユズリハのあとを追って縁側に腰かける。
ユズリハが座ったことで揺れた髪から漂う匂いにドキッとした。女きょうだいのいないハロルドはそういう経験がない。母親と風呂に入ったことはないし、髪が濡れた母親を見たこともない。
髪から香水ではない良い匂いがするのは変な感じだった。
「風呂に入ったのか?」
「そなたが夜這いに来ると知っておったらもっと念入りに準備したのじゃがのう」
「…………なんの準備だよ」
呟くように問いかけたハロルドを見るユズリハの顔はひどいもので、からかってくる同級生よりもニヤついている。
「気になるか? 気になるのか?」
「は!? 違う! お前がずっと準備準備って言うからなんの準備があるんだって聞いただけで気になったから聞いたわけじゃないしお前に興味があるわけでもないし僕は絶対に夜這いなんかしないからな!!」
一度も息を吸わないまま全て息を吐き出すと同時に言いきったハロルドに拍手をする。これさえもからかいなのだからと眉を寄せる。
「僕をからかって楽しんでるお前は性悪だ」
「ああ、そうじゃな。わらわはそなたをからかうのが楽しい。そなたとこうして話していること自体が楽しいのじゃ」
そう言われると悪い気はしない。
「お前は寛大だな。僕はお前にずっとひどい態度を取り続けていたのに。許してもらえなくても当然なことばかりしたんだぞ。なんで許すんだ?」
「許さぬ理由がないからじゃ」
当たり前のように言う相手の優しさを感じるだけで自分がどれだけ小さい人間かを思い知る。
貴族としてあるべき姿を持っているのは貴族として生まれた自分ではなく商家の娘として生まれたユズリハのほうだと情けなくて膝を抱えた。
膝に顎を乗せて前後に身体を小さく揺らすハロルドに微笑みながらユズリハは足を揺らす。
「わらわは人を恨むな、人を許せと教えられて育った。騙されても相手を恨んではいけない。信用していた相手に騙されたときは相手には騙さなければならない理由があったのだと思え。ただ騙された場合は相手の悪意を見抜けなかった自分を恨め、と」
「騙されて相手を恨むなっておかしいだろ」
「わらわも幼き頃はそう思うておった。じゃが、それが自分のためだとわかった」
「わかったキッカケは?」
「父上の人生がそうであるから、かのう」
どういう意味だと安易には聞けなかった。騙されても許せという話をしている中でダイゴロウの人生と掛けられると嫌な想像に頭が働く。
何か言おうと口を開いては何も言わずに口を閉じるハロルドを見て「大した話ではない」と続けた。
「商人の仕事は賭け事にも似ていると父上は言う。己が目と口と行動だけで儲けを出さなければならない。自分と相手の一騎打ち。そこにあるのは平穏か不穏か、というときもあるらしい。父上は人を騙す人間ではないが、騙される人間ではあった。商品だけ取られて金が入ってこなんだことも一度や二度ではない。それでも父上は怒りを爆発させるわけでもなく、頭を抱えて言うのじゃ。やっちまった、とな」
その姿は見たことがないのに、まるで見たことがあるかのように鮮明に映像として浮かんでくる。情けない笑みを浮かべながらそう言って皆に謝るのだろう。そして一人になったときに悔しがる。
それは彼のことを知らないハロルドでもダイゴロウらしいと思った。
「八年前だったか……仕事仲間に売上金の半分を持ち逃げされたことがあったが、父上はそれを怒らなかった。長年やってきた相手、事情があると思うのじゃろう。裏切り者と憤慨するわらわに父上は怒るなと言った。そうしなきゃいけないだけの理由があった。全部持っていくこともできたのに半分残したんだ。半分あれば今月はなんとかなる。アイツはその半分がなきゃ明日どうなるかわからないことになってんのかもしれねぇだろ、と。そんなことは七歳のわらわには父上の言うておることは強がりにしか聞こえなんだが、その五年後、そやつは金を返しに来た」
「よく顔出せたな……」
「じゃろう? わらわもそう思う。大の大人が泣きじゃくって土下座をする様は嘘でも微笑ましいとは言えぬものよ。父上の手前、誰も何も言わなんだが、皆の目には怒りが宿っておった。父上だけが、奴を抱きしめて許した。もう大丈夫なのか?と声をかけて……」
足元を見ながら肩の力を抜くように息を吐き出したユズリハが少し話を止める。当時のことを思い出しているのだろう。
泣いているのだろうかと少し顔を覗き込んでみるも泣いてはいない。
「人を許すことが自分のためだと父上は言った。人を恨めばその感情に死ぬまで取り憑かれることになる。相手を恨み続けるぐらいなら許したほうが楽になれる。大事なのは自分の感情を操ること。父上はいつもそう言うておる。いつだって笑顔でいることが大事だ。そして人を恨まず許すこと。父上の信念を見習いたいと思うて日々過ごしておる。あの志は気高く美しいものなのじゃ」
ダイゴロウはずっと笑っていた。港に着いてから帰るまでずっと笑顔だった。何がそんなに面白いのかと怪訝に思っていたが、実際は見せ物のように見てくる異国人に良い気はしていなかったのかもしれない。それでも笑顔でいれば悪印象を与えることはないから笑顔でいる。
ユズリハもそうなのだと微笑む相手の横顔を見つめて手を伸ばした。
夜よりも暗い真っ黒な髪色。指先で触れるそれはシルクを触っているような触り心地で傷みがない。髪の長さを計るように毛先へと指を下ろすハロルドの表情をユズリハがジッと見つめる。
「どうした?」
「え? あっ、や、違っ、あの、えっと、あれ、何やって……! 悪い……無意識だ……」
確認なしに女性に触れるのはマナー違反であることはわかっている。だから紳士は必ず女性に伺いを立ててから行動する。ハロルドもそう教わってきたのに、ユズリハの髪に触れたのは完全に無意識から。何やってるんだと顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、膝の間に顔を埋めた。
「言い訳だから言い訳として聞いてほしいんだけど……」
「うむ」
「お前もいつだって笑顔だったなと思ったらなんか……なんかわからないけど……」
言葉にできない感情が込み上げている。それを言葉にするのはあまりにも無責任で勝手すぎるからと喉元まで込み上げている言葉を必死に飲み込んだ。
嫌悪していた相手にこれだけ感情を動かされている理由がわからない。
「触れたくなった」
一応選んだ言葉を告げてギュッと目を閉じるハロルドの耳に言葉は聞こえない。大笑いするか、からかうかのどちらかが聞こえてくると思っていたのに、何も聞こえてこないことが不安になって顔を上げるとユズリハがこちらを見て微笑んでいる。いつもの笑顔。
「感謝する」
予想外の言葉に目を瞬かせるとユズリハが自分の太ももをトントンと叩く。
「どれ、眠れぬそなたに子守唄を歌ってやろう」
「い、いいよ! 帰って横になったら寝れる!」
「まあ、そう言うな。明日も学校であろう。寝不足はいかぬぞ。物は試しじゃ。ほれ、遠慮するな」
「おい、やめろ! 僕はするなんて言ってな……この馬鹿力ッ!」
その小柄な身体のどこにそんな力を秘めているんだと女であることを疑いたくなるほどの力に負けてバランスを崩したハロルドの頭がユズリハの太ももに落ちた。
ドレスのように分厚くない生地が太ももの感触を生々しくわからせる。緊張で力が入ってしまうハロルドの顔を覗き込んで「これ」と注意した。
「身体の力を抜かぬと眠れぬであろう」
「僕は自分のベッドじゃなきゃ眠れないんだ。枕が変わっても眠れなくなるんだよ」
「やれやれ、そんな繊細で生きていけるのか心配じゃのう」
「だから部屋に帰……」
「とりあえず目を閉じよ。ここからはお喋りは厳禁じゃ」
ハロルドの目の上にユズリハが手を置く。やはり小さい。アーリーンの手も小さいと思ったが、ユズリハの手はそれよりも小さかった。指が長いアーリーンと違ってそれほど指の長さは感じない、子供のような手。だが、程よく冷たくて気持ちいい。
ゆっくりと息を吐いて身体の力を抜いたのを合図のようにユズリハが歌い始める。
聞いたことのない歌。耳心地の良い歌声が夜空に流れていく。
胸の上で手が一定のリズムを刻むのも心地良さに抵抗する気も起きず、ハロルドは泥の中の落ちるように久しぶりに深い眠りに落ちていった。
寝る前にコーヒーを飲んだのが間違いだっただろうかといつもはハーブティーを飲んで寝るのを今日は気分的にコーヒーにしてしまったため体内時計が狂ってしまった。
無理して寝ようとするとストレスを感じるため諦めて散歩でもしてリラックスしようとガウンを羽織って準備をすると窓から“ユズリハ邸”の明かりがついているのが見えた。
「まだ起きてるのか?」
時刻はとっくに日付を変えている。普段、寝る前にユズリハの家を見ることはないため明かりをどうしているのかは知らないが、朝食時に訪ねてもしっかりと髪型も服装も整えているため寝起きを見たことはない。
何かあったのだろうかと物音を立てないように部屋を出て外へと急ぐと門の前で立ち止まった。
大門と呼ばれる門が閉まっているのは見たことがない。ヘインズ家の敷地内で閉める必要はないが、意味のない物をなぜ付けたんだと疑問に思う。そのおかげで中に入れるわけだが、こっちでも物音を立てないように忍足で向かうとユズリハが起きているのが見えた。縁側に座って夜空を見上げている。
「また趣味の覗きかい?」
「ッ!? うわぁああああああああああッ!?」
「な、なんじゃ!? 何事じゃ!?」
入る前に後ろを確認したが誰もいなかった。気配はなかったのに声は後ろからした。それも耳のすぐ近くで。
驚きのあまり今が何時かも忘れて大声を上げるハロルドの声に驚いたユズリハが飛び上がって庭に出た。
パパパパパパッとヘインズ家の明かりがついて窓が開く。そこから一番に顔を出したのは祖父のウォルター。
「シキ! 何があった!」
シキが仕留めたのだと確信して言葉をかけるウォルターに「ご安心を。お孫さんです」と答えると「始末しておけ」と言葉が返ってきた。睡眠を邪魔されるのを嫌う祖父らしい言葉に苦笑しながら「悪い」と謝るとシキが離れた。
「まさか本格的に夜這いをかけに来るとはねぇ」
「ち、違う! 夜這いじゃない!」
「ああ、なんじゃ……そなたであったか。脅かすな」
「それはシキに言ってくれ。僕は心臓が止まるかと思った」
「すまぬな。シキは気配に敏感で、そなたを不審者と思うのじゃろう」
日付が変わった頃に訪問するのは非常識で、誰も歓迎はしない。眠れないから散歩に出たのならそのまま散歩をして帰ればいいだけのこと。わざわざ人の家を訪ねる理由はない。
勘違いさせてしまった自分が悪いと謝ると後頭部を掻きながら眠たげに欠伸をするシキが「茶は出さんぜ」と念押しして家の中へと入っていった。
「そなたも眠れぬのか?」
「も、ってことはお前も眠れないのか?」
「月明かりが眩しゅうてな」
ユズリハの視線を追って空を見上げると確かに月が出ている。普段見るよりも大きく見える月明かりが確かに庭を照らしている。
「眠れぬから夜這いに来たのか? わらわ、なんの準備しておらぬぞ」
「夜這いじゃないって言ってるだろ。僕はそこまで飢えてない」
「アーリーンで済ませたか」
「……お前、本当に下品な女だな」
最低な発言だと非難するもユズリハは笑う。
「父上譲りでな」
迎えた初日の宴でも大声で下ネタを言っていた気がすると曖昧な記憶を辿っては女である相手がそれを継いでしまったのが残念だと横目で見ると目が合った。
「眠れぬのなら子守唄でも歌ってやろうか?」
「子供じゃないんだ、必要ない」
「そうか。わらわは時々、父上にせがまれて歌ってやったがのう」
「あの人が子守唄をせがむ? 想像できないな……」
「よほど疲れておるときだけじゃがな」
娘に子守唄をせがむダイゴロウを想像しようとしてもできない。それこそ気持ち悪い駄々っ子のような姿で、ありえないと首を振ってはユズリハのあとを追って縁側に腰かける。
ユズリハが座ったことで揺れた髪から漂う匂いにドキッとした。女きょうだいのいないハロルドはそういう経験がない。母親と風呂に入ったことはないし、髪が濡れた母親を見たこともない。
髪から香水ではない良い匂いがするのは変な感じだった。
「風呂に入ったのか?」
「そなたが夜這いに来ると知っておったらもっと念入りに準備したのじゃがのう」
「…………なんの準備だよ」
呟くように問いかけたハロルドを見るユズリハの顔はひどいもので、からかってくる同級生よりもニヤついている。
「気になるか? 気になるのか?」
「は!? 違う! お前がずっと準備準備って言うからなんの準備があるんだって聞いただけで気になったから聞いたわけじゃないしお前に興味があるわけでもないし僕は絶対に夜這いなんかしないからな!!」
一度も息を吸わないまま全て息を吐き出すと同時に言いきったハロルドに拍手をする。これさえもからかいなのだからと眉を寄せる。
「僕をからかって楽しんでるお前は性悪だ」
「ああ、そうじゃな。わらわはそなたをからかうのが楽しい。そなたとこうして話していること自体が楽しいのじゃ」
そう言われると悪い気はしない。
「お前は寛大だな。僕はお前にずっとひどい態度を取り続けていたのに。許してもらえなくても当然なことばかりしたんだぞ。なんで許すんだ?」
「許さぬ理由がないからじゃ」
当たり前のように言う相手の優しさを感じるだけで自分がどれだけ小さい人間かを思い知る。
貴族としてあるべき姿を持っているのは貴族として生まれた自分ではなく商家の娘として生まれたユズリハのほうだと情けなくて膝を抱えた。
膝に顎を乗せて前後に身体を小さく揺らすハロルドに微笑みながらユズリハは足を揺らす。
「わらわは人を恨むな、人を許せと教えられて育った。騙されても相手を恨んではいけない。信用していた相手に騙されたときは相手には騙さなければならない理由があったのだと思え。ただ騙された場合は相手の悪意を見抜けなかった自分を恨め、と」
「騙されて相手を恨むなっておかしいだろ」
「わらわも幼き頃はそう思うておった。じゃが、それが自分のためだとわかった」
「わかったキッカケは?」
「父上の人生がそうであるから、かのう」
どういう意味だと安易には聞けなかった。騙されても許せという話をしている中でダイゴロウの人生と掛けられると嫌な想像に頭が働く。
何か言おうと口を開いては何も言わずに口を閉じるハロルドを見て「大した話ではない」と続けた。
「商人の仕事は賭け事にも似ていると父上は言う。己が目と口と行動だけで儲けを出さなければならない。自分と相手の一騎打ち。そこにあるのは平穏か不穏か、というときもあるらしい。父上は人を騙す人間ではないが、騙される人間ではあった。商品だけ取られて金が入ってこなんだことも一度や二度ではない。それでも父上は怒りを爆発させるわけでもなく、頭を抱えて言うのじゃ。やっちまった、とな」
その姿は見たことがないのに、まるで見たことがあるかのように鮮明に映像として浮かんでくる。情けない笑みを浮かべながらそう言って皆に謝るのだろう。そして一人になったときに悔しがる。
それは彼のことを知らないハロルドでもダイゴロウらしいと思った。
「八年前だったか……仕事仲間に売上金の半分を持ち逃げされたことがあったが、父上はそれを怒らなかった。長年やってきた相手、事情があると思うのじゃろう。裏切り者と憤慨するわらわに父上は怒るなと言った。そうしなきゃいけないだけの理由があった。全部持っていくこともできたのに半分残したんだ。半分あれば今月はなんとかなる。アイツはその半分がなきゃ明日どうなるかわからないことになってんのかもしれねぇだろ、と。そんなことは七歳のわらわには父上の言うておることは強がりにしか聞こえなんだが、その五年後、そやつは金を返しに来た」
「よく顔出せたな……」
「じゃろう? わらわもそう思う。大の大人が泣きじゃくって土下座をする様は嘘でも微笑ましいとは言えぬものよ。父上の手前、誰も何も言わなんだが、皆の目には怒りが宿っておった。父上だけが、奴を抱きしめて許した。もう大丈夫なのか?と声をかけて……」
足元を見ながら肩の力を抜くように息を吐き出したユズリハが少し話を止める。当時のことを思い出しているのだろう。
泣いているのだろうかと少し顔を覗き込んでみるも泣いてはいない。
「人を許すことが自分のためだと父上は言った。人を恨めばその感情に死ぬまで取り憑かれることになる。相手を恨み続けるぐらいなら許したほうが楽になれる。大事なのは自分の感情を操ること。父上はいつもそう言うておる。いつだって笑顔でいることが大事だ。そして人を恨まず許すこと。父上の信念を見習いたいと思うて日々過ごしておる。あの志は気高く美しいものなのじゃ」
ダイゴロウはずっと笑っていた。港に着いてから帰るまでずっと笑顔だった。何がそんなに面白いのかと怪訝に思っていたが、実際は見せ物のように見てくる異国人に良い気はしていなかったのかもしれない。それでも笑顔でいれば悪印象を与えることはないから笑顔でいる。
ユズリハもそうなのだと微笑む相手の横顔を見つめて手を伸ばした。
夜よりも暗い真っ黒な髪色。指先で触れるそれはシルクを触っているような触り心地で傷みがない。髪の長さを計るように毛先へと指を下ろすハロルドの表情をユズリハがジッと見つめる。
「どうした?」
「え? あっ、や、違っ、あの、えっと、あれ、何やって……! 悪い……無意識だ……」
確認なしに女性に触れるのはマナー違反であることはわかっている。だから紳士は必ず女性に伺いを立ててから行動する。ハロルドもそう教わってきたのに、ユズリハの髪に触れたのは完全に無意識から。何やってるんだと顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、膝の間に顔を埋めた。
「言い訳だから言い訳として聞いてほしいんだけど……」
「うむ」
「お前もいつだって笑顔だったなと思ったらなんか……なんかわからないけど……」
言葉にできない感情が込み上げている。それを言葉にするのはあまりにも無責任で勝手すぎるからと喉元まで込み上げている言葉を必死に飲み込んだ。
嫌悪していた相手にこれだけ感情を動かされている理由がわからない。
「触れたくなった」
一応選んだ言葉を告げてギュッと目を閉じるハロルドの耳に言葉は聞こえない。大笑いするか、からかうかのどちらかが聞こえてくると思っていたのに、何も聞こえてこないことが不安になって顔を上げるとユズリハがこちらを見て微笑んでいる。いつもの笑顔。
「感謝する」
予想外の言葉に目を瞬かせるとユズリハが自分の太ももをトントンと叩く。
「どれ、眠れぬそなたに子守唄を歌ってやろう」
「い、いいよ! 帰って横になったら寝れる!」
「まあ、そう言うな。明日も学校であろう。寝不足はいかぬぞ。物は試しじゃ。ほれ、遠慮するな」
「おい、やめろ! 僕はするなんて言ってな……この馬鹿力ッ!」
その小柄な身体のどこにそんな力を秘めているんだと女であることを疑いたくなるほどの力に負けてバランスを崩したハロルドの頭がユズリハの太ももに落ちた。
ドレスのように分厚くない生地が太ももの感触を生々しくわからせる。緊張で力が入ってしまうハロルドの顔を覗き込んで「これ」と注意した。
「身体の力を抜かぬと眠れぬであろう」
「僕は自分のベッドじゃなきゃ眠れないんだ。枕が変わっても眠れなくなるんだよ」
「やれやれ、そんな繊細で生きていけるのか心配じゃのう」
「だから部屋に帰……」
「とりあえず目を閉じよ。ここからはお喋りは厳禁じゃ」
ハロルドの目の上にユズリハが手を置く。やはり小さい。アーリーンの手も小さいと思ったが、ユズリハの手はそれよりも小さかった。指が長いアーリーンと違ってそれほど指の長さは感じない、子供のような手。だが、程よく冷たくて気持ちいい。
ゆっくりと息を吐いて身体の力を抜いたのを合図のようにユズリハが歌い始める。
聞いたことのない歌。耳心地の良い歌声が夜空に流れていく。
胸の上で手が一定のリズムを刻むのも心地良さに抵抗する気も起きず、ハロルドは泥の中の落ちるように久しぶりに深い眠りに落ちていった。
12
あなたにおすすめの小説
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中
有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
お気に入り1000ありがとうございます!!
お礼SS追加決定のため終了取下げいたします。
皆様、お気に入り登録ありがとうございました。
現在、お礼SSの準備中です。少々お待ちください。
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
円満離婚に持ち込むはずが。~『冷酷皇帝の最愛妃』
みこと。
恋愛
「あなたと子を作るつもりはない」
皇帝シュテファンに嫁いだエリザは、初夜に夫から宣言されて首をかしげる。
(これは"愛することのない"の亜種?)
前世を思い出したばかりの彼女は、ここが小説『冷酷皇帝の最愛妃』の中だと気づき、冷静に状況を分析していた。
エリザの役どころは、公爵家が皇帝に押し付けた花嫁で、彼の恋路の邪魔をするモブ皇妃。小説のシュテファンは、最終的には運命の恋人アンネと結ばれる。
それは確かに、子どもが出来たら困るだろう。
速やかな"円満離婚"を前提にシュテファンと契約を結んだエリザだったが、とあるキッカケで彼の子を身ごもることになってしまい──?
シュテファンとの契約違反におののき、思わず逃走したエリザに「やっと見つけた」と追いすがる夫。
どうやら彼はエリザ一筋だったらしく。あれ? あなたの恋人アンネはどうしたの?
※小説家になろう様でも掲載しています
※表紙イラスト:あさぎかな先生にコラージュアートをいただきました
※毎朝7時に更新していく予定です
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
で、お前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか?
Debby
恋愛
ヴェルトが友人からの手紙を手に辺境伯令嬢であるレィディアンスの元を訪れたのは、その手紙に「詳細は彼女に聞け」と書いてあったからだ。
簡単にいうと、手紙の内容は「学園で問題を起こした平民──エボニーを妻として引き取ってくれ」というものだった。
一方その話を聞いてしまった伯爵令嬢のオリーブは動揺していた。
ヴェルトとは静かに愛を育んできた。そんな自分を差し置いて、言われるがまま平民を妻に迎えてしまうのだろうか。
そんなオリーブの気持ちを知るはずもないエボニーは、辺境伯邸で行儀見習いをすることになる。
オリーブは何とかしてヴェルトを取り戻そうと画策し、そのことを咎められてしまう。もう後は無い。
オリーブが最後の望みをかけてヴェルトに自分を選んで欲しいと懇願する中、レィディアンスが静かに口を開いた。
「で、そろそろお前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか」
「はい?」
ヴェルトは自分が何を言われたのか全く理解が出来なかった。
*--*--*
覗いてくださりありがとうございます。(* ᴗ ᴗ)⁾⁾
★全31話7時19時更新で、全話予約投稿済みです。
★★「このお話だけ読んでいただいてもOKです!」という前提のもと↓↓↓
このお話は独立した一つのお話ですが、「で。」シリーズのサイドストーリーでもあり、第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」の「エボニーその後」でもあります(あるいは「最終話」のその後)。
第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」
第二弾「で、あなたが私に嫌がらせをする理由を伺っても?」
第三弾「で、あなたが彼に嫌がらせをする理由をお話しいただいても?」
どれも女性向けHOTランキングに入り、特に第二弾はHOT一位になることが出来ました!(*´▽`人)アリガトウ
もしよかったら宜しくお願いしますね!
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
【完結】地味な私と公爵様
ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。
端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。
そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。
...正直私も信じていません。
ラエル様が、私を溺愛しているなんて。
きっと、きっと、夢に違いありません。
お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる