20 / 69
キス
しおりを挟む
「やってしまったー!!」
自室ではなく“ユズリハ邸”に帰ったハロルドは学校であれだけハッキリと物を言う男を演じたのに家に帰った途端に押し寄せる感情に声を上げて畳の上を転がり回っていた。
「黄昏時になってもそなたは元気じゃのう」
空は目覚めた青から夜へと変わる前の橙に染まっている。夕日が庭を照らし、また違う美しさを演出する中で騒がしいのはハロルドだけ。
「言ってしまった! 言ってしまったんだよ!」
「何をじゃ?」
「お前が言えと言った言葉だ!」
「おお、素晴らしいな! あの紳士と名高いハロルド・ヘインズが啖呵を切ったか!」
ユズリハに対してハロルドが紳士だったことは一度もない。一緒に外に出歩いたこともなければ、敷地内を一緒に散歩してエスコートしたことだってないのだ。それなのにユズリハはハロルドを紳士と言った。
大笑いはしているため、からかいかと微妙な判断をしながらも少し落ち着いたのか転がり回る身体を止めて畳の上で正座をする。
「笑い事じゃないんだぞ」
「笑えばよい。言いたかったから言ったのじゃろう?」
「まあ、そうだけど……」
「なら後悔するな。そなたは聡明な男。その判断はきっと間違ってはおらぬよ」
ユズリハはいつも笑顔で人を褒める。信じていると言わんばかりに背中を押してくれる。それは家族の誰もしてくれなかったことで、ハロルドの努力も当たり前のように考え、その優秀さを保っていることを褒めず、少しでも落ちると心配と叱責があるだけ。それがハロルドの人生だった。
でも此処に来るようになってそれが変わり始めた。
相変わらず家族は褒めてはくれないが、ユズリハは違う。テストを見せれば大袈裟すぎるほど褒めるし、何かあれば祝いだと言う。
「しかし、何があった? あのような言葉、父上でもなかなか吐かぬぞ」
「いや……その……」
言いづらい。自分でもなぜそこまで怒ってしまったのかと今でも思う。
少し前までは自分もクラスメイトと同じ考えで、同じ反応をユズリハに向けていた。クラスメイトよりもひどかったかもしれない。
それがユズリハとちゃんと話をするようになって、ユズリハという少女を知ると偏見にまみれていた自分が情けなく恥ずかしいと思うほど見方が変わった。
ユズリハにだけかもしれない。ユズリハでなければそうは思わなかったかもしれない。でも、だからこそハロルドは見たこともない相手を醜悪だと馬鹿にするクラスメイトが許せなかった。
自分たちのほうが上だと理由のない自信を持って笑い者にしようとするクラスメイトも、話したこともない相手を和女というだけで可哀想と言ったアーリーンも嫌だと思ってしまった。
自分だってそうだったはずなのに。
話せばきっとわかってもらえる。だって自分もそうだったから。
そう思えど、その前にきっとユズリハを不快な目に遭わせることになるのは想像せずともわかる。だから会わせるつもりはなかった。
「ん?」
不思議そうな顔で言葉を待つユズリハに苦い顔を見せるハロルドの表情は情けなさに溢れている。
「わらわに関することなら無理に言わずともよい。言えぬこともあるじゃろう」
婚約者が和女であると知れ渡ってしまったことを知っているだけに毎日色々言われていることは容易に想像がつく。放っておけばいいものをそれができず怒りを爆発させてしまったのだろうとハロルドの優しさを喜ぶべきか、苦境に立たされることになってしまったことを詫びるべきか。複雑な心境だった。
ユズリハの望みは自分が婚約者として嫁いで来たとしてもハロルドの生活が何も変わらないこと。顔も名前さえ知らなかった婚約者のせいで順調に進んできた人生を曲げてほしくない。
だから婚約者が和女のせいで笑い者になったと言われたときは申し訳なかった。きっといつかそうなるだろうと想像できていただけに、返す言葉もなかった。
このままシキと二人でこの国で生きていく覚悟を決めた中でハロルドが変わりつつあり、ユズリハにとっても楽しい一日を送れている今、新たな問題の火種となってしまったのではないかと心配になるが無理に聞き出すことはしたくない。
だが、ハロルドが告げた真実にユズリハは目を瞬かせる。
「お前のことを知りもしないくせに和女ってだけで笑い者にする奴らに我慢できなかったんだ」
「それは……」
ユズリハが口を開くとバッと目の前に手のひらを向けて待ったをかける。
「わかってる! お前の言いたいことはわかってる! 僕も少し前まではそうだった! 和女ってだけで嫌悪して、お前のことを知ろうともしなかった! 祖父に逆らえなくて渋々と嫌な態度ばかり。挙げ句の果てにお前を暴言で殴りつけた。わかってる。僕も自分でそう思ってる」
「いや、そうではなく……」
「でも僕はお前を見習いたいと思った。お前の寛容さを見習って、お前のことを知りたいと思ったんだ」
意外すぎる言葉に目を見開いたユズリハが今、何を考えているのだろうと不安になる。調子の良いことを言うなと思っているのだろうか。だとしてもハロルドにとってはこれが本音。
大きく見開かれた目を真っ直ぐ見つめながら再び口を開いた。
「知りもしない相手を見下す人間は最低だ。僕は自分が優秀であることを鼻にかけて和人を見下す最低な人間になっていた。でもお前は僕なんかよりもずっと大人で寛大だ。お前が許してくれたから、僕は変わろうと思った。都合の良い話だけど……」
ユズリハから目を逸らすことなく告げるも返事はない。ただハロルドの目を真っ直ぐ見つめ返しているだけ。
「お前は誰かに馬鹿にされていい人間じゃない。だから許せなくて……言ってしまった。でも後悔はしてないんだ」
言葉だけではなく晴れやかな表情からもそれが嘘ではないことは伝わってくる。
「やってしまったと言ったのは後悔ではないのか?」
「あれは怒鳴ったことで猫かぶりがバレてしまったことと紳士が怒鳴るなんてやってはならないことをしてしまったからだ。僕はあの瞬間、紳士という枠から外れて教室で大声を上げた。それも人を黙らせるために。誰かを助けるためではなく自分の苛立ち、自分の感情を爆発させてやってしまったんだ」
「でもそれは……」
わらわのため、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
自惚れたくはない。自分が認めている相手を馬鹿にされるのが嫌だっただけで、それは婚約者の名誉のためではない。期待するなと自分に言い聞かせて口を閉じた。
「これでアーリーンとの関係も終わったしな」
「何故か!?」
途端に表情を怪訝なものへと変えるユズリハに苦笑する。
婚約者でありながらユズリハはハロルドがアーリーンと結ばれるのを認め、応援までしていた。
ダンスを踊った、プレゼントを贈ったと嬉々として報告してきたのはつい先日のこと。それがなぜだと戸惑いを隠せないユズリハに落ち着けと手で促す。
「アーリーンのことが好きだったのじゃろう?」
「ああ。だけど、そこまで強い想いではなかったみたいだ」
「本命の愛人にする予定だったのにか?」
「それはあくまでも頭の中でのことだ。実際は、たった一つの言葉で冷めてしまうような軽いものだったらしい」
自分のせいだと思っていることが明確に伝わってくる表情を見せるユズリハにハロルドは「お前のせいじゃない」と言った。
「お前が婚約者であることが周知されて、からかわれるようになった。でもアーリーンだけは僕をからかわなかったんだ」
「優しいおなごじゃ」
「僕もそう思ってた」
過去形を口にすることで実際は違ったのだとわかってしまう。
「彼女は同情してただけなんだ。和女が婚約者であることを可哀想だと言った。自分の父親はウォルター・ヘインズと懇意にしているから婚約破棄するように進言してもらう、って。そしたらもう笑い者にならずに済むからもう少しだけ我慢してくれと……そう言われて、僕の中で何かが切れた。ああ、でもこれは僕が悪いんだ。婚約者がいるってバレた日、僕が嘘をついたからアーリーンはそれを信じてただけだと思う。だから僕が悪いんだけど……」
あの目とあの声が自分の中で耐えられない物になっていた。
からかいこそしなかったが、アーリーンもクラスの連中と同じで和女を見下していたのだと思うと心が冷めてしまったのだと苦笑するハロルドにユズリハは頭を下げる。
「は? なんでお前が頭を下げるんだ?」
頭を下げなければならないのは自分のほう。今までひどい態度をとり、今はそれを謝ったことで清算した気になってまるで友人のように普通に接している。
もっとちゃんと深く頭を下げて相手を傷つけたことを謝らなければならないはずの自分が頭を下げるより前にユズリハが下げている理由がわからず戸惑ってしまう。
「わらわが来たことでそなたの人生が変わってしもうた。アーリーンもきっと悪い奴ではないのだろう。国が違えば、相手を知らねば情報だけで判断するのは当然のこと。無論、感情を口や態度に出すべきではないが、それも詮なきこと。そなたが和女と関わらなければアーリーンもそのようなことは言わなんだろうに、わらわが婚約者となったことでそなたは己が努力で積み上げてきたものを全て失うこととなってしまった。すまぬ」
正座のまま少し後ろ下がって畳の上に両手をつくとさっきよりも深く頭を下げた。
男は女に頭を下げさせてはならない。それは紳士として当然のことだ。
今の状況は自分が教室で怒鳴ったことよりも猫かぶりがバレてしまったことよりもずっとあってはならないことだと立ち上がって歩み寄り、ユズリハの肩に手を添えて上半身を起き上がらせた。
「僕のことはこれから一生こう思ってくれ。調子の良い男だと。そしてその上で聞いてくれ」
姿勢を正したユズリハにハロルドが微笑む。
「あの瞬間、僕の中にはアーリーンに同情されたショックよりも和女を婚約者なら笑い者になって当然と思っていることに腹が立ったんだ。それはお前が言うように外国人と関わらなければなかった発言かもしれないが、関わった以上は許せる発言じゃなかったんだ」
「すまぬ」
「頭を下げるのをやめろ。僕はお前に謝ってほしくて話してるんじゃない」
すぐに頭を下げようとするユズリハの肩から手が離せず、険しい表情を見せるハロルドはこれほど情けない顔をするユズリハを見たのは初めてで貴重だと冷静な感情で見つめていた。
女が男に簡単に頭を下げるのも和の国では普通なのだろう。文化の違いが生む戸惑いはあれど、それを当たり前だと受け取りたくはない。そうすることでユズリハの気が済むのだとしても謝るために女が頭を下げるなど見ていて気持ちの良いものではないのだから。
「明日にでも謝ればどうにかなるのではないか?」
「謝るつもりはない」
「じゃが……」
いつもあれだけ自信満々に笑って発言する女が珍しいと少し可愛くさえ見えてしまう。
「ユズリハは君よりずっとイイ女だよ」
ハロルドの口から出てきた言葉にユズリハは目を見開いて固まる。
「少し前まで自分を褒めてた男に見下してる女のほうがイイ女だって告げられて、その翌日に謝られて誰が許す?」
「そ、そなた……ま、誠……そのようなことを……?」
「もう猫をかぶってるのも馬鹿馬鹿しいと思ったらつい。いや、お前には本当に悪かったと思ってるよ。あんなこと言っておいて、それこそ本当に調子の良い……」
本人にイイ女だと言ったことはないのにクラスメイトには言った。それを伝えるのは相手にイイ女だとさりげなく伝えるよりも気まずいと頬を掻いていたが、ユズリハの顔を見ると手の動きも口の動きも止まった。
合わせた唇を内側に引っ込めている。まるでニヤついてしまうのを我慢しているように。
「どうした?」
ハロルドの先読みでは「わらわをイイ女と思うておるとは意外じゃ。ま、わらわの魅力を以ってすれば当然のこと」と、ニヤつき混じりにまたからかってくるのではないかと少し警戒しながら問いかけると堪えきれなくなったのかユズリハが唇を解いて笑顔を見せる。
「そなたにそう言ってもらえるのは嘘でも嬉しい」
見たことのない笑顔だった。いつもの屈託のない笑顔とは違う、微笑みとも違う、はにかみに近い笑み。その笑みを崩すつもりはなかったのに、ユズリハはまたすぐに目を見開いた。
なぜそうしたのかはわからない。気がつけば身体が前に動き、唇を重ねていた。
それほど長い時間ではない。触れて、三秒か五秒か……。
唇を離したあと、見開いたユズリハの目を見てハッとした。
畳の上に尻もちをついて勢いよく縁側まで後ずさったハロルドが手を前に出して「ち、違う! 今のは! 違うんだ!」と声を上げる。
「違うからな!」
負け犬の遠吠えのような言葉を発してそのまま縁側を走って屋敷を飛び出したハロルドは自分の部屋に入るまでずっと同じ言葉を連呼し続けた。
「キスしといて違うはないだろ」
どこから見ていたのか、ハロルドが帰ったあと、部屋に現れたシキの言葉に何も言わないユズリハを不思議に思い、顔を覗き込むとその姿に驚いた。
「大丈夫か?」
「いやはや……困った……」
顔を真っ赤にしながら笑うユズリハがとても幸せそうに見えたのだ。
自室ではなく“ユズリハ邸”に帰ったハロルドは学校であれだけハッキリと物を言う男を演じたのに家に帰った途端に押し寄せる感情に声を上げて畳の上を転がり回っていた。
「黄昏時になってもそなたは元気じゃのう」
空は目覚めた青から夜へと変わる前の橙に染まっている。夕日が庭を照らし、また違う美しさを演出する中で騒がしいのはハロルドだけ。
「言ってしまった! 言ってしまったんだよ!」
「何をじゃ?」
「お前が言えと言った言葉だ!」
「おお、素晴らしいな! あの紳士と名高いハロルド・ヘインズが啖呵を切ったか!」
ユズリハに対してハロルドが紳士だったことは一度もない。一緒に外に出歩いたこともなければ、敷地内を一緒に散歩してエスコートしたことだってないのだ。それなのにユズリハはハロルドを紳士と言った。
大笑いはしているため、からかいかと微妙な判断をしながらも少し落ち着いたのか転がり回る身体を止めて畳の上で正座をする。
「笑い事じゃないんだぞ」
「笑えばよい。言いたかったから言ったのじゃろう?」
「まあ、そうだけど……」
「なら後悔するな。そなたは聡明な男。その判断はきっと間違ってはおらぬよ」
ユズリハはいつも笑顔で人を褒める。信じていると言わんばかりに背中を押してくれる。それは家族の誰もしてくれなかったことで、ハロルドの努力も当たり前のように考え、その優秀さを保っていることを褒めず、少しでも落ちると心配と叱責があるだけ。それがハロルドの人生だった。
でも此処に来るようになってそれが変わり始めた。
相変わらず家族は褒めてはくれないが、ユズリハは違う。テストを見せれば大袈裟すぎるほど褒めるし、何かあれば祝いだと言う。
「しかし、何があった? あのような言葉、父上でもなかなか吐かぬぞ」
「いや……その……」
言いづらい。自分でもなぜそこまで怒ってしまったのかと今でも思う。
少し前までは自分もクラスメイトと同じ考えで、同じ反応をユズリハに向けていた。クラスメイトよりもひどかったかもしれない。
それがユズリハとちゃんと話をするようになって、ユズリハという少女を知ると偏見にまみれていた自分が情けなく恥ずかしいと思うほど見方が変わった。
ユズリハにだけかもしれない。ユズリハでなければそうは思わなかったかもしれない。でも、だからこそハロルドは見たこともない相手を醜悪だと馬鹿にするクラスメイトが許せなかった。
自分たちのほうが上だと理由のない自信を持って笑い者にしようとするクラスメイトも、話したこともない相手を和女というだけで可哀想と言ったアーリーンも嫌だと思ってしまった。
自分だってそうだったはずなのに。
話せばきっとわかってもらえる。だって自分もそうだったから。
そう思えど、その前にきっとユズリハを不快な目に遭わせることになるのは想像せずともわかる。だから会わせるつもりはなかった。
「ん?」
不思議そうな顔で言葉を待つユズリハに苦い顔を見せるハロルドの表情は情けなさに溢れている。
「わらわに関することなら無理に言わずともよい。言えぬこともあるじゃろう」
婚約者が和女であると知れ渡ってしまったことを知っているだけに毎日色々言われていることは容易に想像がつく。放っておけばいいものをそれができず怒りを爆発させてしまったのだろうとハロルドの優しさを喜ぶべきか、苦境に立たされることになってしまったことを詫びるべきか。複雑な心境だった。
ユズリハの望みは自分が婚約者として嫁いで来たとしてもハロルドの生活が何も変わらないこと。顔も名前さえ知らなかった婚約者のせいで順調に進んできた人生を曲げてほしくない。
だから婚約者が和女のせいで笑い者になったと言われたときは申し訳なかった。きっといつかそうなるだろうと想像できていただけに、返す言葉もなかった。
このままシキと二人でこの国で生きていく覚悟を決めた中でハロルドが変わりつつあり、ユズリハにとっても楽しい一日を送れている今、新たな問題の火種となってしまったのではないかと心配になるが無理に聞き出すことはしたくない。
だが、ハロルドが告げた真実にユズリハは目を瞬かせる。
「お前のことを知りもしないくせに和女ってだけで笑い者にする奴らに我慢できなかったんだ」
「それは……」
ユズリハが口を開くとバッと目の前に手のひらを向けて待ったをかける。
「わかってる! お前の言いたいことはわかってる! 僕も少し前まではそうだった! 和女ってだけで嫌悪して、お前のことを知ろうともしなかった! 祖父に逆らえなくて渋々と嫌な態度ばかり。挙げ句の果てにお前を暴言で殴りつけた。わかってる。僕も自分でそう思ってる」
「いや、そうではなく……」
「でも僕はお前を見習いたいと思った。お前の寛容さを見習って、お前のことを知りたいと思ったんだ」
意外すぎる言葉に目を見開いたユズリハが今、何を考えているのだろうと不安になる。調子の良いことを言うなと思っているのだろうか。だとしてもハロルドにとってはこれが本音。
大きく見開かれた目を真っ直ぐ見つめながら再び口を開いた。
「知りもしない相手を見下す人間は最低だ。僕は自分が優秀であることを鼻にかけて和人を見下す最低な人間になっていた。でもお前は僕なんかよりもずっと大人で寛大だ。お前が許してくれたから、僕は変わろうと思った。都合の良い話だけど……」
ユズリハから目を逸らすことなく告げるも返事はない。ただハロルドの目を真っ直ぐ見つめ返しているだけ。
「お前は誰かに馬鹿にされていい人間じゃない。だから許せなくて……言ってしまった。でも後悔はしてないんだ」
言葉だけではなく晴れやかな表情からもそれが嘘ではないことは伝わってくる。
「やってしまったと言ったのは後悔ではないのか?」
「あれは怒鳴ったことで猫かぶりがバレてしまったことと紳士が怒鳴るなんてやってはならないことをしてしまったからだ。僕はあの瞬間、紳士という枠から外れて教室で大声を上げた。それも人を黙らせるために。誰かを助けるためではなく自分の苛立ち、自分の感情を爆発させてやってしまったんだ」
「でもそれは……」
わらわのため、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
自惚れたくはない。自分が認めている相手を馬鹿にされるのが嫌だっただけで、それは婚約者の名誉のためではない。期待するなと自分に言い聞かせて口を閉じた。
「これでアーリーンとの関係も終わったしな」
「何故か!?」
途端に表情を怪訝なものへと変えるユズリハに苦笑する。
婚約者でありながらユズリハはハロルドがアーリーンと結ばれるのを認め、応援までしていた。
ダンスを踊った、プレゼントを贈ったと嬉々として報告してきたのはつい先日のこと。それがなぜだと戸惑いを隠せないユズリハに落ち着けと手で促す。
「アーリーンのことが好きだったのじゃろう?」
「ああ。だけど、そこまで強い想いではなかったみたいだ」
「本命の愛人にする予定だったのにか?」
「それはあくまでも頭の中でのことだ。実際は、たった一つの言葉で冷めてしまうような軽いものだったらしい」
自分のせいだと思っていることが明確に伝わってくる表情を見せるユズリハにハロルドは「お前のせいじゃない」と言った。
「お前が婚約者であることが周知されて、からかわれるようになった。でもアーリーンだけは僕をからかわなかったんだ」
「優しいおなごじゃ」
「僕もそう思ってた」
過去形を口にすることで実際は違ったのだとわかってしまう。
「彼女は同情してただけなんだ。和女が婚約者であることを可哀想だと言った。自分の父親はウォルター・ヘインズと懇意にしているから婚約破棄するように進言してもらう、って。そしたらもう笑い者にならずに済むからもう少しだけ我慢してくれと……そう言われて、僕の中で何かが切れた。ああ、でもこれは僕が悪いんだ。婚約者がいるってバレた日、僕が嘘をついたからアーリーンはそれを信じてただけだと思う。だから僕が悪いんだけど……」
あの目とあの声が自分の中で耐えられない物になっていた。
からかいこそしなかったが、アーリーンもクラスの連中と同じで和女を見下していたのだと思うと心が冷めてしまったのだと苦笑するハロルドにユズリハは頭を下げる。
「は? なんでお前が頭を下げるんだ?」
頭を下げなければならないのは自分のほう。今までひどい態度をとり、今はそれを謝ったことで清算した気になってまるで友人のように普通に接している。
もっとちゃんと深く頭を下げて相手を傷つけたことを謝らなければならないはずの自分が頭を下げるより前にユズリハが下げている理由がわからず戸惑ってしまう。
「わらわが来たことでそなたの人生が変わってしもうた。アーリーンもきっと悪い奴ではないのだろう。国が違えば、相手を知らねば情報だけで判断するのは当然のこと。無論、感情を口や態度に出すべきではないが、それも詮なきこと。そなたが和女と関わらなければアーリーンもそのようなことは言わなんだろうに、わらわが婚約者となったことでそなたは己が努力で積み上げてきたものを全て失うこととなってしまった。すまぬ」
正座のまま少し後ろ下がって畳の上に両手をつくとさっきよりも深く頭を下げた。
男は女に頭を下げさせてはならない。それは紳士として当然のことだ。
今の状況は自分が教室で怒鳴ったことよりも猫かぶりがバレてしまったことよりもずっとあってはならないことだと立ち上がって歩み寄り、ユズリハの肩に手を添えて上半身を起き上がらせた。
「僕のことはこれから一生こう思ってくれ。調子の良い男だと。そしてその上で聞いてくれ」
姿勢を正したユズリハにハロルドが微笑む。
「あの瞬間、僕の中にはアーリーンに同情されたショックよりも和女を婚約者なら笑い者になって当然と思っていることに腹が立ったんだ。それはお前が言うように外国人と関わらなければなかった発言かもしれないが、関わった以上は許せる発言じゃなかったんだ」
「すまぬ」
「頭を下げるのをやめろ。僕はお前に謝ってほしくて話してるんじゃない」
すぐに頭を下げようとするユズリハの肩から手が離せず、険しい表情を見せるハロルドはこれほど情けない顔をするユズリハを見たのは初めてで貴重だと冷静な感情で見つめていた。
女が男に簡単に頭を下げるのも和の国では普通なのだろう。文化の違いが生む戸惑いはあれど、それを当たり前だと受け取りたくはない。そうすることでユズリハの気が済むのだとしても謝るために女が頭を下げるなど見ていて気持ちの良いものではないのだから。
「明日にでも謝ればどうにかなるのではないか?」
「謝るつもりはない」
「じゃが……」
いつもあれだけ自信満々に笑って発言する女が珍しいと少し可愛くさえ見えてしまう。
「ユズリハは君よりずっとイイ女だよ」
ハロルドの口から出てきた言葉にユズリハは目を見開いて固まる。
「少し前まで自分を褒めてた男に見下してる女のほうがイイ女だって告げられて、その翌日に謝られて誰が許す?」
「そ、そなた……ま、誠……そのようなことを……?」
「もう猫をかぶってるのも馬鹿馬鹿しいと思ったらつい。いや、お前には本当に悪かったと思ってるよ。あんなこと言っておいて、それこそ本当に調子の良い……」
本人にイイ女だと言ったことはないのにクラスメイトには言った。それを伝えるのは相手にイイ女だとさりげなく伝えるよりも気まずいと頬を掻いていたが、ユズリハの顔を見ると手の動きも口の動きも止まった。
合わせた唇を内側に引っ込めている。まるでニヤついてしまうのを我慢しているように。
「どうした?」
ハロルドの先読みでは「わらわをイイ女と思うておるとは意外じゃ。ま、わらわの魅力を以ってすれば当然のこと」と、ニヤつき混じりにまたからかってくるのではないかと少し警戒しながら問いかけると堪えきれなくなったのかユズリハが唇を解いて笑顔を見せる。
「そなたにそう言ってもらえるのは嘘でも嬉しい」
見たことのない笑顔だった。いつもの屈託のない笑顔とは違う、微笑みとも違う、はにかみに近い笑み。その笑みを崩すつもりはなかったのに、ユズリハはまたすぐに目を見開いた。
なぜそうしたのかはわからない。気がつけば身体が前に動き、唇を重ねていた。
それほど長い時間ではない。触れて、三秒か五秒か……。
唇を離したあと、見開いたユズリハの目を見てハッとした。
畳の上に尻もちをついて勢いよく縁側まで後ずさったハロルドが手を前に出して「ち、違う! 今のは! 違うんだ!」と声を上げる。
「違うからな!」
負け犬の遠吠えのような言葉を発してそのまま縁側を走って屋敷を飛び出したハロルドは自分の部屋に入るまでずっと同じ言葉を連呼し続けた。
「キスしといて違うはないだろ」
どこから見ていたのか、ハロルドが帰ったあと、部屋に現れたシキの言葉に何も言わないユズリハを不思議に思い、顔を覗き込むとその姿に驚いた。
「大丈夫か?」
「いやはや……困った……」
顔を真っ赤にしながら笑うユズリハがとても幸せそうに見えたのだ。
12
あなたにおすすめの小説
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中
有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
お気に入り1000ありがとうございます!!
お礼SS追加決定のため終了取下げいたします。
皆様、お気に入り登録ありがとうございました。
現在、お礼SSの準備中です。少々お待ちください。
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
円満離婚に持ち込むはずが。~『冷酷皇帝の最愛妃』
みこと。
恋愛
「あなたと子を作るつもりはない」
皇帝シュテファンに嫁いだエリザは、初夜に夫から宣言されて首をかしげる。
(これは"愛することのない"の亜種?)
前世を思い出したばかりの彼女は、ここが小説『冷酷皇帝の最愛妃』の中だと気づき、冷静に状況を分析していた。
エリザの役どころは、公爵家が皇帝に押し付けた花嫁で、彼の恋路の邪魔をするモブ皇妃。小説のシュテファンは、最終的には運命の恋人アンネと結ばれる。
それは確かに、子どもが出来たら困るだろう。
速やかな"円満離婚"を前提にシュテファンと契約を結んだエリザだったが、とあるキッカケで彼の子を身ごもることになってしまい──?
シュテファンとの契約違反におののき、思わず逃走したエリザに「やっと見つけた」と追いすがる夫。
どうやら彼はエリザ一筋だったらしく。あれ? あなたの恋人アンネはどうしたの?
※小説家になろう様でも掲載しています
※表紙イラスト:あさぎかな先生にコラージュアートをいただきました
※毎朝7時に更新していく予定です
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
で、お前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか?
Debby
恋愛
ヴェルトが友人からの手紙を手に辺境伯令嬢であるレィディアンスの元を訪れたのは、その手紙に「詳細は彼女に聞け」と書いてあったからだ。
簡単にいうと、手紙の内容は「学園で問題を起こした平民──エボニーを妻として引き取ってくれ」というものだった。
一方その話を聞いてしまった伯爵令嬢のオリーブは動揺していた。
ヴェルトとは静かに愛を育んできた。そんな自分を差し置いて、言われるがまま平民を妻に迎えてしまうのだろうか。
そんなオリーブの気持ちを知るはずもないエボニーは、辺境伯邸で行儀見習いをすることになる。
オリーブは何とかしてヴェルトを取り戻そうと画策し、そのことを咎められてしまう。もう後は無い。
オリーブが最後の望みをかけてヴェルトに自分を選んで欲しいと懇願する中、レィディアンスが静かに口を開いた。
「で、そろそろお前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか」
「はい?」
ヴェルトは自分が何を言われたのか全く理解が出来なかった。
*--*--*
覗いてくださりありがとうございます。(* ᴗ ᴗ)⁾⁾
★全31話7時19時更新で、全話予約投稿済みです。
★★「このお話だけ読んでいただいてもOKです!」という前提のもと↓↓↓
このお話は独立した一つのお話ですが、「で。」シリーズのサイドストーリーでもあり、第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」の「エボニーその後」でもあります(あるいは「最終話」のその後)。
第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」
第二弾「で、あなたが私に嫌がらせをする理由を伺っても?」
第三弾「で、あなたが彼に嫌がらせをする理由をお話しいただいても?」
どれも女性向けHOTランキングに入り、特に第二弾はHOT一位になることが出来ました!(*´▽`人)アリガトウ
もしよかったら宜しくお願いしますね!
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
【完結】地味な私と公爵様
ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。
端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。
そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。
...正直私も信じていません。
ラエル様が、私を溺愛しているなんて。
きっと、きっと、夢に違いありません。
お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる