顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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文化の違い

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「和の国の文化を覚えたい?」
「ダメか?」

 学校から帰ってきたハロルドが突然そんなことを言い出した。
 ユズリハもシキも耳を疑ったが、ハロルドが目の前でノートを広げていることから冗談ではないのだと理解はしている。

「覚えてどうするのじゃ?」
「僕が覚えるのは不満か?」

 素直にわかったと言ってくれないユズリハに不満を顔に出すが、そうではないとユズリハがかぶりを振る。

「わらわが和の国に帰ることはない。そなたは和人と会うこともないじゃろう。覚える必要がどこにあるのかと疑問でな」
「そんなことわからないだろう。お前の国に行くことがあるかもしれない」
「何用で?」
「旅行とか」

 そう言えば喜ぶのではないかと思っていたハロルドの目に映っているのは相変わらずかぶりを振るユズリハ。
 歓迎されない家に嫁ぐのは苦痛だ。それは受け入れる側のハロルドにでもわかる。実家が恋しくなるだろうし、自国の雰囲気そのものが恋しくなるだろう。だから旅行と称して一時帰省ができれば喜ぶのではないかと思ったハロルドにとってユズリハの反応は予想外なものだった。

「嬉しくないのか?」
「いや、そなたがそう考えてくれたことは素直に嬉しい。じゃが、和の国まで船で何日もかかる。そなたは学校があるじゃろう。そんな時間は取れまい」
「何も今すぐの話じゃない。僕が卒業したあとでもいいじゃないか」
「卒業後は仕事があるじゃろう。就職して早々に何日も仕事を休むのか?」
「なら卒業して就職前に行く。卒業旅行だ」
「卒業旅行は卒業生と行くものでは?」

 素直に嬉しいと言いながらもハロルドの誘いを徹底して遠回しに断るユズリハにその気がないことはよくわかった。少しは距離が近くなったと思っていたが、自分が勝手にそう感じていただけでユズリハは相変わらず一線を引いたまま。踏み込もうとするとその線が浮かび上がって侵入禁止だとハロルドを中に入れないようにする。

「僕に教えたくないならそう言えばいいだろ」
「そうは言っておらぬ。わらわは──」
「和の国に行ったら外国人は奇異の目で見られる。それを心配しておるのじゃ、だろ?」

 お茶とお茶菓子を運んできたシキが代弁するとハロルドもハッとする。
 ユズリハがこの国で両親から奇異の目を向けられているように、ハロルドも和の国に行けば同じような目を向けられる。この国で当たり前のように闊歩しているのが嘘のように居心地の悪い旅行となってしまうことをユズリハは心配しているのだ。

「ま、お前さんがお嬢のために和の国に帰省させてやりたいって考えはわかるが、お前さんが一緒じゃ気を遣う。文化を覚えるのは勝手だが、覚えたい理由はもうちょっとハッキリ言わんと伝わらんぜ」
「なんだよ、覚えたい理由って」
「さあね、他人の気持ちを一語一句違えず当てるのは不可能だが……そうさね、婚約者のことをもっと知りたくなったから文化を知ることで更に距離を詰めよう、ってとこかい?」
「ッ!?」

 当たりだと表情で答えるハロルドにシキだけではなくユズリハも笑う。わかりやすい男だ。

「ぼ、僕は和の国への理解を深めようと思ったんだ。べ、別にお前のためじゃない」
「理由がなんであろうと嬉しい報告じゃな」
「そう思うなら素直に教えてくれ」
「そこまで言うならわらわが直々に教えてしんぜよう」

 嬉しそうに笑ってペンを取ろうとするユズリハの手を押さえたシキが「ちょい待ち」と待ったをかけた。

「なんじゃ?」

 余計なことを言うつもりじゃないだろうなと視線を向けるユズリハの目は見ず、ハロルドを見ていた。

「先生は選べ」
「理由は?」
「コイツがあまりにも独特だからだ。先生を間違えると恥をかくことになるぞ」
「随分な物言いじゃのう、シキ」
「屋敷の中の常識で生きてきたお前さんが教師になれると思ってんのかい?」

 契約を交わした相手がいたため他の男子と接近することも許さなかった親のせいで自由に外を駆け回れなかったユズリハにも自覚はあるのか反論はしなかった。

「そなたは相応しいと?」
「少なくともお前さんよりは外の世界に詳しいさね」
「ぐぬぬ……わらわとて何も知らぬわけではないぞ」
「そりゃ驚きだな。物の買い方も知らんお嬢ちゃんが知ってることってなんだい?」
「ええいうるさい!! わらわも一緒に学ぶ! それでよいな!?」
「正解だ」

 不満しかないユズリハだが、座布団を持ってハロルドの隣に座ると頬杖をつく。
 珍しく子供のように拗ねているユズリハにハロルドが笑うと不満げな顔を向けられる。
 祖父は言葉はたくさん学ばせたが、文化までは学ばせなかった。きっと文化を学ぶことで孫が和の国を嫌悪することを危惧したのだろう。
 知っていたらどうしていただろうとハロルドは考える。
 祖父のように好きになっただろうか。それとも正反対の文化に嫌悪を強めていただろうか。もし好きになっていれば幼い頃に祖父が和の国に行く際に同行し、ユズリハと顔合わせをしていたかもしれない。

「なあ、僕と子供の頃に知り合ったらどうしてた?」
「間違いなくお前さんはコイツを嫌いになってただろうな」
「やかましいぞ。わらわを可愛いと褒め続けたのは誰じゃ」
「そう育てろと言われたもんでね」
「幼いわらわの頬に噛み付いたのは誰じゃ」
「まーんまるでモチみたいに柔らかいもんで見てると腹が減って腹が減って。我慢するために目の前のモチを味見してただけさね」

 二人は仲が良い。シキはユズリハの護衛兼教育係として雇われているため当然だが、ハロルドが引き出せない顔を引き出すことができる。思い出もたくさんあって、二人の今はハロルドが和の国を嫌悪している間に紡がれた絆ができている。
 ユズリハの頬を軽く摘んで揺らすなどハロルドにはできない。それを鬱陶しげに払うこともハロルドはされない。

「仲良いんだな」

 ポツリと盛れた言葉に二人が揃って顔を向けては揃ってかぶりを振る。

「主と従者の仲が良いってのは妙な言い方だな」
「運命共同体と言うたほうが正しいかもしれぬのう」
「運命共同体……」
「わらわが海を渡ればこやつも海を渡る。山を越えればこやつも越える」
「ま、従者ってのは主が地獄に落ちる際は一緒に落ちるのが決まりって意味では運命共同体なのかもしれんね」

 それは夫婦よりもずっと固い絆で結ばれていることのように聞こえた。
 和の国を、その民を知ろうともしなかった自分に嫉妬する権利はない。わかっているのに悔しさが込み上げる。

「それじゃ、一般常識から教えようかね」
「ふん、わらわが知っておることばかりなら許さぬからな」
「それは聞いてのお楽しみ」

 シキが教師となって話す内容をハロルドは真面目にノートに書き留めてまとめていく。その隣でユズリハは「ん?」と何十回と漏らし続けた。シキが語る内容は十五年生活してきた中で知らなかったことばかり。
 一時間ほどの授業と称したものが終わるとユズリハはテーブルの上に頬を乗せてわかりやすいほど落ち込んでいた。

「大丈夫か?」
「わらわ、和人であるのに何も知らなんだ」
「そう落ち込むな。僕だってこの国について知らないことはたくさんある」
「そなたは優しいのう」

 微笑んではいるが、弱い。泣きたい気持ちなのだろう。十五年しか生きていなくともプライドはある。和の国で生まれ、和の国で育った十五年、自分は何を見て何をして生きてきたのだろうと落ち込んでしまう。

「ま、過保護の代表みたいなダイゴロウの旦那を恨むこったね」
「父上は悪うない。何も知ろうとしなんだわらわが悪いのじゃ」
「俺もそう思う」
「慰めの一つもかけぬとは、血も涙もない奴め」
「忍びはそういう生き物さね」
「そなたはああなってくれるな。そのままでいてくれ」
「あ、ああ」

 二人はもしかするとデキているのではないだろうかとハロルドの中で疑惑が生まれる。だからダイゴロウもシキを同行させた。何も知らせていない婚約者が両手を広げて歓迎するとは思っていないだろう。
 親友が娘のために家を建ててくれると知り、そこに住むのは娘と娘の教育係。これまでは親監視の下、シキが教育係をしていたが、親の目の届かない場所でこれまでの教育係をそのまま同行させるだろうか。赤ん坊の頃から見てきたとしても男は男。ハロルドの国で娘の家庭教師に男を雇うなどありえない話だ。
 それこそ文化が違うと言えどその考え方は万国共通だとハロルドは考える。自分が親なら女を教育係として同行させると。
 自分に「娘を頼んだ」と頼まなかったのはシキに頼んだからじゃないだろうか。
 ユズリハとシキは主と従者だとしても他人。結ばれることに禁忌はない。互いが受け入れ、親が認めれば問題はないのだ。
 だからユズリハは当初から夫が自分を受け入れない人間だと知っても平気だったのかもしれない。想い人がいようと応援できたのかもしれない。

『愛し合えとまでは言われておらぬ』

 そう言ったのも納得がいく。
 一人ではない。だからユズリハは見知らぬ土地でも強くいられるのかもしれないと思うと心が重くなる。

「どうした?」
「いや、そろそろ夕飯の時間だ。帰る」
「今日は食べて行かぬのか? 今日はそなたが美味いと言うておった炊き込みご飯じゃぞ」
「あー……悪い。今日はやめとく」

 不思議そうにハロルドを見る瞳に苦笑を返せばノートをしまって立ち上がる。
 勝手に落ち込んでいるだけの男の心を理解できるはずがない。自分でも情けないと思っている。これは子供が拗ねているようなもの。ダサいと嘲笑われても文句も言えないようなものだ。
 説明はできない。

「また明日」
「うむ、気をつけてな」

 シキは気付いているのだろうか。何も言わずにジッとハロルドを見ているだけ。それが気まずくてハロルドは目を合わさず帰っていった。

「おやすみがなかったのう」
「疲れたんじゃないか? お前さんが隣でうるさいから」
「ああ、悪いことをしてしもうた。明日、会えたら謝ろう」
「冗談だ。明日は元気な顔を見せるだろうさ」
「じゃといいが」

 心配だと見送り続けるもハロルドが振り返ることはなかった。

 婚約者という立場はなんの役にも立たず、なんの効力もない。
 ダイゴロウが用意した書面はハロルドのためではなくユズリハのため。ハロルドの手元に残っていないのだからそれを振りかざすことはできない。
 二人がデキているのであれば自分があの場所にいるのは邪魔でしかない。
 キスをしたあと、ユズリハはどうしたのだろう。ハロルドが見たときは赤面しているでもなかった。慣れているのならそれも当然。思い出して眠れなかったのは自分だけで、あのあとユズリハは袖で唇を拭ったかもしれない。
 何も考えずに絆を紡ごうと考えていた自分が恥ずかしくなる。
 だが、聞いてみないことにはわからない。またここで悶々としていると嫌な性格が出てきてしまう。
 眠れぬ夜を過ごすよりハッキリと聞いて気持ちに決着をつけるほうがいいと夜も更けた頃、明かりがついているのを確認してから家を出た。

「光栄だねぇ」
「そう思うならじっとしておれ」

 二人で暮らしているのだから二人の声が聞こえるのは当然だが、楽しげな声に嫉妬してしまう。
 シキがユズリハといるなら後ろから驚かされることはない。普通に出ていけばいいと庭のほうへ足を踏み出したとき、見えた光景に踏み出した足が止まり、それと同時に一瞬、ハロルドの呼吸が止まった。 
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