たとえば、この恋に終わりがないと言われても──

永江寧々

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行方不明

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 走り始めてどのぐらい時間が経ったのだろう。
 三十分? 一時間? 感覚的には二時間が経っているような気もするが、五分ぐらいしか走っていないかもしれない。
 イヴァの頭は既に冷静ではなかった。
 フィルングを失ったとき以上に絶望感に襲われているアストリッドを支えたかったが、直後に騒ぎになった市場での火事を放ってもおけなかった。
 愛する夫を失った悲しみが深いのはもちろんだが、ルィムはそれ以上に絆が深く、赤ん坊の頃からずっと一緒だった存在は魂の片割れも同然だ。ましてや自分を守るために命を落としたとなれば、その悲しみと絶望は想像を絶する。
 何故彼女だけが──イヴァはそれが悔しくてたまらない。だからイヴァは神を信じていない。神がいるならそれこそ悪魔という存在だと思う。アストリッドから大切なものを一つずつ取り上げていくその存在が悪魔でなければなんだというのか。
 開きっぱなしの唇を噛み締めるがすぐに開いてしまう。苦しさに喘ぎながら灯りを頼りに足を動かし続けた。

「ザファル陛下ッ! お話があります!!」

 時刻は既に深夜。多くの者が眠りについているファルージュ皇宮の入り口で、イヴァは立ち止まることはせず、わからないながらに進んで声を張り上げた。

「ザファル陛下!! お話があります!!」

 何度も同じ言葉を張り上げては明かりがついている場所を探す。
 ザファルならまだ起きているかもしれない。眠っていても叩き起こす覚悟があった。

「ザファル陛下──」

 目の前に現れた女にイヴァの足が止まる。

「こんな時間に大声を出すなど、何を考えているのですか?」
「……ザファル陛下にお話があって来たんです」
「陛下はもうお休みになられています。いくら教養がないとはいえ、非常識な訪問はやめなさい」
「ザファル陛下のお部屋はどこですか? 今すぐお話を──」

 ストールを羽織ったアリアがこちらを睨みつけるもイヴァは左右に顔を動かしてザファルの部屋を探すが、アリアが腕を掴んだことで顔が彼女のほうを向いた。

「いいですか? ここは選ばれし者だけが入ることを許される由緒正しきファルージュ皇宮です。あなたみたいな下女が足を踏み入れることなど許されないことを理解しなさい。あなたが仕えるあの女も同じです。この国に相応しくない異国民の分際で、何を偉そうに我が物顔で足を踏み入れているのか。夫を亡くしたというだけで違う男に媚び入ることが許される女はいいですね」
「アストリッド様を侮辱しないでください!」
「本当のことでしょう? 夫を亡くしてすぐ、別の男に、それも夫よりも上の地位の人間に悲しい顔で擦り寄るなんて娼婦より酷い──キャアッ!」

 背後から感じる殺気にハッとしたアリアが振り返った瞬間、頬に衝撃が走り、そのまま床に倒れた。

「陛下!!」
「アミーラを呼べ!!」

 イヴァの姿を見たザファルの大声に眠っていたアミーラが飛び起きて駆けつけるが、すぐに場所を移動する。
 ザファルの部屋ではなくアストリッドたちが暮らしていた宮へと移動するとアミーラはイヴァの治療にあたった。

「何があったの?」

 膝も手も擦りむけて血まみれ。服もあちこちが擦り破れている。
 足の震えが止まらないイヴァの様子に集まった全員が襲われたのかと思ったが、イヴァは出された水を一気に飲み干したあと、すぐに言葉を吐き出した。

「アストリッド様のお姿がどこにも見当たらないんです!!」
「なんだと……?」

 ザファルの心臓が大きく跳ねた。

「わ、私が……私が一緒にいれば……何を言われても、一緒にいればよかった……!!」

 滲んだ涙は一気に溜まり、そのままボロボロと零れ溢れていく。
 悲しみではなく後悔に染まった涙がイヴァの頬を伝い、膝の上で握りしめる拳へと落ちていく。
 ザファルはすぐに飛び出そうとしたが、サラディーンが止めた。

「陛下、先に我々が彼女を探しに行きますので、陛下は何があったのかを把握してから動いてください」

 サラディーンと一緒にハイルが頭を下げて宮を飛び出し、イフラーシュも気配を消した。
 
「イヴァ、話せ。何があった」

 イヴァは、涙を流しながらも自分が見た光景をありのまま話した。

「……カトラ」

 ルィムが消えたことはイヴァは確認できていないが、アストリッドとの悲しみから察しただけだと話しても、カトラの瞳から大粒の涙が溢れた。まるでルィムの消滅を確信したように。

「ハキーム、ザイードに指名手配と懸賞金をかけろ。あいつを知らん人間でも血眼になって探すほどの額をな」

 静かすぎる命令にハキームは何も言わず、頭を下げて宮を出た。
 
「私がお支えしなければならないんです! アストリッド様にはもう、私しか残っていないんです! だから、だから私がお傍についていなければならないんです! 彼女を一人にしてはいけないんです!」
「わかっている」

 市場の火事が鎮火し、大急ぎで戻ったイヴァはアストリッドを探したが見つからず、そのままここまで走ってきた。アミーラたちが走っても二十分以上かかる道を、なんの訓練も受けていないイヴァが走ってきた。四十分か五十分か──どちらにせよ、一度も足を止めずに走り続けたのだろう。だから何度も転んだ。受け身が取れなくなるほど疲弊し、何度足や手が傷つこうとも足を止めなかった。止められなかったのだ。
 身体は震えが止まらないほど疲弊しているのに、心は前に進もうとしている。アストリッドが今どこにいるのかを知れば、身体の悲鳴など無視して走り出してしまいそうだった。

「やはり、引き止めておくべきだった」

 この宮にいさせればザイードが好き勝手することはなかった。皇帝と父親の目の届く範囲で騒ぎを起こせばタダでは済まない。即座に拘束され、処罰を受ける。市場という離れた場所であれば皇宮に情報が届くまでに時間がかかる。ザイードはそれがわかっていて、アストリッドが宮を出てから仕掛けたのだ。
 激しい後悔に襲われながら拳を握り、イヴァの治療を終えたのを見て、ザファルは動き出した。

「私も行きます!」
「私の馬で行きましょう」

 残れと言うこともできたが、きっとジッとしてはいられないだろうとわかっているからザファルもアミーラも止めなかった。
 もしアストリッドを発見し、傷を負っていたらアミーラが必要だ。同行しないわけにはいかず、それならイヴァも連れていくと一緒に外に出た。
 ハキームが用意を命じていた馬は皇宮の入り口に待機しており、それに跨ると同時に駆け出した。

「心当たりはあるか?」
「ありません。アストリッド様は私よりもあの場所を知らないんです」
「そうだな……」

 ラフナディールは広すぎて、ここで生まれ育った人間でさえ全てを把握している者は少ないだろう。
 来たばかりのアストリッドが行きそうな場所など想像もつかない。だって彼女はどこへも行こうとはしなかったから。
 人に心配をかけることを嫌い、自分勝手に移動することはまずない。それはエルヴァングにいた頃からそうだ。フィルングはよく姿を消したが、アストリッドはいつも同じ場所にいた。
 だから勝手にいなくなることはない。どれほど心が抉られていようと、その判断ができなくなってしまう人ではないとイヴァは確信があった。



「……本当に成功したんでしょうね?」

 窓から六人の女がザファルたちが離れていくのを見ていた。
 振り返ったリアーナが水で頬を冷やしているアリアに苛立ったように問いかけるもアリアは答えなかった。

「アンタたちも同罪だから」

 もし万が一にでもバレたときは道ずれだとアリアは五人を睨みつけた。

「殺せって命じたんでしょうね!?」
「殺したら依頼したってバレるでしょ? バカなの?」
「やるなら徹底的にやらなきゃ意味ないでしょ!」

 目の前でヒールでカッと床を踏みつけるリアーナを睨みつけたままアリアは鼻で笑って嘲笑を向ける。

「喚くしか脳がない女が私に偉そうな口利かないでくれる? 子供も産めない役立たずのくせに」
「何かあれば子供子供って、それしか言えないバカが何言ってんの?」
「その子供さえ産めない女に言ってるのよ。子供を産むために存在してるはずの女が子供も産まずに夫人なんて笑わせるわ!」
「あの女が帰ってきたら、アリア、アンタのせいよ」
「アンタも同罪だって言ったでしょ、サミーヤ」
「醜い争いはやめなさい」
「黙ってな、おばさん」
「なんですって?」

 もともと親しくない仲だ。壊れるのはあっという間で、追い詰められれば罪をなすりつけ合う。
 押して、叩いて、掴んで、引っ掻いて、罵って、蹴って──それでも彼女たちは止まらない。
 そんな中、この雰囲気に不釣り合いな明るい声が広がった。

「大丈夫ですよ」

 ゼリファの明るい声を聞いたのは初めてである全員が驚きに動きを止める。
 くるっと振り返ったゼリファの表情は声と同調したものであり、窓から見える大きな月を背景に両手を広げた。

「あの広大な砂漠の、どこが中心かもわからない場所に捨てられた人間が生きて帰るなんて不可能ですから」

 誰よりも大人しく、誰よりも声が小さく、誰よりも従順だったゼリファの言葉に彼女たちの溜飲が下がっていく。

「仲違いじゃなくて乾杯しましょうよ! 私たちの穏やかな生活が戻ってくることに!」

 静寂が広がる真夜中、ゼリファの笑みにつられるように夫人たちも笑い始めた。
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