エリスローズの瞳に映るもの

永江寧々

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エリスローズは利用する

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 海沿いに存在する美しい国アクティー。
 人口四百万人の小さな国。
 首都クレーネはアクティー自慢の街。
 海沿いには大きな船が何隻も停泊しており、毎日何百トンもの積荷が降ろされる。
 豪商の集まる街としても有名。
 クレーネには貴族御用達の店が多く軒を並べ、観光客や地元の貴族たちが連日足を運んで大賑わい。
 エリスローズもその国で暮らす国民の一人。

 ただし、アクティーの中でも最下層に存在するスラム街で生きている。

「最近ずっとうるさいな」
「もうすぐパレードがあるみたい」
「パレード? ああ、建国記念日だっけ? アタシらには関係のない話だよな」

 織物工場で働く同僚のヘーゼルが空を見上げるように顔を上げて天まで伸びているように見える階段の先にある街を睨みつけながら舌打ちをする。
 ここ最近ヘーゼルの機嫌が悪いのはそのせい。
 建国記念日のパレードが行われることから平民たちは街の飾り付けで大忙し。
 だがそれは平民と貴族だけの楽しみであって、スラム街で暮らすエリスローズたちには一切無縁のイベントだ。
 貴族や平民たちから【ゴミ捨て場】と呼ばれているスラム街で暮らす人間は街に上がってはいけないことになっている。
 街から下へと続く階段を降りた先にある半地下と呼ばれる場所、貧困街を通過して更に下へと降りていくとスラム街がある。
 陽の当たらない陰鬱とした場所がエリスローズが生まれ育った場所。
 エリスローズやヘーゼルのようなスラム街の人間がパレードを見る機会など一生ない。
 そのくせ賑やかさだけが響いてくるものだから、それが気に入らないヘーゼルは嫌味なほど大きく鼻で笑って階段へと向かう。

「アンタは今日も酒場で仕事?」
「働かないとね」
「ロイを働かせたら?」
「シオンとメイを二人にはできないから」
「子だくさんは大変だな。アンタもさ、こんなゴミ捨て場に生まれてなきゃ王子様が迎えに来たかもしれねーのに」
「興味ないからいいの」
「だよな。んじゃ、頑張れよー」

 朝から夕方まで織物工場で働いたらすぐに酒場へと移動して夜中まで働く。休みはない。
 手を振りながら家へと帰っていくヘーゼルもこのあと別の仕事に向かうだろう。
 スラム街の女にとっては当たり前の仕事である娼婦として。

「遅くなりました!」
「まだオープン前だ。そんな汗だくになって来る必要はねぇよ」

 急いで階段を駆け上がって貧困街に向かうエリスローズは見慣れた酒場の裏口を開けて中に入ると樽に腰掛けながら新聞を読む店主のダンがいた。
 本来、貧困街でスラム街の人間が働くことは許されていない。国が法律で決めているわけではないが、職がない貧困街で働くのは貧困街の人間だけというのが暗黙のルールなっている。
 ダンもそれを知っているが、エリスローズを一目見て気に入ったため雇うことにした。
 畳んだ新聞を積み上げられた棚の上に置いて立ち上がったダンが笑顔で寄ってくる。

「エリスローズ、今日もお前の顔が見れて嬉しいよ」
「私もここで働けて嬉しいです。優しいオーナーに雇っていただけて感謝しています」
「お前を一目見てすぐにわかったよ。ああ、コイツは良い子だなって。困ってる女がいるなら雇ってやらなきゃ男が廃るってもんだろ?」
「素敵な人」

 着替えようとしているエリスローズを後ろから抱きしめたダンの手が肌が透けるほど擦り切れたシャツの合わせ目から中へと入ってくる。
 貧民らしいザラザラとした手が気持ち悪い。
 それでもエリスローズは顔に出すことなく、背中をダンに預けて笑顔を向ける。
 四十五歳のダンからすれば十九歳のエリスローズの肌はたまらなく気持ちがいいもの。
 働き口など工場か娼婦しかないスラム街の女がまともな職につけるチャンスがあれば誰だって飛びつくとわかっていてダンはエリスローズを誘った。
 エリスローズも裏があるとわかっていながらダンの誘いに乗ったため拒絶はしない。
 身体の関係一回につき給金上乗せと契約を結んだ以上はダンの望むように振る舞う。
 金になることならなんだってする。それがスラム街で生きる人間の生き方なのだ。
 
「奥さん、近くにいるんじゃ……」
「気にすんな。三十八のババアなんか抱いてもつまんねぇだけだっての」
「ひどい人」

 近くにいることは知っている。
 さっきあえて大きな声で挨拶したのは自分が来たことをダンの妻に知らせるため。
 妻が近くで聞いていることにダンが興奮するのを知っているからそうする。
 クスクスとワザと声を漏らして耳元で囁くのもダンの好み。
 
「あーやだやだ! ここは神聖な場所だってのにゴミがそこにあるだけで空気まで汚れちまうんだから!」

 店を開けるとすぐに妻のフィーネが大声で文句を言い始める。

「人の亭主に色目使うゴミがあるなんて知らなかったよ。ホント、きったない場所で生まれ落ちた人間は性根まで腐ってんだから嫌になるね」

 スラム街で生まれ育ったエリスローズにとって嫌味や嘲笑なんてものは風と一緒。
 そこでビュッと吹いて終わる。怒りも何も湧いてこない。 
 だからエリスローズはいつも相手にせず無視をする。
 
「自分がゴミだって自覚ないのかねぇ。この店でゴミって言ったらスラム街のゴミだけだろうにさ!」

 傷ついているとでも思っているのだろうか。

「スラム街にもこんな美人がいるなんて驚きだよな」
「だから言っただろ! スラム街の娼婦はここで酒飲むより安いし、稀に良い女が見つかるってよ」
「でも病気持ってんだろ?」
「んなこた知らねぇよ」
「貧困街の女は妙なプライド持ってやがるから面倒なんだよな」
「可愛げねぇっつーかよぉ」

 その日暮らしの男たちが日払いで得た金を使い果たしにやってきてはスラム街の娼婦を買うかの話をする。
 貧困街とスラム街は似ているようで似ていない。
 貧困街はまだ国から認知されている。一応は税を払える人間がいるのだ。
 スラム街にいるのは税さえ払えない人間ばかり。今日食べる物に困っているのではなく、明日を生きられるかどうかわからない人間が多く集まる場所。
 だからスラム街はゴミ捨て場と呼ばれている。
 そんな場所で生きている女が貧困街の女より良いと言われればフィーネのプライドも傷つく。
 身体を怒りに震わせながら睨みつける瞳が向かう先にいるのは男たちではなくエリスローズ。

「エリーは娼婦やんねぇのか?」
「私は──」
「人の夫と裏で仲良くしといて娼婦じゃないって嘘つくんじゃないよ」

 ハッキリと言いきったフィーネに男たちが色めき立つ。

「私そんなこと──」
「裏で股開く泥棒猫が何否定しようってんだい!?」
「おい、何騒いでんだ」

 裏からビール樽を運んできたダンが戻るとフィーネの顔色が悪くなる。

「喋ったら容赦しないよ」

 エリスローズに小声で脅しをかけるが、止めるべきなのは彼女ではなく男たちのほうだった。

「ダンさん、アンタも罪な男だね!」
「あ? 顔のことか?」
「エリーとよろしくやってんだって? 俺らも誘ってくれよ!」
「俺たちの仲だろ!」

 常連客には伝えていなかったのは知ればこうなるとわかっていたから。
 だから店を開ける前に事を済ませていた。
 誰が喋ったんだと一番に自分を疑う夫にフィーネは慌てて首を振ってエリスローズを指差す。

「この娘が自分でアンタとの関係を喋ったんだよ! アタシは止めようとしただけさ!」
「嘘ついてんじゃねぇよ。テメーの妄想による虚言癖はいつになったら治るんだ? あ?」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさいアンタ許して!」

 エリスローズを特別扱いしているダンにとってフィーネのやったことは許されることではなく、手の甲に血管を浮かび上がらせながら髪を鷲掴みにして奥へと引きずっていく。
 その奥から聞こえる振動と木箱が破壊される音、そしてフィーネの悲鳴と謝罪。
 丸聞こえなダンの怒声に色めき立っていた男たちはすぐに椅子に座り直して一言も喋らなくなった。

「いやー、悪いな期待させて。アイツ昔っから虚言癖があってすぐにああやって嘘ばっか口にしやがる。エリーはうちの大事な従業員だ。手なんか出すわけねぇだろ。な? お前らは信じてくれるだろ?」
「も、もちろんだよ! ダンさんは人情の人だからな!」
「エリーが金に困ってるから雇ってやったって言ってたもんな!」

 明らかなる空笑い。
 ダンは貧困街でもすぐに手が出る危険な男で有名。
 皆がここに集まるのはダンの店なら安全に飲めるから。
 ただし、ダンの機嫌を損ねないようにするのが大前提。少しでも損ねたらフィーネと同じ目に遭う。酔いすぎて店に迷惑をかけたが最後、出禁となり姿を消す。

「ビールにします? エールにします?」
「エー……」
「ワインだよな?」
「ワインでお願いします」

 これは男たちが支払う口止め料。
 三人の今日の給料を合わせてワイングラス一杯飲めるかどうかだが、今日聞いたことを公にしないという誓いがそこに含まれている。
 足りない分はツケになる。
 明日の酒も楽しめないだろうと三人分に分けられたグラスワインを震えながら飲み干した。

「それが宝石だと知らずに捨てた者とそれを宝石だと知って拾う者がいるって言うぐらいだし、神よりオーナーのが賢かったってことよね」

 店が閉まる夜明け前、貧困街出身の同僚べサミーが隣に立って嘲笑を浮かべながら話しかけてくる。
 
「生まれる場所を間違えたってだけでゴミになっちゃったんだから可哀想な女」

 貧困街の人間はスラム街の人間を見下す。それは見下す場所がそこしかないから。自分より下の人間がいることで自分が最低ではないのだと安心できるのだとエリスローズは理解している。

「スラム街に生まれたことを後悔したことはないし、生まれる場所を間違えたとも思ってない。私はあの両親の娘に生まれてよかったと思ってるし、あの家族の一員になれて幸せなの」
「強がりもそこまでいくと哀れね」
「見下す場所がそこしかないからって絡んでくる哀れな女よりマシ」
「ッ! ゴミのくせに生意気言ってくれるじゃない……」
「ゴミに話しかけるのは誰にも相手にされなくて寂しいから?」
「ゴリラの相手してるアンタより寂しくないわよ」
「そう。じゃあゴミを見るのが好きなのね。他の趣味見つけたほうがいいわよ」

 怒りに任せて手を振り上げてもそれを振り下ろす勇気がない。
 言うなと言ってもエリスローズに脅しは効かないとわかっている。
 ダンに告げ口されれば間違いなくフィーネの二の舞になるだろう。
 唇を噛み締めながら手を下ろし、手早く着替えて出ていった。

「気の強い女だな、エリスローズ」
「聞いてたのに止めてくれなかったんですか? ひどい人」
「なんでもかんでも俺が介入すんのはマズイだろ」
「閉店してるのに?」
「あれも大事な従業員だからな」
「ゴリラ呼ばわりしてましたよ」
「教え込んでやらねぇとな」
「こわい人」

 目を細めて笑うエリスローズの傍に寄って腰を抱き寄せたダンが顔を近付けてくる。
 それを防ぐかどうか瞬時に二択を浮かべたエリスローズは受け入れることを選択した。
 痛いぐらいカサついた唇が重なる不快感。すぐに唇を逃そうとすると余計に深くなり滑り込んでくる分厚い舌。
 乱暴なやり方にゴリラという表現がピッタリだと思いながらもこの後のために首に腕を回して対応する。

「上乗せ、してくださいね」
「お前も乗り気だったのにか?」
「約束でしょう?」
「守銭奴め」

 金が入った小袋の中に追加される銅貨。
 それを受け取ると紐を手首に巻き付けて持つ。

「ふふっ、お疲れ様でした」

 嫌がる素振りを見せずに受け入れることがダンを上機嫌でいさせるコツ。
 自分が可愛がってやっているんだと思わせていればある程度のことを言ってもダンは怒らない。
 会釈をしてドアを開けると「明日も来いよ」とダンの声が聞こえ、エリスローズは笑顔で大きく頷いて店を出た。

「……気持ちわる……」

 階段を降りてスラム街に入ってからエリスローズは雨水が溜まったバケツに顔を突っ込んで口いっぱいに水を頬張ると嫌な感情も何もかもそこに込めて豪快に道に吐き捨てた。
 灯りもない真っ暗な道を記憶だけで進む夜、エリスローズはいつも死にたいという思いに駆られる。
 上手い生き方は誰よりも知っているつもり。ダンに気に入られたラッキーも自分で掴み取ったものだと思っている。
 でも現実は残酷で、どんなに上手い生き方を身に付けてもこの街から脱出することはできない。
 どんなに必死に働いても裕福にはならず、明日を生きられるかどうかを心配しながら寿命が果てるまで同じことを繰り返す。 
 それでも──

「ただいま」

 ドアもなく窓ガラスもない吹きっさらしの家がエリスローズの家。
 国はスラム街に調査に来ない。
 税を払わない者のために金を使う義理はないと放置されている。
 台風で飛ばされ破壊された馬車のシートや店が壊れて中から飛ばされてきたクッションなどを拾い集めて寝床にした上に身を寄せ合って眠る愛する家族。

「おかえり」
「起きなくていい。私もすぐ寝るから」

 長男のロイが目を覚まし手を伸ばしてくる。
 その手を握って甲に口付けると隣に寝転んで抱きしめると少し照れ臭そうにしながらも手は背中に回る。
 
「酒臭い」
「酒場で働いてるんだもの」
「俺も働きたいよ……」
「ロイも働いてくれてる。毎日シオンとメイのお世話ありがとう」

 まだ十歳。働こうと思えば繊維工場で雇ってはもらえるが、十歳の弟に過酷な労働はさせたくない。
 朝から夜更けまで働かせて微々たる額しかもらえない絶望を味わわせたくないのだ。

「早く大人になりたいんだ」
「まだもう少し子供でいてよ。こうやって小さなシオンを抱きしめて寝るのがお姉ちゃんの癒しなんだから」

 三人で働いても明日の食べ物を心配しなければならない。今日を満足に食べられず、明日の食べ物を心配する生活。
 それでもエリスローズは諦めない。
 この家族のためならなんだってする。
 そう思えるほど家族を愛しているから。
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