エリスローズの瞳に映るもの

永江寧々

文字の大きさ
39 / 64

エリスローズは恐怖する

しおりを挟む
 あれからエリスローズはリオンの部屋を訪ねるのをやめた。
 自分が怒られるだけならいい。見下されることには慣れているし、唾を吐きかけられないだけマシなぐらいだ。
 だが、自分たちに良くしてくれるリオンがあんな風に責められるのは耐えられない。
 王室の言いたいことはわかっている。「自分たちは好きでスラムのゴミを雇っているわけではない。苦渋の決断で雇うことを決めただけだ」と。
 エリスローズもそうだ。好きで雇われているわけではない。自分たちでは寝ずに働いても手に入らない額が手に入るから雇われているだけ。
 互いの利害が一致してのことであるため文句を言うなと思うが、彼らの性格など変えようがない。望んでもいない。
 だから言われたことを守れば口うるさく言われることもリオンが責められることもないのだからと部屋に引きこもるようになった。

(もともと部屋から出ることなんて少なかったんだから)

 字が読めるようになれば本が読めるようになった。だから退屈にはならない。話し相手がいないだけ。

「散歩にでも出掛けてはいかがです?」

 カーラの言葉に首を振る。

『あそこは王太子と王太子妃のために作られた庭だから私は歩くなって』
「エヴリーヌ王妃の言いそうなことですね」
『エリーナ様の国ってそんなに大国なの? こんな無責任な王太子妃を許すぐらい支援を受けてるの?』

 大体のことはリオンから聞いているが、それでも納得できない部分は多かった。

「世界で見るとそれほど大国というわけではないですが、アクティーと比べると大国ですね。エリーナ様の祖国であるオリヒオは貧困層がいないことで有名ですし」
『国自体が裕福ってこと?』
「かもしれませんね。私はオリヒオに行ったことはないのでわかりませんが、両陛下及び使用人たち全員を取り込んでしまえるだけの財力をエリーナ様が持っているということはそれだけ両親からのバックアップがあるということ」
『カーラは取り込まれなかったの?』
「私は宝石には興味ありませんし、権力に従うのも嫌なんです。誰かの味方になれば誰かに嫌われる。面倒じゃないですか、そういうの。なら最初から誰の味方もしないまま嫌われたほうがいいんです」
『そのほうが辛くない?』
「誰の味方もしていない私をズルいと思って嫌うのはその人の考え方の問題でしょうし、私の性格が気に入らなくて嫌いになったのなら馬が合わないというだけです。私を嫌う人間は私の人生には必要ありませんし、媚びてまでこの仕事を続けようとも思っていませんから。要は心構えさえあれば何も困りませんよ」

 カーラはいつだって中立でいる。王家に媚びることもスラムの人間に優しくすることもしない。いつだって冷静に話をしてくれる。
 媚びずに生きられたらどんなに良かっただろう。この身体を好きでもない男に見せることなく生きられたらどんなに良かっただろう。
 スラム街に生まれた以上、そんな甘い考えは通用しない。そんな考えを持って生きることは死を意味するも同然。
 カーラのようになりたかったとエリスローズは羨望の眼差しを向ける。

『エリーナ様に目をつけられたりしないの?』
「あなたがバーバラメイド長をクビにしたあと、誰が行くかの話し合いで私が手を上げたからここにいるだけで、エリーナ様の侍女をしているのはバーバラメイド長でしたから」
『どうして手を上げてくれたの?』
「誰も行きたがらなかったからです」
『同情?』
「興味です。スラム街の方に会ったことがないので話をしてみたかったというのもありますし」

 変な人だと思ったが、エリスローズにとってそれは何よりもありがたいことだった。
 カーラでなければこの生活に耐えられていなかったかもしれない。
 カーラはエリスローズに字を教えるとき、間違っても鞭で叩くことはしなかった。何度も根気強く「違います」と言い続けた。痛みによる支配に意味はない。そんな叱り方をするぐらいなら十回書き直させたほうがいいと言った。

『あなたはこう言われるのを嫌うだろうけど、優しい人よね』
「そう思うのはあなたが優しさを知っている優しい人だからです」

 カーラの言葉にエリスローズの瞬きが増えた。

「人を優しいと思うには優しさを知っていなければそう思うことはできません。優しさの感じ方は人それぞれでしょうが、何が優しさかを知っているあなたも優しい人ということです」
『優しくしてくれる人に冷たくするような人間でも?』
「理由があるならそれも仕方のないこと。ただし、ちゃんと理由を話したほうがいいかもしれませんね」
『言っても聞いてくれない人なら?』
「説明は一度だけ。それで納得してくれないのであれば仕方ありません。あなたにもそうする理由があるのですから」

 リオンは毎日通ってくれているが、エリスローズはいつも忙しいを理由に追い返している。
 きっとおかしいと思っているだろうに、リオンはそれでも「忙しいのなら仕方ないね」と言って帰っていく。
 もうすぐ給料日。このままでいいのだろうかと迷っていた。

『また……』
「また?」
『ッ!? あ、違います! なんでもありません!』
 
 無意識に口に出すようにペンを走らせていたことにハッとして慌てて塗り潰して新しい言葉を書くとペンを置いた。

「今日はここまでにしましょうか」

 カーラの言葉に頷いて頭を下げるとカーラは本を閉じて部屋を出る準備をする。

(一人で帰ったら怪しまれるかな……)

 前に一人で帰ったことがあった。そのときはリオンが追いかけてきていつの間にか家の中にいたのだが、今回はどうだろう。
 親しくしないよう言われているのに一緒の馬車に乗り込んで家に行くのは親しい間柄でなければしないことだ。
 王妃も息子からあれだけ言い返されたのだから息子がしていることだとわかっているのだろうが、それを受け入れたエリスローズを許さないだろう。
 かといって一人で帰って両親に怪しまれるのも嫌だし、シオンとメイをガッカリさせるのも嫌。
 両親には仕事が忙しいと言えば信じるだろうが、問題はメイ。また泣いてしまうのが容易に想像できるだけにエリスローズは頭を抱えた。

「大丈夫ですか?」

 まだカーラが部屋を出ていなかったことに気付いて慌てて取り繕うも遅い。

「お疲れのようでしたら今日はゆっくり休んでください。あなたは体調を崩すことだけは絶対にあってはならないことなのですから」

 身代わりといえど人間。体調を崩すことぐらいあると言いたいが、絶対に許されないだろう。
 誰も看病はしてくれないし、きっと薬ももらえない。気をつけなければと頷くエリスローズに頭を下げて部屋を出ていこうとしたカーラはあまりにも勢いよく開いたドアにもう少しでぶつかるところだった。

「エリー!」

 息を切らせながら入ってきたリオンの表情はいつもと違って緊張しているように見えた。
 片手に握りしめている紙に目がいくとエリスローズは嫌な予感に襲われる。
 その手紙は誰から? もう二度と帰らないと書かれたエリーナからの手紙だったらどうしようと心臓がうるさく音を立てる。

「エリー……すぐに準備して」

 なんの準備だとペンを取ったエリスローズの耳に届いた言葉。

「ロイが高熱を出して意識がないって!」

 体調を崩すことはあってはならないとさっき話したばかり。それは自分だけではなく家族もそう。
 スラム街の人間は弱いようで強く、強いようで弱い。
 手に取ったペンが開いた手のひらから離れて床に落ちる。
 耳を疑う言葉だが、リオンを疑ってはいない。大切にしている家族が高熱を出して意識不明などという悪趣味な嘘をつく人間ではないのだから。
 だからこそ嫌だった。なぜロイが高熱を出したのか、今はそんなことどうでもよくて、エリスローズはノートを抱えてペンを拾い立ちあがろうとしたが、エリスローズの意思とは反対に身体が言うことを聞かない。
 いつの間にか震えていた足に力が入らず床に膝をついた。
 転がっていくペンを見ながらエリスローズは呼吸を乱す。
 もしロイに何かあったらどうしよう。不安な考えに涙が止まらない。

「おいで」

 リオンがエリスローズを抱き抱えるとカーラが拾い上げたノートとペンを受け取って馬車まで走る。

「大丈夫だよ、エリー。ロイは強い子だから。君が来るのを待ってるんだ。君が行けばすぐに目を覚ますはずだよ」

 一点を見つめたまま呼吸が整わないエリスローズを抱きしめながら御者に急ぐよう伝えて馬車を飛ばさせる。
 リオンの言葉はエリスローズに届いていない。
 エリスローズは今、まるで走馬灯のようにロイとの思い出が流れ続けている。
 震えてぶつかる歯がカチカチと音を立てるのは寒さでも緊張でもなく恐怖によるもの。

「大丈夫だよ」

 家に到着するまでリオンはずっとエリスローズを抱きしめたままそう囁き続けた。
しおりを挟む
感想 60

あなたにおすすめの小説

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

お久しぶりです旦那様。そろそろ離婚ですか?

奏千歌
恋愛
[イヌネコ] 「奥様、旦那様がお見えです」 「はい?」 ベッドの上でゴロゴロしながら猫と戯れていると、侍女が部屋を訪れて告げたことだった。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】 積み上がった伏線の回収目前!! 夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。 長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。 待っていたのは、凍てつく絶望。 けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。 「夫は愛人と生きればいい。  今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」 それでも私は誓う―― 「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」 歪で、完全な幸福――それとも、破滅。 “石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

処理中です...