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雨季2
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「こちらの雨はすごいですね……」
フィオレンツに住んでいたのはたったの七年だったが、それでも雨季の思い出はある。
しかし、王都の雨季は自分の記憶にあるものとは違い、冷え込みが激しい感じがする。
「お前は南部にいたからな。雨季でも辛くはなかっただろう」
「そうですね」
南部で暮らしていたエリンシアにとって雨季は温暖で雨も穏やか。嫌になるようなものではなかった。
ここではまだ暖炉が手放せない。
「十八度……」
「冷えるはずだな」
十八度を示す温度計を見て驚いた。
南部にいた頃は、毎朝、温度計を見るのがエリンシアの役割だった。何度か、と母親に報告する。それが子供の頃の楽しみでもあった。
だからエリンシアは今でも温度計を見る癖があるのだが、表示されている温度に何度か瞬きを繰り返した。
暖炉があっての十八度。外は十度前後か──南部とシアレスで育ったエリンシアにとって十度はもはや冬。春を迎えたあととは思えない気温だった。
「雨季でも十八度から二十二度はあったのに……」
暖炉があってようやく南部の最低気温に達する様子に思わず、ハーッと溜息にも似た息を吐き出した。
「あと二週間もすれば雨季が明ける」
「二週間、あっという間のようで長いですよね」
「お前は寒がりだからな」
「陛下はそういうのはないのですか?」
「ない。僕の服はそういう対策をしてあるからな」
「そうなのですか?」
「女性と違って華やさをメインに作ってはいない」
ヴァレンが上に一枚羽織ろうとしなかった理由に納得すると、ペンを置いてヴァレンを見た。
「陛下は暑さと寒さならどっちが苦手ですか?」
「苦手を聞く理由はなんだ?」
「陛下が気温に嫌な顔をしているのを見たことがないので」
「全ての物事について言えることだが、表情ひとつで何も変わりはしないのだから、わざわざ表情で訴える必要はないだろう」
「それはそうですが……」
感情を必要としてこなかったわけではなく、抑え込まれていた彼にとって感情は表に出さずとも人を動かすことを知った以上は感情を出すことは無駄だとわかったのだろう。
エリンシアの父であるロレンツを延々と愚者呼ばわりするからには、深い恨みを抱いているのは間違いない。
「ふふっ」
「何がおかしい?」
「いえ、陛下も感情豊かな部分があると思いまして」
「今の会話の流れで何を感じたのだ?」
「陛下の発言の数々を思い出していました」
「僕と話しながらか?」
しまった、と思ったときには既に遅く、エリンシアは苦笑しながら頬を掻いた。
「僕との会話中に考え事とはな」
「考え事というよりは、陛下との思い出を──」
「過去は過去でしかない。僕は今、お前と話をしているんだ。僕と話している最中に僕との過去について思い出すなら……」
「記憶を消すのはやめてくださいね?」
「……まだ何も言っていないだろう」
そんな技術があるのかはわからないが、何でも先手を打っておかなければ何をしでかすかわからない。
「過去の自分に嫉妬ですか?」
「嫉妬? 違う。腹を立てているのだ」
珍しい言葉を使う彼に驚きながらも微笑む。
「ふふっ、陛下がご自分に腹を立てるだなんて」
「僕は昔から自分に腹を立てることが多かった」
「あ……」
自分が無力でなければ、と思うことが多々あった彼にとっては軽い話ではない。
エリンシアは浮かべていた笑顔を消して眉を下げる。
「他者には腹を立てないのですか?」
「お前の愚かな父親のことは恨んでいるが、怒りはない。愚かな元婚約者についても怒りはない。貴族は総じて愚かだと理解しているし、腹を立てるような事象はないな」
達観しているというか、自分とは違う世界で生きてきたのだと実感する。
エリンシアにとってヴァレンは大人だ。年上であるため当然なのだが、落ち着きすぎていることから、年相応以上に大人に感じる。
それに比べ、自分が子供っぽいと感じることが多いのがエリンシアは恥ずかしかった。
「王妃陛下、お時間でございます」
「針で刺されたら言え。クビにする」
「今までありませんでしたから、ご心配なく」
結婚式のドレスのフィッティングにヴァレンはまだ一度も同行したことがない。
楽しみにしているからだろうかとニヤつきながら問いかけた際、彼はいつもどおりの表情でこう言った。
『僕が監視することによって針子の手が震え、針先が少しでもお前に刺さろうものなら僕はその者の爪全部に針を刺す自信があるから同行しないだけだ』と。
「行ってきます」
ドレスのフィッティングに関わる者は全員が女性。それはヴァレンが出した絶対条件だった。
全員の身分を調べ尽くしたからこそ、ヴァレンはエリンシアを送り出せる。
一人になった途端、ヴァレンはペンを置いた。
立ち上がり、窓際に寄る。
「美しいだろうな」
まだ未完成の庭を見つめながらポツリと呟く。
「雨雲を払う機械でも作らせるか……?」
再びポツリとこぼれた言葉が控えていた執事には冗談に聞こえなかった。
ヴァレンはそのまま席には戻らず、ドアへと向かう。どこへ行くのか。そんな簡単な言葉ひとつ、ヴァレン相手には許されない。
執事は黙ってヴァレンのあとをついて行く。
「鬱陶しいな……」
向かった先は庭だった。
止まない雨が降り注ぐ気温が低い庭先に迷いなく出ようとするヴァレンに執事がサッと傘を差し出す。
それを受け取るとそのままゆっくりとした足取りで花壇へと向かう。
「蕾が出来たのか」
花に関心などなかった。今も関心はない。エリンシアが庭が欲しいと言わなければ花について調べることなど一生なかっただろう。
それでも、ひとつひとつの工程が終わるたびに嬉しそうな表情を見せるから、ヴァレンは自らの仕事時間を変えてまで色々と知識を身につけたくなる。
「陛下!?」
花壇の見回りを終えたばかりのガードナーがヴァレンの存在に気づいて慌てて駆け寄る。
「どうされました!?」
「様子を見に来ただけだ」
自分たちが見回りを終えたあとに何か起こったのかと焦った男たちがホッと安堵の息を吐く。
「この蕾はどのぐらいで開花するのだ?」
「ちょうど雨季が明ける頃に咲き誇ると思います」
「他の花はどうだ?」
「バラは少し時間がかかるので、まだ二ヶ月ほどは……」
「庭全体が花で彩るのはどれぐらいあとになる?」
「そうですね……」
全体を見回し、声を出さずに口だけ動かしながら手のひらに何かを書くようにして計算を始めたガードナーはすぐに答えた。
「二ヶ月後か、二ヶ月半頃には花でいっぱいになると思います」
笑顔で告げるガードナーに頷きだけ返すと、ヴァレンはそのまま城には戻らず、道の上を歩いていく。
「……やはりそうか……」
ガゼボの下に入ったヴァレンは傘を閉じなかった。
今日は少し雨が強いため、座って見上げるには向いていない。
一人、ガゼボの真ん中に立ってステンドグラスを見上げるヴァレンの目に映るのは、バラに囲まれた二羽の兎。
エリンシアらしいセンスだと思った。
だが、今日はそれしか感じなかった。あの日、これを見上げてヴァレンが美しいと感じたあの感覚は込み上げてこない。
それでも、ヴァレンはしばらくステンドグラスを見上げていた。
「陛下!」
突然聞こえたエリンシアの声にハッとして顔を向けると、傘をさしたエリンシアがこちらに走ってくるのが見えた。
「走るな。足元が滑って転ぶぞ」
「どうしてお一人で行ってしまわれるのですか! 庭に出るときは一緒だとあんなに──キャッ!」
フィッティングが終わって部屋に戻るとヴァレンがいなかった。
トイレだろうかと机に向かったとき、ガゼボに人がいることに気づいた。
少し離れた場所にいるのが執事だとわかるとヴァレンだと確信し、慌てて駆け出した。
ヴァレンが一人で庭に出ている。雨が嫌いなのに。一人にしてはいけないと焦ったエリンシアにはヴァレンの声が聞こえていなかったのか、速度を緩めなかった。
雨の日の大理石は滑りやすい。それは一年間、城で過ごしたエリンシアならわかっているはずなのに……
ツルッと足元が滑ったのを見た瞬間、ヴァレンは駆け出した。
「エリンシアッ!!」
大声が上がる中、二本の傘が宙を舞った。
フィオレンツに住んでいたのはたったの七年だったが、それでも雨季の思い出はある。
しかし、王都の雨季は自分の記憶にあるものとは違い、冷え込みが激しい感じがする。
「お前は南部にいたからな。雨季でも辛くはなかっただろう」
「そうですね」
南部で暮らしていたエリンシアにとって雨季は温暖で雨も穏やか。嫌になるようなものではなかった。
ここではまだ暖炉が手放せない。
「十八度……」
「冷えるはずだな」
十八度を示す温度計を見て驚いた。
南部にいた頃は、毎朝、温度計を見るのがエリンシアの役割だった。何度か、と母親に報告する。それが子供の頃の楽しみでもあった。
だからエリンシアは今でも温度計を見る癖があるのだが、表示されている温度に何度か瞬きを繰り返した。
暖炉があっての十八度。外は十度前後か──南部とシアレスで育ったエリンシアにとって十度はもはや冬。春を迎えたあととは思えない気温だった。
「雨季でも十八度から二十二度はあったのに……」
暖炉があってようやく南部の最低気温に達する様子に思わず、ハーッと溜息にも似た息を吐き出した。
「あと二週間もすれば雨季が明ける」
「二週間、あっという間のようで長いですよね」
「お前は寒がりだからな」
「陛下はそういうのはないのですか?」
「ない。僕の服はそういう対策をしてあるからな」
「そうなのですか?」
「女性と違って華やさをメインに作ってはいない」
ヴァレンが上に一枚羽織ろうとしなかった理由に納得すると、ペンを置いてヴァレンを見た。
「陛下は暑さと寒さならどっちが苦手ですか?」
「苦手を聞く理由はなんだ?」
「陛下が気温に嫌な顔をしているのを見たことがないので」
「全ての物事について言えることだが、表情ひとつで何も変わりはしないのだから、わざわざ表情で訴える必要はないだろう」
「それはそうですが……」
感情を必要としてこなかったわけではなく、抑え込まれていた彼にとって感情は表に出さずとも人を動かすことを知った以上は感情を出すことは無駄だとわかったのだろう。
エリンシアの父であるロレンツを延々と愚者呼ばわりするからには、深い恨みを抱いているのは間違いない。
「ふふっ」
「何がおかしい?」
「いえ、陛下も感情豊かな部分があると思いまして」
「今の会話の流れで何を感じたのだ?」
「陛下の発言の数々を思い出していました」
「僕と話しながらか?」
しまった、と思ったときには既に遅く、エリンシアは苦笑しながら頬を掻いた。
「僕との会話中に考え事とはな」
「考え事というよりは、陛下との思い出を──」
「過去は過去でしかない。僕は今、お前と話をしているんだ。僕と話している最中に僕との過去について思い出すなら……」
「記憶を消すのはやめてくださいね?」
「……まだ何も言っていないだろう」
そんな技術があるのかはわからないが、何でも先手を打っておかなければ何をしでかすかわからない。
「過去の自分に嫉妬ですか?」
「嫉妬? 違う。腹を立てているのだ」
珍しい言葉を使う彼に驚きながらも微笑む。
「ふふっ、陛下がご自分に腹を立てるだなんて」
「僕は昔から自分に腹を立てることが多かった」
「あ……」
自分が無力でなければ、と思うことが多々あった彼にとっては軽い話ではない。
エリンシアは浮かべていた笑顔を消して眉を下げる。
「他者には腹を立てないのですか?」
「お前の愚かな父親のことは恨んでいるが、怒りはない。愚かな元婚約者についても怒りはない。貴族は総じて愚かだと理解しているし、腹を立てるような事象はないな」
達観しているというか、自分とは違う世界で生きてきたのだと実感する。
エリンシアにとってヴァレンは大人だ。年上であるため当然なのだが、落ち着きすぎていることから、年相応以上に大人に感じる。
それに比べ、自分が子供っぽいと感じることが多いのがエリンシアは恥ずかしかった。
「王妃陛下、お時間でございます」
「針で刺されたら言え。クビにする」
「今までありませんでしたから、ご心配なく」
結婚式のドレスのフィッティングにヴァレンはまだ一度も同行したことがない。
楽しみにしているからだろうかとニヤつきながら問いかけた際、彼はいつもどおりの表情でこう言った。
『僕が監視することによって針子の手が震え、針先が少しでもお前に刺さろうものなら僕はその者の爪全部に針を刺す自信があるから同行しないだけだ』と。
「行ってきます」
ドレスのフィッティングに関わる者は全員が女性。それはヴァレンが出した絶対条件だった。
全員の身分を調べ尽くしたからこそ、ヴァレンはエリンシアを送り出せる。
一人になった途端、ヴァレンはペンを置いた。
立ち上がり、窓際に寄る。
「美しいだろうな」
まだ未完成の庭を見つめながらポツリと呟く。
「雨雲を払う機械でも作らせるか……?」
再びポツリとこぼれた言葉が控えていた執事には冗談に聞こえなかった。
ヴァレンはそのまま席には戻らず、ドアへと向かう。どこへ行くのか。そんな簡単な言葉ひとつ、ヴァレン相手には許されない。
執事は黙ってヴァレンのあとをついて行く。
「鬱陶しいな……」
向かった先は庭だった。
止まない雨が降り注ぐ気温が低い庭先に迷いなく出ようとするヴァレンに執事がサッと傘を差し出す。
それを受け取るとそのままゆっくりとした足取りで花壇へと向かう。
「蕾が出来たのか」
花に関心などなかった。今も関心はない。エリンシアが庭が欲しいと言わなければ花について調べることなど一生なかっただろう。
それでも、ひとつひとつの工程が終わるたびに嬉しそうな表情を見せるから、ヴァレンは自らの仕事時間を変えてまで色々と知識を身につけたくなる。
「陛下!?」
花壇の見回りを終えたばかりのガードナーがヴァレンの存在に気づいて慌てて駆け寄る。
「どうされました!?」
「様子を見に来ただけだ」
自分たちが見回りを終えたあとに何か起こったのかと焦った男たちがホッと安堵の息を吐く。
「この蕾はどのぐらいで開花するのだ?」
「ちょうど雨季が明ける頃に咲き誇ると思います」
「他の花はどうだ?」
「バラは少し時間がかかるので、まだ二ヶ月ほどは……」
「庭全体が花で彩るのはどれぐらいあとになる?」
「そうですね……」
全体を見回し、声を出さずに口だけ動かしながら手のひらに何かを書くようにして計算を始めたガードナーはすぐに答えた。
「二ヶ月後か、二ヶ月半頃には花でいっぱいになると思います」
笑顔で告げるガードナーに頷きだけ返すと、ヴァレンはそのまま城には戻らず、道の上を歩いていく。
「……やはりそうか……」
ガゼボの下に入ったヴァレンは傘を閉じなかった。
今日は少し雨が強いため、座って見上げるには向いていない。
一人、ガゼボの真ん中に立ってステンドグラスを見上げるヴァレンの目に映るのは、バラに囲まれた二羽の兎。
エリンシアらしいセンスだと思った。
だが、今日はそれしか感じなかった。あの日、これを見上げてヴァレンが美しいと感じたあの感覚は込み上げてこない。
それでも、ヴァレンはしばらくステンドグラスを見上げていた。
「陛下!」
突然聞こえたエリンシアの声にハッとして顔を向けると、傘をさしたエリンシアがこちらに走ってくるのが見えた。
「走るな。足元が滑って転ぶぞ」
「どうしてお一人で行ってしまわれるのですか! 庭に出るときは一緒だとあんなに──キャッ!」
フィッティングが終わって部屋に戻るとヴァレンがいなかった。
トイレだろうかと机に向かったとき、ガゼボに人がいることに気づいた。
少し離れた場所にいるのが執事だとわかるとヴァレンだと確信し、慌てて駆け出した。
ヴァレンが一人で庭に出ている。雨が嫌いなのに。一人にしてはいけないと焦ったエリンシアにはヴァレンの声が聞こえていなかったのか、速度を緩めなかった。
雨の日の大理石は滑りやすい。それは一年間、城で過ごしたエリンシアならわかっているはずなのに……
ツルッと足元が滑ったのを見た瞬間、ヴァレンは駆け出した。
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