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クリスマス5
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「皇家は昔から女系一家で、長女が家長を務め、男を婿として迎えるのが習わしのようなもので、父も例に漏れず婿として皇に入りました。家長である祖母の言葉を絶対とし、反論は愚か、意見も許されない……そんな環境下で私は育ちました。だから旦那様と知り合うまで外の世界のことは何も教えられず、こうした電子機器類が誕生していることすら知りませんでした」
スマホもエレベーターもタクシーさえも知らなかった少女が自分の生まれ育った環境を語る表情は苦笑にもならないほど苦いもので、思わず彼女の手を握った。
顔を上げて目が合うとようやく浮かんだ笑みも苦笑で止まり、視線は再びケーキへと落ちる。
「母も当然その環境下で育ったのですが、母は祖母と幾度となくぶつかり合っていました。山奥で暮らすことによって得ることは何もない。世界を見せたいと何度も訴えていました。母は祖母のやり方は古い。犠牲者は自分で終わりにすると言っては祖母に叩かれ……」
言葉が止まり、深呼吸をする。
幼いながらにに残る壮絶な記憶。便利になりすぎた現代で生きているはずの人間が戦前にも似た暮らし方しか知らず、共働きが一般的になっている世界で女は家を守り、男に尽くすものだと教えられていたことを不幸に思わないはずがない。自ら望んでならないい。でも椿のこれは洗脳に等しい。
母親が見せたかった世界を知ったのは十七歳になってから。これも祖母が譲歩した結果ではなく、自らの意思で家を飛び出して掴んだもの。
異常と言える環境で育ったのは母親も同じなのに母親はなぜ外の世界を見せたがったのか。
掘り起こされた記憶を辿るように語り始めた。
それは今から十三年も前の記憶。
「私はあの子をあなたの玩具として差し出すつもりはありません」
上座に置かれた座布団に腰掛ける母親にそう言い放った娘の声に家中が静まり返った。常日頃から家中の全て開けっぱなしになっていることから大体の会話は筒抜けとなっている。
この日もそうだった。
「私がいつ孫を玩具として扱った?」
「これからそうするつもりでしょう。必要以上の学力は与えず、学ばせるのは家事育児の方法だけ。十八になったらあなたが選んだ婚約者と結婚し、翌年には母になることを強要される」
「優秀な遺伝子を持つ子供の母親になれることの何が不満なのかわからないね」
「椿が娘として生まれてきてくれたこと、母になれたことは感謝しています」
「なら何を──」
「でもそれは神様にであってあなたにではありません」
「誰が優秀な遺伝子を持つ男を見つけてやったと思っているんだい?」
わかっていないと首を振る娘に向ける母の目は冷たかった。でも慣れている。この家の絶対君主である母親を都会で生きている一般家庭の子供が望むように優しく愛に溢れた女性と実感したことは一度もないのだから。
命令することでしか人を動かせない母親を哀れと思ってきた。
夫に出会わせてくれたことには感謝している。でもそれだけだ。彼が優秀な遺伝子を持っているかなどどうだっていい。
片方にしかついていない肘掛けに肘を乗せながら気に入らないと表情で訴える母親から今日だけは目を逸さない。その覚悟には理由があった。
「私は夫と共にあの子を連れて家を出ます」
「お前は皇家の跡取りだ」
「この家は残すべきではありません」
「戯言を。お前がくだらない俗世に染まろうと勝手だが、椿は置いていきな」
「椿は私の娘です」
「私の孫でもある」
言ってどうにかなる相手だとは思っていない。だからこの話し合いに意味があるとは思っていないが、これは彼女なりの筋を通した行動のつもりだった。母親と慕うことはなくとも彼女の血も遺伝子もこの身体に入っている。
許されるはずもない争いを真正面からぶつける娘の手が震えていることに母親は気付いていた。怖くないはずがない。皇家が持つ力の強さ、広大さを誰よりも知っているのは皇家で生まれた人間なのだから。
「もうすぐクリスマスです」
「だからどうした」
「それが終わればあの子の誕生日がやってきます。誕生日は記念日です。あの子がこの世に生を受けた大事な日。謂わば命日。なのにどうして見えない死者を丁重にもてなし、生者を粗末に扱うのですか。あの子は生まれてから一度も誕生日を祝ってもらったことがないのですよ」
「来年も再来年もその先何十年と同じ日はやってくる。その度に祝いだなんだと騒ぐ必要がどこにある」
「死者にも同じことが言えるのですか?」
「私らが弔っている彼らには功績がある。皇家を繁栄させ守ってきた功績がね。比べる方がおかしいってもんだろう」
自分も誕生日を祝われたことは一度もない。友人に言葉として祝われたことはあれど、贈られた物を持って帰ろうものなら汚物でも見るかのような目で咎め、使用人に捨てさせた。
今、誕生日を祝ってくれるのは夫だけ。言葉だけだが、それでも嬉しいと思える。プレゼントがあることが全てではないとわかっていても、プレゼントをもらえた時の喜びを知っているから椿にもその幸せを知ってほしい。
でもそれはここにいては叶わない。当主である母親が死ななければ一生変えられないことだ。母親が死んだとしても親族がいる。叶うかどうか……。
叶えるためには家を出るしかない。この決意を口にするだけでこれほど震え上がるとは思っていなかったが、それでも一度口にした以上はもう後戻りはできない。
膝の上で拳を握って呆れた顔をする母親を睨みつけるように強い眼差しを向けた。
「この家を出て三人で暮らします」
「自分の幸せのために弟を犠牲にすると言うんだね?」
三つ歳の離れた弟を残すことになるのは心苦しい。
皇家では男は外で働く者として女より優遇されるが、当主にはなれない。しかし、どれほど丁重な扱いを受けるかは功績次第。弟は自分が皇家の長男であることに嫌悪しているほどだが、まだ大学に通っているため母親に口答えすることはなかった。
出ていけば母親の怒りは弟に向くだろう。言われたことしかしない息子を快く思っていない母親からの当たりが強いだけに犠牲という言葉に思わず黙り込んだ。
「お前の人生はお前だけのものじゃないんだよ。皇家の長女として生まれたからにはお前には当主として私の跡を継ぐ義務があり、繁栄させる責任がある。それを放り出すなど許されるはずがないだろう」
「椿に私と同じ思いはさせたくありません」
「何不自由ない生活をさせてもらっておきながら何甘えたこと言ってんだい」
母親の言葉にカッとなった娘が目を見開いて声を上げた。
「何不自由がない生活? 不自由しかない生活の間違いでしょ!?」
「誰に口を利いてんだい」
静かな注意にビクッと肩を跳ねさせた娘が勢いを抑えて唇を噛み締める。悔しい。あんな一言で逆らえなくなってしまうなんて。身体だけではなく細胞に至るまで染み込んでいる母親の怖さ。どれほど悔しがったところで気合いだけで変えられるものではない。
そんな娘にやはり呆れを見せる母親がやれやれと首を振る。近くに置かれていた湯呑みを取って少し冷めてしまった中身を一口飲んだ。
「お前も旦那も箱入りだ。野蛮人の巣窟でどうやって生きていくつもりだ? 家は? 仕事はどうする?」
「どちらも探せば見つかります」
「甘ったれのお前達が群衆の中で生きていけると思ってるんだとしたら笑い草にもなりゃしないね」
「家族の幸せのためならなんだってやるつもりです」
「お前に何ができる? 贅を極めた人間にできることなんて知れてんのさ。言っといてやる。お前達には無理だ」
「贅を極めているのは当主であるあなただけ。私達は違います。あなたと私を一緒にしないでくださ──ッ!」
顔にかかったぬるめの白湯。幼い頃から何度経験したことだろう。母親は決して声を荒げない。いつだって冷静に話はするが、それは腹が立てばこうして行動で憂さ晴らしをするから声を荒げないだけ。腹を立てない仏ではない。
「誰に口利いてんだって言ってるのが理解できていないようだね」
「必要最低限の学しか持っていませんので何度言われようと理解できません」
滴る雫を払おうともせず、ポタポタと垂れる水滴をそのままに母親を睨みつける。その反抗的な目つきに手にしていた湯呑みを娘の前に叩きつけて割った。割れた破片が飛び散り、頬を掠めて薄皮を切ろうと娘は怯えを見せない。
「まるで癇癪を起こした子供ですね。まだ四歳の椿でさえ癇癪を起こしたことは一度もないというのに」
「……話は終わりだ。蔵に入りな」
「ご理解いただけたということですね。ありがとうございます」
「戯言はいい。さっさと行きな」
この言葉も何度聞いただろう。何か言えば全て戯言として片付けられる。そして蔵に行かされる。
いつもなら立ち上がったらそのまま廊下に出て玄関から出ていくのだが、今日はそうしなかった。廊下とは反対の縁側に出てそのまま草履を履くこともせず足袋のまま地面に降りた。まるで拗ねた子供のようだと思いながらもこれは母親への意思表示。もうあなたには従わないと。
「いっしょにいく!」
どこから聞いていたのだろう。後ろから聞こえた足音と泣きを含んだ声に振り返るとボスッとタックルするように勢いよくしがみついてきた愛しい愛娘を抱きしめる。
「椿、戻りな」
祖母の冷たい声に嫌だと首を振る。
「やだ! おかあさまといっしょがいい!」
「蔵はとっても寒いの。風邪引いちゃうわ」
「おかあさまもいっしょだもの」
「でもお母様は強いから大丈夫よ。でもあなたはまだこんなに小さいから風邪に勝てないの」
「おかあさまがまもってくれるでしょ?」
その言葉に何も返せなくなったのは最近ずっとそう言い続けていたから。「あなたのことはお母様とお父様が守るから」と。
本当に守らなければならない。この小さい天使のような存在を。清らかな娘がいつか苦しみに押し潰されてしまわないように愛を教えなければならない。それは自分達両親からだけではなく、外で知り合った友人や、いつかできるだろう恋人からもそう。自由に外を歩いて、大口を開けて笑い合って、やりたいことをやって、目指すべき夢を持って立ち向かって、恋をして、愛し合って──そんな幸せを与えてやりたいと願う。この子にだけは自分と同じ苦しみを味わわせてはいけないのだと夫とは子供が妊娠がわかった時から話し合っていた。
あとはそれを実現するだけだが、その壁があまりにも高い。だからといって壁の前でその高さに絶望して見上げて終わるつもりはなかった。
「そうね。いらっしゃい」
「椿は置いていくんだ」
「何度言えば理解していただけるのでしょうか? この子は私の娘です」
「うちの孫だ」
「親の権力に勝るものはありませんよ」
クスッと笑って抵抗する娘に苛立ちを見せながらも何も言わずに去っていった。何を考えて去ったのか、考えると不安に襲われる。きっと自分が持てる全ての力を使って阻止しようとするだろう。いつも以上の見張りが付くかもしれない。でもそんなことは予想済み。伊達にこの家で育ってはいない。何があろうと引くつもりはない。
来年の春、椿は保育園に入る。いや、入れる。皇葵の孫ではなく、ただの皇椿として。
蔵に入るのは丁度いいタイミングだ。監視のない絶好の場所。計画を練る時間がたっぷりとできた。
守らなければ、ではない。必ず守る──小さな手を握って二人で一緒に蔵の中へと入っていった。
スマホもエレベーターもタクシーさえも知らなかった少女が自分の生まれ育った環境を語る表情は苦笑にもならないほど苦いもので、思わず彼女の手を握った。
顔を上げて目が合うとようやく浮かんだ笑みも苦笑で止まり、視線は再びケーキへと落ちる。
「母も当然その環境下で育ったのですが、母は祖母と幾度となくぶつかり合っていました。山奥で暮らすことによって得ることは何もない。世界を見せたいと何度も訴えていました。母は祖母のやり方は古い。犠牲者は自分で終わりにすると言っては祖母に叩かれ……」
言葉が止まり、深呼吸をする。
幼いながらにに残る壮絶な記憶。便利になりすぎた現代で生きているはずの人間が戦前にも似た暮らし方しか知らず、共働きが一般的になっている世界で女は家を守り、男に尽くすものだと教えられていたことを不幸に思わないはずがない。自ら望んでならないい。でも椿のこれは洗脳に等しい。
母親が見せたかった世界を知ったのは十七歳になってから。これも祖母が譲歩した結果ではなく、自らの意思で家を飛び出して掴んだもの。
異常と言える環境で育ったのは母親も同じなのに母親はなぜ外の世界を見せたがったのか。
掘り起こされた記憶を辿るように語り始めた。
それは今から十三年も前の記憶。
「私はあの子をあなたの玩具として差し出すつもりはありません」
上座に置かれた座布団に腰掛ける母親にそう言い放った娘の声に家中が静まり返った。常日頃から家中の全て開けっぱなしになっていることから大体の会話は筒抜けとなっている。
この日もそうだった。
「私がいつ孫を玩具として扱った?」
「これからそうするつもりでしょう。必要以上の学力は与えず、学ばせるのは家事育児の方法だけ。十八になったらあなたが選んだ婚約者と結婚し、翌年には母になることを強要される」
「優秀な遺伝子を持つ子供の母親になれることの何が不満なのかわからないね」
「椿が娘として生まれてきてくれたこと、母になれたことは感謝しています」
「なら何を──」
「でもそれは神様にであってあなたにではありません」
「誰が優秀な遺伝子を持つ男を見つけてやったと思っているんだい?」
わかっていないと首を振る娘に向ける母の目は冷たかった。でも慣れている。この家の絶対君主である母親を都会で生きている一般家庭の子供が望むように優しく愛に溢れた女性と実感したことは一度もないのだから。
命令することでしか人を動かせない母親を哀れと思ってきた。
夫に出会わせてくれたことには感謝している。でもそれだけだ。彼が優秀な遺伝子を持っているかなどどうだっていい。
片方にしかついていない肘掛けに肘を乗せながら気に入らないと表情で訴える母親から今日だけは目を逸さない。その覚悟には理由があった。
「私は夫と共にあの子を連れて家を出ます」
「お前は皇家の跡取りだ」
「この家は残すべきではありません」
「戯言を。お前がくだらない俗世に染まろうと勝手だが、椿は置いていきな」
「椿は私の娘です」
「私の孫でもある」
言ってどうにかなる相手だとは思っていない。だからこの話し合いに意味があるとは思っていないが、これは彼女なりの筋を通した行動のつもりだった。母親と慕うことはなくとも彼女の血も遺伝子もこの身体に入っている。
許されるはずもない争いを真正面からぶつける娘の手が震えていることに母親は気付いていた。怖くないはずがない。皇家が持つ力の強さ、広大さを誰よりも知っているのは皇家で生まれた人間なのだから。
「もうすぐクリスマスです」
「だからどうした」
「それが終わればあの子の誕生日がやってきます。誕生日は記念日です。あの子がこの世に生を受けた大事な日。謂わば命日。なのにどうして見えない死者を丁重にもてなし、生者を粗末に扱うのですか。あの子は生まれてから一度も誕生日を祝ってもらったことがないのですよ」
「来年も再来年もその先何十年と同じ日はやってくる。その度に祝いだなんだと騒ぐ必要がどこにある」
「死者にも同じことが言えるのですか?」
「私らが弔っている彼らには功績がある。皇家を繁栄させ守ってきた功績がね。比べる方がおかしいってもんだろう」
自分も誕生日を祝われたことは一度もない。友人に言葉として祝われたことはあれど、贈られた物を持って帰ろうものなら汚物でも見るかのような目で咎め、使用人に捨てさせた。
今、誕生日を祝ってくれるのは夫だけ。言葉だけだが、それでも嬉しいと思える。プレゼントがあることが全てではないとわかっていても、プレゼントをもらえた時の喜びを知っているから椿にもその幸せを知ってほしい。
でもそれはここにいては叶わない。当主である母親が死ななければ一生変えられないことだ。母親が死んだとしても親族がいる。叶うかどうか……。
叶えるためには家を出るしかない。この決意を口にするだけでこれほど震え上がるとは思っていなかったが、それでも一度口にした以上はもう後戻りはできない。
膝の上で拳を握って呆れた顔をする母親を睨みつけるように強い眼差しを向けた。
「この家を出て三人で暮らします」
「自分の幸せのために弟を犠牲にすると言うんだね?」
三つ歳の離れた弟を残すことになるのは心苦しい。
皇家では男は外で働く者として女より優遇されるが、当主にはなれない。しかし、どれほど丁重な扱いを受けるかは功績次第。弟は自分が皇家の長男であることに嫌悪しているほどだが、まだ大学に通っているため母親に口答えすることはなかった。
出ていけば母親の怒りは弟に向くだろう。言われたことしかしない息子を快く思っていない母親からの当たりが強いだけに犠牲という言葉に思わず黙り込んだ。
「お前の人生はお前だけのものじゃないんだよ。皇家の長女として生まれたからにはお前には当主として私の跡を継ぐ義務があり、繁栄させる責任がある。それを放り出すなど許されるはずがないだろう」
「椿に私と同じ思いはさせたくありません」
「何不自由ない生活をさせてもらっておきながら何甘えたこと言ってんだい」
母親の言葉にカッとなった娘が目を見開いて声を上げた。
「何不自由がない生活? 不自由しかない生活の間違いでしょ!?」
「誰に口を利いてんだい」
静かな注意にビクッと肩を跳ねさせた娘が勢いを抑えて唇を噛み締める。悔しい。あんな一言で逆らえなくなってしまうなんて。身体だけではなく細胞に至るまで染み込んでいる母親の怖さ。どれほど悔しがったところで気合いだけで変えられるものではない。
そんな娘にやはり呆れを見せる母親がやれやれと首を振る。近くに置かれていた湯呑みを取って少し冷めてしまった中身を一口飲んだ。
「お前も旦那も箱入りだ。野蛮人の巣窟でどうやって生きていくつもりだ? 家は? 仕事はどうする?」
「どちらも探せば見つかります」
「甘ったれのお前達が群衆の中で生きていけると思ってるんだとしたら笑い草にもなりゃしないね」
「家族の幸せのためならなんだってやるつもりです」
「お前に何ができる? 贅を極めた人間にできることなんて知れてんのさ。言っといてやる。お前達には無理だ」
「贅を極めているのは当主であるあなただけ。私達は違います。あなたと私を一緒にしないでくださ──ッ!」
顔にかかったぬるめの白湯。幼い頃から何度経験したことだろう。母親は決して声を荒げない。いつだって冷静に話はするが、それは腹が立てばこうして行動で憂さ晴らしをするから声を荒げないだけ。腹を立てない仏ではない。
「誰に口利いてんだって言ってるのが理解できていないようだね」
「必要最低限の学しか持っていませんので何度言われようと理解できません」
滴る雫を払おうともせず、ポタポタと垂れる水滴をそのままに母親を睨みつける。その反抗的な目つきに手にしていた湯呑みを娘の前に叩きつけて割った。割れた破片が飛び散り、頬を掠めて薄皮を切ろうと娘は怯えを見せない。
「まるで癇癪を起こした子供ですね。まだ四歳の椿でさえ癇癪を起こしたことは一度もないというのに」
「……話は終わりだ。蔵に入りな」
「ご理解いただけたということですね。ありがとうございます」
「戯言はいい。さっさと行きな」
この言葉も何度聞いただろう。何か言えば全て戯言として片付けられる。そして蔵に行かされる。
いつもなら立ち上がったらそのまま廊下に出て玄関から出ていくのだが、今日はそうしなかった。廊下とは反対の縁側に出てそのまま草履を履くこともせず足袋のまま地面に降りた。まるで拗ねた子供のようだと思いながらもこれは母親への意思表示。もうあなたには従わないと。
「いっしょにいく!」
どこから聞いていたのだろう。後ろから聞こえた足音と泣きを含んだ声に振り返るとボスッとタックルするように勢いよくしがみついてきた愛しい愛娘を抱きしめる。
「椿、戻りな」
祖母の冷たい声に嫌だと首を振る。
「やだ! おかあさまといっしょがいい!」
「蔵はとっても寒いの。風邪引いちゃうわ」
「おかあさまもいっしょだもの」
「でもお母様は強いから大丈夫よ。でもあなたはまだこんなに小さいから風邪に勝てないの」
「おかあさまがまもってくれるでしょ?」
その言葉に何も返せなくなったのは最近ずっとそう言い続けていたから。「あなたのことはお母様とお父様が守るから」と。
本当に守らなければならない。この小さい天使のような存在を。清らかな娘がいつか苦しみに押し潰されてしまわないように愛を教えなければならない。それは自分達両親からだけではなく、外で知り合った友人や、いつかできるだろう恋人からもそう。自由に外を歩いて、大口を開けて笑い合って、やりたいことをやって、目指すべき夢を持って立ち向かって、恋をして、愛し合って──そんな幸せを与えてやりたいと願う。この子にだけは自分と同じ苦しみを味わわせてはいけないのだと夫とは子供が妊娠がわかった時から話し合っていた。
あとはそれを実現するだけだが、その壁があまりにも高い。だからといって壁の前でその高さに絶望して見上げて終わるつもりはなかった。
「そうね。いらっしゃい」
「椿は置いていくんだ」
「何度言えば理解していただけるのでしょうか? この子は私の娘です」
「うちの孫だ」
「親の権力に勝るものはありませんよ」
クスッと笑って抵抗する娘に苛立ちを見せながらも何も言わずに去っていった。何を考えて去ったのか、考えると不安に襲われる。きっと自分が持てる全ての力を使って阻止しようとするだろう。いつも以上の見張りが付くかもしれない。でもそんなことは予想済み。伊達にこの家で育ってはいない。何があろうと引くつもりはない。
来年の春、椿は保育園に入る。いや、入れる。皇葵の孫ではなく、ただの皇椿として。
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