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幸せなこと
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「頭いてぇ……」
久しぶりの二日酔い。遊ぶことはあっても二日酔いになるような酔い方はここ数年していなかったのにと痛む頭を押さえながら部屋を出るとちょうど椿が日めくりカレンダーを一枚めくるところだった。
一月一日から始まった椿の習慣。家での習慣だったらしい。
「おはようございます」
「おはよ……」
「お茶漬けでもご用意致しましょうか?」
「あー……食欲ねぇ。先に風呂入るわ」
「かしこまりました」
フラつきながら脱衣所へと向かう柊が廊下に出る前に足を止めて振り返った。
「俺昨日どうやって帰ってきた?」
「大神様に支えられてのご帰宅でございました」
「……だよな……」
これだけの二日酔いだ。自分の足で歩いて何事もなかったかのように帰ってこれたはずがない。大神に世話になったのは癪だが、目が覚めてホテルで見知らぬ女が隣にいるよりはマシ。礼を言っておかねば。
「なんか変なこと言ってたか?」
「お茶漬けを食べると」
「食った?」
「いえ、酩酊状態でしたので大神様にベッドまで運んでいただいたらすぐ眠りにつかれました」
やってしまった以外の感想が出てこない。何やってんだと溜息をつきながら再度歩き出した。
昨日、覚えているのはあれから悠二が呼んだ女性従業員が左右で猫撫で声で営業トークを始めたことまで。酒を飲めと言われ、そこで断って帰ればよかったのだが、考え事で頭がいっぱいになっていたこともあって少しリラックスしたかった。あのまま帰っても椿を戸惑わせる態度を取ってしまいそうだったから。
久しぶりに外で飲んだこともあってお気に入りの酒の美味さに一度のおかわりが二回三回と続いた。店を出たのはいつなのか、どうやってマンションまで辿り着いたのかも覚えていない。
最近は休みだろうと必ず七時には目を覚ましていたのに今日は既に正午を超えている。
「せっかくの休みだってのに……クソッ、イテッ」
無駄にしてしまったと悪態をつくと力んだ拍子に頭痛が起きる。情けない。いい歳して何やってるんだと自分に呆れてしまう。
「……マジか……」
ひどい顔だと洗面所で鏡を見ると目に入った鎖骨付近の赤。明らかに唇の形をしている。記憶にない。こんな場所にキスを許すなんてどうかしてる。
本当にホテルには行ってないのか? ホテルに行って、そのあと帰ったんじゃないのかと疑いたくなる。こんな場所にこうして女が付けるのはホテルでだけだったから。会員制ラウンジにそんな品のないことをする従業員がいるのかと絶望するが、それよりも強い絶望はこれを椿が見ただろうこと。
擦ってすぐに取れないことからこれは椿が付けたものではないことは確定。となるとラウンジの従業員で間違いない。ということは帰ってきた時には既にここに存在していた。
目が覚めたらボタンは開いていた。椿が開けてくれたのだとしても見えただろう。椿が開けたと考えるよりボタンを開けたまま帰ってきたという線の方がきっと正しい。
いつもキチッとしている椿の前でだらしない姿を晒しただけではなく、キスマークまで晒した。香水の匂いもついていただろう。
「幻滅したよな……」
そうでもないだろうか。遊び人だったことは知っている。呆れているだけかもしれない。いや、でも、椿に対しては誠実に対応してきたつもりだ。好きだと告白しておきながら他の女にこんなことまで許す男だとは思っていなかっただろう。
最悪だと口を押さえた時、ふと唇に当たらない感触に気付いた。
「指輪……」
指輪を外したまま帰ってきてしまった。これにも気付いたはず。女の匂いを纏わせて、キスマークを付け、指輪を外していた。自分でもこれは浮気確定だと相手に詰め寄るだろう。
でも椿の態度はいつもと変わらなかった。冷めたかもしれない。当然だ。証拠が揃いすぎている。ホテルに行った可能性さえ否定できないほど記憶を飛ばしている男を誰が信用するのか。
昨日迷惑かけたことを謝るにしてもまず全て洗い流してからだと浴室に入って頭から熱いシャワーを浴びた。
最後に冷水を浴びて酔いを冷まし、髪を乾かしてからリビングに戻ると今日の日付である十三の数字を見つめる椿が目に入った。
「何見てるんだ?」
「新年を迎えてもう十三日目ですね。十二日が過ぎたなんて一日がとても早く過ぎていく感じがします」
「一年って長い気がするけどあっという間だよな。こないだまで二十代だったはずなのに、もう三十代だし」
「ふふっ、そうですね」
やはりいつもどおり。椿の指にはちゃんと指輪がある。安堵した。
「旦那様、やはり少しでも何か胃に入れられた方がよろしいかと」
「やっぱ茶漬け食べるわ。椿の茶漬け食べたら酔いも冷めるだろうし」
「昨夜、似たようなことをおっしゃっていましたよ」
「え、なんて?」
「椿の茶漬けを食べたら目が覚めるって」
「俺の根底に刻まれた美味さだよ」
「ご用意致しますね」
椿がキッチンに向かうと柊は寝室に入った。きっと椿は昨日のことは何も聞かないだろう。聞きたくないかもしれないし、興味がないかもしれない。でも弁明はしておきたい。言い訳でしかないが、このまま何も言わないままにはしたくない。
スーツの内ポケットに入れた指輪を取ろうとするも上着がない。一着ずつ確かめても昨日着ていた物がない。
「椿!」
急に大声を出す柊に目を見開く椿が慌てて駆け寄る。
「い、いかがなさいました!?」
「昨日着てたスーツどうした!?」
「あ、大神様が以前出されたから日数が経っているのでクリーニングに出しておくと言ってくださったのでそのまま渡してしまいました。何か入っていたのですか?」
「指輪だ!!」
受話器を取りフロントに繋がると上着のクリーニングはいいと断った直後に「朝一番に出してしまった」と言われた。何か言いかけていた大神の言葉を聞かずに電話を切った柊が壁を叩いた。
ドンッと鳴る大きな音に椿がビクッと反応する。
コンシェルジュはあくまでもクリーニング屋に取り次ぎをするだけで衣服の中に何が入っているかまでは確認しない。それは住民がすることであってコンシェルジュは不必要に住民の物を触ることができないからだ。それがただの善意からだとしても。
もしこのまま工場に直送となればそのまま大型機械にかけられてしまう。
「悪い。指輪、クリーニングに出しちまったわ……」
苦笑しながら振り返る柊に椿が頭を下げて謝る。
「す、すみません! 私がちゃんと確認しておけばこんなことには! まさか指輪が入っているなんて思っていなくて……!」
クリーニングにと渡した後に柊が指輪をしていないことに気付いた。その時、鞄の中かと確認すれば防げたかもしれない事態だ。
「俺が外してたせいだ。結婚する気はないって散々言ってたもんだから指輪見たらあれこれ詮索うるせぇだろうと思って外してたんだ。付けときゃよかった……。二日酔いになるまで飲んで、酩酊して帰って、だらしねぇ姿見せた上に指輪なくすのかよ……」
瑠璃川達に言った嘘とは違い、既製品であるため新しいのを買えばいいが、そういう問題ではない。過去に付き合った女がネックレスを失くした際、新しいのを変えと言った柊にあれじゃなきゃダメなんだと怒った。限定品ではないのだから店に行けば売っているのに何言ってんだとその時は思った柊にも今ならわかる。あれがいいのだ。新しいのを買い替えた思い出は増やしたくない。一緒に行って選んだ物だから、その思い出も込みであれがいい。
「ごめんな、椿」
それこそ情けない顔で謝る柊を椿は抱きしめた。
「大丈夫です。思い出は消えませんから」
「形に残る思い出は消えちまったけどな」
「女々しいですよ、旦那様」
「指輪だぞ。女々しくもなるわ」
嘆いていても仕方ない。どうしようもないのだ。抱きしめ返しながら溜息をつく柊に椿も厳しく言いながらも申し訳なくなる。
「椿、一つ聞いていいか?」
「はい」
身体を離して顔を上げた椿と目を合わせたまま少し黙る。
「旦那様?」
聞くべきだろうか。聞いたところで会ったことはないと言っていたのだから知っている可能性は低いが、どうしても気になっていた。
「貝塚悠二って男知ってるか?」
「いえ、存じ上げません。皇家にお客様がいらっしゃることは稀ですし、対応は使用人がするものでしたから知り合いは一人もいません」
「だよな」
「その方が何か?」
「いや、俺のダチの名前ってだけ。知ってるはずないよな。まだ酔ってるっぽいな。忘れてくれ」
椿は嘘が上手いからそれが本当かどうかはわからない。真実かもしれないし、嘘かもしれない。
聞くべき相手は椿ではなく悠二だが、仕事柄とだけ言ったため話すつもりもないだろう。聞いたところで話してくれるかどうか。しかし、何か知っているのは間違いない。
仕事柄知る機会があったとはどういうことか。いつの間にか仕事を変えた? だとしたら何かした報告はあるはずだが、友人に報告できない仕事に就いたのであれば報告はしない。だが、漫画の世界ではないのだから秘密結社はないし、警察ではないのだから公安に配属されることもない。
『皇家には関わるな』
それはどういう意味か。皇家の何を知っている。
「旦那様」
声をかけられハッとする。
「お茶漬けができるまでソファーでお待ちください」
「悪い。考え事してた」
「二日酔いもあってお疲れでございましょう」
「自業自得だけどな」
手を引かれるがままにソファーに向かうもインターホンが鳴った。そのまま足を進めてカメラを確認すると大神が立っている。マイクを押し、何用か尋ねるも椿が玄関へ向かって行くのを見て後を追った。
「深夜にご迷惑おかけ致しました」
「いえ、迷惑だなんてとんでもない。お電話でお伝えしようと思っていたのですが、混乱されているようでしたので直接お届けに上がりました」
「あっ!」
ポケットの中からハンカチを取り出し、折り畳んだそれを開くと中に指輪があった。見間違うはずがない大切な指輪。思わず声を上げた柊が口を押さえるもすぐに指輪に手を伸ばした。指に通すとピッタリ。自分の指輪だ。
「良くないことだとはわかっていたのですが、あのような状態ではポケットに何か入っていてもおかしくないと思いまして。外側から触れても指輪だとわかったものですから、保管させていただき──」
「ありがとう」
これほど人に感謝したことはない。絶対に失いたくない物の一つとなっていた指輪が戻ってきた。若くて愛想の良い仕事ができる男に多忙によってくたびれた男になっていくことで嫉妬していた。優秀だからここに配属されたというのにその事実を認めようとせず嫉妬して嫌味な態度を取っていた男のためにこうしてくれる相手に感謝した。
抱きしめられるとは思っていなかった大神が驚きに目を丸くするもすぐに笑って、とんでもないと返事をした。
「それでは、失礼致します」
お辞儀をして去っていく若き優秀なコンシェルジュ。
「人騒がせな旦那様ですね」
「悪い。パニックになってた」
「酔いは冷めましたか?」
「吹っ飛んだ」
「ふふっ、良かったですね」
今度こそとキッチンに椿が入るとあっという間にリビングは良い匂いに包まれる。魚を焼いているような匂い。鯛茶漬けを期待したが、これもきっと美味であるのは間違いないと確信を持ってソファーではなくダイニングテーブルに腰掛けた。
指輪は無事戻った。大騒ぎするようなことではなかった。自分でも驚くほど焦ったことに苦笑はするも指輪を見るだけで笑顔に変わる。宝物だ。そう言えるほどの幸せがこの小さな輪に詰まっている。
「昼飯食ったらどこか出かけようか」
「頭痛がしているのですから自宅でご療養ください」
「病気によるもんじゃないし、椿の茶漬け食ったら治るから」
「調子のいいお方」
「好きだろ?」
「そうですね」
何をしていてもいい。どこに行っていてもいい。こうして帰ってきて二人で過ごせるならなんだっていい。気にして疲れる方が嫌だ。
指輪のことであんなに必死になってくれるのだから疑う余地もないだろう。
幸せだ。そう言える時間がここにはある。笑える居場所もある。好きだと思える人がいる。当たり前でもなんでもない日常が与えてくれる幸せをただひっそりと噛み締めていた。
月曜の昼、来客を知らせるインターホンが鳴った。
久しぶりの二日酔い。遊ぶことはあっても二日酔いになるような酔い方はここ数年していなかったのにと痛む頭を押さえながら部屋を出るとちょうど椿が日めくりカレンダーを一枚めくるところだった。
一月一日から始まった椿の習慣。家での習慣だったらしい。
「おはようございます」
「おはよ……」
「お茶漬けでもご用意致しましょうか?」
「あー……食欲ねぇ。先に風呂入るわ」
「かしこまりました」
フラつきながら脱衣所へと向かう柊が廊下に出る前に足を止めて振り返った。
「俺昨日どうやって帰ってきた?」
「大神様に支えられてのご帰宅でございました」
「……だよな……」
これだけの二日酔いだ。自分の足で歩いて何事もなかったかのように帰ってこれたはずがない。大神に世話になったのは癪だが、目が覚めてホテルで見知らぬ女が隣にいるよりはマシ。礼を言っておかねば。
「なんか変なこと言ってたか?」
「お茶漬けを食べると」
「食った?」
「いえ、酩酊状態でしたので大神様にベッドまで運んでいただいたらすぐ眠りにつかれました」
やってしまった以外の感想が出てこない。何やってんだと溜息をつきながら再度歩き出した。
昨日、覚えているのはあれから悠二が呼んだ女性従業員が左右で猫撫で声で営業トークを始めたことまで。酒を飲めと言われ、そこで断って帰ればよかったのだが、考え事で頭がいっぱいになっていたこともあって少しリラックスしたかった。あのまま帰っても椿を戸惑わせる態度を取ってしまいそうだったから。
久しぶりに外で飲んだこともあってお気に入りの酒の美味さに一度のおかわりが二回三回と続いた。店を出たのはいつなのか、どうやってマンションまで辿り着いたのかも覚えていない。
最近は休みだろうと必ず七時には目を覚ましていたのに今日は既に正午を超えている。
「せっかくの休みだってのに……クソッ、イテッ」
無駄にしてしまったと悪態をつくと力んだ拍子に頭痛が起きる。情けない。いい歳して何やってるんだと自分に呆れてしまう。
「……マジか……」
ひどい顔だと洗面所で鏡を見ると目に入った鎖骨付近の赤。明らかに唇の形をしている。記憶にない。こんな場所にキスを許すなんてどうかしてる。
本当にホテルには行ってないのか? ホテルに行って、そのあと帰ったんじゃないのかと疑いたくなる。こんな場所にこうして女が付けるのはホテルでだけだったから。会員制ラウンジにそんな品のないことをする従業員がいるのかと絶望するが、それよりも強い絶望はこれを椿が見ただろうこと。
擦ってすぐに取れないことからこれは椿が付けたものではないことは確定。となるとラウンジの従業員で間違いない。ということは帰ってきた時には既にここに存在していた。
目が覚めたらボタンは開いていた。椿が開けてくれたのだとしても見えただろう。椿が開けたと考えるよりボタンを開けたまま帰ってきたという線の方がきっと正しい。
いつもキチッとしている椿の前でだらしない姿を晒しただけではなく、キスマークまで晒した。香水の匂いもついていただろう。
「幻滅したよな……」
そうでもないだろうか。遊び人だったことは知っている。呆れているだけかもしれない。いや、でも、椿に対しては誠実に対応してきたつもりだ。好きだと告白しておきながら他の女にこんなことまで許す男だとは思っていなかっただろう。
最悪だと口を押さえた時、ふと唇に当たらない感触に気付いた。
「指輪……」
指輪を外したまま帰ってきてしまった。これにも気付いたはず。女の匂いを纏わせて、キスマークを付け、指輪を外していた。自分でもこれは浮気確定だと相手に詰め寄るだろう。
でも椿の態度はいつもと変わらなかった。冷めたかもしれない。当然だ。証拠が揃いすぎている。ホテルに行った可能性さえ否定できないほど記憶を飛ばしている男を誰が信用するのか。
昨日迷惑かけたことを謝るにしてもまず全て洗い流してからだと浴室に入って頭から熱いシャワーを浴びた。
最後に冷水を浴びて酔いを冷まし、髪を乾かしてからリビングに戻ると今日の日付である十三の数字を見つめる椿が目に入った。
「何見てるんだ?」
「新年を迎えてもう十三日目ですね。十二日が過ぎたなんて一日がとても早く過ぎていく感じがします」
「一年って長い気がするけどあっという間だよな。こないだまで二十代だったはずなのに、もう三十代だし」
「ふふっ、そうですね」
やはりいつもどおり。椿の指にはちゃんと指輪がある。安堵した。
「旦那様、やはり少しでも何か胃に入れられた方がよろしいかと」
「やっぱ茶漬け食べるわ。椿の茶漬け食べたら酔いも冷めるだろうし」
「昨夜、似たようなことをおっしゃっていましたよ」
「え、なんて?」
「椿の茶漬けを食べたら目が覚めるって」
「俺の根底に刻まれた美味さだよ」
「ご用意致しますね」
椿がキッチンに向かうと柊は寝室に入った。きっと椿は昨日のことは何も聞かないだろう。聞きたくないかもしれないし、興味がないかもしれない。でも弁明はしておきたい。言い訳でしかないが、このまま何も言わないままにはしたくない。
スーツの内ポケットに入れた指輪を取ろうとするも上着がない。一着ずつ確かめても昨日着ていた物がない。
「椿!」
急に大声を出す柊に目を見開く椿が慌てて駆け寄る。
「い、いかがなさいました!?」
「昨日着てたスーツどうした!?」
「あ、大神様が以前出されたから日数が経っているのでクリーニングに出しておくと言ってくださったのでそのまま渡してしまいました。何か入っていたのですか?」
「指輪だ!!」
受話器を取りフロントに繋がると上着のクリーニングはいいと断った直後に「朝一番に出してしまった」と言われた。何か言いかけていた大神の言葉を聞かずに電話を切った柊が壁を叩いた。
ドンッと鳴る大きな音に椿がビクッと反応する。
コンシェルジュはあくまでもクリーニング屋に取り次ぎをするだけで衣服の中に何が入っているかまでは確認しない。それは住民がすることであってコンシェルジュは不必要に住民の物を触ることができないからだ。それがただの善意からだとしても。
もしこのまま工場に直送となればそのまま大型機械にかけられてしまう。
「悪い。指輪、クリーニングに出しちまったわ……」
苦笑しながら振り返る柊に椿が頭を下げて謝る。
「す、すみません! 私がちゃんと確認しておけばこんなことには! まさか指輪が入っているなんて思っていなくて……!」
クリーニングにと渡した後に柊が指輪をしていないことに気付いた。その時、鞄の中かと確認すれば防げたかもしれない事態だ。
「俺が外してたせいだ。結婚する気はないって散々言ってたもんだから指輪見たらあれこれ詮索うるせぇだろうと思って外してたんだ。付けときゃよかった……。二日酔いになるまで飲んで、酩酊して帰って、だらしねぇ姿見せた上に指輪なくすのかよ……」
瑠璃川達に言った嘘とは違い、既製品であるため新しいのを買えばいいが、そういう問題ではない。過去に付き合った女がネックレスを失くした際、新しいのを変えと言った柊にあれじゃなきゃダメなんだと怒った。限定品ではないのだから店に行けば売っているのに何言ってんだとその時は思った柊にも今ならわかる。あれがいいのだ。新しいのを買い替えた思い出は増やしたくない。一緒に行って選んだ物だから、その思い出も込みであれがいい。
「ごめんな、椿」
それこそ情けない顔で謝る柊を椿は抱きしめた。
「大丈夫です。思い出は消えませんから」
「形に残る思い出は消えちまったけどな」
「女々しいですよ、旦那様」
「指輪だぞ。女々しくもなるわ」
嘆いていても仕方ない。どうしようもないのだ。抱きしめ返しながら溜息をつく柊に椿も厳しく言いながらも申し訳なくなる。
「椿、一つ聞いていいか?」
「はい」
身体を離して顔を上げた椿と目を合わせたまま少し黙る。
「旦那様?」
聞くべきだろうか。聞いたところで会ったことはないと言っていたのだから知っている可能性は低いが、どうしても気になっていた。
「貝塚悠二って男知ってるか?」
「いえ、存じ上げません。皇家にお客様がいらっしゃることは稀ですし、対応は使用人がするものでしたから知り合いは一人もいません」
「だよな」
「その方が何か?」
「いや、俺のダチの名前ってだけ。知ってるはずないよな。まだ酔ってるっぽいな。忘れてくれ」
椿は嘘が上手いからそれが本当かどうかはわからない。真実かもしれないし、嘘かもしれない。
聞くべき相手は椿ではなく悠二だが、仕事柄とだけ言ったため話すつもりもないだろう。聞いたところで話してくれるかどうか。しかし、何か知っているのは間違いない。
仕事柄知る機会があったとはどういうことか。いつの間にか仕事を変えた? だとしたら何かした報告はあるはずだが、友人に報告できない仕事に就いたのであれば報告はしない。だが、漫画の世界ではないのだから秘密結社はないし、警察ではないのだから公安に配属されることもない。
『皇家には関わるな』
それはどういう意味か。皇家の何を知っている。
「旦那様」
声をかけられハッとする。
「お茶漬けができるまでソファーでお待ちください」
「悪い。考え事してた」
「二日酔いもあってお疲れでございましょう」
「自業自得だけどな」
手を引かれるがままにソファーに向かうもインターホンが鳴った。そのまま足を進めてカメラを確認すると大神が立っている。マイクを押し、何用か尋ねるも椿が玄関へ向かって行くのを見て後を追った。
「深夜にご迷惑おかけ致しました」
「いえ、迷惑だなんてとんでもない。お電話でお伝えしようと思っていたのですが、混乱されているようでしたので直接お届けに上がりました」
「あっ!」
ポケットの中からハンカチを取り出し、折り畳んだそれを開くと中に指輪があった。見間違うはずがない大切な指輪。思わず声を上げた柊が口を押さえるもすぐに指輪に手を伸ばした。指に通すとピッタリ。自分の指輪だ。
「良くないことだとはわかっていたのですが、あのような状態ではポケットに何か入っていてもおかしくないと思いまして。外側から触れても指輪だとわかったものですから、保管させていただき──」
「ありがとう」
これほど人に感謝したことはない。絶対に失いたくない物の一つとなっていた指輪が戻ってきた。若くて愛想の良い仕事ができる男に多忙によってくたびれた男になっていくことで嫉妬していた。優秀だからここに配属されたというのにその事実を認めようとせず嫉妬して嫌味な態度を取っていた男のためにこうしてくれる相手に感謝した。
抱きしめられるとは思っていなかった大神が驚きに目を丸くするもすぐに笑って、とんでもないと返事をした。
「それでは、失礼致します」
お辞儀をして去っていく若き優秀なコンシェルジュ。
「人騒がせな旦那様ですね」
「悪い。パニックになってた」
「酔いは冷めましたか?」
「吹っ飛んだ」
「ふふっ、良かったですね」
今度こそとキッチンに椿が入るとあっという間にリビングは良い匂いに包まれる。魚を焼いているような匂い。鯛茶漬けを期待したが、これもきっと美味であるのは間違いないと確信を持ってソファーではなくダイニングテーブルに腰掛けた。
指輪は無事戻った。大騒ぎするようなことではなかった。自分でも驚くほど焦ったことに苦笑はするも指輪を見るだけで笑顔に変わる。宝物だ。そう言えるほどの幸せがこの小さな輪に詰まっている。
「昼飯食ったらどこか出かけようか」
「頭痛がしているのですから自宅でご療養ください」
「病気によるもんじゃないし、椿の茶漬け食ったら治るから」
「調子のいいお方」
「好きだろ?」
「そうですね」
何をしていてもいい。どこに行っていてもいい。こうして帰ってきて二人で過ごせるならなんだっていい。気にして疲れる方が嫌だ。
指輪のことであんなに必死になってくれるのだから疑う余地もないだろう。
幸せだ。そう言える時間がここにはある。笑える居場所もある。好きだと思える人がいる。当たり前でもなんでもない日常が与えてくれる幸せをただひっそりと噛み締めていた。
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