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緊急事態
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めくってめくって何枚も捨てた日めくりカレンダー。
三十一枚目をめくり終えた朝、数字は一日を表示する。二月一日だ。
「今日から二月か。あっという間だな」
「そうですね」
「体調悪いのか?」
ここ最近、と言っても二、三日だが、椿の様子がおかしいような気がしていた。どこか上の空が増え、週末の約束の返事が曖昧になりつつある。
年末年始は誰も迎えに来なかった。三が日が終わっても怪しい車がマンションの周辺で目撃されたとか見知らぬ人間が立花家を訪ねようとしたという話もなく、平穏無事に時は過ぎ去り二月を迎えた。
当然ながら互いの間に結婚の話は出ていない。考えているのは柊だけで、椿は結婚式のコマーシャルを見たところで特に何か大きな反応を示すわけでもなく他の映像と同じようにジッと見ているだけだった。それが悪いわけじゃない。ただ、もう少し反応があれば軽口でも自分が考えていることが話せるのにと思うことが何度かあった。
椿はまだ不安なのだ。家を出て半年も経っていない。いつ迎えが来てもおかしくないとは柊も考えないわけではないが、深く考えてもいなかった。もしかしたら家出をした孫に呆れ果てて見捨てたのではないかと。
何かもっと笑顔になれるようなことをしてやりたい。せっかく外の世界を見ようとしているのだから。
「椿寒桜って知ってるか?」
「はい」
「やっぱ知ってるかぁ」
「それがどうかなさいましたか?」
「いや、こないだ大神が咲いてる場所教えてくれたから週末に旅行も兼ねて見に行かないかと思って」
「週末……」
「金曜日の夜から。ほら、その翌日は椿の誕生日だし、ちょっと贅沢に良い旅館にでも泊まってさ」
喜んだ顔を見せてくれないのはなぜか。自分の誕生日のために旅行は贅沢と思っているのならいいが、最近こういう反応が増えただけに見ている柊も不安になる。
「ムリに連れて行こうとは思ってない。椿が嫌じゃなけりゃって話だ。考えておいてくれ」
「わかりました」
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
いつもなら家を出る足も軽く、気分も軽やかなのだが、なぜか今日は全てが重い。会社に踏み出す足も、上がらない気分も。好いた女一人笑わないだけで自分まで精神的に落ち込むのはどうなんだと苦笑してしまうが、いつも笑ってくれていただけに笑わないと心配になる。かといってムリに聞き出そうとしたところで椿は正直には話さないだろう。
若干十七歳にして良くも悪くも頑固者。でもいざという時はちゃんと話してくれると信じている。
エレベーター前で立ち止まり、顔を挟むように叩いて気合いを入れ、会社に向かった。
昼休み、ずっと下がりっぱなしだった気分は椿お手製弁当を食べて回復した。今日は早く上がれるかもしれないと残りの仕事を見て計算もするも十七時、デスクに備えられている電話が鳴った。
こんな時間に鳴る電話に全員が嫌な顔をした。平社員ではなく柊にかかってきたのだ。もしかすると部署全体に協力要請もあり得ると仕事の手を止めて注目する人間が増え、その数秒後、全員の手が止まった。
「どういうことだ! ちゃんと説明しろ!!」
響き渡る柊の声。小さな問題ではなく大問題が発生したのは間違いないと立ち上がってデスクに寄っていく者もいた。
「クソッ!」
悪態吐きながらブースから出てきた椿がチームメンバーを集めた。事情を説明され全員が絶句。指示を受けて戸惑いながらも全員が頷き、デスクから鞄を取って駆け出す者とデスクに戻ってキーボードを打ち始める者。
柊はそのまま部長の元へと向かい、メンバーに行った事情説明をすると当然ながら激怒。当然の反応だと受け入れているが、今はそれに悠長に頭を下げているべきではない。
「今すぐ出ます」
デスクに置いていた鞄と上着を持って出口へ向かう柊の背中に部長の怒声が飛ぶ。
「この契約がダメになったら責任は全てお前がとれ!」
「そのつもりです!」
怒鳴るように返して出ていった柊に全員驚いていた。何を言われても上手く返していた柊が部長に怒鳴る姿は初めて見た。それは怒鳴り返された本人も同じ。驚いた顔をしていたが、時間が経つと共に腹も立ち、感情のままにデスクに拳を振り下ろした。
「旦那様? 今日はお早いお帰りなので──」
「出張になった!」
立ち止まらず、椿の顔を見ることもせず、寝室へと走った。クローゼットの棚に置いていた出張用の鞄を引っ張り出して中に入れていたパスポートを確認する。
こういうことが以前にもあったため柊はクリーニングに出したシャツなどをそのまま鞄の中に入れているため持ち出せばそのまますぐに行けるようにしていた。
「な、何かあったのですか?」
見たことがない状態にオロオロする椿に電話を受けてからずっと焦りと苛立ちを抱えていた柊は思わず「時間がないんだよ!」と大声を出した。すぐにハッとしてマズイと冷静になって時計を見てから鞄を下ろした。
「ビーガン向けの商品を売る海外の会社と契約する予定だったんだ。それなのに中に入ってたのはベジタリアン向けの商品だって瑠璃川から電話があった。食品だからサンプルがないと向こうも当然判断できない。どんなに良い商品かを口で伝えたところで自らの舌で確認しなきゃ納得できるはずがない。だから商品持って行くことになった」
「お帰りは遅くなりそうですか?」
海外に行くどころか飛行機に乗ったことも見たこともないのだから仕方ない。瞬時に理解してくれれば楽だった。自分の口で言わなくて済んだのだから。
「今日は帰れない。飛行機で十四時間も飛ばなきゃ着かない国に行くんだ」
「そんなに遠いのですか?」
「ああ。でも三日には絶対帰ってくるから」
「どうかご無事でお戻りください」
「わかった」
スマホからメールの着信音が鳴った。すぐに飛行機の手配をしてくれた部下からだ。チケットが取れたが二十二時半の飛行機しかないと書いてあった。乗り継ぎが二回ある分なら夕方だが、今からの待機時間を合わせてもロスにしかならないため時間は遅いが直行便を手配したと書いてあった。
「クソッ」
夕方の便があると思っていただけにあと五時間もある。一度会社に戻って、と考えていると電話が鳴った。瑠璃川だ。
心配そうな視線を送る椿の頭を撫でて寝室へと入った。
時刻は現在十八時を過ぎたところ。十四時間という一日の半分以上を飛行機という乗り物に乗って日本を出ることがどういうことか椿にはイマイチよくわかっていない。柊が早口で捲し立てた説明も何が何やらと理解もできていない。ビーガンとは、ベジタリアンとは何か。人種のことだろうか?
普段から仕事の話は一切しないだけに柊がどういう仕事をしているのかさえ知らなかった。だから彼は話さなかったのだろう。話したところで理解できないとわかっているから。
中園が言っていたことは間違っていない。
『彼は立場ある人間よ。そんな男の横に立つ女は彼を理解して支えられる人間でなきゃダメ。無知な女じゃ彼が恥をかくだけよ』
本当にそうだ。年末のパーティーに誘われた際、椿は断った。ボロが出ては困るからと。出社する最後の日に開催されたパーティー。きっと皆同伴者がいただろうに柊は強制しなかった。
断って正解だった。きっと恥をかかせていたし、ボロが出ていたかもしれないのだから。
今もそう。彼が言っていることの半分も理解できていない。それがとても恥ずかしく、情けなかった。
柊が部屋にいるのに時計の針が大きく聞こえる。こんなことは初めてだ。
『今日は帰れない』
いつ帰ってくるのだろう。三日には絶対帰ると言ったが、以前、あまりにも残業が続くことに疑問を持った椿に柊はこう返した。
『会社員ってのはそういうもんなんだよ。嫌だから帰るってのはできねぇの。理想はそうあるべきだけど、現実はそうもいかない。AIが代わりをしてくれるようになったら定時で帰れるようになるだろうけど……まあ、そしたらエンジニアと取締周辺以外はクビか』
柊がどれほど帰ると意気込んでいても帰れない可能性があるということ。期待してはいけない。彼は仕事をしに行くのだから。
「椿、さっきは怒鳴って悪い」
電話を終えて出てきた柊の第一声に椿は笑顔を見せてかぶりを振る。
「聞いてもわからないことを聞いてしまった私が悪いのです。旦那様は何も悪くありません」
「怒鳴るべきじゃなかった。許してくれ」
「怒ってませんからどうかお気になさらず」
抱きしめられるがままに身を任せると彼の香りをゆっくり吸い込む。温もりを感じ、目を閉じる。
「あ、そうだ。お夕飯食べて行かれますか?」
「もちろん」
「よかった」
キッチンへ向いながら見た時計は十九時半を指している。
「何時に家をお出になるのですか?」
「二十時半前には出るつもりだ」
一時間もない。
「味が染みているとよいのですが」
「あー明日の肉じゃがもめっちゃ美味いんだろうなぁ!」
本来なら柊が帰ってくるまでにまだ時間があるためその間に味を染み込ませておくはずだった肉じゃが。柊の大好物だ。掻き込むようにして食べる柊を見るのは初めてで、本当に時間がないのだと伝わってくる。
「椿も食べよう」
「今はお腹がすいていないので後で食べますね」
怒鳴ってしまったせいだろうかとキッチンに戻っていく椿を見ながら申し訳なく思うも何度も謝罪をされても迷惑だろうと苦笑に留めた。
これから出かけなければならない。それも国外。こんなことが起こるとは想像もしていなかったため電話口で何度も謝る瑠璃川を怒鳴りつけてしまった。瑠璃川の後ろから聞こえる泣きながら謝罪する中園の声はいつもの作った甘え声とは違い、本来の声に近く感じた。反省しているからといって許されることではない。あってはならないミスだ。
出発前に自分も確認すべきだったと後悔している。そうしていればこんな時に海外へ行く必要などなかったのだから。
二月四日には絶対に家にいたいから三日には絶対に帰る。そう意気込んで入るが、何せ遠い。これが二時間程度の場所であれば不安はないのに。
「美味かった。めちゃくちゃ美味かった。気合い入ったわ」
食べ終わって早々に鞄を持ち、立ち上がった柊が玄関へと向かう。
「だ、旦那様!」
「どうした?」
慌てた声を出す椿が布に包んだ何かを持ってきた。
「おにぎりをご用意致しました。十四時間の移動の間にお腹が空くでしょうから、食べてください」
機内食が出ることも当然知らないからこうして握り飯を用意した。邪魔にならないようにおかずはなしで大きめのおにぎりが二つ。
食べなかったのはこれを用意していたからかと表情が緩む。
「どうか、どうかご無事でお戻りください」
「大丈夫だって。フラグ立てるみたいなことしたくないけど、帰ったら椿の誕生日盛大に祝うからな」
「ご無事でお戻りくださればそれだけで充分でございます」
一人きりにしてしまうことと戻るまで心配かけ続けるだろう申し訳なさにもう一度ごめんと謝ると椿から抱きついてきた。しがみつくような強さ。願いを込めているのか、それに合わせるように抱き返した。
「行ってくる」
「お気をつけて」
タクシーは時間指定で呼んであるため遅れるわけにはいかない。渋滞情報も確認済みであるため問題なく空港まで行けるだろう。
後ろ髪引かれる思いで家を出た柊と見送った椿は離れながらも同じ顔をしていた。
三十一枚目をめくり終えた朝、数字は一日を表示する。二月一日だ。
「今日から二月か。あっという間だな」
「そうですね」
「体調悪いのか?」
ここ最近、と言っても二、三日だが、椿の様子がおかしいような気がしていた。どこか上の空が増え、週末の約束の返事が曖昧になりつつある。
年末年始は誰も迎えに来なかった。三が日が終わっても怪しい車がマンションの周辺で目撃されたとか見知らぬ人間が立花家を訪ねようとしたという話もなく、平穏無事に時は過ぎ去り二月を迎えた。
当然ながら互いの間に結婚の話は出ていない。考えているのは柊だけで、椿は結婚式のコマーシャルを見たところで特に何か大きな反応を示すわけでもなく他の映像と同じようにジッと見ているだけだった。それが悪いわけじゃない。ただ、もう少し反応があれば軽口でも自分が考えていることが話せるのにと思うことが何度かあった。
椿はまだ不安なのだ。家を出て半年も経っていない。いつ迎えが来てもおかしくないとは柊も考えないわけではないが、深く考えてもいなかった。もしかしたら家出をした孫に呆れ果てて見捨てたのではないかと。
何かもっと笑顔になれるようなことをしてやりたい。せっかく外の世界を見ようとしているのだから。
「椿寒桜って知ってるか?」
「はい」
「やっぱ知ってるかぁ」
「それがどうかなさいましたか?」
「いや、こないだ大神が咲いてる場所教えてくれたから週末に旅行も兼ねて見に行かないかと思って」
「週末……」
「金曜日の夜から。ほら、その翌日は椿の誕生日だし、ちょっと贅沢に良い旅館にでも泊まってさ」
喜んだ顔を見せてくれないのはなぜか。自分の誕生日のために旅行は贅沢と思っているのならいいが、最近こういう反応が増えただけに見ている柊も不安になる。
「ムリに連れて行こうとは思ってない。椿が嫌じゃなけりゃって話だ。考えておいてくれ」
「わかりました」
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
いつもなら家を出る足も軽く、気分も軽やかなのだが、なぜか今日は全てが重い。会社に踏み出す足も、上がらない気分も。好いた女一人笑わないだけで自分まで精神的に落ち込むのはどうなんだと苦笑してしまうが、いつも笑ってくれていただけに笑わないと心配になる。かといってムリに聞き出そうとしたところで椿は正直には話さないだろう。
若干十七歳にして良くも悪くも頑固者。でもいざという時はちゃんと話してくれると信じている。
エレベーター前で立ち止まり、顔を挟むように叩いて気合いを入れ、会社に向かった。
昼休み、ずっと下がりっぱなしだった気分は椿お手製弁当を食べて回復した。今日は早く上がれるかもしれないと残りの仕事を見て計算もするも十七時、デスクに備えられている電話が鳴った。
こんな時間に鳴る電話に全員が嫌な顔をした。平社員ではなく柊にかかってきたのだ。もしかすると部署全体に協力要請もあり得ると仕事の手を止めて注目する人間が増え、その数秒後、全員の手が止まった。
「どういうことだ! ちゃんと説明しろ!!」
響き渡る柊の声。小さな問題ではなく大問題が発生したのは間違いないと立ち上がってデスクに寄っていく者もいた。
「クソッ!」
悪態吐きながらブースから出てきた椿がチームメンバーを集めた。事情を説明され全員が絶句。指示を受けて戸惑いながらも全員が頷き、デスクから鞄を取って駆け出す者とデスクに戻ってキーボードを打ち始める者。
柊はそのまま部長の元へと向かい、メンバーに行った事情説明をすると当然ながら激怒。当然の反応だと受け入れているが、今はそれに悠長に頭を下げているべきではない。
「今すぐ出ます」
デスクに置いていた鞄と上着を持って出口へ向かう柊の背中に部長の怒声が飛ぶ。
「この契約がダメになったら責任は全てお前がとれ!」
「そのつもりです!」
怒鳴るように返して出ていった柊に全員驚いていた。何を言われても上手く返していた柊が部長に怒鳴る姿は初めて見た。それは怒鳴り返された本人も同じ。驚いた顔をしていたが、時間が経つと共に腹も立ち、感情のままにデスクに拳を振り下ろした。
「旦那様? 今日はお早いお帰りなので──」
「出張になった!」
立ち止まらず、椿の顔を見ることもせず、寝室へと走った。クローゼットの棚に置いていた出張用の鞄を引っ張り出して中に入れていたパスポートを確認する。
こういうことが以前にもあったため柊はクリーニングに出したシャツなどをそのまま鞄の中に入れているため持ち出せばそのまますぐに行けるようにしていた。
「な、何かあったのですか?」
見たことがない状態にオロオロする椿に電話を受けてからずっと焦りと苛立ちを抱えていた柊は思わず「時間がないんだよ!」と大声を出した。すぐにハッとしてマズイと冷静になって時計を見てから鞄を下ろした。
「ビーガン向けの商品を売る海外の会社と契約する予定だったんだ。それなのに中に入ってたのはベジタリアン向けの商品だって瑠璃川から電話があった。食品だからサンプルがないと向こうも当然判断できない。どんなに良い商品かを口で伝えたところで自らの舌で確認しなきゃ納得できるはずがない。だから商品持って行くことになった」
「お帰りは遅くなりそうですか?」
海外に行くどころか飛行機に乗ったことも見たこともないのだから仕方ない。瞬時に理解してくれれば楽だった。自分の口で言わなくて済んだのだから。
「今日は帰れない。飛行機で十四時間も飛ばなきゃ着かない国に行くんだ」
「そんなに遠いのですか?」
「ああ。でも三日には絶対帰ってくるから」
「どうかご無事でお戻りください」
「わかった」
スマホからメールの着信音が鳴った。すぐに飛行機の手配をしてくれた部下からだ。チケットが取れたが二十二時半の飛行機しかないと書いてあった。乗り継ぎが二回ある分なら夕方だが、今からの待機時間を合わせてもロスにしかならないため時間は遅いが直行便を手配したと書いてあった。
「クソッ」
夕方の便があると思っていただけにあと五時間もある。一度会社に戻って、と考えていると電話が鳴った。瑠璃川だ。
心配そうな視線を送る椿の頭を撫でて寝室へと入った。
時刻は現在十八時を過ぎたところ。十四時間という一日の半分以上を飛行機という乗り物に乗って日本を出ることがどういうことか椿にはイマイチよくわかっていない。柊が早口で捲し立てた説明も何が何やらと理解もできていない。ビーガンとは、ベジタリアンとは何か。人種のことだろうか?
普段から仕事の話は一切しないだけに柊がどういう仕事をしているのかさえ知らなかった。だから彼は話さなかったのだろう。話したところで理解できないとわかっているから。
中園が言っていたことは間違っていない。
『彼は立場ある人間よ。そんな男の横に立つ女は彼を理解して支えられる人間でなきゃダメ。無知な女じゃ彼が恥をかくだけよ』
本当にそうだ。年末のパーティーに誘われた際、椿は断った。ボロが出ては困るからと。出社する最後の日に開催されたパーティー。きっと皆同伴者がいただろうに柊は強制しなかった。
断って正解だった。きっと恥をかかせていたし、ボロが出ていたかもしれないのだから。
今もそう。彼が言っていることの半分も理解できていない。それがとても恥ずかしく、情けなかった。
柊が部屋にいるのに時計の針が大きく聞こえる。こんなことは初めてだ。
『今日は帰れない』
いつ帰ってくるのだろう。三日には絶対帰ると言ったが、以前、あまりにも残業が続くことに疑問を持った椿に柊はこう返した。
『会社員ってのはそういうもんなんだよ。嫌だから帰るってのはできねぇの。理想はそうあるべきだけど、現実はそうもいかない。AIが代わりをしてくれるようになったら定時で帰れるようになるだろうけど……まあ、そしたらエンジニアと取締周辺以外はクビか』
柊がどれほど帰ると意気込んでいても帰れない可能性があるということ。期待してはいけない。彼は仕事をしに行くのだから。
「椿、さっきは怒鳴って悪い」
電話を終えて出てきた柊の第一声に椿は笑顔を見せてかぶりを振る。
「聞いてもわからないことを聞いてしまった私が悪いのです。旦那様は何も悪くありません」
「怒鳴るべきじゃなかった。許してくれ」
「怒ってませんからどうかお気になさらず」
抱きしめられるがままに身を任せると彼の香りをゆっくり吸い込む。温もりを感じ、目を閉じる。
「あ、そうだ。お夕飯食べて行かれますか?」
「もちろん」
「よかった」
キッチンへ向いながら見た時計は十九時半を指している。
「何時に家をお出になるのですか?」
「二十時半前には出るつもりだ」
一時間もない。
「味が染みているとよいのですが」
「あー明日の肉じゃがもめっちゃ美味いんだろうなぁ!」
本来なら柊が帰ってくるまでにまだ時間があるためその間に味を染み込ませておくはずだった肉じゃが。柊の大好物だ。掻き込むようにして食べる柊を見るのは初めてで、本当に時間がないのだと伝わってくる。
「椿も食べよう」
「今はお腹がすいていないので後で食べますね」
怒鳴ってしまったせいだろうかとキッチンに戻っていく椿を見ながら申し訳なく思うも何度も謝罪をされても迷惑だろうと苦笑に留めた。
これから出かけなければならない。それも国外。こんなことが起こるとは想像もしていなかったため電話口で何度も謝る瑠璃川を怒鳴りつけてしまった。瑠璃川の後ろから聞こえる泣きながら謝罪する中園の声はいつもの作った甘え声とは違い、本来の声に近く感じた。反省しているからといって許されることではない。あってはならないミスだ。
出発前に自分も確認すべきだったと後悔している。そうしていればこんな時に海外へ行く必要などなかったのだから。
二月四日には絶対に家にいたいから三日には絶対に帰る。そう意気込んで入るが、何せ遠い。これが二時間程度の場所であれば不安はないのに。
「美味かった。めちゃくちゃ美味かった。気合い入ったわ」
食べ終わって早々に鞄を持ち、立ち上がった柊が玄関へと向かう。
「だ、旦那様!」
「どうした?」
慌てた声を出す椿が布に包んだ何かを持ってきた。
「おにぎりをご用意致しました。十四時間の移動の間にお腹が空くでしょうから、食べてください」
機内食が出ることも当然知らないからこうして握り飯を用意した。邪魔にならないようにおかずはなしで大きめのおにぎりが二つ。
食べなかったのはこれを用意していたからかと表情が緩む。
「どうか、どうかご無事でお戻りください」
「大丈夫だって。フラグ立てるみたいなことしたくないけど、帰ったら椿の誕生日盛大に祝うからな」
「ご無事でお戻りくださればそれだけで充分でございます」
一人きりにしてしまうことと戻るまで心配かけ続けるだろう申し訳なさにもう一度ごめんと謝ると椿から抱きついてきた。しがみつくような強さ。願いを込めているのか、それに合わせるように抱き返した。
「行ってくる」
「お気をつけて」
タクシーは時間指定で呼んであるため遅れるわけにはいかない。渋滞情報も確認済みであるため問題なく空港まで行けるだろう。
後ろ髪引かれる思いで家を出た柊と見送った椿は離れながらも同じ顔をしていた。
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