遊び人公爵令息に婚約破棄された男爵令嬢は恋愛初心者の大公様に嫁いで溺愛される

永江寧々

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本当のこと

 翌朝、二人はいつも起きる時間になってもベッドの中にいた。
 解放月が終了した翌日はいつも休み。国中の人間も来年のために動かず、全員が明日から動き始める。これはもう大昔からそう決まっていること。
 だからアーサーも時間通りに起きる必要はなく、カーテンの向こうが明るくなっても眠っている。

「……」

 マリーだけがいつもの時間に目を覚ましていた。
 身体はひどく疲れている。ベッドの上で横になっていてもわかるぐらいに。
 横になったまま天蓋を見上げるのはいつもと同じだが、違うのは隣にアーサーがいることが嬉しいと思うこと。
 昨日の朝までアーサーと同じベッドにいるのが気まずくて仕方なかったが、今は違う。リタが来る前に戻ったかのように嬉しい気持ちで溢れている。
 重たい身体を横に向けるとまだ眠っているアーサーがいる。

「綺麗なお顔」

 四十代とは思えない、まだ三十代でも通用する童顔。
 婚約期間も短く、結婚したばかりの二人の間にはまだ遠慮の塊があって、それを壊そうにも壊し方がわからない。少しずつスプーンで削っていく方法しか二人の頭にはない。
 アーサーがベンジャミンの年齢に達するには二十年ちょっと。二十年で夫婦はどこまで開けっぴろげになれるのだろうかとマリーは考える。

「優しい人」

 いつもどおりを演じている不自然な妻から無理矢理聞き出そうとはしなかった。合わせてくれていた。
 支えて守ってくれる彼には感謝してもしきれない。

「大好き」

 横顔を見つめながら囁いたとき、相手の唇に目がとまった。
 昨夜、何十回と重ねたかわからない唇を人差し指でゆっくりなぞっては目を細める。触れるだけの優しいもの。唇を強く押しつけるもの。二人の唇が隙間を作り、その間から赤い舌が覗いて侵入し迎え入れる。甘噛みされることもあった。
 何より、唇を離したときに見える互いの間にある銀糸は今思い出すだけでも恥ずかしくなる。
 キスは唇と唇が触れ合うだけのものだと思っていたマリーにとってアーサーとのキスは別世界に連れていかれるほど濃厚でトロけるような行為。
 それをリタとしたことでアーサーが覚えたのだとしてもマリーはもう気にしないことにした。もうリタはどれだけ望もうとアーサーにキスなどできないのだから。

「昨日あんなにしたのにマリーから誘ってくれるなんて嬉しいな」
「ッ!? お、起きてたんですか!?」

 目を閉じたまま口元にだけ笑みを浮かべるアーサーの声に唇をなぞっていたマリーの指が離れる。

「可愛い指が唇をなぞるのが気持ちよくてね」
「ご、ごめんなさい!」

 完全に無意識だったと起き上がって謝ろうとするマリーをそのまま腕の中に引っ張り込んだ。

「何度だって触れてくれていいんだよ」

 素肌が密着する。布団の中の暖かさとはまた別の温もりがマリーを包む。

「何を考えてたんだい?」
「綺麗なお顔だなぁって」
「唇を触りながら?」

 隠し事はしないと決めた。誤魔化すのももうやめる。

「出会ってからしたキスは、私の知らないものばかりだって思い返してたんです」
「例えば?」
「舌が触れ合うのもそうですし、唇を噛むのも」
「嫌いかい?」
「いいえ」
「じゃあ好き?」

 言わせようとしているとわかっているマリーは言葉では返事せず「ふふっ」と笑うだけにした。

「おや、言ってくれないんだね」
「だって、はいって言うとキスするでしょう?」
「あーバレてないと思ってたのに。別の手を考えないと」

 冗談めかして言うアーサーとの会話が心地いい。少し前までこんな日常を当たり前に送っていたのに、ふとした綻びがそれを壊してしまうことにマリーは恐ろしさを感じた。
 カサンドラが言っていた。 

『相手を思いやるあまり、互いが望んでいない方向へ向かうこともあるわ。でもね、大丈夫。仲直りなんて簡単よ。心を込めて謝罪して、ちゃんと向き合う。手や身体や声が震えてもいい。あなたの心の中にあるものを全部話すの。相手が受け止めるって言ってくれてるならあなたはそこに飛び込む勇気を持たなきゃね』

 カサンドラの言葉はマリーに勇気を与える。だが、経験のないマリーの中には少し不安も残っていた。

「今、マリーの頭を独占してることが何か当てようか?」

 きっと当たらない。
 マリーはアーサーの胸に頬を寄せてゆっくり息を吐き出し、それから顔を上げてアーサーを見た。

「キスのことです」
「マリーからしてくれるの?」
「お話が終わってからでもいいですか?」
「もちろん」

 大きな手が髪を優しく撫でてくれる。この手が、この温もりが傍にあるのに、なぜ悩む必要があるのだろうとマリーは自分に呆れてしまう。
 だからこそ勇気が出た。ひとつずつクリアしていくべきことも見えた。

「アーサー様とのキスは大好きです。触れるだけのキスも、身体から力が抜けてしまうようなすごいものも。恋愛についてのことは全部、アーサー様から教えてもらいました。全部、アーサー様がハジメテなんです」
「うん。そうだね」
「ネイト様とだって──」
「ストップ。アイツに敬称はつけないって約束したはずだよ。あと、ここでアイツの名前は口にしないこと」

 アーサーはマリーを利用しようとしたネイトを許していない。だから名前を呼ぶだけでも気に食わず、敬称をつけるのはもっと気に入らないとそこだけは強く求めた。
 そんなこととマリーが思うようなことでさえ真剣な顔で言うため、思わず小さな笑いがこぼれた。
 
「彼とでさえキスはしなかったので、私には過去はないんです」
「グレンとは?」
「おでこにぐらいはありますけど、唇や頬にされたことはありません」

 こんなことでひどく安堵してしまう自分がアーサーは情けなかった。

「でも、アーサー様は違う」
「え?」
「四十二年も生きていれば女性と色々あってもおかしくないし、そんなのは当たり前だってわかってるんですけど……」
「あ、ちょっ、ま、待って──」
「それなのに私、アーサー様がキスが好きなのは過去のことがあったからなんだって思ってしまって……」
「待って待って待って待って! ストップ!」

 不思議そうな顔をするマリーにアーサーは困惑の表情を見せる。
 マリーが何に悩んでいたのかは大体わかったが、なぜそんなことで悩むことになったのかがわからない。
 確かに、四十二年も生きていれば何かしらの過去があってもおかしくない。地位を持つ者なら当たり前に持っている過去だろう。
 アーサーも作ろうと思えばいくらでもそうした過去を作れた。言い寄ってくる令嬢を受け入れるだけで何百人という数を抱けたはず。愛人を募集すれば積み上げるほどの応募が来るのは間違いない。
 しかし、そうしなかった。色目を使って寄ってくる女性を気持ち悪いと思うようになってしまったからだ。
 マリーは勘違いしているのだとアーサーはマリーの額に口付けて強く抱きしめた。

「僕がキス好きなのは君とのキスだからだよ、マリー。他に理由なんてない」
「わかっています。でも……アーサー様がいろんなキスを知っているのは、リタさんとの……キスが、あって、ですよね?」
「え? リタ? なんで彼女が? リタは関係ないよ」

 アーサーの様子に焦りはなく、珍しくキョトンとして顔でこちらを見ている。

「え? どういう意味だい?」

 ただ困惑しているような表情にマリーも同じように困惑の表情を浮かべ、二人は互いの困惑した表情を見つめながら首を傾げた。

「だって、アーサー様のキスは……リタさん仕込み、ですよね?」
「はあ!?」

 戸惑うマリーからの問いにアーサーは勢いよく起き上がった。

「え、なんでそんなことになるんだい?」

 アーサーが起き上がったことで捲れたシーツを慌てて手繰り寄せ、身体を隠しながらマリーも起き上がる。

「え、だってアーサー様のファーストキスはリタさんですよね?」
「え、違うよ?」
「え、だってリタさんがそう言ってましたよ?」

 リタが言っていたこととアーサーの言っていることが違うとマリーの困惑が加速する。
 それはアーサーも同じで、身に覚えのないことに困惑するばかり。

「待った……リタから何か言われたんだね?」

 嫌な予感がすると険しい表情へと変わるアーサーの手がマリーの肩に添えられ、マリーはカサンドラに話したのと同じことをアーサーにも伝えた。
 勝ち誇った顔で告げてきたリタの言葉は口にするのも嫌だったが、伝えないわけにもいかない。

「信じられない……! あの嘘つきめ……!」

 どこか怒気のこもった声色にマリーが驚く。

「マリー、どうか信じてほしい。リタとキスしたことなんて一度もないし、彼女から何か教わったこともない」
「じゃあどうして……」

 アーサーの言葉を疑うつもりはない。信じないという選択肢もない。だが、それが真実なのだとしたら、何故アーサーに聞けばわかってしまう嘘をリタはそれが二人の過去であるかのように伝えてきたのかがわからない。

「マリー、今から話すことこそ真実だから、どうか引かないで聞いてほしい」

 あまりにも真剣な表情で話すものだから、マリーは不安を抑えながらも真剣に受け止めると頷いた。

「僕はね、全て……未経験、だったんだよ」
「……え?」

 どういう意味なのかすぐには整理できず、耳を疑いながらアーサーを見る。

「君と同じということだ」
「ん?」

 すぐに理解してもらえず自分で全て話すことになる苦痛にアーサーは一度目を閉じ、深呼吸をした。
 大きく吸い込んだ息を倍の時間をかけて吐き出したあと、意を決したように目を開けた。

「この歳まで誰かとキスをしたり、誰かを抱いたりをしたことはなかったということ。わかるかい?」
「…………」
「あれ? 引いてる?」

 四十二歳まで独身なのは珍しくないが、男が結婚まで童貞でいるのは珍しい。大体の令息たちが結婚までに女遊びを経験して楽しくやっているのだから。
 引かれても仕方ないかと苦笑するアーサーにマリーがかぶりを振る。信じてくれるのだと喜んだのも束の間──

「嘘ばっかり」
「え?」

 吐き出された言葉は予想外のものだった。

「アーサー様みたいな素敵な男性が私と同じで全部未経験だなんて、そんなことあるはずないじゃないですか」
「マリー、君にそう言ってもらえるのはすごく嬉しいよ。でも本当なんだ。キスも誰かと交わしたことがあるわけじゃない。僕の恋愛の過去はあの日、君と出会ってからのものしかないよ」

 信じられないことではあるが、アーサーは嘘はつかないと言った。
 女性であれば経験済みでも未経験と嘘をつくが、男性がそんな嘘をつく必要はない。
 アーサーのような男が恋愛事については未経験というのはどうにも信じ難いが、嘘をついているとは思えず、マリーは自らアーサーに抱きついた。

「それじゃあ……って……に、な……じゃ……か」
「マリー?」

 もごもごと口ごもるマリーが何を言っているのか聞き取れず、耳を寄せると小さいが聞こえた。

「私が最初で最後ってことになるじゃないですか……」

 聞き取れた言葉に小さく笑うアーサーが頭頂部に口付けて「そうだよ」と囁く。

「嬉しいです」

 耳が真っ赤になっていることに気付くとアーサーは胸がくすぐられるような感覚に思わずニヤついてしまいそうなのを堪えながらマリーの頬を両手で包んで持ち上げた。

「い、今はダメです!」
「どうして? 終わったらキスしてくれるんじゃなかったっけ?」
「ま、まだ話は終わってないんです!」
「そっか。じゃあ、聞かせてくれる?」

 もう話すことなんてない。リタの言葉が嘘だとわかったのだから、これ以上アーサーに確認したいこともない。
 ただ、自分でも呆れてしまうほど単純な感情に踊らされているのが嫌で顔を見られたくなかった。
 どうしても見たいアーサーと、どうしても見られたくないマリーではどうしても見たいアーサーが力で勝ってしまった。

「やっ、ちょっと待ってください!」
「可愛い顔が顔見えた」

 顔を隠す手ではなくシーツを引っ張ると、身体に自信がないマリーは当然胸を隠すのはわかっていた。
 隠すものがなくなって露わになった真っ赤な顔を見て笑うご満悦なアーサーを見ながら「やられた」と呟くマリーは唇を噛む。

「意地悪」
「意地悪? 違う。これは君を知り尽くしているという証明だ」

 自分がこの歳まで未経験だったことを喜んでくれたことがアーサーは何よりも嬉しい。
 不安だったのはアーサーも同じで、これでもう不安を抱える必要はなくなった。

「マリー」

 優しく呼ばれると弱い。この優しい声は普段とはまた違う、甘さの入った声。アーサーが甘えるときに使う声だ。
 
「ズルい」
「ズルいのはお互い様だよ。君も存外甘え上手だしね」

 手を離して首に腕を回すとそのままゆっくりと唇を重ねた。
 リタの顔は少し浮かんだが、それはリタが勝ち誇っているときの表情であって、アーサーとリタがキスをしている妄想ではない。
 こうして甘く優しい声で名前を呼んでもらえるのも、キスをねだられるのも自分だけ。それが嬉しくてマリーはアーサーが開けた唇に自ら舌で触れて唇を舐めた。
 驚いた顔をするアーサーに目を細めたマリーはそのままキスを深めていく。
 首に回した腕に力を込めて逃さないようにし、アーサーもそれに応えるようにマリーの腰を抱き寄せた。
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