愛人を切れないのなら離婚してくださいと言ったら子供のように駄々をこねられて困っています

永江寧々

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心の見直し

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「陛下、少しよろしいでしょうか?」
「ユーフェミア、どうした?」

 大歓迎をしてくれなくなったのは喜ぶべきか寂しがるべきか、ユーフェミアはそういう感情を相手にぶつけるのが苦手で聞けないままいる。
 年相応になった。そう思えばいいのかもしれないが、時折、少し寂しく感じる。

「シュライア様をお訪ねしたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「……離婚の相談、ではないな?」
「陛下に離婚のご覚悟があられるのなら、ご相談しますが」
「いやだ! どうして君はそう意地悪を言うのだ!? 僕たちは世界で一番仲が良い夫婦なのだぞ! 僕は口が裂けようと舌が八枚になろうと離婚を口にしたりしない!」

 こういう姿が見たくて少し意地悪を言ってしまう。
 安心して笑うユーフェミアを見てトリスタンも笑い、バンッと置いた筆を再度取って書類へのサインに戻るその姿をユーフェミアはじっと見つめていた。

「どうした?」
「あ、いえっ……なんでもありません」
「仕事姿の僕がかっこよくて見惚れていたのか?」
「ふふっ、どうでしょうね」

 余裕のある笑い方をしながらもユーフェミアの耳は確かに赤くなっていた。
 結婚してから何千回と見てきた仕事姿。飽きるほど見てきたはずなのに、ユーフェミアは最近の自分のおかしさに首を傾げる。

「では、行ってまいります」
「予定は取りつけているのか?」
「今週は予定が入ってないのでいつでもとお返事をいただいております」
「そうか。気をつけるのだぞ。早く帰ってくるように」
「はい」

 トリスタンの言葉に頷いて部屋を出ていくと動悸が止まらない胸を軽く叩きながら玄関まで向かい、馬車に乗り込んでシュライアの家へと向かった。



 懐かしささえ感じさせる景色に目を細めながら馬車を降りると以前訪れた時よりずっと立派に見える小さな庭園に足を運ぶ。
 庭師を雇わずに一から自分で作ったという小さな庭園は花屋の娘であるユーフェミアからすれば羨ましくてならなかった。
 手入れを欠かさず愛情いっぱいに育てられている証拠であるしっかりとした茎や花びらの瑞々しさ、色合いとどれを取っても素晴らしいもので、ユーフェミアはその場にしゃがんで匂いを嗅ぐ。

「イイ香り」
「そんな所に屈むなど品がありませんぞ!」
「ご、ごめんなさいッ!」

 突然の声に慌てて立ち上がって反射的に謝るも後ろに立っていたのは当然、教育係などではなくシュライア。
 驚いたと胸を押さえるユーフェミアに楽しそうにシュライアが笑う。

「シュライア様、驚きました」
「ふふっ、似てたでしょ」
「似すぎです」
「謝ってたわね」
「あんな風によく怒られていたものですから」

 嫁いだばかりの頃、教育係は口を開けば『品がない』と言っていた。下町の花屋の娘が王族のマナーなど知るはずもなく、間違えてはすぐに手を教鞭で叩かれた。
 十四歳の子供でも王妃は王妃。それなのに教育係は問答無用で手を叩いて厳しい教育を続けた。
 今となっては良い思い出だが、当時はトリスタンと一緒に毎晩共に泣き、そして疲れて眠るの繰り返し。懐かしいと微笑んでいるとシュライアが両手を広げる。

「シュライア様?」
「ハグしよう」
「ハ、ハグ?」
「ダメ?」
「ダメではないですが……」
「誰も見てないって! エリオットは告げ口したりしないでしょ?」
「そうですが……」

 シュライアは既に王妃ではなく一般人。それなのに王妃にハグをするのかと頭の固いエリオットは考えるが、公式の場ではない慣れ親しんだ相手であれば問題ないかと曖昧な返事をする。

「あー……会いたかったのよ、ユーフェミア」
「会いに来てくださればよかったのに」
「クライアの廃妃がどんな顔してアステリアの王妃に会いに行くの?」
「このままのお顔でよろしいんじゃありませんか?」
「ふてぶてしいって?」
「はい」

 シュライアは気さくで冗談好き。それに合わせるとシュライアはいつも大声を上げて楽しそうに笑ってくれる。ユーフェミアはその笑顔が好きだった。

「しっかし、エリオットはイイ男になったね! イケメンだわ! うちで働かない?」
「お断りします」
「おやまあ、キッパリ。そんなにユーフェミアがいい?」
「はい」
「あっはっはっはっは! 素直でよろしい! ほら、アンタも座りな。皆でお茶にしよう!」

 シュライアの笑い声は聞いているだけで楽しくなってしまう。国際会議の場でだけは取り繕うことなく大声で笑うシュライアが皆好きだった。それは廃妃になっても変わっておらず、人を惹きつける魅力があるのだと感心する。
 クライアの国民がどれだけシュライアを愛していたか、アステリアの民でさえ知っている。
 アステリアにはないが、クライアには博物館があって、歴代の王や王妃が式典やパレードなどのイベントで身に着けた正装や装飾品を飾っている。そこは今でも連日、人が絶えないらしい。
 それだけの人気がありながらララは趣味じゃないと口にした。
 思い出してしまうとまるで昨日のことのように腹が立ってくる。

「ユーフェミア、感情が顔に出てるよ」
「え? そ、そうですか?」
「何かあった?」

 シュライアに言うべきことではないとわかっている。彼女はもうクライアの王妃ではない。クライアで暮らすこともやめて、こんな田舎で暮らすことを決めたのだから興味もないかもしれないと思いながらもユーフェミアは一応話しておくことにした。

「実は──」

 国際会議でララと初めて会ったこと。先日リリアナと話していた時にララが連絡なしに訪問してきたこと。その時に言ったこと。王妃の仕事を楽だと言ったことも全て報告した。

「レオンハルトってそういう女が好みなわけ? 引くわ……」
「そう、ですね」

 もう関係ないと思っているせいなのか、意外なほど、シュライアは怒り一つ見せなかった。関心はララではなくレオンハルトの好みについてであり、ユーフェミアはもそれについては同意。
 レオンハルトは真面目で堅物な男だとトリスタンから聞いていたし、実際そう見えた。トリスタンと違って愛人の心配もないのだと羨ましくさえ思っていたのに、愛人こそ作らなかったが正しい判断ができない男だった。

「怒らないのですか?」
「私が? どうして?」
「クライアの民が苦しむことになるかもしれませんし……」

 王はもちろん王妃もしっかりしていなければ国は簡単に傾いてしまう。城で働いている者達が全員味方かといえばそうではない。給金が良いから働いているだけの者も大勢いるし、そっちの方が多いのかもしれないとさえ思う。
 だとすればララの言動はあっという間に外へ筒抜けになり、それが民に流れるとあっという間に暴動が起きるのではないかとユーフェミアはそれを心配していた。

「あー……まあ、クライアの民のことは心配だけど、そういうのを纏めるのは王の仕事なのよ。民が不安なきよう務める義務がある。王妃がどういう人間だろうと自分の目で見て選んだんだから責任は王にある」
「でも王にあるだけでは……」
「最低なことを言うようだけど、王が変わらないのなら民は国を潰すか、国から出るしかない。潰すのは難しいかもしれないけど」

 クライアはアステリアと違って軍を所持している。民が暴動を起こしたとしても武力で制圧してしまうだろう。だが、そんなことをしてしまえばクライアは終わる。民からの支持は得られず、国は破綻。民なき国など国にあらず。
 レオンハルトがどこまでわかっているのか、ユーフェミアのほうが不安だった。

「わたくしにはわかりません。なぜレオンハルト王が彼女を選んだのか」

 ユーフェミアの疑問にシュライアは苦笑しながら空を見上げてゆっくり息を吐きだす。

「私たちは政略結婚だった。だから彼は恋をしたことがなかったのよね。戦争という薄皮一枚で死と隣り合わせの人生を送ってきた彼が初めて自分の心の動きに気付いた。戸惑うほどの恋心に抑えが利かなかったのかもしれない」

 前に会ったときもそうだったが、シュライアがあまりにも淡々と話すからユーフェミアのほうが辛くなってしまう。これが本音であるならそれでいい。だが、もし強がりだった場合、今の姿はあまりにも切ない。かといってユーフェミアがしてやれることは何もない。

「でも私はあのとき、レオンハルトが初めて人間に見えたの」
「初めて?」

 どういう意味だと首を傾げる。

「彼ね、ずっと機械みたいだったの。笑み一つ浮かべず何でも義務感でこなしてた。仕事も子作りも全部。ほら、彼の父親って王になるまで軍に所属してたでしょ? だからすごく厳しかったのよね。王に娯楽は必要ない。やるべきことをやれ。その抑圧に封じ込められた感情は永遠に戻らないと思ってたんだけど、離婚してほしいって言われた時に初めて感情を露にする彼を見て納得したの。ああ、恋をしたんだなって」

 シュライアは彼が恋をした瞬間を見たように言っているが、ユーフェミアからすればあまりにも皮肉なものに感じた。
 夫が初めて感情を見せたのが自分を捨てるときだったなんて、誰が喜べるのか。

「わたくしはシュライア様が守るクライアを見ていたかったです」
「私もよ。クライアの民のことは大好きだもの。でも私にその選択権はないからどうしようもない」

 王妃の仕事を軽んじ、民のことなど考えようとすらしない王妃など国には必要ない。それを直せない、止められない王とて同じだろう。
 レオンハルトが何を考えているのかわからず、クライアの国民が今の王をどう思っているのかもわからない。しっかりしなければならないレオンハルトがああなのでは国民の期待度は下がる一方だ。
 浮上する最悪の可能性。それが少し怖い。

「それにしても教育係は何をやってるのかしら。それなりに厳しい人たちがついてるはずだけど」
「私もそれが不思議なんです。王妃としての心得を教えられていないわけじゃないと思うんですけど、それにしてはあまりにも礼儀に欠けていて……」

 自分も下町の娘であったため厳しく言われすぎて納得できないことだらけだった過去はある。それでも意識だけは王妃という称号に向いていた。右も左もわからない中で王妃とはどういう存在か、どういう立場なのかを意識していた。
 ララにはその意識さえも見えない。もしあるとすれば「自分は王妃様になった」ということだけな気がする。

「ま、二十代の小娘に私のセンスはわからないわよね」
「リリアナ様は褒めてましたよ」
「あら、最高のセンスの持ち主ね。会ってみたいわ」

 この人がクライアの王妃であれば未来永劫安泰だったはず。突然の廃妃、そして急すぎる結婚。批判は大きい。
 ユーフェミアも結婚してから数年はずっと『貴族でもなんでもない下町の娘が王妃なんて国の恥だ』と言われていた。前王妃のマリアが偉大だったから。あくまでも一部から、ではあったが、それでも良い声より悪い声のほうが耳に入り、心に重くのしかかってしまうもの。
 彼らの不満を覆すにはそれなりの時間がかかる。一ヵ月、半年、一年なんかでは到底覆せるものではない。何年もかかるのを身をもって経験しているユーフェミアからすれば、今のララの意識は危うさしかない。

「気にかけてくれてありがとう」
「いえ、できることが何もなくて申し訳ありません」
「そんなの当たり前じゃない。他国の王妃にできることがあるなら自国の王妃なんていらないもの。それが普通なのよ」
「そう、ですね……」
「私ももう廃妃だし、できることはないなぁ」
「レオンハルト様に──……」

 手紙を書いてはどうかと言おうとしてやめた。ララを妻に迎えたレオンハルトに話が通じるとは思えない。書いたところで破られそうな気がした。
 余計なお世話かと苦い顔をしながら紅茶で喉を潤した。

「そんなことより、トリスタン王とはどうなってるの? 相変わらず離婚問題で大騒ぎ?」
「それが……」

 ユーフェミアの顔を見てピンッときたシュライアはニヤつきながら頬杖をつく。

「ははあん……仲直りしたわけだ?」
「一応……」
「照れなくていいのよ! 愛する夫を不満なしに愛せるようになったんだからおめでたいことじゃない!」
「そう、ですよね」

 シュライアはいつだって明るくて、祝ってくれるときはいつもこうして満面の笑みを見せてくれる。シュライアのほうが二つ年上なだけなのに頼りになる相手をユーフェミアはいつも「姉がいたらこんな感じだろうか」と思っていた。

「で、愛人は切ったの?」
「はい」
「めでたしめでたしだねぇ」
「シュライア様のおかげです」
「私? 私、なんか言ったっけ?」

 不思議そうな顔を見せるシュライアに頷き

「自由はいつでも選べる。四人の愛人を囲っていることをチャラにできるぐらい良いところが見つかるかもしれないって」
「言ったっけ? 思いつきで言ったから覚えてないわ」
「そのお言葉をずっと胸に過ごしていたんです」
「良いとこあった?」
「はい」

 幼稚で自分勝手。でもそんなところも愛している。互いに幼稚な夫婦。大事なことは全て自分で抱えて解決しようとしてきた。それがいかに愚かなことか気付きもせずに。相手との生活を手放せないと思うほどには良い部分を見つけられた。
 笑顔を見せるユーファミアにシュライアも安堵する。

「世継ぎ問題は解決しそう?」

 その言葉にユーフェミアは苦笑しながら首を振った。

「子供ができないのはわたくしのせいだったんです」
「え?」

 ユーフェミアの告白にシュライアの顔から笑顔が消える。

「彼は十年前にそれを知ったのですが、わたくしが傷つくからと自分のせいにしてくれていたんです。わたくしの身体は陛下の種を拒んでいる。だから届かない。陛下はそれを届かせようと毎食、性がつく料理を食べ、滾る性欲を愛人にぶつけていたそうです」
「はあ? なにそれバカじゃないの? どうやったらそんな考えになるのよ! 妻を抱きなさいよ! 私だったらぶっ飛ばしてる! それかちょんぎる!」

 過激な発言に驚きながらもシュライアならやりかねないと想像もつく。
 ラモーナは怒った顔を見せながらも王をバカにできないため罰されない程度の悪口で控えていたが、シュライアは違う。きっとトリスタンが目の前にいても同じことを言っただろう。

「男ってどうしてこう自分勝手なのかしら? 自分が絶対正しい、自分が世界の中心だ、とか思ってるんだからホント、お子ちゃまよね。とんでもない男に嫁いだものね」

 自分に言っているような言い方をするシュライアにユーフェミアは苦笑する。

「妻の身体に問題があるなら妻に言うべきでしょ。それから治療法を見つける。それでもダメなら他の方法を探す。あー私が王妃だったらレオンハルト縛りつけてでももう一人産んでアステリアに養子に出したのに!」
「ふふっ、ありがとうございます」

 理想的な話だった。一番の同盟国であるクライアから、シュライアの子を養子にもらえたらどんなによかったか。それも今となっては叶わぬこと。

「でもまぁ、よかったじゃない。トリスタン王がイケメンじゃなくて」
「どういう意味ですか?」
「イケメンだったらモテてあちこちで使用人が言い寄って子供ができてたかも」
「ちょっと、失礼ですよ」
「モテてる?」
「…………モテてるかモテてないかなんてどうだっていい話です」

 使用人から黄色い悲鳴を放たれたことのない人生を送ってきたトリスタン。愛人たちにはどう見えていたのだろうかと今更になって少し気になった。

「もっとイイ男狙えばよかったのに。イケメンで、背が高くて妻に甘い男。あなたなら狙えたでしょ」
「私は彼でいいんです!」
「夫と背丈変わらないってどんな感じ?」
「顔が近くて素晴らしいです!」
「ふふっ、最近、キスしたのね」
「ふ、夫婦ですから!」

 シュライアといると自分が子供に思えて仕方ない。余裕たっぷりにからかってくるシュライアに大人の対応ができなくなるのだ。
 顔を赤くするユーフェミアの頬に触れて軽く摘まむシュライアは聖母のように優しい笑顔を浮かべている。

「離婚って本当に簡単にできちゃうのよ。で、離婚したらそれで終わり。元の生活には戻れないの。朝起きて夫の顔を見ることも、素敵なドレスを着ることも、職務をすることもない。国にいて廃妃なんて言われるのが嫌でこんな辺鄙な場所で一人のんびり暮らすだけ。離婚したいって気持ちは私にはわからないけど、離婚したあとのことまでちゃんと考えて結論出さなきゃいけない。それはもうわかった?」
「はい」

 離婚したあとのことを考えていたからこそ一方的に踏みだすことができなかったのもある。帰る場所はあっても帰れない。自分が離婚を願ったのだからシュライアのように領地を与えてもらえるかもわからない。
 相手への愛情がある状態で一人になって生きていけるのだろうかと想像したとき、寂しくてたまらなかった。だから強気にいけなかった。
 自分可愛さ故に。

「陛下に言いたいことはたくさんあったのに、言えなかったんです。それは間違ってるとか、そんなことを言ってはいけないとか、四人も愛人作る男は最低だとか……」
「言えた?」
「最低だってことは言えました」
「それが言えれば上出来よ。残りはこれから言ってやればいいの。全部すぐにする必要なんてないんだから」
「そうですね」
「王である夫を叱るのも王妃である妻の役目なんだから」

 ユーフェミアもそれはわかっていた。王の周りの者に厳しく言うのも王妃の役目、王に厳しく言うのも王妃の役目。それで嫌われるのなら仕方ない。甘やかして甘やかして横柄な王になってしまった彼を誰が慕うのか。それを危惧していながら何も言わなかった自分にも問題があったのだとユーフェミアは頷く。

「私も陛下も外見が大人になっただけで中身は子供のままだったんです」
「それに気付いたなら大丈夫。一生気付かない人もいるんだから」

 レオンハルトのことだろう。

「王と王妃だけど、夫婦なんだからぶつかればいいの。それを上から押さえつけようとするならそれこそ離婚してやればいい。離婚届を顔に叩きつけて此処に来なさい。私が平民の暮らしを教えてあげる」

 きっとシュライアなら本当に受け入れてくれる気がした。今日会ったときのように両手を広げて迎えてくれるだろうと。

「エリオットも来るんでしょ?」
「え……あ、俺は……」
「男手がいるんだから来なさいよ」
「はあ……」

 ユーフェミア以外には笑顔も見せないエリオットをシュライアは気に入っていた。シュライアは若さと顔の良ささえあれば大歓迎らしい。

「今は彼と一緒に成長しようと思っているので、そのお話は保留でお願いしますね」
「あら、そうなの? やめとけば~?」
「最近、すごくかっこよくなられたんですよ。会えばきっと驚くことと思います」
「へえ、それは期待値上がっちゃうわね」

 おかしそうに笑い合う二人の耳に聞こえた馬車の音。それが近くで止まったことに振り向けばユーフェミアとエリオットは驚きに目を見開いた。
 王家の紋章が入った馬車がなぜここに?
 そんな疑問はトリスタンが姿を見せたことで問いかけるまでもない。

「ユーフェミア!」
「陛下」
「会いに来てしまった!」
「抜け出してきたのではありませんよね?」
「まさか。ヴィクターの許可を取って出てきた」

 本当だろうかと怪しく思いながらも抱きついてくる身体を受け止めている間、シュライアに彼をかっこよくなったと言ってしまったのを訂正したくなっていた。

「ゴホンゴホンッ! 私の存在をあえて無視してる?」
「おおっ、シュライア! 久しいな!」

 シュライアのわざとらしい咳払いに今気付いたような顔で挨拶をするトリスタン。

「私の領地に来ておいて白々しい!」
「はははっ、すまない。世界で一番美しい女性しか目に入らなかった」
「まったく……相変わらずのようね」
「そなたもな。元気そうで何よりだ」

 二人が笑いながら話す光景がユーフェミアは好きだった。シュライアが廃妃になるまでずっとこんな光景を見ていたのに、これからはどんなイベントがあろうと見ることはできない。
 ララとトリスタンがこんな風に話せる日が来るとも思えず、今の時間が愛おしくてたまらない。

「ユーフェミアから離婚のアドバイスが欲しいと言われなかったか?」
「離婚したら養ってあげるからおいでとは言ったかな」
「おいっ! なんてこと言うんだ! 僕とユーフェミアに離婚はない! 僕は今までのことを反省して土下座までしたんだ!」
「土下座したの!?」
「ああ。男の謝罪は土下座と決まっている」
「レオンハルトにも聞かせてあげて」
「レオンハルトか……」

 急に表情を変えるトリスタンが溜息を吐いた。それは現在のレオンハルトを快く思っていない表れのようだとシュライアは思った。
 彼は変わった。人間らしくなった。そう思えたのは離婚を言い渡されたとき。でも人間らしくなり、感情を露わにするようになったからこそ起こる弊害がある。レオンハルトはそれにぶつかっている最中なのだろうと容易につく想像にシュライアが苦笑する。

「今のレオンハルトは王の器にない」
「恋に溺れたら終わりよね」
「いや、そうは言わない。僕は二十年間ずっとユーフェミアに溺れ続けているからな」

 真面目な顔で言うトリスタンにシュライアは唇を内側に吸い込んで吹き出すのを堪えている。

「恋に溺れようと分別がつけられれば問題ないのだろうが、レオンハルトはそれができなかった。そなたのような優秀な王妃を廃妃にして新たに迎えた王妃があの娘なのではな。愛人にして様子を見るべきだった」
「私も愛情はないから愛人を作っても何も言わなかったのに」

 愛人にしたくなかったとレオンハルトの口から直接聞いたが、トリスタンはあえて伝えることは避けた。

「そなたは今、幸せか?」
「ええ、とても。不自由なんてないもの。好きな時間に起きて、好きな時間に食べて、好きな時間に寝る。土も触っていいし、コルセットも着けなくていい。国民の笑顔が見られないのは寂しいけど、幸せよ」
「レオンハルトを恋しく思うことはないか?」
「陛下っ」

 その質問は愚問だと慌てて止めようとするユーフェミアにシュライアが手を振って止める。顔を見るといつもの明るい笑顔ではなく苦笑が滲んでいた。

「恋しくはないかな。ただ、どうしてるんだろうって思うことはある。悔しいけどね」
「心配か?」
「あの人、真面目が取り柄な不器用人だから。人当りも良くないし、社交下手でしょ? 若い子なんてもらっても引っ張っていけないんじゃないかって母親みたいなこと考えるときがあるの」

 シュライアはレオンハルトより四つ上。これを聞いてわかったのは、レオンハルトが王として道を違えることなく進んでこられたのはシュライアが引っ張っていたからだということ。
 ユーフェミアができなかった間違いを正すことをシュライアはずっとやってきたのだろう。だからレオンハルトは自分だけで決めたことが間違いだと気付かないまま進んでしまったのだ。

「そなたが王になってはどうだ?」
「あははははは! 言うわね。私が王になったらクライアは変わっちゃうわよ」
「崩壊するよりずっといいさ。そなたを支持する者は多い。クーデターが起きる前に強気な手紙を送ってやれ」
「考えておくわ」

 廃妃にはなんの力もない。王に提言することも、国を動かすことも、国民に働きかける権利さえも失っている。
 レオンハルトがどういう男か知っているからこそ、シュライアは離婚に応じた。民の感情を不安に揺さぶるようなことを冗談で言う人間ではないとわかっているから。その本気度が伝わってきたから離婚を受け入れたのだ。
 離婚をしないと拒んだところで毎日毎日離婚するしないの言い争いになるのは明白。そうなればレオンハルトが暴走するのは目に見えていた。もしかすると今より悪い状況になっていたかもしれない。
 迎える相手が賢く、自分よりもずっと愛される素晴らしい王妃になってくれる人物であればという小さな願いも彼らからの報告によって消滅した。
 妻のことより国のことを考えろという言葉もきっとレオンハルトには届かない。だからシュライアは曖昧な返事をした。

「今日は来てくれてありがとう。かっこよくなったトリスタンを見られて嬉しかったわ」
「ん? 僕は何も変わっていないぞ?」
「ユーフェミアが言ったのよ」
「うわぁぁぁぁあああああ!」
「うわぁって……」

 思わず大声を出したユーフェミアは獣が飛びかかるような勢いでシュライアの口を塞いだ。生まれて初めて出した悲鳴にトリスタンは目を瞬かせていたが、ハッキリ聞いてしまったことに満面の笑みへと変わっていく。

「ユーフェミア、僕をかっこいいと思ってくれていたのか? 人に自慢するほどそう思ってくれているのか?」
「ち、違います! 誤解です!」
「帰ろう! 今日はもう仕事はなしだ! 夫婦の時間を作ろう」
「ちょっと! まだシュライア様とのお話が終わってません! 一人でお帰りください!」
「エリオット、そなたがその馬車に乗って帰れ」
「陛下! 怒りますよ!」

 抱えられたユーフェミアがどんなに声を上げようと満面の笑みは崩れることはなく、そのまま馬車へと向かう。シュライアも止めずに馬車までついていくと手を振って三人を見送った。
 何もないこの場所でどこを見渡そうとクライアが見えることはない。
 両親の配慮で馬車だけは有してあるのだから気になるのならクライアまで行けばいい。ローブを羽織って変装して、少し覗いてみるだけでいいのにシュライアにはまだその勇気がない。

「最低よね……」

 新しい王妃が常識もない最低な女だと聞いて安堵する自分がいた。クライアがダメになってしまうかもしれないというのに、自分を捨てた王がいる国など滅んでしまえと恨んでいる自分がいる。
 クライアが滅べば民は路頭に迷う。それは王が背負うべき責任であり罪でもある。レオンハルトはきっとわかっていない。それがどれほど重い罪なのかを。
 クーデターが起こればレオンハルトは軍事圧力をかける。
 レオンハルトが愚かなことをしないこと──シュライアはそれだけを願っていた。

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