統合失調症妻の事件簿

第一話

統合失調症妻の事件簿 ～卵事件～

朝は静かに、でも少しずつ忙しさを増していく時間だ。玲奈がキッチンで立てる包丁のトントンという音が、リビングに心地よく響いている。僕は新聞を膝の上に置きながら、時々その音に耳を傾けていた。



「ねえ。」



玲奈が振り返る。彼女は少し真剣な顔をしていて、眉をほんの少しだけ寄せている。



「どうしたの？」



「卵がね、二つ足りないの。」



その一言で、僕の脳内に様々な可能性が駆け巡った。冷蔵庫が壊れた？ 卵が転がってどこかに消えた？ いやいや、そんな非現実的なことはない。



「昨日、俺が夜ラーメン作った時に使ったんじゃないかな？」



玲奈は首を振る。「それじゃないのよ。寝る前に数えたの、ちゃんと十個あったの。なのに、今朝数えたら八個しかなくなってた。」



「数え間違いじゃない？」僕は言いながら微笑んだ。でも、彼女の目は本気だった。



「そんなことないわよ。私は昨日、冷蔵庫を掃除したばかりだったの。卵の位置もバッチリ覚えてる。それに…」玲奈は少し言葉を切って、どこか意味深に言った。「冷蔵庫が夜中に誰かに開けられてた形跡があるのよ。」



「形跡？」僕は興味が湧いて、新聞を脇に置いた。



玲奈は冷蔵庫を指差した。「ほら、冷蔵庫の扉に指紋みたいな跡が残ってるでしょ？」



僕が近づいてみると、確かに冷蔵庫の扉に微かに何かが触れたような痕跡があった。だが、それが指紋かどうかなんて正直分からない。



「これ、昨日の夜に俺が触ったやつじゃないの？」



「違うわよ。だって、昨日の夜、あなたが冷蔵庫に触れた時はもっと上の方を触ってたじゃない。これは下の方だから、絶対に別の人の仕業よ。」



玲奈は腕組みをし、推理に没頭しているようだった。僕はその姿がどこか可笑しく、けれど愛おしくも思えた。彼女は時々こうやって、日常の些細な出来事に探偵のような情熱を注ぐのだ。



「じゃあ、何者かが忍び込んで卵だけを盗んでいったって言うの？」



「そうよ。」玲奈は真剣に頷いた。「でも、普通の泥棒が卵だけを盗むとは思えない。だから、これは…妖精の仕業かもしれない。」



「妖精？」僕は思わず笑ってしまった。「冷蔵庫の中に妖精がいるって？」



「そうよ。冷蔵庫妖精って聞いたことない？ 深夜になると出てきて、好きなものを少しずつ持っていく妖精よ。」



「それ、完全に玲奈の作り話じゃない？」



「いいえ、本当にいるのよ！」彼女は自信満々に言う。そして、僕の手を引っ張って冷蔵庫の前に連れていくと、卵の入っているケースを指差した。「ほら、このケースの向き、ちょっとズレてるでしょ？」



「……そうかな。」



玲奈は目を輝かせながら続ける。「これが冷蔵庫妖精が卵を取る時に起きた証拠なのよ！」



このまま玲奈の世界観に付き合うのも悪くないと思った僕は、話を合わせることにした。



「じゃあ、今夜は冷蔵庫の見張りをするしかないな。」



「いいわね！」玲奈は大きく頷いた。「二人で一晩中冷蔵庫を監視するのよ。これで妖精を捕まえられるかもしれない！」



こうして、僕たち夫婦の「卵事件」の調査が始まった。



深夜の見張り作戦

夜10時。リビングの電気を消し、僕たちは冷蔵庫の前に陣取った。玲奈はメモ帳を持ち、何かしらの作戦を立てている。



「妖精が来る瞬間を逃さないように、この位置で監視するのがいいわ。」



玲奈が指差したのはキッチンのカウンターだ。



「俺たち、そこに隠れるの？」



「もちろんよ。妖精は人間の目を嫌うの。だから、ちゃんと影に隠れないといけないわ。」



僕は苦笑しながらも、玲奈の熱意を無駄にしたくなくて、彼女の指示通りに隠れることにした。



「もし本当に妖精が現れたらどうする？」



「話し合うのよ。」玲奈は真剣だった。「『卵は大事な食材だから持っていかないで』ってお願いするの。」



僕は「なるほど」と言いながら、次第に自分もその想像に乗っかるようになった。



夜中の12時を過ぎても、冷蔵庫に変化はなかった。玲奈はメモ帳に何かを書き続けている。



「何書いてるの？」



「犯行の可能性がある時間帯を書き出してるの。」



彼女のメモを見ると、そこには「22:00～22:30：動きなし」「23:00～23:30：冷蔵庫の温度変化なし」など、観察記録がびっしり書かれていた。