1 / 1
私が十一月に描いた絵
しおりを挟む
自分らしく在るという事にこだわり続ける事が、これほどまでに自分を生き辛くさせていると気付かないふりをしたまま、私は愚直に青春を絵に浪費してきた。
小学生の頃に絵を描く楽しさに目覚め、毎日毎日飽きもせず落書きするようになった。おばあちゃんにねだって油絵の具を手に入れてからは、風景画を描く事に夢中になって、朝から晩まで描き続けた。幸い、自然に溢れる山奥の集落で暮らしていたから、題材に困る事は無かった。近所に歳の近い子が住んでいなくて内向的だったせいもあり、友達もろくにいなかった事が、皮肉にも描く事への執着を加速させた。
最初はおばあちゃんに褒めてもらうだけで充分だった。だけど、中学に入って美術の授業の時に絵を完成させたある日、それを見た先生が露骨に驚愕して、私の絵をみんなの前でこれでもかと褒めちぎったのだ。大人しい私に興味を示さなかったクラスメイト達も、美術の時間だけは羨望の眼差しで自分を見るようになった。そうして先生の勧めで参加した県のコンクールで金賞を取った事をきっかけに、私は益々何かに取り憑かれたように絵に没頭するようになった。ただ自己満足で描いていた絵を、誰かに評価してもらう喜びに目覚めてしまったのだ。
もっとできる。もっと認めてもらえる絵が、きっと描ける。
今思えばそう考え始めたのが、迷走の始まりでもあった。
「先輩って、いつから抽象画を描くようになったんですか?」
大学最後の文化祭を前に、展示する作品のテーマを決めきれないまま、私はとりとめなくキャンバスに雑多な部室内の景色を描いていた。
「……高二の頃からかな」
いつの間にか部室にやって来た南君の質問に振り返りもせず、ぶっきら棒に返す。
「凄いなぁ。初めて具象画を描いてるの見ましたけど、無茶苦茶上手いじゃないですか」
「大した事ないよ。具象画が上手い人なんていくらでもいるんだから」
「いや、そんなにスラスラと簡単そうに描いてるけど、俺じゃ何日かけてもそんな風に描けませんよ。自信失くすなぁ、こっちは具象画が本職なのに」
「ただの気分転換をえらく褒めてくれるのね。私は今スランプなんだよ?」
「春のコンペで特別賞獲ったのにですか?ウチの大学で受賞したのは先輩だけだ」
「そう。特別賞止まりだったから。あれ以上は無理ってぐらい、全力を込めたもの」
油絵の匂いが立ち込める部室の窓から、西日と、放課後を迎えたキャンパスの学生達の喧騒が差し込む。
「大賞も他の入賞も、先輩以外は全部具象画ですからね。大健闘じゃないですか」
「他の作品は関係ないわ」
「そうですか?みんな具象画を描くから抽象画にこだわってるのかと思った」
南君の言葉にムッとして、私は初めて彼の顔を見た。
「そんなわけないじゃない。私は自分の描きたいものを描いてるのよ」
「こんなに具象画が上手いなら、こっちで大賞獲れますよ、きっと」
南君は悪びれずに言った。
「大賞を獲るために描いてるわけじゃないわ。」
私はあからさまに不機嫌な言い方で向き直った。
「それって矛盾してません?コンペの結果に満足できなくてスランプだって言ってるのに」
「……」
南君の言葉に言い返せないまま、無視するように筆を走らせる。
「誤解しないでくださいよ。先輩の抽象画は本物だ。全部を理解できてるわけじゃないけど、コンペの作品、俺は感動しました。他の作品だって、本当に凄いと思ってるんですから。ただ……」
遠くの空でカラスがカァカァと鳴く。
暫しの沈黙を破ったのは私だった。
「……ただ?」
南君は言い辛そうに口を開いた。
「他の先輩達とほとんど会話も交流もしないで、描きふけってる先輩を見てると、なんだか、そこまで一人で自分らしさにこだわるのって、どうなのかなって。描いてる時の先輩、いつも苦しそうに見えたんで……」
私はそれを聞いて、咄嗟に彼を睨みつけた。
「同情してるの?私によく話しかけてきてたのは、そういう事だったの?私の事はほっといて。周りは関係ない。私は自分にしか描けないもので評価されたい。それだけよ」
私の口調はらしくないほどに強かった。
「そんなんじゃない……。そんなんじゃないんです。俺は、楽しんで描く事も大事なんじゃないかって。先輩ならきっと、そうする事でもっといいものが描けるようになるんじゃないかって。そう思ってるだけです」
「……私には、絵しかないの。本気なのよ。南君と私じゃ、見ているものが違う。わかってほしいとも思わない」
キャンパスからの喧騒はもう聞こえない。カラスの鳴き声も、しなくなった。
「……まずったなぁ」南君は、自嘲気味に笑みを浮かべて頭をポリポリとかいた。「いつか先輩が好きだって言ってた映画監督の最新作、気分転換に一緒に見に行きませんか、って、誘うつもりだっただけなのに」
私は、再びキャンバスに顔を向けた。
「ごめんね。……全然そんな気分じゃない」
そう言って、描く気も失せて淡々と画材を片付け始める。
「……いえ。こちらこそ、余計な事言ってすみませんでした。……文化祭の絵、楽しみにしてます」
南君はそう言うと、ゆっくりと部室を出て行った。
扉が閉まる音がしたあと、電灯もつけずに過ごしていた部室内に静寂が訪れる。
私は片付けかけていた筆を手に取ると、描きかけの部室内の絵を、グシャグシャと荒々しく塗りつぶし始めた。積み重ねてきたはずの自分らしさを、キャンバスに叩きつけるかのように。
陸橋を走る電車の窓に映った暮れなずむ空は、燃えるような赤と、凍てつくような青が入り混じっていた。秋特有の美しいその光景をぼんやりと眺めながら帰路につく私は、このままあの空が落ちてきて、世界が滅んでしまえばいいのに、と思った。
目にしたままのものを描いただけでは伝えきれない心の震えを、どうにか具現化できないものか。私は五年ほど前にそう考えるようになり、抽象画を描いてみるようになった。色彩の濁流が生み出す絶望を。涅槃のような暗黒が生み出す希望を。自分ならそれが表現できるかもしれない、と。完成した作品群は一見、何を表しているのかわからないものばかりだった。だからこそ、私は満足した。これだ、と。これが私の描きたかった絵だったんだ、と。
一方で、高校の美術部に入って、周囲のレベルの高さに驚き、初めて焦りを感じるようにもなっていた。これまで、絵に関して誰かと競い合うような感覚は無かった。それは贔屓目なしに、自分の絵が一番良いと思えていたからだ。その事が、自分らしさの象徴だった。だけど他の部員の技術を目の当たりにして、このままじゃいけない、もっと、誰にも描けないようなものを描かなければいけない。誰にも追いつけないような所へ行かなければならない。強くそう思うようになった事が、抽象画を描き始める大きなきっかけの一つにもなった。
それからは度々、具象画では表現できないものを描くためという大義名分を手に、私は自分らしさを守ろうと抽象画に逃げたのではないか、と自問するようにもなった。いや、違う。そんなんじゃないと、その度自分に言い聞かせた。それをきっかけに益々、私は人との関わりを避けて生活する事に固執し始めた。自分だけの価値を磨く為に、それが必要な事だと信じてしまったのだ。やがて、部員達が作品を褒め合ったり、アドバイスを送り合ったりする様子が、自分の目には滑稽に映るようになった。
作風を変えた私の絵に対する周囲の反応は、賞賛から戸惑いへと変わった。何を描いているのか、何を表現しているのか、到底理解できないような絵ばかり描いていたからだ。しかし不思議な事に、私にはむしろそれが快感に思えていた。描こうと思えば誰よりも上手く具象画だって描ける、という自信が、そうさせていたのだろう。
高三の春、進路相談の際に担任の先生が言った。「君は美大に行くべきだ。美術の先生が言ってたよ。これまで見たことがないほどの物凄い才能があるって」。先生の言葉は、私の承認欲求を胸一杯にまで満たした。両親のいない私が、初めておばあちゃん以外の人に心から感謝した瞬間だった。
……孤独。それは、私が手に入れた自分らしさを守るための砦になった。
自宅に着く頃にはもうすっかり、私の心と街中に、夜の帳が降りていた。十一月に入ってからは、朝夕の冷え込みが薄着にはとても堪える。
(そうですか?みんな具象画を描くから抽象画にこだわってるのかと思った)
(なんだか、そこまで一人で自分らしさにこだわるのって、どうなのかなって。描いてる時の先輩、いつも苦しそうに見えたんで……)
玄関の扉を開き、内鍵をかけながら南君の言葉を反芻し、ふいに、目頭が熱くなる。
四回生になり、周囲は皆次々と内定を決めていった。部内の子達も、絵画にこだわらずにPCで創作することに積極的だったので、それを活かしてデザイナーになったり、広告会社に入ったり、アニメ制作会社に就職する、なんて子もいた。
八畳一間の部屋の灯りを点けてロフトに上がると、保管していた自分の作品達を引っ張り出す。沢山のペンキをただ適当にこぼしたように見える絵。無数の手形と足型が幾何学的に並んだ絵。重厚な毒々しい螺旋の中に散った花々が舞う絵。どれを眺めてみても、とても就職に結びつくような代物とは言えなかった。
私は深いため息をつくと、そのまま狭いその空間に目一杯体を広げて寝転んだ。が、近すぎる天井の圧迫感が不快で、すぐに体を起こした。
「お腹、空いたな……」
急に心細さを覚えながら、呟く。
ピリリリリリリ。
しばらくして、珍しく階下の鞄に入ったスマホの着信音が鳴り響いた。
「……おばあちゃん」
取る前から、わかっていた。
私は重い腰を上げると、ロフトの梯子から降りて鞄を漁った。
「はい、もしもし」
「もしもし?千裕かい?」
「私の携帯なんだから、私に決まってるじゃない」
少しほっとした気分になって、私は笑った。
「ご飯、ちゃんと食べてるかい?」
おばあちゃんは優しい声でいつもと同じ事を聞いた。
「うん……ちょうど今から用意するとこ」
私はカーテンを開けて窓の外に目をやった。少し高台にあるアパートから臨む景色には、ビルやマンションが点在している。
「そうかい。野菜とお米、足りてるかい?」
あの灯りの一つ一つに人生があり、ドラマがあるんだなぁ。なんてふと思って、自分一人だけが、この世界に何も関わりがないような錯覚を覚える。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「ならよかったよ。……就活の方は、どうだい?」
ちょっと聞き辛そうにおばあちゃんが言う。
「うん……。あんまりうまくいってない」
「……千裕は、絵が描きたいんだもんね。いいんだよ、大学院に進学しても。ばあちゃん、それぐらいの蓄えはあるから」
私はカーテンを閉めて、勢いよくベッドに体を預けた。
「そんなわけにいかないよ。凄いお金かかるんだよ?」
「そうは言ってもねぇ。大学の学費だって自分で奨学金借りてるし、家賃以外は生活費もバイトで賄ってるでしょう。もっとばあちゃんに頼ってもいいんだよ」
「充分だよおばあちゃん。もう充分お世話になってるから」
「そうかい?ばあちゃんは千裕が元気ならそれでいいのさ。そのためだったら、できることならなんだってするからね」
「うん……」
目を閉じる。心の中のモヤモヤが、すぐに大きくなっていくのがわかる。それは、黒くて、重くて、子供の頃からずっと私と一緒にいる、歪な何かだった。
「そうそう。この間、公ちゃんが顔出してくれたよ」
私はビックリして目を見開く。
「公ちゃん、来たの?」
「ああ。立派になってねぇ。久しぶりにここらの景色を描きたくなったんだって。公ちゃん、画家になったそうだよ」
「画家に……」おばあちゃんの言葉に、歪な何かは跡形も無く消し飛び、あっという間にあたたかいものが胸一杯に充満した。「ね、ねぇ。公ちゃん、何か言ってた?」
「もちろんさ。千裕はどうしてる、って。今東京の大学に通って絵を描いてるって言ったら、えらく喜んでたよ。絵を続けてるんですね、自分も東京に居るからいつか会えるかもしれない、って」
「……そう。……そう、なんだ。公ちゃん、絵描きさんになったんだ……」
ダムが決壊したように、突然ポロポロと涙が溢れ出した。色々な不安が和らいだような。見えなかった出口の光が、僅かに視界に入ったような。そんな気持ちになった。
私に絵を描く喜びを教えてくれた公ちゃん。幼い頃、目の前で母さんが倒れたショックで声を出せなくなった私に、再び声を取り戻させてくれた公ちゃん。
「……千裕?……泣いてるのかい?」
私は慌てて鼻をすすり、笑顔を作った。
「ううん、大丈夫」
「公ちゃんと会えなくなって、もう十年以上になるかねぇ。おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃんが公ちゃんの家で同居するようになって、こっちに来る理由も無くなっちゃったからね」
「そうだね……。でも、また田舎の絵が描きたくなったんだね」
「ああ。千裕に連れて行ってもらった社からの風景を描くって言ってたよ。今は紅葉も綺麗だからね」
社……。未だ病院で眠ったままの母さんが目を覚ましますようにと、公ちゃんと初めて会った小三の夏、毎日通っていた小さな社の事だ。
「公ちゃん、私の事ちゃんと覚えてくれてるんだ」
「そりゃあそうだろう。公ちゃんと初めて会った時、不登校気味になってたって言ってただろう?こっちの自然に触れて、千裕と仲良くなれて、元気になって。それでまた、学校へ行けるようになったらしいんだから」
私はそれを聞いてハッとした。
「……そうだ。そうだったね」
「千裕も画家になったら、また会えるかもしれないね。……じゃあばあちゃん、お風呂の用意するから。困った事があったらすぐに言うんだよ」
「うん、わかった。ありがとう、おばあちゃん」
私はそう言って電話を切ると、思い出したように再びロフトへと向かった。
散らばった作品達を無我夢中でかきわけ、画用紙の入った額縁を見つけだす。
「あった……」
それは、あの夏。公ちゃんが河原から見える景色を描いた絵。公ちゃんが帰る日、別れ際私にくれた、大切な絵。当時小五だったにも関わらず、その絵はとても繊細でありながら深みのある、素晴らしい絵だった。これを貰って、私もこんな絵を描いてみたいと思ったんだ。
(またねっ!)
お別れの日。車で遠ざかっていく公ちゃんに一言だけでも伝えたいと強く思って、必死に叫んだあの言葉をきっかけに、私は、再び声を出す事ができるようになったんだ。
(俺は、楽しんで描く事も大事なんじゃないかって。先輩ならきっと、そうする事でもっといいものが描けるようになるんじゃないかって。そう思ってるだけです)
孤独の檻の中でもがきながら絵を描く私に、南君はそう言った。
私は自分で作り出した自分らしさという幻想に囚われ、大切なものを失い続けていたんじゃないだろうか。……ううん。本当はそれにとっくに気付いてたのに、それを認めるのが怖くて、止まれなくなってしまっていたんだ。
コンペで特別賞を獲った抽象画。それが、私が使い果たした青春の対価。もし、それで大賞を獲っていたら。私は、気づかないふりをしたままだっただろう。自分らしさを盾に、あらゆるものから目を背けていた事を。あらゆる価値観を否定してきた事を。それがかえって、本当の自分らしさから遠ざかってしまう事を。
自分らしくないからと、私は辞める選択をしてきた。離れる選択をしてきた。誰かと似た絵を描くのが嫌だった。誰も描いてない絵が描きたかった。でも、本当の自分らしさはきっと、自分以外の価値観を認めて、否定せず試してみて、そうして作り上げられていくものなんだ。その事に自分で気付くために、私はきっと長く苦しんできたに違いない。それが私の、青春の代償なんだ。
(千裕に連れて行ってもらった社からの風景を描くって言ってたよ。今は紅葉も綺麗だからね)
公ちゃんがくれたこの絵は、私が小さい頃からずっと見てきた風景だ。川のせせらぎも鳥の鳴き声も。草木や虫達の匂いも。鮮明にこの胸の中に焼き付いている。
私は、文化祭の絵のテーマを決めた。公ちゃんのこの絵を元に、秋の風景を思い起こしながら描く事。久しぶりの風景画にして、心の中の光景を抽象的に具現化するという、これまでの経験を活かした合わせ技だ。
文化祭まで二週間。充分間に合う。
私はお腹が空いていた事も忘れて、自分の熱が冷めやらないうちに画材道具を手にした。その高揚感は、美術の先生に物凄い才能がある、と言ってもらった時以上に、私の創作意欲を昂らせていた。
それからの毎日は、不思議と周囲の景色が違って見えるようになった。
キャンパスで赤や黄に色付く木々の葉を愛でて幸福を感じたし、吸い込まれそうな秋空を見上げて深呼吸をするようになったし、楽しそうに話す他の学生達でさえ微笑ましく思えるようになった。
だって、楽しかったから。絵を描く楽しさを、本当に久しぶりに取り戻せたから。
ついに文化祭のために描き始めた私の絵を見て、南君は大層喜んだ。
「南君に言われて具象画を描くわけじゃないからね」と強がりを言いながら、私は活き活きと描き続けた。
他の部員達とも、ほんの少しだけど、進んで会話するように努める事もできた。
やがて秋も深まり、冬の足音が聞こえてきそうになった頃。
ついに、文化祭当日を迎えた。
展示の準備を済ますと、少し時間があるから一息入れようということになった。私は来場者用の椅子に腰掛けて、フウと息をついた。
「それにしても千裕、こんなに具象画も上手かったんだね。でもなんか、幻想的っていうか。紅葉の色とか木の形とか、空の色もそうなんだけど、現実離れしてる感じがあって……本当に凄い絵だよ、これ」
部員の女の子が私の絵を眺めながらそう言って、ペットボトルのお茶を喉を鳴らして飲んだ。
「……ありがとう。久しぶりに具象画を描いたけど、うまく抽象画のエッセンスも入れられたと思う」
「なんてったって部内で唯一春のコンペで入賞した実力者だからな。間違いなくこの絵がウチの部の今年の目玉だよ」
部長の言葉に照れた私は、上手に返事できずに笑みを浮かべたまま、自分の絵に目をやった。
「これを二週間で描いたんですからね。凄いなんてもんじゃないですよ」
南君がまるで自分の手柄かのように得意げに言う。
「ちょ、ちょっと。余計なこと言わないでよ」
「ウッソー!そうなの?」
「マジかぁ。二週間で……」
「こりゃ俺らなんかとものが違うわ」
部員達が賞賛を惜しまないので、私は顔を真っ赤にして俯く他なかった。
「まぁまぁ、みんなもそれぞれ頑張ったんだ。胸張って来場者を迎え入れようぜ」
部長の言葉に声を揃えてはーい、と返事した時、外が騒がしくなってきたのに気付く。
「……お。開場したな」
私は胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。
見てくれた人は、どんな反応をするだろう。
それは、実に久しぶりに味わう、とても爽やかな期待感だった。
開場してからしばらくすると、ポツポツとお客さんが訪れ始めた。
それぞれ、自分が創った絵や彫刻、造形品の説明をしながら対応する。
出だしは上々かなと思っていると、徐々に客足が伸び始め、みるみる内に部室内が人でごった返すようになった。明らかに、去年の来場ペースを遥かに上回っている。
後からやってきた教授も張り切って、部員達の作品のここがこう素晴らしくて、実はこれにはこんな意味があるんですよなどと、誇らしげにお客さんに話しかけていた。
私の絵も思っていた以上に評判が良くて、目にして感嘆の声を上げる人もいれば、熱心に隅々まで見る人、うーんと唸りながらしばらく立ち止まって全体を眺める人もいた。良かった、と胸をなで下ろしていると、私を見つけて部長が声をかけてきた。
「休憩行こうぜ。もう、二時だ」
「あ、うん」
もうそんな時間になっていたのか。
私達は、部室内の人波をかきわけるようにしてバックヤードへ向かった。
中へ入るなり、長机に突っ伏して南君がグウグウと寝息を立てているのを見つける。
「おい、南。交代だぞ」
部長が彼の肩を揺すると、うーんと声を上げながら南君が目覚めて、大きなあくびをしながら目一杯伸びをした。
「……もうそんな時間っすか。すんません」
南君はスマホを取り出してディスプレイに目をやると、すっくと立ち上がってバックヤードを後にした。
その様子を見てクスッと笑いながら席につくと、部長が棚のリュックからコンビニ弁当を取り出しながら言った。
「今日、すごい客多いじゃん。まぁ、たまたまなのもあると思うけど」
「ん?そう、だね。うん」
「南の奴、都内の色んなギャラリー回ってフライヤーばら撒いたり、SNSで色んなところに拡散したり、すげえ勢いで宣伝しまくってくれたみたいなんだ」
「え、南君、広報役だっけ」
「いや。自発的にだ」
「……そうだったんだ。それは、ありがたいね」
「お前の絵を、沢山の人に見て欲しかったんだってさ」
「え?」
「描いてる途中の絵を見て、これはとんでもない出来だって、そう思ったらしい」
それを聞いて、私は思わず黙ってしまった。
「あいつ、お前の絵をえらく気に入ってただろ。今年部に入ってから、相手にされなくてもしょっちゅう話しかけてたし」
「……うん」
部長は弁当の蓋を開けると、勢いよくハンバーグにかじりついた。
「嬉しかったんだろうな。あの絵を描き始めてから、お前、なんか明るくなったし。作品自体も、誰が見てもわかるぐらいの良い絵だし」
「……うん」
うまく言葉が見つからず、私はただ頷く事しかできなかった。
「あんまり偉そうなこと言えないけどさ。お前なら、画家で食っていけると思うぜ。……まぁあんまり無理しない程度に、頑張れよ」
部長はそう言うと、白米をこれでもかと口の中に詰め込んだ。
「……うん。ありがと」
私はそれ以上、何も言えなかった。だけど、心にはあたたかい気持ちが溢れ出していた。
卒業まで、もういくらも日が無い。
私はその時初めて、部員のみんなと別れるのが寂しいと思った。
休憩を終えて部室に戻ると、客足も随分落ち着いてきているようだった。
「あ、先輩」
部室内を見渡していると、受付の机の前にいた南君が私を見つけるなり、こちらへやってきた。
「さっき、先輩の知り合いの人が来てましたよ」
「私の知り合い?」
一体誰だろう。
「なんていうか、落ち着いた雰囲気の男性でしたよ。そんなに俺らと歳変わらないと思いますけど」
……まさか。
「い、いつ来たの、その人」
「二十分くらい前かなぁ、俺に話しかけてきたんですよ。先輩の絵のキャプションを指差して、この絵の作者さんは今いますか、って」
二十分……。そんなに前なら、もう……。
「休憩中なんで呼んできます、って言ったら、休憩してるなら結構ですって。それで……」
「それで?」
「その人は、楽しそうにこの絵を描いてましたか、って。だから、言ってやりましたよ。もちろんです!ってね」
私はそれを聞いて、胸の奥から、何か熱いものがじんわりと込み上げてくるのを感じた。
公ちゃんだ。きっと、公ちゃんに違いない。おばあちゃんに話を聞いて、わざわざうちの大学まで……。
そう思いながら受付に向かうと、すぐに名簿帳へ視線を走らせた。一つ一つ、確認する。
……違う。この人も、違う。
急いでページを捲る。
……あった!塚田、公平。公ちゃんだ!やっぱり……来てくれたんだ。
「先輩、もしかしてあの人、彼氏ですか?」
私を追ってきた南君が、恐る恐る聞いてきた。
「まさか。私の絵の、師匠みたいなものかな」
名簿の名前を見つめたまま答える。
「へえ、先輩の師匠ですか。……そりゃ、凄い人だ」
どちらにしろ、という感じで気後れしたような表情を浮かべて、南君は言った。
「……映画。例の、監督の。まだ上映してるのかな?」
「はい?」
少し気恥ずかしくて、彼から視線を外して続ける。
「気が変わったの。……観に行きたいわ」
私の言葉に、南君は信じられない、といった様子で目を丸くした。
「あ、あの!す、すぐに調べますっ」
そう言って慌ててスマホを取り出す彼を尻目に、私は軽やかな足取りで部室の窓へと向かった。
いつかまた、会えるかもしれない。
もし会えたなら、公ちゃんに話をしよう。
私が十一月に描いた、この絵の話を。
秋の終わりに窓から見上げたその空は、今まで見てきたどんな空よりも広くて、美して、優しくて……まるで、今の私の心を映し出すかのように、どこまでもどこまでも、瑞々しく澄み渡っているのだった。
ー了ー
小学生の頃に絵を描く楽しさに目覚め、毎日毎日飽きもせず落書きするようになった。おばあちゃんにねだって油絵の具を手に入れてからは、風景画を描く事に夢中になって、朝から晩まで描き続けた。幸い、自然に溢れる山奥の集落で暮らしていたから、題材に困る事は無かった。近所に歳の近い子が住んでいなくて内向的だったせいもあり、友達もろくにいなかった事が、皮肉にも描く事への執着を加速させた。
最初はおばあちゃんに褒めてもらうだけで充分だった。だけど、中学に入って美術の授業の時に絵を完成させたある日、それを見た先生が露骨に驚愕して、私の絵をみんなの前でこれでもかと褒めちぎったのだ。大人しい私に興味を示さなかったクラスメイト達も、美術の時間だけは羨望の眼差しで自分を見るようになった。そうして先生の勧めで参加した県のコンクールで金賞を取った事をきっかけに、私は益々何かに取り憑かれたように絵に没頭するようになった。ただ自己満足で描いていた絵を、誰かに評価してもらう喜びに目覚めてしまったのだ。
もっとできる。もっと認めてもらえる絵が、きっと描ける。
今思えばそう考え始めたのが、迷走の始まりでもあった。
「先輩って、いつから抽象画を描くようになったんですか?」
大学最後の文化祭を前に、展示する作品のテーマを決めきれないまま、私はとりとめなくキャンバスに雑多な部室内の景色を描いていた。
「……高二の頃からかな」
いつの間にか部室にやって来た南君の質問に振り返りもせず、ぶっきら棒に返す。
「凄いなぁ。初めて具象画を描いてるの見ましたけど、無茶苦茶上手いじゃないですか」
「大した事ないよ。具象画が上手い人なんていくらでもいるんだから」
「いや、そんなにスラスラと簡単そうに描いてるけど、俺じゃ何日かけてもそんな風に描けませんよ。自信失くすなぁ、こっちは具象画が本職なのに」
「ただの気分転換をえらく褒めてくれるのね。私は今スランプなんだよ?」
「春のコンペで特別賞獲ったのにですか?ウチの大学で受賞したのは先輩だけだ」
「そう。特別賞止まりだったから。あれ以上は無理ってぐらい、全力を込めたもの」
油絵の匂いが立ち込める部室の窓から、西日と、放課後を迎えたキャンパスの学生達の喧騒が差し込む。
「大賞も他の入賞も、先輩以外は全部具象画ですからね。大健闘じゃないですか」
「他の作品は関係ないわ」
「そうですか?みんな具象画を描くから抽象画にこだわってるのかと思った」
南君の言葉にムッとして、私は初めて彼の顔を見た。
「そんなわけないじゃない。私は自分の描きたいものを描いてるのよ」
「こんなに具象画が上手いなら、こっちで大賞獲れますよ、きっと」
南君は悪びれずに言った。
「大賞を獲るために描いてるわけじゃないわ。」
私はあからさまに不機嫌な言い方で向き直った。
「それって矛盾してません?コンペの結果に満足できなくてスランプだって言ってるのに」
「……」
南君の言葉に言い返せないまま、無視するように筆を走らせる。
「誤解しないでくださいよ。先輩の抽象画は本物だ。全部を理解できてるわけじゃないけど、コンペの作品、俺は感動しました。他の作品だって、本当に凄いと思ってるんですから。ただ……」
遠くの空でカラスがカァカァと鳴く。
暫しの沈黙を破ったのは私だった。
「……ただ?」
南君は言い辛そうに口を開いた。
「他の先輩達とほとんど会話も交流もしないで、描きふけってる先輩を見てると、なんだか、そこまで一人で自分らしさにこだわるのって、どうなのかなって。描いてる時の先輩、いつも苦しそうに見えたんで……」
私はそれを聞いて、咄嗟に彼を睨みつけた。
「同情してるの?私によく話しかけてきてたのは、そういう事だったの?私の事はほっといて。周りは関係ない。私は自分にしか描けないもので評価されたい。それだけよ」
私の口調はらしくないほどに強かった。
「そんなんじゃない……。そんなんじゃないんです。俺は、楽しんで描く事も大事なんじゃないかって。先輩ならきっと、そうする事でもっといいものが描けるようになるんじゃないかって。そう思ってるだけです」
「……私には、絵しかないの。本気なのよ。南君と私じゃ、見ているものが違う。わかってほしいとも思わない」
キャンパスからの喧騒はもう聞こえない。カラスの鳴き声も、しなくなった。
「……まずったなぁ」南君は、自嘲気味に笑みを浮かべて頭をポリポリとかいた。「いつか先輩が好きだって言ってた映画監督の最新作、気分転換に一緒に見に行きませんか、って、誘うつもりだっただけなのに」
私は、再びキャンバスに顔を向けた。
「ごめんね。……全然そんな気分じゃない」
そう言って、描く気も失せて淡々と画材を片付け始める。
「……いえ。こちらこそ、余計な事言ってすみませんでした。……文化祭の絵、楽しみにしてます」
南君はそう言うと、ゆっくりと部室を出て行った。
扉が閉まる音がしたあと、電灯もつけずに過ごしていた部室内に静寂が訪れる。
私は片付けかけていた筆を手に取ると、描きかけの部室内の絵を、グシャグシャと荒々しく塗りつぶし始めた。積み重ねてきたはずの自分らしさを、キャンバスに叩きつけるかのように。
陸橋を走る電車の窓に映った暮れなずむ空は、燃えるような赤と、凍てつくような青が入り混じっていた。秋特有の美しいその光景をぼんやりと眺めながら帰路につく私は、このままあの空が落ちてきて、世界が滅んでしまえばいいのに、と思った。
目にしたままのものを描いただけでは伝えきれない心の震えを、どうにか具現化できないものか。私は五年ほど前にそう考えるようになり、抽象画を描いてみるようになった。色彩の濁流が生み出す絶望を。涅槃のような暗黒が生み出す希望を。自分ならそれが表現できるかもしれない、と。完成した作品群は一見、何を表しているのかわからないものばかりだった。だからこそ、私は満足した。これだ、と。これが私の描きたかった絵だったんだ、と。
一方で、高校の美術部に入って、周囲のレベルの高さに驚き、初めて焦りを感じるようにもなっていた。これまで、絵に関して誰かと競い合うような感覚は無かった。それは贔屓目なしに、自分の絵が一番良いと思えていたからだ。その事が、自分らしさの象徴だった。だけど他の部員の技術を目の当たりにして、このままじゃいけない、もっと、誰にも描けないようなものを描かなければいけない。誰にも追いつけないような所へ行かなければならない。強くそう思うようになった事が、抽象画を描き始める大きなきっかけの一つにもなった。
それからは度々、具象画では表現できないものを描くためという大義名分を手に、私は自分らしさを守ろうと抽象画に逃げたのではないか、と自問するようにもなった。いや、違う。そんなんじゃないと、その度自分に言い聞かせた。それをきっかけに益々、私は人との関わりを避けて生活する事に固執し始めた。自分だけの価値を磨く為に、それが必要な事だと信じてしまったのだ。やがて、部員達が作品を褒め合ったり、アドバイスを送り合ったりする様子が、自分の目には滑稽に映るようになった。
作風を変えた私の絵に対する周囲の反応は、賞賛から戸惑いへと変わった。何を描いているのか、何を表現しているのか、到底理解できないような絵ばかり描いていたからだ。しかし不思議な事に、私にはむしろそれが快感に思えていた。描こうと思えば誰よりも上手く具象画だって描ける、という自信が、そうさせていたのだろう。
高三の春、進路相談の際に担任の先生が言った。「君は美大に行くべきだ。美術の先生が言ってたよ。これまで見たことがないほどの物凄い才能があるって」。先生の言葉は、私の承認欲求を胸一杯にまで満たした。両親のいない私が、初めておばあちゃん以外の人に心から感謝した瞬間だった。
……孤独。それは、私が手に入れた自分らしさを守るための砦になった。
自宅に着く頃にはもうすっかり、私の心と街中に、夜の帳が降りていた。十一月に入ってからは、朝夕の冷え込みが薄着にはとても堪える。
(そうですか?みんな具象画を描くから抽象画にこだわってるのかと思った)
(なんだか、そこまで一人で自分らしさにこだわるのって、どうなのかなって。描いてる時の先輩、いつも苦しそうに見えたんで……)
玄関の扉を開き、内鍵をかけながら南君の言葉を反芻し、ふいに、目頭が熱くなる。
四回生になり、周囲は皆次々と内定を決めていった。部内の子達も、絵画にこだわらずにPCで創作することに積極的だったので、それを活かしてデザイナーになったり、広告会社に入ったり、アニメ制作会社に就職する、なんて子もいた。
八畳一間の部屋の灯りを点けてロフトに上がると、保管していた自分の作品達を引っ張り出す。沢山のペンキをただ適当にこぼしたように見える絵。無数の手形と足型が幾何学的に並んだ絵。重厚な毒々しい螺旋の中に散った花々が舞う絵。どれを眺めてみても、とても就職に結びつくような代物とは言えなかった。
私は深いため息をつくと、そのまま狭いその空間に目一杯体を広げて寝転んだ。が、近すぎる天井の圧迫感が不快で、すぐに体を起こした。
「お腹、空いたな……」
急に心細さを覚えながら、呟く。
ピリリリリリリ。
しばらくして、珍しく階下の鞄に入ったスマホの着信音が鳴り響いた。
「……おばあちゃん」
取る前から、わかっていた。
私は重い腰を上げると、ロフトの梯子から降りて鞄を漁った。
「はい、もしもし」
「もしもし?千裕かい?」
「私の携帯なんだから、私に決まってるじゃない」
少しほっとした気分になって、私は笑った。
「ご飯、ちゃんと食べてるかい?」
おばあちゃんは優しい声でいつもと同じ事を聞いた。
「うん……ちょうど今から用意するとこ」
私はカーテンを開けて窓の外に目をやった。少し高台にあるアパートから臨む景色には、ビルやマンションが点在している。
「そうかい。野菜とお米、足りてるかい?」
あの灯りの一つ一つに人生があり、ドラマがあるんだなぁ。なんてふと思って、自分一人だけが、この世界に何も関わりがないような錯覚を覚える。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「ならよかったよ。……就活の方は、どうだい?」
ちょっと聞き辛そうにおばあちゃんが言う。
「うん……。あんまりうまくいってない」
「……千裕は、絵が描きたいんだもんね。いいんだよ、大学院に進学しても。ばあちゃん、それぐらいの蓄えはあるから」
私はカーテンを閉めて、勢いよくベッドに体を預けた。
「そんなわけにいかないよ。凄いお金かかるんだよ?」
「そうは言ってもねぇ。大学の学費だって自分で奨学金借りてるし、家賃以外は生活費もバイトで賄ってるでしょう。もっとばあちゃんに頼ってもいいんだよ」
「充分だよおばあちゃん。もう充分お世話になってるから」
「そうかい?ばあちゃんは千裕が元気ならそれでいいのさ。そのためだったら、できることならなんだってするからね」
「うん……」
目を閉じる。心の中のモヤモヤが、すぐに大きくなっていくのがわかる。それは、黒くて、重くて、子供の頃からずっと私と一緒にいる、歪な何かだった。
「そうそう。この間、公ちゃんが顔出してくれたよ」
私はビックリして目を見開く。
「公ちゃん、来たの?」
「ああ。立派になってねぇ。久しぶりにここらの景色を描きたくなったんだって。公ちゃん、画家になったそうだよ」
「画家に……」おばあちゃんの言葉に、歪な何かは跡形も無く消し飛び、あっという間にあたたかいものが胸一杯に充満した。「ね、ねぇ。公ちゃん、何か言ってた?」
「もちろんさ。千裕はどうしてる、って。今東京の大学に通って絵を描いてるって言ったら、えらく喜んでたよ。絵を続けてるんですね、自分も東京に居るからいつか会えるかもしれない、って」
「……そう。……そう、なんだ。公ちゃん、絵描きさんになったんだ……」
ダムが決壊したように、突然ポロポロと涙が溢れ出した。色々な不安が和らいだような。見えなかった出口の光が、僅かに視界に入ったような。そんな気持ちになった。
私に絵を描く喜びを教えてくれた公ちゃん。幼い頃、目の前で母さんが倒れたショックで声を出せなくなった私に、再び声を取り戻させてくれた公ちゃん。
「……千裕?……泣いてるのかい?」
私は慌てて鼻をすすり、笑顔を作った。
「ううん、大丈夫」
「公ちゃんと会えなくなって、もう十年以上になるかねぇ。おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃんが公ちゃんの家で同居するようになって、こっちに来る理由も無くなっちゃったからね」
「そうだね……。でも、また田舎の絵が描きたくなったんだね」
「ああ。千裕に連れて行ってもらった社からの風景を描くって言ってたよ。今は紅葉も綺麗だからね」
社……。未だ病院で眠ったままの母さんが目を覚ましますようにと、公ちゃんと初めて会った小三の夏、毎日通っていた小さな社の事だ。
「公ちゃん、私の事ちゃんと覚えてくれてるんだ」
「そりゃあそうだろう。公ちゃんと初めて会った時、不登校気味になってたって言ってただろう?こっちの自然に触れて、千裕と仲良くなれて、元気になって。それでまた、学校へ行けるようになったらしいんだから」
私はそれを聞いてハッとした。
「……そうだ。そうだったね」
「千裕も画家になったら、また会えるかもしれないね。……じゃあばあちゃん、お風呂の用意するから。困った事があったらすぐに言うんだよ」
「うん、わかった。ありがとう、おばあちゃん」
私はそう言って電話を切ると、思い出したように再びロフトへと向かった。
散らばった作品達を無我夢中でかきわけ、画用紙の入った額縁を見つけだす。
「あった……」
それは、あの夏。公ちゃんが河原から見える景色を描いた絵。公ちゃんが帰る日、別れ際私にくれた、大切な絵。当時小五だったにも関わらず、その絵はとても繊細でありながら深みのある、素晴らしい絵だった。これを貰って、私もこんな絵を描いてみたいと思ったんだ。
(またねっ!)
お別れの日。車で遠ざかっていく公ちゃんに一言だけでも伝えたいと強く思って、必死に叫んだあの言葉をきっかけに、私は、再び声を出す事ができるようになったんだ。
(俺は、楽しんで描く事も大事なんじゃないかって。先輩ならきっと、そうする事でもっといいものが描けるようになるんじゃないかって。そう思ってるだけです)
孤独の檻の中でもがきながら絵を描く私に、南君はそう言った。
私は自分で作り出した自分らしさという幻想に囚われ、大切なものを失い続けていたんじゃないだろうか。……ううん。本当はそれにとっくに気付いてたのに、それを認めるのが怖くて、止まれなくなってしまっていたんだ。
コンペで特別賞を獲った抽象画。それが、私が使い果たした青春の対価。もし、それで大賞を獲っていたら。私は、気づかないふりをしたままだっただろう。自分らしさを盾に、あらゆるものから目を背けていた事を。あらゆる価値観を否定してきた事を。それがかえって、本当の自分らしさから遠ざかってしまう事を。
自分らしくないからと、私は辞める選択をしてきた。離れる選択をしてきた。誰かと似た絵を描くのが嫌だった。誰も描いてない絵が描きたかった。でも、本当の自分らしさはきっと、自分以外の価値観を認めて、否定せず試してみて、そうして作り上げられていくものなんだ。その事に自分で気付くために、私はきっと長く苦しんできたに違いない。それが私の、青春の代償なんだ。
(千裕に連れて行ってもらった社からの風景を描くって言ってたよ。今は紅葉も綺麗だからね)
公ちゃんがくれたこの絵は、私が小さい頃からずっと見てきた風景だ。川のせせらぎも鳥の鳴き声も。草木や虫達の匂いも。鮮明にこの胸の中に焼き付いている。
私は、文化祭の絵のテーマを決めた。公ちゃんのこの絵を元に、秋の風景を思い起こしながら描く事。久しぶりの風景画にして、心の中の光景を抽象的に具現化するという、これまでの経験を活かした合わせ技だ。
文化祭まで二週間。充分間に合う。
私はお腹が空いていた事も忘れて、自分の熱が冷めやらないうちに画材道具を手にした。その高揚感は、美術の先生に物凄い才能がある、と言ってもらった時以上に、私の創作意欲を昂らせていた。
それからの毎日は、不思議と周囲の景色が違って見えるようになった。
キャンパスで赤や黄に色付く木々の葉を愛でて幸福を感じたし、吸い込まれそうな秋空を見上げて深呼吸をするようになったし、楽しそうに話す他の学生達でさえ微笑ましく思えるようになった。
だって、楽しかったから。絵を描く楽しさを、本当に久しぶりに取り戻せたから。
ついに文化祭のために描き始めた私の絵を見て、南君は大層喜んだ。
「南君に言われて具象画を描くわけじゃないからね」と強がりを言いながら、私は活き活きと描き続けた。
他の部員達とも、ほんの少しだけど、進んで会話するように努める事もできた。
やがて秋も深まり、冬の足音が聞こえてきそうになった頃。
ついに、文化祭当日を迎えた。
展示の準備を済ますと、少し時間があるから一息入れようということになった。私は来場者用の椅子に腰掛けて、フウと息をついた。
「それにしても千裕、こんなに具象画も上手かったんだね。でもなんか、幻想的っていうか。紅葉の色とか木の形とか、空の色もそうなんだけど、現実離れしてる感じがあって……本当に凄い絵だよ、これ」
部員の女の子が私の絵を眺めながらそう言って、ペットボトルのお茶を喉を鳴らして飲んだ。
「……ありがとう。久しぶりに具象画を描いたけど、うまく抽象画のエッセンスも入れられたと思う」
「なんてったって部内で唯一春のコンペで入賞した実力者だからな。間違いなくこの絵がウチの部の今年の目玉だよ」
部長の言葉に照れた私は、上手に返事できずに笑みを浮かべたまま、自分の絵に目をやった。
「これを二週間で描いたんですからね。凄いなんてもんじゃないですよ」
南君がまるで自分の手柄かのように得意げに言う。
「ちょ、ちょっと。余計なこと言わないでよ」
「ウッソー!そうなの?」
「マジかぁ。二週間で……」
「こりゃ俺らなんかとものが違うわ」
部員達が賞賛を惜しまないので、私は顔を真っ赤にして俯く他なかった。
「まぁまぁ、みんなもそれぞれ頑張ったんだ。胸張って来場者を迎え入れようぜ」
部長の言葉に声を揃えてはーい、と返事した時、外が騒がしくなってきたのに気付く。
「……お。開場したな」
私は胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。
見てくれた人は、どんな反応をするだろう。
それは、実に久しぶりに味わう、とても爽やかな期待感だった。
開場してからしばらくすると、ポツポツとお客さんが訪れ始めた。
それぞれ、自分が創った絵や彫刻、造形品の説明をしながら対応する。
出だしは上々かなと思っていると、徐々に客足が伸び始め、みるみる内に部室内が人でごった返すようになった。明らかに、去年の来場ペースを遥かに上回っている。
後からやってきた教授も張り切って、部員達の作品のここがこう素晴らしくて、実はこれにはこんな意味があるんですよなどと、誇らしげにお客さんに話しかけていた。
私の絵も思っていた以上に評判が良くて、目にして感嘆の声を上げる人もいれば、熱心に隅々まで見る人、うーんと唸りながらしばらく立ち止まって全体を眺める人もいた。良かった、と胸をなで下ろしていると、私を見つけて部長が声をかけてきた。
「休憩行こうぜ。もう、二時だ」
「あ、うん」
もうそんな時間になっていたのか。
私達は、部室内の人波をかきわけるようにしてバックヤードへ向かった。
中へ入るなり、長机に突っ伏して南君がグウグウと寝息を立てているのを見つける。
「おい、南。交代だぞ」
部長が彼の肩を揺すると、うーんと声を上げながら南君が目覚めて、大きなあくびをしながら目一杯伸びをした。
「……もうそんな時間っすか。すんません」
南君はスマホを取り出してディスプレイに目をやると、すっくと立ち上がってバックヤードを後にした。
その様子を見てクスッと笑いながら席につくと、部長が棚のリュックからコンビニ弁当を取り出しながら言った。
「今日、すごい客多いじゃん。まぁ、たまたまなのもあると思うけど」
「ん?そう、だね。うん」
「南の奴、都内の色んなギャラリー回ってフライヤーばら撒いたり、SNSで色んなところに拡散したり、すげえ勢いで宣伝しまくってくれたみたいなんだ」
「え、南君、広報役だっけ」
「いや。自発的にだ」
「……そうだったんだ。それは、ありがたいね」
「お前の絵を、沢山の人に見て欲しかったんだってさ」
「え?」
「描いてる途中の絵を見て、これはとんでもない出来だって、そう思ったらしい」
それを聞いて、私は思わず黙ってしまった。
「あいつ、お前の絵をえらく気に入ってただろ。今年部に入ってから、相手にされなくてもしょっちゅう話しかけてたし」
「……うん」
部長は弁当の蓋を開けると、勢いよくハンバーグにかじりついた。
「嬉しかったんだろうな。あの絵を描き始めてから、お前、なんか明るくなったし。作品自体も、誰が見てもわかるぐらいの良い絵だし」
「……うん」
うまく言葉が見つからず、私はただ頷く事しかできなかった。
「あんまり偉そうなこと言えないけどさ。お前なら、画家で食っていけると思うぜ。……まぁあんまり無理しない程度に、頑張れよ」
部長はそう言うと、白米をこれでもかと口の中に詰め込んだ。
「……うん。ありがと」
私はそれ以上、何も言えなかった。だけど、心にはあたたかい気持ちが溢れ出していた。
卒業まで、もういくらも日が無い。
私はその時初めて、部員のみんなと別れるのが寂しいと思った。
休憩を終えて部室に戻ると、客足も随分落ち着いてきているようだった。
「あ、先輩」
部室内を見渡していると、受付の机の前にいた南君が私を見つけるなり、こちらへやってきた。
「さっき、先輩の知り合いの人が来てましたよ」
「私の知り合い?」
一体誰だろう。
「なんていうか、落ち着いた雰囲気の男性でしたよ。そんなに俺らと歳変わらないと思いますけど」
……まさか。
「い、いつ来たの、その人」
「二十分くらい前かなぁ、俺に話しかけてきたんですよ。先輩の絵のキャプションを指差して、この絵の作者さんは今いますか、って」
二十分……。そんなに前なら、もう……。
「休憩中なんで呼んできます、って言ったら、休憩してるなら結構ですって。それで……」
「それで?」
「その人は、楽しそうにこの絵を描いてましたか、って。だから、言ってやりましたよ。もちろんです!ってね」
私はそれを聞いて、胸の奥から、何か熱いものがじんわりと込み上げてくるのを感じた。
公ちゃんだ。きっと、公ちゃんに違いない。おばあちゃんに話を聞いて、わざわざうちの大学まで……。
そう思いながら受付に向かうと、すぐに名簿帳へ視線を走らせた。一つ一つ、確認する。
……違う。この人も、違う。
急いでページを捲る。
……あった!塚田、公平。公ちゃんだ!やっぱり……来てくれたんだ。
「先輩、もしかしてあの人、彼氏ですか?」
私を追ってきた南君が、恐る恐る聞いてきた。
「まさか。私の絵の、師匠みたいなものかな」
名簿の名前を見つめたまま答える。
「へえ、先輩の師匠ですか。……そりゃ、凄い人だ」
どちらにしろ、という感じで気後れしたような表情を浮かべて、南君は言った。
「……映画。例の、監督の。まだ上映してるのかな?」
「はい?」
少し気恥ずかしくて、彼から視線を外して続ける。
「気が変わったの。……観に行きたいわ」
私の言葉に、南君は信じられない、といった様子で目を丸くした。
「あ、あの!す、すぐに調べますっ」
そう言って慌ててスマホを取り出す彼を尻目に、私は軽やかな足取りで部室の窓へと向かった。
いつかまた、会えるかもしれない。
もし会えたなら、公ちゃんに話をしよう。
私が十一月に描いた、この絵の話を。
秋の終わりに窓から見上げたその空は、今まで見てきたどんな空よりも広くて、美して、優しくて……まるで、今の私の心を映し出すかのように、どこまでもどこまでも、瑞々しく澄み渡っているのだった。
ー了ー
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
予言姫は最後に微笑む
あんど もあ
ファンタジー
ラズロ伯爵家の娘リリアは、幼い頃に伯爵家の危機を次々と予言し『ラズロの予言姫』と呼ばれているが、実は一度殺されて死に戻りをしていた。
二度目の人生では無事に家の危機を避けて、リリアも16歳。今宵はデビュタントなのだが、そこには……。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
婚約者が聖女を選ぶことくらい分かっていたので、先に婚約破棄します。
黒蜜きな粉
恋愛
魔王討伐を終え、王都に凱旋した英雄たち。
その中心には、異世界から来た聖女と、彼女に寄り添う王太子の姿があった。
王太子の婚約者として壇上に立ちながらも、私は自分が選ばれない側だと理解していた。
だから、泣かない。縋らない。
私は自分から婚約破棄を願い出る。
選ばれなかった人生を終わらせるために。
そして、私自身の人生を始めるために。
短いお話です。
※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。
妹の初恋は私の婚約者
あんど もあ
ファンタジー
卒業パーティーで、第一王子から婚約破棄を宣言されたカミーユ。王子が選んだのは、カミーユの妹ジョフロアだった。だが、ジョフロアには王子との婚約が許されない秘密があった。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる