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律のしらべ
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深まる秋。悲しみは時間が解決してくれると人は言う。
しかし、冬の気配を感じさせるほどに寒さが増すたび、心は締め付けられていくばかりだった。
きっと、静香も同じ……いや、それ以上の痛みに、今も尚耐え続けているに違いない。
自分に何ができるだろうか。いや、何もするべきではないのだろうか。
そんなやり場のない感情を抱えたまま、事故からもう半年が過ぎようとしていた。
「うん、しっかり形になってきたな」
本番に向けたリハーサルも大詰め。時刻は午後九時を回り、ようやく指揮者の先生から太鼓判が押されるに至った。
「特にトランペットは見違えるように良くなった。……今日はこれまでにしよう」
先生はあえて僕に視線は送らず、楽譜に目を落としながら呟く。
律がこの世を去ってからしばらく、演奏にもなかなか身が入らなかった。練習すればするほど、違和感が生まれた。心を込めようとすればするほど、空虚な音色になった。それでも、吹くしかなかった。吹き続けるしかなかった。悲しみ。怒り。寂しさ。どこにも叩きつけようのない胸の淀みを、吹き飛ばしてしまいたかった。
「よう。いよいよだな」
譜面台を片付けようとすると、コントラバスの先輩が声をかけてきた。
「はい。心配でしたが、間に合ってよかったです」
「あんなことがあったんだ、無理もないさ。……例の彼女には?」
「明日、また病院に寄ろうと思ってるので。その時、誘ってみます」
「そう、か」先輩は続きを言いづらそうに頭をポリポリとかいた。「周りの助けがいくらあったとしても、結局、立ち上がるのは自分の心持ち次第だ。だから、その……」
「ええ。わかってます。僕自身がそうでしたから。でも、きっかけになることは多い方がいいと思うので」
「うん。そうだな。いや、余計なことを言ったよ」
「余計なことだなんて。わざわざ声をかけてくださって、ありがとうございます」
そう言うとペコリと頭を下げて、僕は譜面台を手に倉庫へ向かった。
先輩の言いたいことはなんとなくわかった。本当はそっとしておく事が、彼女のためになるかもしれないと、僕も何度も考えたから。
でも、何か逃げているようで。何か見て見ぬふりをするのが嫌で……そう。結局僕は、自分の心の平穏のために、彼女に会いに行っているのかもしれないのだ。彼女のためだなんて、彼女を救いたいだなんて、僕の傲慢でしかないのかもしれないのだ。
それでも。
それでも、僕だからこそ。律のことも、静香のことも。高校時代、オーケストラ部の頃からよく知っている僕だからこそ。今の彼女にしてあげられることが、何かあるんじゃないか。ずっとそう考えながら、この半年を過ごしてきた。
僕は、二人が羨ましかった。感情が剥き出しになったかのような、律のダイナミックなヴァイオリン。名前通りに静けさを伴いながらも、その奥にしっかりとした芯の強さを感じさせる、静香のピアノ。演奏も性格も好対照な二人は、誰から見てもお似合いだった。結婚の話を聞いた時はとても嬉しかったし、でも、一方で悔しさもあった。自分も恋人ができたら、二人のようなカップルになりたいだなんて、思っていたから。親友だった律を通して見る彼女は、とても可憐で、でもどこか儚さもあって、不思議な輝きを放っていたのだ。……今の彼女とは、まるで別人のように。
マフラーに鼻までつっこんでいたが、秋の匂いはしっかりと感じられる午後。車を降りて見上げる空は、まるで真夏のように濃い青が澄み渡っていた。駐車場の周囲の木々は赤や黄色と賑やかに色づいていたが、不思議と過ぎ去った時を憂うかのような哀愁を覚えさせる。
入り口の自動ドアが開き、僕は病院の中に入った。何度ここにやってきても、あのバイク事故が起きた日のことを鮮明に思い出す。
あの日。報せを受けて急いでやってきた僕だったが、律はすでに、息絶えた後だった。病室前のベンチに腰掛け、目を真っ赤にしながら一点を見つめたまま微動だにしない静香の母親を見つけると、僕は彼女の容体を恐る恐る聞いた。母親は、魂が抜けたような表情でポツリと、下半身がバイクの下敷きになってーー静香の足は、もう……と、それだけこぼして黙り込んだ。二人の結婚式まで、あとたった三ヶ月を切った日のことだった。
ナースステーションで面会の許可を貰い、僕は静香のいる病室に足を踏み入れた。
彼女は車椅子に腰掛け、いつものようにカーテンを全開にして、じっと窓の外を眺めている。
「やあ。……これ、シュークリーム。カスタードと、チョコがひとつずつ」
僕の声に振り返ると、彼女は青ざめた表情で無言のままゆっくり頷いた。
「ちゃんと、ご飯食べてる?」
再び、黙って頷く静香。
「……最後の手術、再来週だっけ」
そう言いながら、ベッドの脇の丸椅子に腰掛ける。
「……うん。水曜日」
ようやく口を開いた彼女だったが、いつにも増して元気がないように見えた。胸まで伸びた髪から覗かせる唇も、不健康にカサついている。
「散歩、行かない?今日は天気もいいし。紅葉も、綺麗だよ」
静香はそれを聞いてゆっくり窓の外に視線を戻すと、少し間をおいてから、コクリ、とまた無言で頷いた。
外出許可を貰って病院を出ると、近くの公園を目指して、車通りの無い鮮やかな銀杏並木をひた歩く。芸術の秋、とはよく言うが、この時期独特の風情が色濃く感じられて、なんだか胸が一杯になるような気がした。
車椅子の上の静香は真っ直ぐに前を見つめたままで、紅葉を楽しもうという気配は無かった。それでも、この気持ち良い日和に外へ出ることで、少しでも気分転換になれば。僕は、そう思った。
ふと、若い夫婦が腰をおろして手を広げているのが目に入る。その視線の先には、熊の耳がついた可愛らしいパーカーのフードを被った小さな女の子が、覚束ない足取りで笑顔いっぱいに二人に向かってきていた。まだ、歩き始めたばかりなのだろうか。微笑ましい光景に頬を弛めていると、彼女もその様子をじっと見ているのに気付く。自然と車椅子を押す手を止めて、僕らはそこに立ち止まった。女の子が両親の元にたどり着くと、父親が軽々と女の子抱き上げ、愛おしそうに頬を寄せる。母親は、優しい眼差しでその姿を見つめていた。
「……いこ、陽太」
静香はそう言うと、向き直って自ら車椅子を漕いで進みだした。僕はゆっくりとそれを追いかけたが、かける言葉が見つかるはずも無かった。舞い散るイチョウの葉を背に懸命に漕ぎ続ける彼女の後ろ姿が、僕には、たまらなく寂しく映った。
公園にはボール遊びをする小学生や、原っぱにシートを敷いてお弁当を食べる親子連れなどが散見し、にわかに活気を見せていた。
それらを横目に石造りの噴水の側までくると、僕はカバンからホットミルクティーを取り出しながら、腰を下ろして静香にそれを渡した。
「ありがとう」
お礼を言う彼女は、相変わらず無表情だった。
「……あの日、ね」
ペットボトルを大事そうに両手で持ったまま、静香が口を開く。
「うん?」
「あの日……結婚指輪を、見に行く予定だったの」
……あの日。それは、事故があった日のことであろうことはすぐにわかった。
「そう、だったんだ」
「律はね。私と結婚するために音楽を辞めて、一般企業に就職したの。私は、反対したんだけど。……俺がそうしたいんだから、そうするんだ、って。彼、そう言って……」
ペットボトルを持つ手にギュウと力が入る。
「今でもまだ、受け入れられない。あんなに元気いっぱいで、いつも前向き明るくて、私のこと、とっても大切してくれた律が……もう、この世にいないなんて。……多分、これからもずっと、私……。私は……」
静香はそこまで言うと、ゆっくりと俯き、黙ってしまった。
僕も、同じように黙り込んでしまう。が、少しして思い出したように再びカバンを開き、コンサートのチラシを取り出した。
「静香、これ。来週の日曜なんだけど」
瞳を潤ませた彼女が、顔を上げる。
「律の……しらべ?」
そして、たどたどしくコンサートのタイトルを読み上げる。
「ああ。律のしらべ、って読むんだ。琴やなんかの調子のことで、秋らしい趣がある、っていう意味の秋の季語らしい。俺が案を出したわけじゃないよ。偶然、これに決まったのさ。……だけど、この曲目は俺のリクエストが通った」
そう言ってチラシの下部を指差すと、静香の目の色が変わった。
「亜麻色の髪の、乙女……」
「うん。日曜、迎えにくるからさ。外出許可取って、聴きにきてくれないかな」
僕がそう言い終わらないうちに、彼女はチラシから目を逸らした。そして、再び俯いて黙ってしまう。
「事故があってから、僕もしばらく動揺したまままでさ。練習しても、全然上手くいかなくて。……でも、無我夢中にやるしかなかった。余計なこと考えずに、とにかく吹き続けた。それでなんとか、コンサートの舞台に立てるまでになったんだ」
静香はまだ、口を開かない。
「あれから静香もピアノ弾けてないし、音楽も全然聴いてないだろう?だから、少しでも何かのきっかけになればとおも……」
「やめて!」
突然の強いその口調に、僕は思わず口を噤んだ。
「静香……」
「……陽太の気持ちは嬉しいけど……私、とてもまだそんな気になれない」
数瞬の静寂。近くではしゃぎ回る子供達の喧騒が、虚しく公園内に響いた。
「陽太がプロのトランペット奏者になったことは、凄いと思うし、応援もしてるよ。でも、それと私がピアノを弾くことだとか、音楽を聴くことだとかは、全然話が別なの。今は、そういうこと、一切考えたくないの」
僕と彼女の間を縫うようにして、木の葉舞う秋風が柔らかく吹き抜ける。
「なるべく、考えないようにしてきたの。私も、必死なの。それでも……陽太が来てくれるたび、音楽の話をするたび、どうしても律の顔が浮かぶの。思い出して、考えちゃって、とても……とても辛くなるの。辛くて、辛くて、苦しくして仕方なくなるの。……どうして私も連れて行ってくれなかったの、って。どうしてこんな足になってまで、私ひとり生き残らなきゃいけなかったの、って」
彼女は溢れ出る思いを止められなくなったかのように、感情的に言葉を連ねた。僕は、胸にズキズキと痛みを覚えながら、それを黙って聞くほかなかった。
「もう……会いに来ないでほしい。わかってほしい……」
絞り出すようにそう言い終えると、彼女は両手で顔を覆って、わなわなと肩を震わせ始めた。
「周りの助けがいくらあったとしても、結局、立ち上がるのは自分の心持ち次第だ」
昨日の練習後に先輩から言われた言葉を思い出す。
そうか。やっぱり僕は、何ができる、何がしてやれる、そう考えながら結局何もできないまま……かえって、彼女を苦しめ続けていたのかもしれない。彼女に僕が寄り添ってきたのは、彼女の悲しみを和らげるためじゃなく、僕自身が、立ち上がるためだったのだろうか。僕は結局、自分のために彼女を……。いや!そうじゃない。そうじゃないんだ。だけど……だけど……。
何も言い出せないまま呆然と立ち尽くす僕に、涙声で彼女が告げる。
「一人で、病院戻れるから。……ごめんね、陽太。ありがとう」
そう言うと、車椅子をゆっくりと漕ぎ出し、静香は僕に背を向けた。
「……っ!」
呼び止めようとしたけど、声にはならなかった。
ゆっくりと、彼女が遠ざかっていく。さっきまで真っ青だったはずの空の色が、いつの間にか鈍く、灰色がかっているのに気付く。
「もう……会いにこないでほしい」
彼女の残した言葉が、いつまでも、いつまでも、僕の空っぽの胸の中でこだましているように思えた。
※※※
「無事に手術は終わりました。来週には、退院できるでしょう。……これからの事ですが、義足をつけてリハビリを続ければ、完全とまではいかないまでも、十分に元の暮らしに戻ることはできます。ご家族でもよく話し合って、我々とも相談しながら、今後の事を決めていきましょう」
……その日、私は太ももから下を完全に失った。そしてお医者さんの言葉通り、義足をつけて歩けるようになるとしても、律が帰ってくることはない。リハビリをするたび、私は彼を思い出すだろう。日常に戻っても、義足をつけるたび、彼を失った痛みは蘇るだろう。彼のいない世界で、私は何を希望に生きていけばいいのだろう。
病室に戻り、両親が帰ったあと、私はいつものようにカーテンを全開にして、車椅子から窓の外をぼんやりと眺めていた。
ここから見る景色は、春、夏、秋と過ぎ行く中で、様々に表情を変えていった。秋に生まれた私は、秋の空が一番好きだったけど、今はこの夕暮れ時の美しい空模様を、綺麗だと感じられる心のゆとりも失ってしまっていた。
あの日を境に、陽太がお見舞いに来ることもなくなった。あんな言い方したんだから、当然だろう。
私なんかの事は気にしないで、陽太は陽太の人生を生きて欲しかった。でも、陽太は私を立ち直らせようとしてくれていた。そんな彼の優しさに触れるたび、陽太に、律の死と向き合え、と言われているようで……彼の心が伝わってくるたび、その思いやりが煩わしく思えてしまったのだ。そんなはずないのに、そんな風に感じる自分が、嫌で嫌で仕方なかった。私の事はもう、ほっといてほしい。本当に自分勝手だけど、あのコンサートに誘われた時、私は強くそう思った。
陽太が来なくなって、私の孤独は当然の如く増した。でも、これでいいんだ。陽太は、前向きに暮らそうとしている。そんな時に私が、いつまでも彼の足を引っ張ってちゃいけない。だけど……律の死を受け入れられないまま、律の事を誰とも語り合えないまま、私はこれからずっと暮らしていくのだろうか。
何が正しいのか。どうすればいいのか。複雑な思いが綯い交ぜになる日がずっと続き、答えが見つかるはずも無かった。
そうして空を眺めているうち、気付けばどんどん空の闇が濃くなり、あっという間に夜になった。何時間、こうしていたのだろう。
なんとはなしに、窓の格子に手をかける。
この吸い込まれそうに広い空へ飛び込んでしまえば、いっそのこと楽になれるのに……。
ふと、そんな風に心に魔が差す。
私は突然、何かに取り憑かれたように、格子にかけた手に力を込めた。上半身を無理やり格子に預け、窓の外へと身を乗り出す。そのまま力一杯、下半身を車椅子から持ち上げようとする。
……もう少し。もう少しで。
自分の顔が紅潮していくのがわかる。全身に血流が行き渡る。不思議とその時、自分は確かに生きているんだという、妙な実感も湧き上がった。
自分は何をやっているのだろう?なぜ、こんな事をしているのだろう?
わからなかった。だけど、必死だった。そうして頭の中を混乱させながらブルブルと全身を震わせ悪戦苦闘していると、背後からいきなり悲鳴に似た声が響いた。
「ちょっと!なにやってるの!」
看護師さんだ。
思わず腕の力が抜け、私の体はベッドと窓の隙間に勢いよく落下した。
「いっ……!」
強く腰を打ち、鋭い痛みが走る。
「手術も成功したばかりなのに、馬鹿なことして!」
看護師さんは厳しく私を叱責しながら抱きかかえると、見た目以上のパワーでよいしょと勢いよく体を持ち上げ、全身で叩きつけるようにベッドの上に下ろした。
「……すいません」
私がそう言うと、看護師さんは呆れ顔で返した。
「リハビリしたいなら、ちゃんとしたやり方でしなさい。無理して怪我でもしたらどうするの」
「……はい」
私は急に自分が情けなくなった。看護師さんの言う通りだ。何を、馬鹿な事をしてるんだろう。
「そういえば……ほんのついさっき、いつもの彼が来たわよ」
看護師さんが、横たわる私に布団を被せながら言う。私は、耳を疑った。陽太が、来てくれた?
「仕事帰りに、手術がどうなったか心配で病院に寄ったらしいの」
今日が手術だって、覚えてたんだ……。
「個人情報だから詳しく話せないけど、無事に成功しましたよ、って伝えたら、心底ほっとしてたわよ。……でもね、面会されますか、って言ったら、大丈夫です、彼女が無事ならそれでいいんです、なんて言ってね。帰っちゃたの。いつもは必ず顔見て帰るのにね。……なんかあった?」
陽太……。
私は話を聞き終えると、上体を起こし、手際よくベッドから移動して車椅子に体を乗せた。
「ど、どうしたの?」
「ついさっきなんでしょう?まだ、間に合うかも」
私は車椅子を漕いで病室を出て、すぐさまエレベーターに向かった。
そそくさと降下ボタンを押し、エレベーターの到着を今か今かと待つ。しかしその時、頭の中でふいに声がした。
(会って、なんて言うの?)
来ないでほしい、と言ったのは私だ。陽太はきっと傷ついただろう。律を失って悲しいのは、彼だって同じなんだから。それでも私を心配して様子を聞きに来てくれて、私の願い通り会わずに帰ろうとしている彼に向かって……一体どんな言葉を投げかけられる?
エレベーターが着き、ドアが開く。中にはパジャマ姿のお爺さんが一人、乗っていた。
「あ、あの、大丈夫です。すみません。行ってください」
私の言葉を聞き入れると、お爺さんはボタンを押してドアを閉めた。
冷静さを取り戻して病室に戻ると、看護師さんもいなくなっていて、そこは完全な静けさに支配されていた。
私は車椅子を漕いで、また、窓の前にやってきた。
自分はこれからどうなっていくのだろう。どうすればいいのだろう。
そう考えながらぼんやりと外を見つめていると、不思議な事が起こった。
「……?」
どこかから、楽器の音が聞こえてくるのだ。
私は慌てて、思わず窓を開けた。
「……トランペット……」
それは、陽太の奏でる音色だった。優しい、優しい旋律。曲は……亜麻色の髪の乙女。
ーー「なんだよ、また弾いてるのか」
傾いた日が差す放課後、一番に練習室へやってきた私がピアノを演奏していると、呆れ顔で律が言った。陽太も一緒だ。
「うん。好きなんだもん。これを弾くと、気持ちが整うの」
「亜麻色の髪の乙女、か……」
そう言うと律はカバンからヴァイオリンを取り出した。
「ほら、陽太も吹けるだろ」
「ん?ああ、一応ね」
「何?一緒に弾いてくれるの?」
「おう。たまにはいいだろ。……じゃあ、初めから」
そう言われて私は、一旦呼吸を整えてから、ゆっくりと前奏を弾き始めた。
やがて、律のヴァイオリンが、エモーショナルな旋律を奏でる。
続いて陽太のトランペットが、優しく力強く音を踊らせる。
いつも一人で演奏していたから、その時の三人での亜麻色の髪の乙女は、なんだかとても特別なもののように感じられた。いつか時が過ぎても、また、この三人でこの曲を演奏できる日が来るような……そんな、特別な気持ち。
しばらくして他の部員たちもやってきたが、曲が終わるまで、準備をしながら黙って聞いてくれていた。
演奏が終わると、そこかしこから冷やかすような歓声が上がった。
私と律が付き合っていることは、内緒にはしていたけどバレバレだった。
「……今年で俺らも卒業だ。こうして一緒に演奏できるのもあと少しの間だな」
「なんだよ、ヴァイオリン辞めるのか?」
「まぁ、プロになる気は無いさ」
「陽太は、プロを目指すんだもんね」
「そうだよ。二人だって、楽器は続けるだろう?また一緒にやろうよ」
「そう、だな。……陽太がプロになった頃、三人で集まってミニコンサートでも開こうか。トリは、静香の好きな、この亜麻色の髪の乙女だ」
律は突然そう提案したが、私も陽太も大賛成だった。
「いいね、それ!」
「乗った!じゃあ、他の曲目は僕が考えるよ」
「ああ。約束だ」
うん。いつかまた、この三人で、きっとーー
気付くと私は、窓の外を見つめたまま、ポロポロと涙を流していた。
久しぶりに聞いた陽太のトランペット。それがあの日の三人とオーバーラップして、律のヴァイオリンの音色までも私の鼓膜に蘇らせていた。
律は、私を置いていったんじゃない。きっと律は、私を守ってくれたんだ。いつかまた陽太のトランペットに合わせてピアノが弾けるように、例え下半身を犠牲にしても、この両手だけは助かるように、って。律、そうなんでしょ?
今度は、私から会いに行くね。陽太。
しっかりと、前を向けるようになったら。
新しい足で、きっともう一度歩き出すから。
また一緒に、亜麻色の髪の乙女を演奏するために。
「……その日まで、待っててくれる?」
滔々とこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、私は、ひっそりとそう呟いた。
今も色褪せることなく、鮮明に胸焼き付いている、あの日の放課後の光景を目に浮かべて……。
どこからか響いてくる陽太のトランペットに彼のヴァイオリンを重ね、ひとり、律のしらべにその身を委ねる、秋の夜のことだった。
ー了ー
しかし、冬の気配を感じさせるほどに寒さが増すたび、心は締め付けられていくばかりだった。
きっと、静香も同じ……いや、それ以上の痛みに、今も尚耐え続けているに違いない。
自分に何ができるだろうか。いや、何もするべきではないのだろうか。
そんなやり場のない感情を抱えたまま、事故からもう半年が過ぎようとしていた。
「うん、しっかり形になってきたな」
本番に向けたリハーサルも大詰め。時刻は午後九時を回り、ようやく指揮者の先生から太鼓判が押されるに至った。
「特にトランペットは見違えるように良くなった。……今日はこれまでにしよう」
先生はあえて僕に視線は送らず、楽譜に目を落としながら呟く。
律がこの世を去ってからしばらく、演奏にもなかなか身が入らなかった。練習すればするほど、違和感が生まれた。心を込めようとすればするほど、空虚な音色になった。それでも、吹くしかなかった。吹き続けるしかなかった。悲しみ。怒り。寂しさ。どこにも叩きつけようのない胸の淀みを、吹き飛ばしてしまいたかった。
「よう。いよいよだな」
譜面台を片付けようとすると、コントラバスの先輩が声をかけてきた。
「はい。心配でしたが、間に合ってよかったです」
「あんなことがあったんだ、無理もないさ。……例の彼女には?」
「明日、また病院に寄ろうと思ってるので。その時、誘ってみます」
「そう、か」先輩は続きを言いづらそうに頭をポリポリとかいた。「周りの助けがいくらあったとしても、結局、立ち上がるのは自分の心持ち次第だ。だから、その……」
「ええ。わかってます。僕自身がそうでしたから。でも、きっかけになることは多い方がいいと思うので」
「うん。そうだな。いや、余計なことを言ったよ」
「余計なことだなんて。わざわざ声をかけてくださって、ありがとうございます」
そう言うとペコリと頭を下げて、僕は譜面台を手に倉庫へ向かった。
先輩の言いたいことはなんとなくわかった。本当はそっとしておく事が、彼女のためになるかもしれないと、僕も何度も考えたから。
でも、何か逃げているようで。何か見て見ぬふりをするのが嫌で……そう。結局僕は、自分の心の平穏のために、彼女に会いに行っているのかもしれないのだ。彼女のためだなんて、彼女を救いたいだなんて、僕の傲慢でしかないのかもしれないのだ。
それでも。
それでも、僕だからこそ。律のことも、静香のことも。高校時代、オーケストラ部の頃からよく知っている僕だからこそ。今の彼女にしてあげられることが、何かあるんじゃないか。ずっとそう考えながら、この半年を過ごしてきた。
僕は、二人が羨ましかった。感情が剥き出しになったかのような、律のダイナミックなヴァイオリン。名前通りに静けさを伴いながらも、その奥にしっかりとした芯の強さを感じさせる、静香のピアノ。演奏も性格も好対照な二人は、誰から見てもお似合いだった。結婚の話を聞いた時はとても嬉しかったし、でも、一方で悔しさもあった。自分も恋人ができたら、二人のようなカップルになりたいだなんて、思っていたから。親友だった律を通して見る彼女は、とても可憐で、でもどこか儚さもあって、不思議な輝きを放っていたのだ。……今の彼女とは、まるで別人のように。
マフラーに鼻までつっこんでいたが、秋の匂いはしっかりと感じられる午後。車を降りて見上げる空は、まるで真夏のように濃い青が澄み渡っていた。駐車場の周囲の木々は赤や黄色と賑やかに色づいていたが、不思議と過ぎ去った時を憂うかのような哀愁を覚えさせる。
入り口の自動ドアが開き、僕は病院の中に入った。何度ここにやってきても、あのバイク事故が起きた日のことを鮮明に思い出す。
あの日。報せを受けて急いでやってきた僕だったが、律はすでに、息絶えた後だった。病室前のベンチに腰掛け、目を真っ赤にしながら一点を見つめたまま微動だにしない静香の母親を見つけると、僕は彼女の容体を恐る恐る聞いた。母親は、魂が抜けたような表情でポツリと、下半身がバイクの下敷きになってーー静香の足は、もう……と、それだけこぼして黙り込んだ。二人の結婚式まで、あとたった三ヶ月を切った日のことだった。
ナースステーションで面会の許可を貰い、僕は静香のいる病室に足を踏み入れた。
彼女は車椅子に腰掛け、いつものようにカーテンを全開にして、じっと窓の外を眺めている。
「やあ。……これ、シュークリーム。カスタードと、チョコがひとつずつ」
僕の声に振り返ると、彼女は青ざめた表情で無言のままゆっくり頷いた。
「ちゃんと、ご飯食べてる?」
再び、黙って頷く静香。
「……最後の手術、再来週だっけ」
そう言いながら、ベッドの脇の丸椅子に腰掛ける。
「……うん。水曜日」
ようやく口を開いた彼女だったが、いつにも増して元気がないように見えた。胸まで伸びた髪から覗かせる唇も、不健康にカサついている。
「散歩、行かない?今日は天気もいいし。紅葉も、綺麗だよ」
静香はそれを聞いてゆっくり窓の外に視線を戻すと、少し間をおいてから、コクリ、とまた無言で頷いた。
外出許可を貰って病院を出ると、近くの公園を目指して、車通りの無い鮮やかな銀杏並木をひた歩く。芸術の秋、とはよく言うが、この時期独特の風情が色濃く感じられて、なんだか胸が一杯になるような気がした。
車椅子の上の静香は真っ直ぐに前を見つめたままで、紅葉を楽しもうという気配は無かった。それでも、この気持ち良い日和に外へ出ることで、少しでも気分転換になれば。僕は、そう思った。
ふと、若い夫婦が腰をおろして手を広げているのが目に入る。その視線の先には、熊の耳がついた可愛らしいパーカーのフードを被った小さな女の子が、覚束ない足取りで笑顔いっぱいに二人に向かってきていた。まだ、歩き始めたばかりなのだろうか。微笑ましい光景に頬を弛めていると、彼女もその様子をじっと見ているのに気付く。自然と車椅子を押す手を止めて、僕らはそこに立ち止まった。女の子が両親の元にたどり着くと、父親が軽々と女の子抱き上げ、愛おしそうに頬を寄せる。母親は、優しい眼差しでその姿を見つめていた。
「……いこ、陽太」
静香はそう言うと、向き直って自ら車椅子を漕いで進みだした。僕はゆっくりとそれを追いかけたが、かける言葉が見つかるはずも無かった。舞い散るイチョウの葉を背に懸命に漕ぎ続ける彼女の後ろ姿が、僕には、たまらなく寂しく映った。
公園にはボール遊びをする小学生や、原っぱにシートを敷いてお弁当を食べる親子連れなどが散見し、にわかに活気を見せていた。
それらを横目に石造りの噴水の側までくると、僕はカバンからホットミルクティーを取り出しながら、腰を下ろして静香にそれを渡した。
「ありがとう」
お礼を言う彼女は、相変わらず無表情だった。
「……あの日、ね」
ペットボトルを大事そうに両手で持ったまま、静香が口を開く。
「うん?」
「あの日……結婚指輪を、見に行く予定だったの」
……あの日。それは、事故があった日のことであろうことはすぐにわかった。
「そう、だったんだ」
「律はね。私と結婚するために音楽を辞めて、一般企業に就職したの。私は、反対したんだけど。……俺がそうしたいんだから、そうするんだ、って。彼、そう言って……」
ペットボトルを持つ手にギュウと力が入る。
「今でもまだ、受け入れられない。あんなに元気いっぱいで、いつも前向き明るくて、私のこと、とっても大切してくれた律が……もう、この世にいないなんて。……多分、これからもずっと、私……。私は……」
静香はそこまで言うと、ゆっくりと俯き、黙ってしまった。
僕も、同じように黙り込んでしまう。が、少しして思い出したように再びカバンを開き、コンサートのチラシを取り出した。
「静香、これ。来週の日曜なんだけど」
瞳を潤ませた彼女が、顔を上げる。
「律の……しらべ?」
そして、たどたどしくコンサートのタイトルを読み上げる。
「ああ。律のしらべ、って読むんだ。琴やなんかの調子のことで、秋らしい趣がある、っていう意味の秋の季語らしい。俺が案を出したわけじゃないよ。偶然、これに決まったのさ。……だけど、この曲目は俺のリクエストが通った」
そう言ってチラシの下部を指差すと、静香の目の色が変わった。
「亜麻色の髪の、乙女……」
「うん。日曜、迎えにくるからさ。外出許可取って、聴きにきてくれないかな」
僕がそう言い終わらないうちに、彼女はチラシから目を逸らした。そして、再び俯いて黙ってしまう。
「事故があってから、僕もしばらく動揺したまままでさ。練習しても、全然上手くいかなくて。……でも、無我夢中にやるしかなかった。余計なこと考えずに、とにかく吹き続けた。それでなんとか、コンサートの舞台に立てるまでになったんだ」
静香はまだ、口を開かない。
「あれから静香もピアノ弾けてないし、音楽も全然聴いてないだろう?だから、少しでも何かのきっかけになればとおも……」
「やめて!」
突然の強いその口調に、僕は思わず口を噤んだ。
「静香……」
「……陽太の気持ちは嬉しいけど……私、とてもまだそんな気になれない」
数瞬の静寂。近くではしゃぎ回る子供達の喧騒が、虚しく公園内に響いた。
「陽太がプロのトランペット奏者になったことは、凄いと思うし、応援もしてるよ。でも、それと私がピアノを弾くことだとか、音楽を聴くことだとかは、全然話が別なの。今は、そういうこと、一切考えたくないの」
僕と彼女の間を縫うようにして、木の葉舞う秋風が柔らかく吹き抜ける。
「なるべく、考えないようにしてきたの。私も、必死なの。それでも……陽太が来てくれるたび、音楽の話をするたび、どうしても律の顔が浮かぶの。思い出して、考えちゃって、とても……とても辛くなるの。辛くて、辛くて、苦しくして仕方なくなるの。……どうして私も連れて行ってくれなかったの、って。どうしてこんな足になってまで、私ひとり生き残らなきゃいけなかったの、って」
彼女は溢れ出る思いを止められなくなったかのように、感情的に言葉を連ねた。僕は、胸にズキズキと痛みを覚えながら、それを黙って聞くほかなかった。
「もう……会いに来ないでほしい。わかってほしい……」
絞り出すようにそう言い終えると、彼女は両手で顔を覆って、わなわなと肩を震わせ始めた。
「周りの助けがいくらあったとしても、結局、立ち上がるのは自分の心持ち次第だ」
昨日の練習後に先輩から言われた言葉を思い出す。
そうか。やっぱり僕は、何ができる、何がしてやれる、そう考えながら結局何もできないまま……かえって、彼女を苦しめ続けていたのかもしれない。彼女に僕が寄り添ってきたのは、彼女の悲しみを和らげるためじゃなく、僕自身が、立ち上がるためだったのだろうか。僕は結局、自分のために彼女を……。いや!そうじゃない。そうじゃないんだ。だけど……だけど……。
何も言い出せないまま呆然と立ち尽くす僕に、涙声で彼女が告げる。
「一人で、病院戻れるから。……ごめんね、陽太。ありがとう」
そう言うと、車椅子をゆっくりと漕ぎ出し、静香は僕に背を向けた。
「……っ!」
呼び止めようとしたけど、声にはならなかった。
ゆっくりと、彼女が遠ざかっていく。さっきまで真っ青だったはずの空の色が、いつの間にか鈍く、灰色がかっているのに気付く。
「もう……会いにこないでほしい」
彼女の残した言葉が、いつまでも、いつまでも、僕の空っぽの胸の中でこだましているように思えた。
※※※
「無事に手術は終わりました。来週には、退院できるでしょう。……これからの事ですが、義足をつけてリハビリを続ければ、完全とまではいかないまでも、十分に元の暮らしに戻ることはできます。ご家族でもよく話し合って、我々とも相談しながら、今後の事を決めていきましょう」
……その日、私は太ももから下を完全に失った。そしてお医者さんの言葉通り、義足をつけて歩けるようになるとしても、律が帰ってくることはない。リハビリをするたび、私は彼を思い出すだろう。日常に戻っても、義足をつけるたび、彼を失った痛みは蘇るだろう。彼のいない世界で、私は何を希望に生きていけばいいのだろう。
病室に戻り、両親が帰ったあと、私はいつものようにカーテンを全開にして、車椅子から窓の外をぼんやりと眺めていた。
ここから見る景色は、春、夏、秋と過ぎ行く中で、様々に表情を変えていった。秋に生まれた私は、秋の空が一番好きだったけど、今はこの夕暮れ時の美しい空模様を、綺麗だと感じられる心のゆとりも失ってしまっていた。
あの日を境に、陽太がお見舞いに来ることもなくなった。あんな言い方したんだから、当然だろう。
私なんかの事は気にしないで、陽太は陽太の人生を生きて欲しかった。でも、陽太は私を立ち直らせようとしてくれていた。そんな彼の優しさに触れるたび、陽太に、律の死と向き合え、と言われているようで……彼の心が伝わってくるたび、その思いやりが煩わしく思えてしまったのだ。そんなはずないのに、そんな風に感じる自分が、嫌で嫌で仕方なかった。私の事はもう、ほっといてほしい。本当に自分勝手だけど、あのコンサートに誘われた時、私は強くそう思った。
陽太が来なくなって、私の孤独は当然の如く増した。でも、これでいいんだ。陽太は、前向きに暮らそうとしている。そんな時に私が、いつまでも彼の足を引っ張ってちゃいけない。だけど……律の死を受け入れられないまま、律の事を誰とも語り合えないまま、私はこれからずっと暮らしていくのだろうか。
何が正しいのか。どうすればいいのか。複雑な思いが綯い交ぜになる日がずっと続き、答えが見つかるはずも無かった。
そうして空を眺めているうち、気付けばどんどん空の闇が濃くなり、あっという間に夜になった。何時間、こうしていたのだろう。
なんとはなしに、窓の格子に手をかける。
この吸い込まれそうに広い空へ飛び込んでしまえば、いっそのこと楽になれるのに……。
ふと、そんな風に心に魔が差す。
私は突然、何かに取り憑かれたように、格子にかけた手に力を込めた。上半身を無理やり格子に預け、窓の外へと身を乗り出す。そのまま力一杯、下半身を車椅子から持ち上げようとする。
……もう少し。もう少しで。
自分の顔が紅潮していくのがわかる。全身に血流が行き渡る。不思議とその時、自分は確かに生きているんだという、妙な実感も湧き上がった。
自分は何をやっているのだろう?なぜ、こんな事をしているのだろう?
わからなかった。だけど、必死だった。そうして頭の中を混乱させながらブルブルと全身を震わせ悪戦苦闘していると、背後からいきなり悲鳴に似た声が響いた。
「ちょっと!なにやってるの!」
看護師さんだ。
思わず腕の力が抜け、私の体はベッドと窓の隙間に勢いよく落下した。
「いっ……!」
強く腰を打ち、鋭い痛みが走る。
「手術も成功したばかりなのに、馬鹿なことして!」
看護師さんは厳しく私を叱責しながら抱きかかえると、見た目以上のパワーでよいしょと勢いよく体を持ち上げ、全身で叩きつけるようにベッドの上に下ろした。
「……すいません」
私がそう言うと、看護師さんは呆れ顔で返した。
「リハビリしたいなら、ちゃんとしたやり方でしなさい。無理して怪我でもしたらどうするの」
「……はい」
私は急に自分が情けなくなった。看護師さんの言う通りだ。何を、馬鹿な事をしてるんだろう。
「そういえば……ほんのついさっき、いつもの彼が来たわよ」
看護師さんが、横たわる私に布団を被せながら言う。私は、耳を疑った。陽太が、来てくれた?
「仕事帰りに、手術がどうなったか心配で病院に寄ったらしいの」
今日が手術だって、覚えてたんだ……。
「個人情報だから詳しく話せないけど、無事に成功しましたよ、って伝えたら、心底ほっとしてたわよ。……でもね、面会されますか、って言ったら、大丈夫です、彼女が無事ならそれでいいんです、なんて言ってね。帰っちゃたの。いつもは必ず顔見て帰るのにね。……なんかあった?」
陽太……。
私は話を聞き終えると、上体を起こし、手際よくベッドから移動して車椅子に体を乗せた。
「ど、どうしたの?」
「ついさっきなんでしょう?まだ、間に合うかも」
私は車椅子を漕いで病室を出て、すぐさまエレベーターに向かった。
そそくさと降下ボタンを押し、エレベーターの到着を今か今かと待つ。しかしその時、頭の中でふいに声がした。
(会って、なんて言うの?)
来ないでほしい、と言ったのは私だ。陽太はきっと傷ついただろう。律を失って悲しいのは、彼だって同じなんだから。それでも私を心配して様子を聞きに来てくれて、私の願い通り会わずに帰ろうとしている彼に向かって……一体どんな言葉を投げかけられる?
エレベーターが着き、ドアが開く。中にはパジャマ姿のお爺さんが一人、乗っていた。
「あ、あの、大丈夫です。すみません。行ってください」
私の言葉を聞き入れると、お爺さんはボタンを押してドアを閉めた。
冷静さを取り戻して病室に戻ると、看護師さんもいなくなっていて、そこは完全な静けさに支配されていた。
私は車椅子を漕いで、また、窓の前にやってきた。
自分はこれからどうなっていくのだろう。どうすればいいのだろう。
そう考えながらぼんやりと外を見つめていると、不思議な事が起こった。
「……?」
どこかから、楽器の音が聞こえてくるのだ。
私は慌てて、思わず窓を開けた。
「……トランペット……」
それは、陽太の奏でる音色だった。優しい、優しい旋律。曲は……亜麻色の髪の乙女。
ーー「なんだよ、また弾いてるのか」
傾いた日が差す放課後、一番に練習室へやってきた私がピアノを演奏していると、呆れ顔で律が言った。陽太も一緒だ。
「うん。好きなんだもん。これを弾くと、気持ちが整うの」
「亜麻色の髪の乙女、か……」
そう言うと律はカバンからヴァイオリンを取り出した。
「ほら、陽太も吹けるだろ」
「ん?ああ、一応ね」
「何?一緒に弾いてくれるの?」
「おう。たまにはいいだろ。……じゃあ、初めから」
そう言われて私は、一旦呼吸を整えてから、ゆっくりと前奏を弾き始めた。
やがて、律のヴァイオリンが、エモーショナルな旋律を奏でる。
続いて陽太のトランペットが、優しく力強く音を踊らせる。
いつも一人で演奏していたから、その時の三人での亜麻色の髪の乙女は、なんだかとても特別なもののように感じられた。いつか時が過ぎても、また、この三人でこの曲を演奏できる日が来るような……そんな、特別な気持ち。
しばらくして他の部員たちもやってきたが、曲が終わるまで、準備をしながら黙って聞いてくれていた。
演奏が終わると、そこかしこから冷やかすような歓声が上がった。
私と律が付き合っていることは、内緒にはしていたけどバレバレだった。
「……今年で俺らも卒業だ。こうして一緒に演奏できるのもあと少しの間だな」
「なんだよ、ヴァイオリン辞めるのか?」
「まぁ、プロになる気は無いさ」
「陽太は、プロを目指すんだもんね」
「そうだよ。二人だって、楽器は続けるだろう?また一緒にやろうよ」
「そう、だな。……陽太がプロになった頃、三人で集まってミニコンサートでも開こうか。トリは、静香の好きな、この亜麻色の髪の乙女だ」
律は突然そう提案したが、私も陽太も大賛成だった。
「いいね、それ!」
「乗った!じゃあ、他の曲目は僕が考えるよ」
「ああ。約束だ」
うん。いつかまた、この三人で、きっとーー
気付くと私は、窓の外を見つめたまま、ポロポロと涙を流していた。
久しぶりに聞いた陽太のトランペット。それがあの日の三人とオーバーラップして、律のヴァイオリンの音色までも私の鼓膜に蘇らせていた。
律は、私を置いていったんじゃない。きっと律は、私を守ってくれたんだ。いつかまた陽太のトランペットに合わせてピアノが弾けるように、例え下半身を犠牲にしても、この両手だけは助かるように、って。律、そうなんでしょ?
今度は、私から会いに行くね。陽太。
しっかりと、前を向けるようになったら。
新しい足で、きっともう一度歩き出すから。
また一緒に、亜麻色の髪の乙女を演奏するために。
「……その日まで、待っててくれる?」
滔々とこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、私は、ひっそりとそう呟いた。
今も色褪せることなく、鮮明に胸焼き付いている、あの日の放課後の光景を目に浮かべて……。
どこからか響いてくる陽太のトランペットに彼のヴァイオリンを重ね、ひとり、律のしらべにその身を委ねる、秋の夜のことだった。
ー了ー
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