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35 それが後悔フラグと知らず
しおりを挟む今度の会社は清掃会社。そんなに大きな会社ではないけれど、とてもやり甲斐がありそうな仕事だと、蛍は特製ふわふわパンケーキを食べながらニコニコで話した。羽黒は時折ブランデーのロックグラスを口元に運びながら笑顔でそれを聞いていたが、心中穏やかではない。まるで水中を舞っている澱が少しずつ沈み溜まるように心が重くなっていく。蛍の話は余さず聞かねばと思うのに、まるで厚いガラスを1枚隔てたように、澄んだ声が遠く聴こえる。
(参ったな)
笑顔の裏で、落ちたメンタルをどうにか立て直そうとする羽黒。
こんな筈ではなかった。蛍が辞めるまでにはもう少し距離を詰めて、自然な状況でプライベートの連絡先を聞いて、店が介在しなくても関係を深めていけるだろうとばかり…。
羽黒は、盛大に溜息を吐きたい気持ちだった。しかし、そんな事をして蛍の喜びに水を差す訳にはいかない。そんな余裕の無い姿を見せて幻滅されたくない。
内心は一刻も早く楡崎にLIMEを打ちたい気持ちでいっぱいだ。打って、儚く崩れ去った蛍攻略プランのリスケについて相談したい。
誰かに必死になった事の無い羽黒はこの上無く狼狽していた。
だが、そんな羽黒の胸の内を知らない蛍は呑気にパンケーキを完食し、次いで運ばれて来た特製チョコレートパフェにスプーンを入れ始めている。
先ほど男鹿の店で羽黒のくれた分を入れて4人前のデセールを食べている蛍だが、物足りなかったのか車に乗っている間に小腹が空いたのか、『nobilis』に出勤するとフードメニューから甘いものばかり5品オーダーした。糖分摂りすぎである。
が、いつもと変わらず美味しそうにパフェを食べる蛍を見ている内に、羽黒は次第に冷静になってきた。
そうだ。先ほども思ったではないか。辞めるといっても、月末までまだ1週間以上はある。その間に3回は出勤日があるのだから…。
一方蛍の方も、一番の得意客である羽黒に嬉しい報告を出来たと笑顔で話しながらも、心の中では違う事を考えていた。
このまま店を辞めれば、羽黒とは普通の客とキャストとしてお別れだ。『nobilis』を辞めれば、もう夜の世界には戻っては来ないだろう。器用ではなく体力にも自信が無い蛍は、二足の草鞋は履けない。
そして昼職に就けば、もう羽黒との接点は無いだろう。そもそもからして住む世界の違う羽黒と蛍が出会えたのは、夜の世界だからこそ。
そんな事くらい、脳天気な蛍にだってわかる。
(でも…)
1晩ずっと考えて、やっぱり嫌だと思った。辞める事が身に迫って来てわかったのだが、蛍はどうやら羽黒に会えなくなるのは嫌なのだ。二度と会えないなんて、考えただけで寂しい。
そう思うくらいには、羽黒の事を慕っている。その気持ちがどんな種類のものかと問われたら、首を傾げてしまうのだけれど。
蛍にとって羽黒は、何処か亡き父を思い起こさせるようでいて、けれど父とは違う優しい兄のようでもあり、蛍の考える男性的魅力の全てを備えた、憧れの対象でもあった。
顔を合わせた瞬間に貧血で倒れるなんて粗相をした蛍に怒りもせず、引き立ててくれて、たくさんたくさん助けてくれて。羽黒に受けた恩は、きっと蛍が一生かかったって返せるものではない。
蛍はまだオメガとして開花するどころか、ちゃんとした恋も知らない。だから自分の恋愛対象が男女どちらかはよくわからないけれど、羽黒の事は好ましいと思う。
自分に向けられる優しい眼差しも、包み込まれるような笑顔も好きだ。彫刻みたいな横顔も素敵だし、低くて穏やかで深みのある声も、フッと薄く香る香水混じりの体臭も好ましいと思う。それがアルファならではのものなのか香水なのか、オメガとして未発達な蛍には判別がつかないけれど、とても鼻に馴染む、好きな匂いだ。
かといって、自分が羽黒に見合う人間だとは思わないから、今以上の関係になるなんて想像すら出来ないけれど…羽黒が迷惑でないのなら、たまに会えたらなと思う。
…決して、美味しいものを奢ってくれるからという食い意地からでは…いや、羽黒はいつも蛍が食べるのを楽しそうに観察しているから、食事を共にするくらい迷惑ではない筈だ。
(そうだよ、たまに一緒にご飯行ったり、スタバいったり…したいもん)
正直に言う。蛍は、羽黒との縁を繋げていたい。
だから、今日は彼にプライベートの連絡先を告げようと決めてきた。
なのにいざとなると羽黒に迷惑なのではと、告げる勇気が出なかった。
日頃あれだけやりたい放題している癖に、どういう訳なのだろうか。鬼の霍乱か?
蛍は戸惑っていたのだ。
これまで、母親を守りながら日々を生きる事に必死で、生活苦以外で悩む事など無かった故に。
他人に抱く好意のカテゴライズなどは余裕ある人生を生きる人の贅沢で、蛍には一生縁が無いと思っていたから。
だから、店を辞めると決めた今更にして自分の連絡先を渡す事が、羽黒にとって迷惑だったらと少し怯えている。あと、少し気恥しい。
蛍は甘味を食べながら、実はそんな事を悶々と考えつつ羽黒と話していたのである。とてもそうは見えないが。
そろそろパフェの底が見え始めた時、蛍はスプーンを持つ手を止め、顔を上げて羽黒の顔を見た。
「最終日、いらしてくれますか?」
羽黒はすぐに視線に気付いて、力強く頷きながら答える。
「当然じゃないか。せっかくのほたる君の新しい門出だ、何を押しても来るよ」
その言葉に蛍は安心した。そして、
(そうだ、なら最終日に。最終日にLIMEのID教えよう)
と、決めてしまったのだった。
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