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48 蛍、父の言葉を実践する
しおりを挟む声がする。とても懐かしい声が、すぐそばで。
その声の主を、蛍はよく知っている。
『そう、わかるものなんだ。何て表現したら良いのか……とにかく、他の人とは違うんだ』
『どう違うの?』
『姿形じゃない。その人の纏う空気、匂い、声。そういったものが、まるで昔から知っているみたいに懐かしくて愛おしく思える』
『出会ったばかりでも?』
『出会ったばかりでも。だから最初は、その懐かしさを親しい誰かと重ね合わせたりなんて事もある。でも、そのうちに気づくんだ。 それは、いつかの時代に一緒に過ごしていたその人自身を、自分の魂が思い出しているから、そう思うんだって』
『いつかの時代?』
『そう、いつかの、だ』
魂だとか、いつかの時代だとか。 そんな曖昧なのよくわからないよ、と返そうとしながら、ふと思った。
この会話の先を知っている、と。
横に居る会話の相手は、蛍の父だった。
これは、父が亡くなる数年前に、その頃住んでいた家のリビングで交わした会話だ。
目に映るのは、見覚えのあるモスグリーンのファブリックソファ、壁には65インチの液晶テレビ。部屋の隅には、母の愛用していたマホガニーのボストンピアノ。結婚した時に父から母に贈られた品らしく、休日の午後になると母はよくそれでショパンを弾いていた。
父が亡くなってから、あっという間に人手に渡ってしまった、大切な全て。
それに気づいてしまえば、嫌でもわかってしまう。
こんなにもリアルに目の前に存在するのに、これは夢なのだ。過去の記憶を呼び起こした、夢。
横で、少し照れ臭そうに話す父も、隣の部屋から微かに聞こえてくる母の綺麗な鼻歌も、全て、記憶の再現。目を覚ませば消えてしまう、あたたかで愛しい過去の幻。
夢でも良いから会いたいと思っていた頃には一度も見られなかったのに、どうして今になって?
蛍はそんな思いで、横に座る父の顔をじっと見上げた。まだ災難が降りかかる前の、目の下にクマも無く疲労に窶れもしていない、若くて元気で精悍な頃の父。アルファらしい逞しい体躯と優しい気性を持ち、蛍の自慢だった父。
夢だとわかっていても、その父が生きて話している姿に、嬉しくて涙が出そうだった。
『今はまだ小学生だからピンと来ないだろうけど、そのうちわかる日が来る』
『いつごろ?』
『いつ……え、そうだな……出会うタイミングは個人差があるからなあ。まだ子供の頃に出会う事も、大人になってから出会う事もある』
『そうなんだ』
『でも、出会いがいつであろうとわかる筈だ。その人だけは、他の誰とも違うから。だから、そんな人に出会えたと感じたら……』
何故かそこで、父の声が途切れた。目の前の父は変わりなく喋っているというのに。動画の音声だけが途切れた、そんな感じ。
そして代わりに聴こえてきたのは――。
額を、首を、ひんやりとした何かが拭っている。
誰かが蛍の名を呼びながら、頬を撫でている。
重い瞼を何とか持ち上げると、暗かった世界が少しずつ明るくなった。
「大丈夫?」
至近距離に人の輪郭、案ずるような声。頭と肩に感じる温もり。
何だかこれも既視感がある光景だなあと思いながら、蛍は完全に覚醒した。
「はぐろ、さま……?」
「うん、僕だ。わかる?」
「はい」
二度も羽黒に膝枕をしてもらったのは世界中で自分くらいだろうと思いながら、蛍は返事をする。
輪郭を取り戻した羽黒はやっぱり王子様のように綺麗で凛々しくて、蛍はぼんやりと彼に見蕩れた。一方の羽黒は、答える事のできる蛍にホッとしたようだった。
「俺、どれくらい……」
「15分くらい、かな」
『nobilis』で初日に倒れた時より長いな、と思う蛍。夢の中の過去の居心地が良かったからかもしれない。そんな事を考えていると、蛍の顔を覗き込んでいた羽黒が、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね、急に色んな事を言ってびっくりさせちゃったよね」
言われて、蛍は膝枕されたまま首を傾げる。そいや、なんで倒れたんだっけ……と。
そして直前の会話を丸々思い出した蛍は、また真っ赤になったものの、今度は気を失ったりはしなかった。
羽黒と結婚して、番に。番になるには、セックス。
同年代の誰もが知り、経験しているような事すらまだ知らない蛍には、刺激が強い事ばかり。
でも、蛍が倒れたのはそればかりが理由ではなくて。
さっきエレベーターホールで羽黒としたキスが、とても気持ちよかった事。羽黒に抱きしめられるのを、嬉しいと感じる事。密着して世話を焼かれるのが、あまりに自然になっている事。それから、羽黒の姿を見ると、前よりずっとずっと嬉しくて、ドキドキしてしまう事。
そして、羽黒になら何をされても、きっと嫌だとは思えない自分……に、気がついてしまったからだった。
『だから、そんな人に出会えたと感じたら――』
(捕まえて、絶対離しちゃいけないんだよね、お父さん)
父の、とても為になる言葉の続き。
きっと今が、それを実行する時だ。
「違うんです。あ、いや違わないんですけど、あの」
蛍は跳ね起きて、羽黒に抱きついた。驚いた羽黒が息を呑んだのが聞こえたが、構わず両腕に力を込めて、ぎゅっと抱きしめる。
「蛍くん?」
「俺、俺も! 羽黒さまが、好き!!だから、結婚、します!!番に、なり、ます!!!!」
「!!!!!!」
蛍からの、予期せぬ告白。
羽黒は驚愕と歓喜に満面の笑みで蛍を抱きしめ返し、一連の流れを見ていた楡崎は(若にまさかの奇跡……大旦那様にご報告せねば)と、人差し指で目尻の涙を拭うのだった。
あまりに長く羽黒を見守ってきた為に、時折爺やのようになってしまう楡崎なのである。
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