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85 選択の末
しおりを挟む週明け、月岡は一旦実家から都心の自分のマンションに戻った。
会社にも出勤し、平時と変わらず仕事をこなすものの、心中は穏やかではない。入院した父の状態に引き摺られるように体調を崩している母の様子も気になるし、両親の事を兄に任せ切りなのにも罪悪感は消えなかった。
3日に一度、兄に様子伺いの連絡をすると、父の術後の経過は良好だと聞かされ少し安心する。反面、完全に元の生活に戻る事はできないのではと暗澹たる気持ちにもなった。アルファの体が頑強とはいえ、年齢を考えれば体力面には不安があるからだ。仕事復帰を出来たとしても、以前のようにはいかないだろう。
それでもあの兄の事だから、父に代わり社長代行として立派にやっているのだろう。しかし、だからといって生活の拠点が違うからという理由だけで自分が何も協力しないのは心苦しい。
結局、月岡は、仕事を辞めて故郷に戻るという決断をした。 兄とは別に入った、母の心細げな電話の声がそうさせた。兄や両親を支える為に、何故今ある全てを捨ててまで、と自分でも思う。だが、先の見えない状態で休職なんて生半可な事はしたくない。この際、父に甘えて家賃援助を受けて借りっ放しだったマンションを引き払って故郷に引き揚げようと決めた。そもそもがまだ社会人2年目でしかない月岡の収入に対して分不相応な物件だ。もう学生ではなく、親に甘えて良い期間はとうに過ぎているのだから。
斗真との距離が開くのは最後まで気がかりだった。これからは何かあってもすぐに駆け付ける事が容易には出来なくなる。
きっとあの時告白が遮られたのは、こんな未来が待っていたからなのだろう。月岡と斗真は、友人という関係でいるべきだと目に見えない何者かに言われている気がする。
(だけど、きっとこれで良いんだ)
月岡は自分を無理に納得させて、黙々と身の回りの整理を進めた。
父の退院に合わせて実家に戻った月岡は、会社を背負った兄を支える為、父と母の世話や家事を引き受けた。月岡家では、少し前に長年居てくれた家政婦が年齢を理由に暇を取って以来、新しい家政婦は雇っていなかった。内向的な性格故にあまり他人を家に入れたがらない母が、兄の人選になかなかOKを出さなかったからだ。その為、兄は月岡に済まないと言いながらも、戻った事自体にはあからさまに安堵し、感謝してくれた。
幸いにして、父は順調に回復していった。すると、番ならではというのか、それに比例して母の体調もゆっくりと落ち着いてきて、月岡と兄はひとまず胸を撫で下ろした。かなり悪い状態になるまで耐えていた所為で、母は家事が出来るまでになってきたし、1年以上かかって取り敢えず状況は安定してきたと言えるだろう。
しかしそうなってくると、月岡もただ兄の厄介になっているだけというのは心苦しい、と思っていた矢先。
月岡の状況を知る母校の恩師から、病気療養と産休による欠員募集が出される予定であるという連絡が入った。恩師は月岡と斗真が教員免許を取得している事も知っている。
『親御さんが落ち着いたのなら考えてみてくれないか。勿論、お兄さんを支えて家業に入るというのなら無理にとは言わないが…』
そう言われたが、月岡は迷いもせず翌日母校へ赴き、非常勤として採用された。家業の酒造会社に入り兄の手伝いを、と言えば聞こえは良いし、言えば兄は二つ返事で受け入れてくれるだろうが、ただでさえ多忙な業務の中に今自分が入っても足手纏いになるだけだろう。元より、既に兄の周辺には信頼に足る精鋭の部下が出来ている事は、戻ってからの数ヶ月でわかっていた。家の中の事ならともかく、仕事面で月岡の出る幕は無い。かといって、今更また都心に出て求職活動をする気は無かった。
月岡や両親の事を気にかけて定期的に連絡を寄越す斗真の近くに戻りたくないと言えば嘘になるが、戻ったからといってどうなるものでもないように思える。斗真が誰かと恋をするのを見守れてしまう距離は残酷だ。
いっそのこと、滅多に顔が見られないほどに離れてしまえば、この気持ちも薄れていくかもしれない。
そう、期待した。
だが、それは甘い期待に過ぎなかった事を、月岡は思い知る事になった。
「あ、月岡先生、さっき夏原入れましたよ」
一時間目の授業を終えてデスクに戻って来ると、向かいのデスクの英語教師・宮本が作業の手を止め、顔を上げてそう声をかけてきた。宮本は40代後半の、少しふくよかな中年男だ。
「あ、そうですか、来てましたか。ありがとうございます」
小さく頭を下げて礼を言うと、宮本はまたすぐ下を向いて作業を再開する。右手に握っているのは赤ペン。採点だろうか。
(そうか、もう1週間か)
持っていた教材をデスクに置いて、端に置いてある小さなカレンダーを確認した。夏原というのは月岡の受け持ちクラスの生徒で、ここ暫くは忌引きで休んでいた。長く入院していた母親が亡くなった為だと父親から連絡が入ったのが1週間前だった筈だ。
「大変ですよねえ、夏原。確か下の弟妹、まだ幼稚園とかでしょう」
プリントから目を離さないまま言う宮本は、去年夏原の担任だった故に月岡よりも家庭事情に詳しいらしい。
「そのようですね」
月岡が相槌を打つと、宮本は手を止めて溜息を吐きながら言った。
「幼い弟妹抱えて父親は多忙。進路、どうするんですかねえ」
「…そうですね」
この間出された進路希望調査票は第一志望も第二志望も欄は空欄だった。非常勤から入って、本採用になってからの初担任。それに伴って増加した仕事量と責任に、正直、戸惑っている。そこに持って来ての、やや難しそうな生徒。
複雑な家庭環境の生徒は少なくないだろうが、担任として向き合うのは初めてで、どうしたものだろうかと頭を悩ませ、近々夏原本人と話をしなければならないか、などと考えていた矢先の忌引きだった。
(夏原か…)
月岡の脳裏に、何処か寂しげな雰囲気を纏った少年の顔が浮かぶ。凡庸だが小綺麗に整ったその面差しは、何処か斗真に似ている。
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