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19 松永の家
しおりを挟む遠方に出向いていた松永夫妻が彼の地で一泊して自宅に帰り着いたのは、翌日の夕方近くだった。
玄関にある靴には見覚えがあった。リビングに入るとやはり半年以上前に結婚して家を出た愛息子が憔悴した様子でカウチソファに座り込んでいた。家を出たと言っても、月一くらいの頻度で顔を見せに来てくれる、親孝行な息子だ。
だから今回もそうなのかと思い、母の百合子は美樹に声をかけた。
「あら、何時から帰って来てたの美樹。」
何時も帰って来る前には連絡をしてくるのに、今回はそれが無かった事に違和感を感じながらの問いだったが、美樹は何処かぼうっとして、うん と生返事だけを返して来る。
心ここに在らず、という様子に、百合子と夫の肇は顔を見合わせた。
何があったのだろうか。
「どうしたんだ、聡君と喧嘩でもしたか?」
今度は少し茶化すように肇が聞いたが、美樹はそれには無言だった。
2人はどうにも声を掛け辛くなり、美樹の傍に屈み、顔を覗き込んだ。
泣き腫らしたような目をした美樹は、それでやっと両親の姿を見た。
「父さん、母さん…。」
「何があったの。あら?樹生はいなかった?今日もバイトかしら。」
百合子が樹生の名を口にした途端、茫洋としていた美樹の目が一瞬光を取り戻した。そして眉を眇めて険しい表情になったと思ったら、次にはみるみるその瞳が潤みだして…。
「樹生…樹生のせい…全部樹生のせいだ!」
そう言いながら泣き出した美樹の様子に、百合子は顔色を変えた。
「樹生が何かしたの?」
まさか、そんな事があるだろうか。
百合子と肇の知る次男・樹生という息子は、幼い頃から凡庸で、自己主張をする性格ではなかった。
ましてや優秀な兄の邪魔をするなんて…。
だが、美樹がこう言うからには、何かしらあったのだろうか。
「とにかく、話してみなさい。でなければ、何一つわからない。」
肇はそう言いながらチラリと部屋の隅に置かれたスーツケースを見た。
一泊2泊程度の荷物ではない。
まさか、本当に美樹は家を出てきたのだろうか。
なんとも言えない不安が胸を過ぎった。
「……美樹、それは…原因は完全にお前じゃないか。」
あらかたの話を聞いた肇は、そう言いながら電子タバコを胸ポケットから取り出して咥えた。
甘やかして育てたという自覚はある。それは、美樹が樹生の恋人だった雨宮と関係を持っていたと発覚した時に、顕著になった気持ちだった。
自分達が美樹を贔屓してきたのは間違いない。
美樹に比べて平凡な樹生を不遇に扱っていた。
美樹が樹生のものを搾取していた事も、知りながら見て見ぬふりをしてきた。
所詮は兄弟間の事で、成長と共になくなっていくだろうと思ったし、樹生もそれについて自分達に何かを告げてくる事もなかったからだ。
幼い頃に泣きながら訴えてきた樹生に、それくらいまた買ってやるから我慢しなさいと言っておいて、結局放置した事が何度かあるのを思い出したが、今更どうする事もできない。
今になれば、それを放置していた結果が美樹の悪癖を増長させたのだとは流石に気づいたが、やってしまった事はやはりどうにもならない。
運命の番だったから、という事にして事の沈静化が図れるのなら、それで良いかと思った。
他ならぬ樹生が良いと言っているのだし、と。
だがその後、数週間前の誕生日の日から指にあった指輪を樹生が外している事に気づいて、それとなく理由を聞いて後悔した。
『あれは誕生日に雨宮が番の申し込みをしてくれた時にくれた婚約指輪だったからさ。
もうしとく訳にもいかないじゃない。』
寂しそうな笑顔で樹生がそう答えた時、樹生と雨宮の関係が只の軽い恋人関係ではなかった事を知った。
まさか、美樹はそれを知って…?と、暗澹たる気持ちになった。
まさか、そんな。他人の番の約束を交わした人間迄取り上げようと考える程、捻じ曲がってるなんて事は…。
その時初めて、肇は美樹の性根と、樹生というもう1人の息子に向き合った。
だが時は既に遅く、樹生は父親である肇にも母親である百合子にも、何の信頼も感情も残してはいなかった。
兄の美樹と雨宮が婚約を交わしたその横で、樹生はひとり受験に取り組み、成績をどんどん上げて 結果的に当初の志望校よりいくつもランクを上げた大学に合格した。
それは紛れもなく樹生の努力の結果であり、凡庸でしかないと捨て置いた自分達の目が曇っていた事の証明でもあるように、肇の目には映った。
百合子もまた、戸惑っていた。肇と何度か話し、樹生との関係性を見直すべきではと言われても、今更愛情のかけ方がわからない。
樹生も自分達には何も期待していないようだし、合格した場合の大学の学費さえ、前々から松永の本家の義父…樹生の祖父である憲一郎に頼るつもりで約束を取り付けていたようだった。
義父は以前から、肇と百合子の息子2人に対する接し方の差異に苦言を呈してきた、松永家の良心だ。
平等に出来ないのなら樹生は自分が引き取る、と言われた事もある。
それを、改めますからと拒否したのは自分達だった筈なのに。
思いもかけぬ樹生の有名大学合格を聞いた矢先、学費の工面は自分が任されているからお前達は心配するな、と電話で義父に告げられた時のあの何とも言えない空虚な気持ちを思い出す。
つまり樹生は、自分の為に両親が金を出すとは思わなかったという事だ。
先に手を放して幼かった樹生を孤独にしたのは自分達なのに、何一つ親としてアテにされていないという事実を突きつけられて、百合子も肇も、もう何も言えなくなった。
『お前達に出来るのは、これからの樹生の人生を邪魔しない事だけだ。』
義父に静かにそう告げられて、百合子はそれに頷くしか無かった。
同じ家の中に寝起きしてはいても、樹生と顔を会わせる事は殆ど無く、美樹も曲りなりにも自分の家庭を持って家を出た。
あれだけの事をしてしまったのだから、美樹も気が済んで 流石にこれ以上樹生に辛くあたるような事はしないだろう。
顔を会わせる事も少なくなるだろうし、樹生も嫌な思いをしないに違いない。
そう考えていたのに……。
美樹は一体、何を言い出すのだろうか。
自分が雨宮を避けて遊び回り、夫婦関係を構築する努力を怠った。
番の関係というものは、単にヒートの時だけ性交渉さえしていれば良いというものではないだろう。
それは通常の夫婦関係でも同じではないか。
聞けば家事も全て雨宮に押し付けていたといい、理由を問いただせば、学生なのだから自分より時間の余裕はある筈だと言う。
それはそうだろうが…、と肇は頭が痛くなった。
というのは、雨宮は確かに未だ大学生で美樹は社会人として働いてはいる。だが別に美樹が雨宮を養っている訳ではないのだ。
美樹と雨宮の済むマンションは雨宮の家の所有であり、学生である雨宮の生活費も雨宮の家から出ている。
雨宮が気楽で時間に余裕のある学生だからといって、分担せずに全ての家事を負う必要は無いという事だ。
なのに、雨宮が自費でハウスキーパーを入れたいと言った時、美樹は他人を家に入れたくないと拒否をしたというのだ。
それなのに、拒否をした当の美樹はそれ以降も何一つしようとはしなかったという。
これには肇も百合子も呆れてしまった。
それでは美樹は、相手の金や時間や労働力、ヒート時の性交渉等々、自分は何も差し出さず、メリットだけを享受しているという事になる。
搾取の相手が樹生から雨宮に変わっただけの話だ。
確かに自分達が甘やかしたには違い無いが、大事に育てた筈の愛息子がこれ程のモンスターになってしまっていたとは。
肇と百合子は、今更ながら自分達のしてきた事を後悔した。
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