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2 まおさんと俺

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 そもそも、まおさんと初めて会ったのは、俺の方が先だった。
 
 まおさんは俺の高校の卒業生であり、俺の所属していた野球部の先輩でもあった。高校一年生の時、その野球部に練習の手伝いとしてまおさんがやってきた。
 まおさんはアーモンドみたいな形の大きな瞳と高い鼻筋をした、外国映画の俳優みたいな整った顔立ちをしていて、男子ばかりのむさ苦しい野球部の中に紛れていても、そこだけが輝いているように見えた。鍛えられた身体にはそれなりに厚みがあったが、身長はあまり高くなく、成長期真っ只中の俺たちを見上げる長いまつ毛に、俺は気がつけば胸を高鳴らせていた。
 思えばその時すでに、恋に落ちていたのだと思う。
 たった二日間の手伝いはあっという間に過ぎ去ったが、まおさんの控えめ且つ的確なアドバイスは監督にも部員たちにも好評で、夏の大会前に今度は一週間の日程で臨時コーチの扱いで再びやって来た。
 その時まおさんは大学四年生で、大学での野球部は活動を終え、就職先もとっくに決まり、時間と体力を持て余しているのだと言っていた。
 まおさんは野球部の寮の空き部屋に一週間泊まった。その部屋は偶然にも俺と三年生の先輩が暮らす部屋の隣だった。夜の短い自由時間になると、まおさんは「何してるの?」と俺たちの部屋に顔を覗かせた。他の部屋の部員も交えて気さくに話し、どうでもいいことで笑い合い、気がつけば自分の兄がもうひとり増えたような、そんな甘酸っぱい気持ちで日常生活での悩みを聞いてもらったり、大学野球のことを聞いたりして過ごした。
 そして夜が更け、消灯時間を過ぎるたびに、真っ暗な部屋の壁一枚を隔てた向こう側で眠るまおさんの姿を思い浮かべては、どうしようもない青臭い感情で下腹部がむずむずするのをこらえなければならなかった。
 まおさんが寮に泊まる最後の夜、俺は意を決してまおさんの部屋をひとりで訪れた。何をしたいとか、何かを打ち明けようとか、そんな深いことは何ひとつ考えていなかったけれど、もう会えなくなるのだと思うと、とにかくいても立ってもいられなかったのだ。
 ドアを開けて大きな目をさらに大きく見開いたまおさんの部屋は、ほとんど荷造りが終わっていた。まおさんに会うまでは野球をするのは高校で終わりだと思っていたけれど、まおさんのおかげでもっと頑張ろうと思えるようになった。だから、まおさんにお礼を言いに来ました。そう告げると、まおさんは眩しそうに目を細めて、それからなぜか少しだけ眉を寄せ、見たこともなかったほどに優しく微笑んで、腕を伸ばしてガシガシと頭を撫でてくれた。俺が少しばかり涙ぐんでいたのに気づいて、わざと乱暴にして紛らわせてくれたのかもしれない。それからメモ帳に連絡先を走り書きして、「いつでも相談に乗るから」と紙切れを俺の手に握らせた。
 高校を出たら系列の大学に楽をして進むつもりだったけれど、それから俺は野球の合間に勉強にも力を入れ、まおさんの通った大学になんとか滑り込むことができたのだった。
 
 大学入学直前、実家から大輔の家に引っ越し作業をする日、荷物はたいしてないというのに、まおさんが手伝いに来てくれた。まおさんの通った大学に進学することを、家族以外に最初に伝えた相手がまおさんだった。高校を卒業するまでの間に携帯電話のテキストメッセージでは何度かやり取りをしていたけれど、顔を合わせるのは高校一年のあの夏以来で、俺は前の日から緊張して、あまりよく眠れなかった。
 久しぶりに会ったまおさんは、初めて会った頃よりもますます綺麗で、ますますイケメンで、かっこよくて、キラキラと眩しかった。
 引っ越しには当然のように部屋主の大輔もいた。昔から誰とでも仲良くなれて、友人も多く、女の子にも大人気だった大輔は、ひとつ年上のまおさんともすぐに打ち解けた。
 打ち解けるどころか、驚くほどに馬が合った。
 あっという間に親しくなり、気がつけば、ふたりは俺を差し置いて頻繁に会うようになり、お互いを見る眼差しが変化し、そして、俺の存在など初めからなかったかのように、俺の目の前でふたりだけの時間を紡ぎ始めた。
 
 その大輔がこの春から海外赴任することになった。
 IT大手企業に就職していた大輔は、入社三年目にしてアメリカの海外拠点に赴任することになったのだ。
 出発する日、空港まで見送りに行ったまおさんと俺を見比べながら、大輔は俺に「真生まおのこと、頼むからな」と言った。
 いつしか大輔は、年上のまおさんのことを「真生」と呼び捨てで呼ぶようになっていた。
「こう見えて真生は天然で危なっかしいから」
 それはまるで、「こいつのことはお前よりもずっとよく知っている」と牽制されたように聞こえた。「大輔に言われたくないんだけど」と当のまおさんは口を尖らせながら、それでもまんざら嫌でもないという顔を確かにしていた。
 それから大輔はまおさんに向き直り、「何かあったらショウを頼れよ」と言い、さりげなくまおさんの指を握った。俺は見なかったふりをした。
 前日の夜、いつもより幾分長く、激しく、抑えきれない声を漏らしながら愛し合っていたのを、俺は大輔の部屋の、ドアの隙間から覗き見ていた。
 俺が自室に戻って悶々としていると、静かになったはずの大輔の部屋から嬌声とは異なる大声が漏れ聞こえてきた。大輔が渡米する何週間か前から、行為の前後に口論することがふたりの間で増えていた。喧嘩して、セックスして、それからまた喧嘩して……。壁を隔てた向こう側で生じ始めたふたりの変化に、俺は言い表しようのない複雑な感情を抱きながら、大輔の旅立ちの日までを過ごしていたのだった。
 
 
 
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