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9 好きなもの (終)
しおりを挟むくちゅっ、ぺちゃっ、と濡れた音が響いている。
それから、合間に漏れる熱い吐息。
粘膜同士がねっとりと絡みつく音をどこか遠くの物音のように聞きながら、身体の上に感じる重みと体温と、汗で湿った肌の感触にじんわりとした充足感を覚える。
綺麗に身体を拭き取った後、仰向けになった俺の上にまおさんがおもむろに重なり、濃密になりすぎないけれど長いキスを繰り返している。
この人はキスが好きなんだな。
昨日と今日のうちに初めて目にした、これまで知らなかったまおさんの表情ひとつひとつに胸が高鳴る。
こっそり薄く目を開けると、赤らんだ顔が濃いまつ毛を伏せてうっとりと、美味しそうに俺の唇を味わっている。
濡れた唇と、ちろりと見える赤い舌が艶っぽい。
まだ火照って汗ばんでいる背中を両手で弄ると、まおさんの口から鼻にかかった声が「んん」と小さく漏れた。
湿ったまおさんの下生えが俺の脚の付け根をくすぐる。その下にある塊は熱い、ような気がする。俺のものはもっと明確に熱く、再び血を集めて力を取り戻そうとしている。
もう一度、挿れたい。脳裏にそんな欲望が芽生えかけたのを察したかのように、まおさんがとろけた瞳を向けながら顔を離し、名残惜しそうに俺の上からシーツの上に移った。
なんだか物足りなくて、隣に並んで寝そべったまおさんに腕を回して抱き寄せる。まおさんは照れ臭そうに上目遣いで俺に潤んだ瞳を向け、柔らかい微笑を浮かべた。
お互いの顔を見つめながら、思考が少しずつ平静を取り戻していく。正気に戻ると、目の前、腕の中にあるこの人の存在が、ふと非現実的なものに感じられた。
まおさんは、俺の兄貴の恋人なのだ。
――兄貴の彼氏だから抱けっこないって思ってた?
昨日はそんなふうに食ってかかってしまったけれど、途端に言いようがないほどの罪悪感に襲われた。
これって、浮気とか、不倫とか、つまりそういうことと同じなのだ。
大輔が遠く離れた場所にいるのをいいことに、長年の想い人を手に入れた。
フェアじゃない方法で。
……こんなことをしようとするから、今日みたいにいろんな不運が重なるのではないのか?
突然押し寄せた後ろ暗い感情が、ふわふわと夢心地にいた俺を一気に地獄の底に突き落とした。
黙っていると、ふと小さく笑う声が聞こえた。
視線を向けると、すぐ目の前で、相変わらず俺をまっすぐ見つめるまおさんが、ほんの少し眉を寄せて、どこか困ったような悲しげなような、薄い微笑を湛えている。
それはまるで高校一年のあの時のような――昨日今日と何度か目にして、少しだけ見慣れてきてもいる、俺の大好きなまおさんの表情だ。
でも、どうして笑ったのだろう。
無意識のうちに唇を尖らせていたのだろうか、まおさんの指が俺の唇を上下でまとめてつまんだ。
ムッ、と視線をやると、まおさんはもう一度小さく「ふふっ」と笑い、囁くように言った。
「後悔してるの?」
ずばり訊かれて、思わず口ごもってしまった。
「それとも、思っていたほど良くなかった?」
続く問いかけにとっさに「そんなことない!」と言おうとしたけれど、まおさんが唇を離してくれなかったから「むぐぐっ」とおかしな声が漏れただけだった。
指を離してほしくてまおさんの手に触れると、まおさんはしかし俺の唇を閉じさせたまま、俺の目をまっすぐ見ながら言った。
「大輔のことだけど」
まおさんから発せられたその名前に、俺の気分はますます深いところへ猛スピードで沈んでいく。
自分たちふたりのことだけ考えていたいのに、けっして切り離すことができない。
大輔の存在を、俺の人生からはけっして除外できないのだと思い知らされたような気がした。
言葉に出さずとも「聞きたくない」という気持ちが滲み出ていたのだろう。まおさんは何も言わない俺に「聞いて」と視線を合わせるよう促した。
しぶしぶまおさんの瞳を見る。と、まおさんはもう一度「大輔だけど」と妙にはっきりした口調で言った。
「俺と大輔は、ショウが思ってるような関係じゃないよ」
え?
言葉の意味を懸命に考えた。まおさんの手を俺の唇から剥がし、今度は声を出して「えっ」と無意味に繰り返した。
「えっ、それって……え?」
「ショウは俺が大輔と付き合ってたと思ってるんだろ? そんなんじゃないよ俺たち」
「え、でもいつも、めっちゃシてたじゃん」
思わず壁越しにリビングや大輔の部屋がある方向を指差す。まおさんはちらりと指の先を見て、ぱちぱちと瞬きをしてから、「気づいてたの?」のまさかの驚きを見せ、俺を驚かせた。
「逆になんで気づかないと思ったの!?」
「そういうの疎そうじゃん。童貞かと思ってたし」
「ど……っ! ちっ、違うし!」
一応……、と口の中で付け足すと、
「そうだよね、ごめん。だって、めっちゃ、良かった」
上目遣いでまおさんが囁く。カッと耳が熱くなった。
まおさんの手が伸びてきて俺の頭を引き寄せようとする。ほとんど唇が触れそうになったところで、俺はどうにか我に返った。すっかりまおさんのペースに乗せられてしまっている。肝心な点をうやむやにされるところだった。
「待って、ごまかさないでよ」
まおさんは小さく眉を寄せ、「もう」と唇を尖らせる。
「もういいじゃん。ごめんってば。ショウのいるそばでシてたのは謝るよ」
「シ……そっちじゃなくて。じゃあ、まおさんと、大輔は……ようするに」
セフレ、と言いかけて、つい言葉を飲み込む。
口に出して言語化してしまうと、散々覗き見して目に焼きつけたとはいえ、彼らがしてきたことに現実味が帯びてしまうようで抵抗感が生じたのだ。
まおさんは俺のそんなどうしようもない躊躇など気づきもしない様子で「セフレ?」とあっさりと口にして、
「そんなところかな」
ころんと仰向けになった。
綺麗に整った鼻梁が、乏しい光の中でうっすらと浮かび上がって見える。
天井に視線を移してしまったまおさんの横顔をじっと見つめていると、「がっかりした?」と声が聞こえてきた。
がっかり。失望。その感情がどんなものなのか考えてみるけれどうまくいかない。
なぜならば、たぶん、俺の中でのこの人への気持ちが、少しも変わらないからだと思う。
大輔と抱き合っているのを何度も見たけれど、それでも俺の想いは変わらなかった。
むしろ、より強くなった。
より強く、もっと、この人を欲しいと思った。
大輔よりも、他のどんな人よりも、この人を愛したいと思った。
「まおさん」
視線を逸したままこちらを向いてくれないまおさんの手をそっと握り、指を絡めて、一言一句間違いなく聞き取ってもらえるように、はっきりと言葉を発した。
「がっかりなんてしない。俺、まおさんのことずっと好きだって言った気持ち、今でも少しも変わらないから」
まおさんはしばらく身動きひとつせず、天井を向いたまま黙っていた。
聞こえなかったのだろうかと心配になった頃、かすかに浮かび上がって見えるまつ毛の影が細かく動き、それから絡めた指がきゅっと握り返された。
「昨日ショウとするまで、もうずっと、何年も、キスしてなかったんだ」
これまでに聞いたことがないほどのか細い声が、薄闇の中で静かに囁いた。
「だって、そういう相手とはキスしないから」
えっ?
聞き返す前に静かに言葉が続けられる。
「本当に好きな相手としか、しないから」
それってつまり……。
我慢できずに尋ねてしまった。
「大輔とも、してないの?」
するとまおさんはようやく俺の方に顔を向けてから、クスッと笑い、
「ショウも大輔も、お互いのことに囚われすぎなんだよな」
独り言のように呟く。
大輔「も」……?
言葉の真意を考えているうちに、まおさんはもう一度小さく笑うと、
「ショウは大輔とは全然似ていないし、全然負けていないよ」
それから俺の方に身体ごと向き直ると、温かい手のひらで俺の頬を撫でた。
「いつも自信なさそうだけど、ショウはずっと前から優しくて、落ち着いていて、包容力があって、カッコイイんだから、もっと自信持っていいんだよ」
「……ずっと前?」
それはつまり、初めて会った頃の、まだ文字どおり子供だった高校一年生の時のことを指すのだろうか。それ以外に思い当たる「ずっと前」はないのだけれど。
俺がさらに問いただす前にまおさんは三度小さく笑うと、俺の頬を指先でなぞりながらそっと囁いた。
「そういうところがショウの可愛いところなんだけどね」
まおさんがじっと俺の瞳を見つめる。
薄暗くてけっして鮮明には見えないけれど、その眼差しがとてもあたたかいものであることが――高校一年のあの時の、優しく頭を撫でてくれた時のような、優しい視線であることが俺にはわかった。
もしかするとそれは単なる願望の末の思い込みなのかもしれない。
それでも確かにまおさんの手はあたたかく、柔らかく、俺の頬を撫で続けてくれていた。
*
しばらくの間シーツの上で抱き締め合った後、ふたりでキッチンに移った。
性欲が満たされ、心も幾分満たされると、とたんに腹の虫が鳴き始めたのだ。
キッチンには留守の間にまおさんが作ってくれていた肉じゃががあった。そういえば朝食も作ってくれていたはずだった。今さらのように食べそびれたことを謝ると、「俺の昼ご飯になったよ」と気にする様子もなく笑ってくれた。
まおさんの手料理はこれまでにも何度か食べたことがあった。当然それは大輔との食事の「ついで」みたいなかたちであったから、大輔の好物であるパスタやシチューなど洋食が中心だった。俺は子供の頃から和食の方が好みで、特に肉じゃがには目がなかった。まおさんと大輔との食事中に、何かのはずみでそんなことを話した覚えがあった。まおさんがそれを覚えてくれていて、しかも俺だけのために作ってくれたのだと思うと、美味しい手料理がひときわ美味しく感じたし、口元が緩んでどうしようもなかった。朝からあまり食べていなかったせいもあり、多めに作ってくれていたというのにほとんど完食してしまった。
食事を済ませて食器を片付け終えると、ふたりでソファーに座って寛いだ。
テレビをつけて、ミネラルウォーターを飲みながら、だらしなく脚を投げ出す俺の身体にまおさんがぴったりとくっつき、寄りかかった。
いつもどおりの、ふたりの夜だった。
これまでと違うのは、この人が俺の気持ちに応えてくれていて、堂々と抱き締められること。
身体の前面に密着する体温を両腕で緩く抱き留めながら、懲りない俺は今日もやっぱり身体が火照り始めるのを抑えられなかった。
「まおさん、あのさ」
まおさんはテレビに視線を向けたまま、「ん」と素っ気ない返事をした。聞いてくれる気があるとわかるのは、まおさんの手が、俺の手に指を絡めてきたからだった。
「まおさんって、いつも俺にこうやってくっついていたけどさ」
指を絡められただけでいつもどおりそんな気になってきた下腹部をもぞもぞと動かし、尋ねた。
「俺の、異変、気づいてた?」
まおさんは意味を考えるかのように目を二、三度しばたたかせてから、
「勃ってたこと? 知ってたよ。めっちゃ当たってたもん」
悪びれることもなくあっさりと答える。訊いた自分の方だけが猛烈な羞恥心に襲われた。
「な、なんだったのあれ。誘ってたの?」
すると見開かれた大きな瞳がやっと俺の方を向き、さも心外そうに言った。
「誘う? ショウを?」
訊いたこっちが馬鹿みたいだと思えるほどに簡潔な問いかけが返ってくる。
思わず身体を離してまおさんの顔を見た。
「違うの!? 誘ってないんだったら、なんだったのあれ!」
まおさんは相変わらずきょとんと目を見開いて、しばらく俺を見つめてから、
「いや、普通に、純粋で可愛いなって。あったかかったし」
「……ほんと天然だよね!?」
むくれる俺をまおさんはやっぱりきょとんと見やってから、不意に俺に向かって腕を差し伸べた。
「でも、今はもう違うよ」
まおさんはフフッと小さく笑ったかと思うと、俺の肩に両腕を巻きつけ、どことなく色っぽい眼差しを向けながら、かすかな声でとびっきり甘く囁いた。
「……キスしてよ、ショウ」
身体の上にあたたかい重みが覆いかぶさり、ソファーにゆっくりと押し倒される。
天井の明るい電灯の光が、近づいてくるまおさんの頭で遮られ、次第に視界が暗くなる。
結局またうまくごまかされてしまったことには気づかないふりをして、俺はこの人の望みに応えるために、柔らかい頭髪に指を差し入れ、俺自身も望んでやまない魅惑的な唇を求めてその頭を手のひらで引き寄せた。
(了)
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最後までお読みいただきまして、
ありがとうございました!
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応援ありがとうございます!
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