魔王の事情と贄の思惑

みぃ

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 ふっと、ヴィンの気配が消えたのをアーティスは感じる。転移陣を使用し、人の住む地へと移動したようだ。
 どこかで予想はしていたことだが、喪失感は覚える。手放してしまったわずかな後悔が、胸に苦みを落とした。

「いいのか」

 同じように気配が消えたことに気付いたリュディガーが、気遣わしげにまなざしをアーティスに送る。表情を変えた覚えはないが、複雑な心境を察したようだ。

「ああ」
「愛しているんだろ」

 疑問形ですらない。確信しているリュディガーの口ぶりだ。
 ふう、とアーティスは息を吐く。

「ああ」
「それなのに、行かせてよかったのか?」
「いい。ヴィンの望むようにしたらいいんだ」

 幼い頃から狭い世界で生きてきたヴィンは、外の世界へ目を向けた方がいい。初めて行った祭りに、あんなに目を輝かせていた。
 知らないことは、まだまだたくさんある。魔族の地にいる限り、ヴィンは知識だけを得て終わらせ、興味は示さない。実際に見て触れてほしいと連れ出すのは、いつもアーティスだった。

「ヴィンにはもう、魔王を継がせないって決めたのか?」
「……さあな」

 知る者は限られているが、贄とは次代の魔王候補だ。人を知り、魔族を知り、審判役を担う。

 だから本来贄は、その時が来るまで大切に、大切に両親に育てられる。世界の命運を握る者なのだから当然だ。それをヴィンの両親は怠り、虐げ、まるで棄てるように贄として放り投げた。

 あんなボロボロの姿で魔族の地に送られて、誰も彼もが敵だとでも言わんばかりのヴィンに、温厚で人間に寄り添ってきたアーティスも人の世の終わりを意識する。産まれてからずっと愛を与えられず、負の感情だけを向けられ続ければ、人の世に情など持つわけはなく、人の世の終わりを惜しむわけもない。
 魔王であるアーティスが、そのまわりの魔族たちが大切にしただけでは意味がなかった。

 アーティスとしても、とうの昔に大切に育て愛してくれた両親、優しかった周囲の者たちも寿命を迎えている。親族の血もとっくに薄まり、ただの欲深い人間という認識だ。だから、ヴィンが望むなら、人の世など滅びを迎えてもいいと思っていた。

 それでも、魔王の継承には思い切ることができないまま今に至る。大切に思うからこそ、ヴィンの幸せを探っているうちに、魔族の住む地を出ていった。

「ヴィンに、教えてないんだろ?」
「ああ」

 書庫でヴィンが見つけたものには、魔王継承についでまでは記載されていない。贄の真実が書かれた書物は、アーティスの書斎に封じてあった。歴代の魔王、または伴侶のみが開ける空間だ。伴侶に関する書物も、そこにあったはずなのになぜ書庫にあったのかはわからない。

「言えなかった」

 が、正しい。優しさには裏があるとしか思えなかったヴィンに、次代の魔王としてこの地へ送られたと、言えるわけがない。魔王候補だから大切にしてもらえる、なんて思ってほしくなかったからだ。

 そんなのは、悲しすぎる。魔王を継げば、長い生を生きなければいけないのに、ヴィンの孤独を強めてしまうことにもなりそうだった。

「まあ、決めるのはアンタで、俺たちはそれに従うまでだ」

 必ず、魔王を継承させなければいけないわけではない。まだ魔王として立てるのならば、見送ることも可能だ。その選択権は、現在の魔王であるアーティスが持っている。ただ次はまた数百年待つことになり、ヴィンの姿を見るに、約束を守るかも定かではい。

 人間の寿命は短い。次に次にと世代が移り、その中で大切な約束ごとでもぞんざいに扱われ廃れていく。

「そう言いつつ、顔が不満そうだな」
「あたりまえだろう。友人の自殺なんて見たいわけない」
「今のところ、勇者に討たれてやるつもりはない」
「今のところ、か。ヴィンがいる限り?」
 的確な指摘に、アーティスは苦笑を返す。

「ヴィンが人の世に暮らしている限りは何もしない」

 そのくらいならば、正気を保っていられる。この世はもう、ヴィンの選択に委ねられていると言っても過言ではなかった。

 ヴィンを失えば、アーティスが家族にも思える魔族たちが側にいたとしても、喪失感は埋められない。間違いなく、これ以上の長い生は耐えられなかった。

「リュディガー、おまえがなるか? 魔王に」
「なれないの、わかってるだろ」
「そうだな」

 魔王の条件は、人間であることだ。
 人の世を知らない魔族では、審判役としては適さない。

「おまえがそばにいる間に、次の魔王候補が現れたらいいな」
「俺じゃ、アーティスの孤独は埋められない」
「おまえの孤独は?」
「俺はいずれ、可愛い伴侶を迎える予定だ」
「そうか」

 さらりと告げるリュディガーが、少し羨ましい。
 しがらみを全部捨ててしまえるのなら、すぐにでもヴィンを追いかけている。けれどそれができないことも、アーティスは知っていた。

「人間の命など儚い。あっという間に老いる。もう、今のヴィンには会えないかもしれない」
「手放す、いいきっかけなのかもしれないな」
「いや、なんで手放すんだよ。アンタのだろ、ヴィンは」
「さあ、な」

 肌を合わせても、好きだと伝え伝えられても、手に入れた実感がない。アーティスがそうなるよう、仕向けてしまったという後ろめたさが消えないからだ。

「相変わらず臆病だな。魔王のくせに」
「うっせぇ」
「ヴィンは望んでたんだから、伴侶にしたらよかったんだ」
「それで恨まれたら、どうすんだよ。アイツは長く生きる意味を知らない。その孤独を知らないんだ」

 愛してしまった。だから、終わらない生をヴィンに与えるのを躊躇した。

「孤独って、アーティスがいるだろ」
「俺に愛想を尽かした時点で、ひとりになる」

 真剣に言ったのに、リュディガーは呆れたような眼差しをアーティスに返す。ため息の、おまけ付だ。

「だから、どうしてそんなに後ろ向きなんだ」
「ヴィンは、怖い物知らずな子どもなだけだ」
「否定はできないけど、本来子どもは欲しいものに対して手を伸すもんだろ。まあ、取り返しがつかなくなる前に、なんとかしろよ、魔王陛下。ヴィンが戻ってくるのを待つか、アンタが迎えに行くかはまかせるけどさ」
「帰ってくる前提だな」
「帰ってくるだろ。ただ、ヴィンも結構斜め上の思考してるから、時間が経てば経つほどめんどくさいことになりそうだけど」
「……最後に会った時、僕が敵対したら、なんて言ってたな」

 リュディガーの表情が固まり、執務室に沈黙が落ちる。今更ながら、かなり不穏な台詞だ。正直、勇者よりもやっかいな相手と言える。ヴィンの実力は、アーティスに肩を並べていた。

「勇者もいるんだ、騒々しくなる前にどうするか決めろよ」
「わかったよ」

 長い生を持て余し、本当に来るかわからない次の候補を待てない。ならば、アーティスが選ぶしかなかった。ヴィンに魔王を継承するか、伴侶として選ぶか、またはこのままアーティスが限界を迎えるまで魔王として立ち、いずれなんらかの形で人の世を終わらせるか。

 魔王という名の調停者が消えると、女神は欲にまみれ争うことばかりを選ぶ人の世は見限るとアーティスは聞いている。天変地異で、全てが失われるとも。この世を見捨てる道を選ぶのならば、アーティスは勇者の聖剣に討たれてしまえばいい。自殺、と称したリュディガーは本当に的確だ。

「さて、あとは侯爵家をどうするか」
「処刑しておけ」
「いいのか?」
「いいだろ。ヴィンが怪我をした」
「擦り傷な」

 呆れたように、リュディガーは嘆息する。

「普段から、そういう魔王としての顔を見せたらいいだろ」
「平和なんだから、見せる機会ないだろ」

 非情になれないわけではない。普段の無害そうで優しい顔とは裏腹に、アーティスは切り捨てる時は切り捨てる。そこに、躊躇はない。

「たしかに。勇者が現れるとか、魔王の代替わりの時期とかでなければ、平坦な日々だよな。気が狂いそうになるほど」

 ああ、と頷くアーティスの声には、ひどく実感がこもっていた。

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