魔王の事情と贄の思惑

みぃ

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 ヴィンと出会ったその瞬間は、今でも忘れられない。

 魔族の住む地は人の住む地と地続きとはいえ、簡単に人が入り込めないように結界で遮られている。それを維持、管理しているのは魔王で、魔族以外が結界に触れれば魔力の揺らぎを感じすぐにわかった。

 通常であれば結界があることにさえ人は気付かず、自然と森の中をさまようことになる。結界を越えられるのは、限られた者だけだからだ。

 それなのに何者かが結界を越え、魔族の地に降り立ったのを魔力の揺らぎでアーティスは知る。一定の周期であらわれる勇者の情報をうまく得られず、前情報なしに訪れたのかと思ったが、方向が迷いの森ではない。なにより、聖剣が結界を裂く気配が感じられなかった。

 むしろ、森よりも気配は近い。魔王城の中庭にある薔薇園のガゼボだと気付くと、アーティスはすぐに転移した。そして、驚くことになる。予想とは何もかも違うヴィンが、そこにはいた。

 魔力の強さを表わす赤みの強い紫の瞳が、ゆるりとアーティスを見上げる。

「ニエは、どうなるんですか?」

 唐突に姿を見せたアーティスに怯えることもなく、淡々と尋ねる姿に胸の痛みを感じた。同時に、滅多に動かなくなっていた感情が動いたことに、驚きを覚える。

「ここで、魔王城で暮らすんだ」
「まおうじょうでくらす」

 感情の感じられない声だった。
 子どもらしくない、とアーティスは気付く。贄になることを言い聞かせられていたとしても、先が見えない中では必然と怯え、動揺が見えるものだ。けれどそれが、まったくない。

「そうだ。俺がこの城の主で、魔王だ」
 正体を明かせば、ぱちり、とヴィンは瞬きをひとつする。
「働けばいいんですか?」
 たどり着いた思考に、アーティスの方が驚く。
 貴族であるはずだ。身なりはいい。
「いや、今までと変わらないような生活だ」
「今までと……」
 初めて、嫌そうな顔をした。

 とりあえずリュディガーのところへ連れて行こうと抱き上げると、予想以上に軽い。そのことに驚きながら、転移した。

「どこに行って……どうしたんだ、それ? 人間だよな」

 腕に抱え執務室に戻ると、リュディガーが眉をひそめる。不躾な視線にもヴィンは怯えることなく、また何かを乞うこともなく、淡々と成り行きに身をまかせていた。

「人間だ」
「おまえなあ、癒やしが欲しいからって、魔王が動物のように人間拾うなよな」

 客観的に見れば、そう見えるのかとアーティスは気付く。
 魔族の地にいる人間は、こんな風に誰かしらが気まぐれに拾ってきた者たちだ。不遇な境遇で、人の地に未練がないという共通点を持っている。腕の中のヴィンは身につけている衣服だけは上等だが、ひどく痩せ細り顔色も悪かった。

「ちがう」
「ちがう?」
「贄だ」
「贄?」
「忘れていた。もうそんなに経ったのか」

 このときに初めて、世界の理をリュディガーに話した。
 すべてが口伝えで、書物には残っていない。時がくれば、伝えられる。歴代の魔王と、その側近のみが知ることを許される話だった。

「何もかも、知っていると思ったんだけどなぁ」

 理解したリュディガーは、苦く笑う。アーティスが薔薇園で保護した子どもが、次代の魔王候補だ。スムーズに継承を終えれば、今度はヴィンにリュディガーは仕えることになる。そしてアーティスは解放され、止まっていた時の流れを取り戻すことになっていた。

 そのことに安堵する、はずだった。

 けれどヴィンの生い立ちを聞けば聞くほど、アーティスに迷いが生じる。それでもそばに置き、魔王を継承すべく教え育てた。

 初めは何に対しても遠慮がちだったのが、いつからか新しいことを教えれば目を輝かせ、できないことを悔しがり、負けるかと努力する。才能があったのだろう。教えたことを、ヴィンはみるみると吸収していった。同時に、感情も動かせるようになり、表情が増えていった。

 若干、情緒面に憂いはあったけれど、魔王として立つのに実力は申し分ない。そのとき、人の地がどうなるかの行方には、目をつむりさえすればいい。

(それなのに)

 いつの間にか、ヴィンを愛してしまった。
 愛を知らないヴィンが悲しくて、愛しくて、親愛の情を注いでいたはずだったのに、アーティスさえ気づかないうちにすり替わっていった。気付いた時にはもう、手遅れなのだから性質が悪い。だからと言って、どうするつもりもなかった。

 けれど張り詰めたものは、永遠とそのままで保てるわけがない。愛しいと思えば思うほど、色々なことに迷いが生じる。ヴィンの存在がアーティスの長い生の中での救いであり、絶望でもあった。

 限界だったのか、気が緩んだのか、確かなところはわからない。ある夜、何かを求めるように、孤独を埋めるように、アーティスはヴィンに手を伸ばしていた。

 一瞬、ヴィンは驚きに目を見張る。けれど拒むことなく、自らアーティスの背に腕を回した。触れる肌の温度が、生々しい熱の触れ合いが、生きているのだと実感させる。けれど翌朝になるとアーティスは我に返り、ほんの少し、胸の中に苦い後悔が滲んだ。

「好きだよ、ヴィン」

 関係が恋人へと変わり、何度繰り返し唇にのせたかわからない。胸の奥底に沈めていた愛しいと思う気持ちをアーティスは伝え、大切にしているのに、ヴィンはよく不満そうな顔をした。

「あなたはすぐ、保護者の顔をするから性質が悪い」
「保護者なのは間違いないだろ」
「くだらない」
「くだらなくない」
「僕のすべてが欲しいなら欲しいと手を伸ばし、強引にでも奪い取ればいい。あなたになら、殺されてもいい。当の本人がそれをよしとしているのに、妙に遠慮しているところにハラが立つ」

 強烈で、熱烈な告白だった。
 まっすぐに、ヴィンは感情をぶつけてくる。あんなに何もかもをあきらめたような瞳をしていたのに、感動を覚えるほどだ。

「なにその顔」
「感情豊かになったなと思ってさ」
「僕の感情が動くのは、あなたにだけだ」

 喜びと苦みが入り交じり、俺もだ――とアーティスは言えなかった。
 ヴィンをそばに、置かなければよかったのかもしれない。信頼できる側近の誰かにまかせ、その時がきたら魔王を継承する。そうしていれば、きっとよかった。

 けれどもう、何もかもが遅い。今更でしかないことだった。

(人を愛する気持ちなど、とうに枯れ果てたはずだったのに)

 愛しくて、ヴィンが大切だからこそ、同じ苦しみを味わわせたくない。いずれ手放した方がいい。わかっていても、覚悟はそう簡単にできるものではなかった。

 それこそ、ヴィンの方から離れて行かない限り、アーティスは決断しきれないのかもしれない。

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