君の夏になりたい

辰巳劫生

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第二話〜嫌な感〜

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 病院特有の人間味のないというか、冷めた匂いを抜けて、自転車にゆっくりと跨る。
 子供の頃来た時は、到底開けられなかったような重い扉を軽々開くとジットリ湿っぽい空気が僕を包んだ。
 ここから自転車で、立ち漕ぎすれば二十分、座って漕げば三十分の位置に僕の自宅はある。
 映画で切り抜かれそうな細くて急な坂に、昨日の雨が残る気持ちばかりのコンクリート。そのコンクリートがチラホラ増えてきたな、と思ったら僕の家はもう近い。
 病院までの往路は下り坂で、脚をペダルに付けず、自転車に身を任せればほとんど目的地まで着く、その一方で復路は当たり前だけど上り坂。正直帰りの道のりはかなり億劫なんだよな。この坂のキツさどうにかならないのかな、と結構頻繁に思うけどこればかりはしょうがない。
 散々坂を上り尽くした先、小さな街を一望できる立地に、僕の自宅は静かに佇む。
 お母さんはもう、あまり長くないらしい。

 昔の事を思い出した。お父さんの話を聞かされたあの日。ほとんど薄れきったお父さんとの記憶に、お母さんが色を塗ったあの日を。
 僕のせいだった。
 幼稚園の友達と川岸で遊んでた僕は、調子に乗って川に入った。連れて来てくれた父親達は、下流の方でバーベキューのお供として酒を飲んでいた。僕のお父さんも。
 そんな中で僕は、見えない流れに足を取られ、お父さんは川の水を掻き分けるように必死に僕の流れてくる先に向かって無我夢中で歩く。そして僕の手を掴んで引き上げた反動で、強い流れに流された。簡単に言うとそんな感じらしい。
 お母さんが僕にそれを伝えた時、僕はとんでもない自責と、それまで溜まっていた喪失感で黙りこんでしまった。妙に頭がスっとした。どうやら薄情な僕はそんな印象的な体験も、全て記憶から消してしまっている。
 慌ててお母さんがかけてくれた慰めは、かえって僕の心をキュッと締め付けた。
 思い出せないなりに、そんな優しい父の事は好きでいようと思った。
 
 家に戻って、重たい足取りで二階に上がる。いつものようにベッドに腰掛けるや否や、身体の内側、芯の部分からドっと疲れが押し寄せてきた。長いこと自転車を漕いだからか、いやそういう訳でもなさそうだ。
 僕の身体が何もせずに休め、と言うので、僕は素直にそのまま目を閉じた。今度は心地よい温かさが僕の身体を駆け巡った。

 部屋に日が差してもう朝だと気がついた。いつもは僕を掴んで離さない布団が、今朝ばかりはすんなり離してくれた。
 頭の中は騒がしいような落ち着いてるような、言葉では言い表せないような感覚。
 一階に降りて、あくびの混ざってぼんやりした声でおはよ、とばあちゃんに声をかけた。
 ばあちゃんへの挨拶は、僕の中で一日の始まりのスイッチという役割も兼ねている。階段の最後の一段を下ると、炊けた白米の篭ったような匂いが畳を通って鼻腔を掠めた。じいちゃんは居間で新聞を被りながら呑気にイビキをかいている。
 いつもと何が違うかって聞かれても分からない。けど、あらゆる事がちょっとずつぎこちないような、そんな朝だった。
「休日なのに早いんだね、葵葉」
 ばあちゃんに言われてハッとした。休日…今日って、日曜日か…何を思ったか、僕は休日の朝五時に目を覚ましてしまったみたいだ。サイアク…まだ寝れたのに。
「あぁ、今日は大貴と遊ぶんだ。早い時間から。いやぁよく目を覚ましたよな僕」
 平日だと勘違いして早く起きた、なんてのは、何故かプライドが傷ついて言えない僕はいつもの手を使った。よくもまぁこんなにペラペラと嘘がつけるもんだ。我ながらすごいと思う。
「うんうん。それは楽しんでね」
 そんなありもしない話に、ばあちゃんは見た事ないくらいの安堵をみせた。お母さんの事で、僕が気を落としてないか、相当心配してくれてたみたいだ。心がミシミシと音を立てて痛むのを感じる…
「ゆっくり食べなよ」
 ホッケの塩焼きと白米と、それと味噌汁がばあちゃんの優しい声と共にやってくる。ゆっくり食べなよ、ってのは多分、僕がつい先日魚の骨を喉に引っ掛けたからだろう。
「ちょっとだけ待ってて、ばあちゃん」
 焼きたての美味しい匂いがするこの上ない朝食、温かいうちに食べないなんてのは愚行の中の愚行だ。分かってる。でも、ばあちゃんのあの安堵の表情を裏切る事はもっと愚かだと僕は思った。
「ええっと、番号番号」
 かなりの急ぎ足で大貴に電話をかける。こういう場面は少なくなかった。何かにつけ、大貴の名前を出すと現実味が増すからってのでいつも使う手口だ。
 起きてるかなぁ…と謎の緊張を伴う電話のジリリリという掠れた音が四度ほど鳴ったすぐ後、電話口から、もしもし!と、元気な声が聞こえた。ふぅ、よかった。
「あーもしもし、今日、ちょっと会えるか?」
「あぁー、分かった」
 承諾に躊躇いはなかったけど、もしもし、の声色と比べてしまうと、かなりウンザリされてるような気がしてならない。っていうか多分ウンザリされてはいた。
 集合時間とかは特に伝えてないけど、まぁどうにかなるだろう。何も伝えなくても毎回だいたい同じような時間に集まれてしまう。
 お互い口に出そうとはしないけど、一から十までとことんウマが合うらしい。
「お待たせばあちゃん。」
 ばあちゃんは新しいホッケを焼き直してくれていた。
「冷めた方は私が食べるから、こっち食べな」
 なんて献身的なんだ…ありがとう…と心の中で唱えて、それでも感謝を伝えるのは小っ恥ずかしいので、遠慮なく、とだけ返した。
 自分のこういう所、本当に嫌いだ。素直にありがとうが言えないのはちっちゃい頃からの悩み。
 代わりと言うには拙いけど、少し意識して汚い箸使いで美味しそうにワシャワシャかき込んだ。
 程よい満腹が気持ち良くて、お腹をさすりながら少し鼻歌交じりで居間に寝転がる。大貴はどうせ昼過ぎに来るだろう。こうしてゆっくり出来るのは、集合場所前に住んでいる特権。数時間本を読んでから、そろそろかなと支度を始めた。
 ちょっと大きめの半袖に大きめのズボン、大きめのサンダルを履いて、最後にズボンの紐をキュッと締め付けた。
「じゃあ行ってくる」
 気をつけるんだよぉ、という台所からの遠い声を背中で受けながら、念の為財布だけ持って家を出る。
 暑っつ。急な日差しに思わず声が出てしまうくらい驚いた。昨日のどんよりとした天気から一転、うざったいくらいに太陽は僕を照りつける。
 自転車のサドルが見るからに熱くなってる。こりゃ町中のご高齢様方はまとめて熱中症だろう。
 ウンザリする長くて急な坂を越えた頂上ってのもあって、僕の家には人がよく集まった。
 少し東に行くと、駄菓子屋のつよしがあって、少し北に登って行くと澄んだ川があったり、少し西に坂を下って行ってみると、ちょっと遠いけど港があったり。そんで南にはお世辞にも綺麗とは言えない薬局がある。
 良しも悪しもここを中心に繰り広げられたので、我が家はいつしか"いつもの場所"となった。
「アッチーな」
 聞き慣れた声が聞こえてパッとそっちを向くと、 おう、と一言、右手をあげてこちらに微笑む大貴が居る。ウンザリした口調から一転した今の態度が愛らしい。
「どうよ、最近」
 大貴が切り出す。
「なんだよ"どう"って」
 僕が返す。
「"どう"は"どう"だろうよ、ほら、体調とか」
「高校で毎日会ってるし、見りゃ大体わかるだろ」
「じゃあなんで朝に弱いお前が日曜の朝っぱらから起きてたんだ?」
「それはまあ…」
 大貴は偶に気味が悪いくらいに鋭い。
「そういえば今日って七月一日だよね、あれ、祭り?」
 どうにか上手く話を逸らした。
「知らなくて呼んだのか?俺は準備してきたぞ」
 言われてみれば確かに、若干気合いの入った服装から楽しみにしていた様子が伺える。
 綺麗に立ち並んだ屋台、果ての見えない提灯の羅列にじわっと込み上げる熱気。互いに大人数を好まない事もあって、祭りには毎年二人で参加している。
 確か中学二年くらいの時だったか、二人で祭りに行くって状況に、お互い変に照れて上手く会話が回らない年もあったような気がする。僕達二人の歴史は無駄に長い。
 一旦行こ、と自転車で二人、少し坂道を抜けると、もあっと温くて嫌な風が頬を撫でた。
「大貴大学どうするの?」
「そうなんだよ、本当にやばいんだよ。」
「明日からやるってやつ、ついに三年言い続けたな」
「おう。悪いと思ってる。明日からやる」
 はぁ、と一つため息を吐き捨てたとほとんど同時に、夏の始まりを知らせる「劈頭祭」の会場となる大通りに着いた。道の向こうに少し日が傾いてきている。
 栄えある入口一番手の屋台は、「つよし」だ。今年から祭りに参加する事を決めたらしい。駄菓子屋の身でたこ焼きを売るそうだ。
 ちなみに薄くなっていた「つよし」の文字は三年前にその妻によって上書きされ、ついにハッキリ濃くなった。もうそこに元祖「つよし」の意志は一ミリも介在してないだろう。ちょっと惨い。
 うおあ!すげえな!と初めてのようなリアクションをする大貴。確かに今年の提灯行列は例年より暖かくパッと晴れて見えた。
 例によって何故だかフッと父親の影が浮かぶ。顔や性格を思い出せる訳ではない。ただ何故か、僕はそこにうっすらと残像のような父を見た。

 少し時間が経った。順調に祭りを練り歩いているが、時折母の事を思い出して極端に気分が落ちた。嫌が募って消えてしまいたくなった。
 それでもその度、程よい高揚と何をかもを忘れさせてくれる青春の情景が僕をうっとりしてしまうような温い幸せに包んだ。
 焼き鳥買ってくるわ。と大貴が言った。そろそろ満腹だったのでひとつ返事で了承した。
 ふっと変に気持ちが落ち着いた。何かデジャブを見ているような感覚が少し。
 まぁいいか、と大貴を待つ間何となくフラフラしていた。
 すると急に、微かな使命感が僕を襲う。それなのになんだか、こうなる事が分かってたみたいな、変な感じがする。気の赴くまま、僕を導くような提灯を潜り横道に逸れて更に奥へと足を進めた。
 意図せずして足が進む感覚に理性は動揺していたが、そんな心の奥からの感情を超えた次元で、僕は自ら歩いた。
 ハッとした。スタスタと歩いてきた先には塀というか扉があった。"立入禁止"と書かれた手書きの張り紙が乱雑に貼られている。扉は少しだけ開いている。
 好奇心とそれに真っ向反対する気持ちがぶつかるのを感じた。二つの感情は拮抗している。
 頭を整理しようと脳みその引き出しから現実的な話題を引き出す。思い出されたのは母親の病気の事だった。疲れて湯船に浸かった時のような、それでいて嫌な感じがする不思議な脱力感が襲う。
 そして引き金が引かれた。ほんの指先ほどの嫌悪が、恐がりながらも僕の背中を押していた。
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