椿の国の後宮のはなし

第6話 決意

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　誰もいないのをいいことに服を脱ぎ散らかし、雪樹はドタバタとうるさく浴室になだれ込んだ。焦げ付いた鍋底を擦るように、せっかくの玉の肌をゴシゴシ拭う。つま先から頭のてっぺんまで一息に洗ってから、湯船につかった。
　天然温泉を引き込んでいるという柘榴御所の湯殿は、二十四時間入浴が可能だ。実家がそこそこ裕福な雪樹の目から見ても、大層豪華な設備である。
　さすが国一番のお金持ち、皇帝陛下のお住まいといったところか。

「ふああ……」

　乳白色の湯にじんわり温められて、全身の強張りが解けていく。自然、口から情けない吐息が漏れた。体の内側から疲労が抜け出ていくと、その空いた部分に、目下の悩みのタネがひたひたと入り込んでくる。

　――私はいったい、何なんだろう。

　蓮に乱暴され、後宮に閉じ込められた。当初は悲しくてつらくて、絶対にここから出てやる！　と、息巻いていたはずなのに。
　それなのに今は、このままでもいいじゃないかと、気持ちが揺らぎ始めている。
　あれだけ苦労して勝ち得た西方高等学問所への入所を、諦めてもいい。
　小さな頃から積み上げてきた学びの努力だって、捨ててしまってもいい。
　自暴自棄になっているわけではなく、本心からそう思っている。
　――だからこそ、たちが悪い。
　そりゃあ本音はこれからも勉強を続けて、自分の力を試してみたい。しかしそのために、蓮と離れられるのか。

　――ほんの一日や二日ならまだしも、学問所の卒業まで四年間、離れ離れなんて寂しいよ……。

　湯に鼻の下まで沈み、雪樹はブクブクと泡を吹いた。己の甘さ、バカさ加減に、泣きたくなる。どうしてこんな風になってしまったんだろう。
　自分は、もっと強い人間ではなかったか？
　例え家族と別れることになっても、おんなというせいにとらわれず、りっぱないちしゃかいじんになろうと、決めていたじゃないか。――ちょっと青臭い考えだが。
　それが、今や――。
　男に頼り、縋り、后か寵姫として飼ってもらおうなんて――甘っちょろいこれは、雪樹が一番軽蔑していた「女」の、哀れな生き方そのものではないか。
　やっぱりダメだ。
　いや、そういう人生もありだ。
　頭の中で相反する意見がせめぎ合い、雪樹を疲弊させる。
　いっそ殴ったり蹴ったりの酷い扱いをしてくれれば、遠慮なく蓮を憎むことができたのに――。見当違いの恨みを、雪樹は皇帝に向ける。
　そうだ、昼間は軽口を叩き合い、夜はあんなに優しく情熱的に愛されて、そんな男を嫌いになどなれるはずがない。
　肝心の行為だって、痛いことをされたのは最初の一回だけで、あとはまあ……なんだかんだ言って、今は楽しんでしまっているような気がするし……。
　恥ずかしいから、認めたくないけれど。――断じて、認めたくはないけれど！
　何度も体を重ねて分かったが、蓮は自身の快感を追うより、雪樹を悦ばせることに重きをおいているようなところがある。
　雪樹が可愛くてたまらないのか、それともただの変態なのかは、判断がつきかねるが。

　――何もかも突然過ぎたから、だから、話が面倒なことになったんだ。

　結局はそれに尽きるだろう。
　友人として十年も親しくつき合ってきたのだ。雪樹と蓮の、気が合わないわけがない。
　蓮が皇帝という立場でなければ、いつか二人は普通に愛し合い、結ばれていたのではないか――。
　壁際の天井に備え付けられた吹き出し口から、源泉がドバドバと音を立て、流れ落ちてくる。大人数で入浴できる広さの湯場をたった一人で贅沢に味わいつつ、雪樹は四肢を伸ばして仰向けにぷかりと浮いた。
　恋愛には様々な形がある。天井から降ってくる湯のように、急転直下落ちていく人間もいるだろう。湯が肌に浸透していくようにじわじわと、気づけば身も心も、相手のことでいっぱいになってしまっていた――というタイプだっているだろう。
　前者が蓮で、後者が雪樹である。

　――つまり。つまり……。

　いい加減、受け入れなければ先に進まないから、雪樹は覚悟を決めた。

　――私は蓮様が好きなんだ……。

　そう認めたものの、だからって素直に蓮の胸へ飛び込んでいく気にはなれない。なぜなら彼の気持ちを、何ら聞いていないからだ。
　あの男は雪樹を后にしたいなどと抜かしておきながら、じゃあ「何故」そうしたいのかという、肝心なところを明らかにしていない。
　向こうからすれば、分かりきったことだからと省いているのかもしれないが、女にとってはその部分が大事なのに。
　愛してるとか、好きだとか。

　――言ってくれる気、あるのかなあ。

　蓮は気づいているのだろうか。例え皇后という位を与えられようとも、今のままでは雪樹は、彼の好む創作物によく出てくる「肉便器」なる存在と同じだ。性欲を吐き出すためだけの、道具なのである。

「……………」

　湯の中でゆっくりと膨らみ、へこむ腹に、雪樹はふれた。
　避妊はしなかったから、先ほど図書室で交わった結果、子を授かっていてもおかしくはない。
　妊娠するだろうか？
　それにしても、后候補である雪樹の「子供はいらない」という意思を尊重するとは、蓮は一体何を考えているのか。跡継ぎを作るという役目から雪樹を外しておいて、本当に彼女を后にするつもりがあるのだろうか。
　そこまで思い至って、雪樹はつい笑ってしまった。

「ふふっ……」

　今まで散々子を孕まぬよう注意していたくせに、男性側が避妊に協力すると、責任を取る気はないのかと腹を立てる。
　なんと勝手なことだろう。
　なんだか気が抜けて、雪樹は湯の底に尻をつけ、とりとめのない妄想に耽った。

　――もし本当に私がお后さまになったとしたら、何をしよう。

　珀桜皇太后のように、自らが主役の悲劇を延々と演じようか。
　だがあれはあれで大変そうだ。いつまでも嘆き悲しみ続ける体力と忍耐力が必要だし、何より主演女優は常に美を保っていなければならない。

　――私には無理かなあ。

　と思いつつ、できるだけ綺麗ではありたいから、雪樹は近くの湯を掬い、そっと頬に塗りつけた。――この温泉は、美肌にも効果があるらしいので。

　――じゃあ、何をする？

　そういえば、蓮は「忙しい」と言っていた。だったら、彼の仕事を手伝ってあげるのはどうだろう。
　ああ、そうだ。ここ皇宮には、異国の大使もやって来るそうだ。彼らから外国の話が聞けたら、きっと楽しいだろう。

　――私、ここでやっていけるかな？

　昼間相撲を取った寵姫たちのことを思い出す。嫌味ったらしく高慢に思えた彼女たちも、一緒に泥だらけになって投げたり投げられたりしてみれば、普通の、少し賑やかなだけの女たちだった。
　侍女たちだって、雪樹に良くしてくれる。
　あやめ、桃、杏、鈴蘭……。雪樹はみんなのことが好きだ。

　――それに、実家にいるよりは、マシかもしれない……。

　育てておいてもらって何だが、父や母が用意してくれた「羽村家の娘」という椅子は、雪樹にとって座り心地が悪い。
　紅潮し、緩んだ雪樹の顔に、ふと影が差した。

　――お父様たちは、心配しているかしら。

　無造作に湯を漕ぎ、波紋を立てる。その小さなさざ波は、頑丈な湯船の端に当たり、あっけなく砕けてしまった。

「あつ……」

　長湯をしてしまったようだ。風呂から出て、よく磨かれた御影石の床に足を付けた途端、視界が揺れる。
　少しのぼせたのか、フラフラしながら入った脱衣所は、空気がひんやりとしていて気持ちが良かった。

「ふう……」

　身支度を整えながら、そういえば今日は侍女がいないと、雪樹は気づいた。いつもなら御所つきの侍女が待ち構えていて、衣服の脱ぎ着を手伝おうとしたり、こちらの体を洗おうとしたりして、一悶着あるはずなのに。

　――いよいよ人手不足なのかな……。

　ともあれあまり深く考えず、雪樹は離れへ戻った。