よみじや

松田 詩依

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1.「だいこうぶつ」

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 翌日――八月十二日。午後十八時過ぎ。
 信司は自宅から徒歩十五分程の場所にある、大きな川の河川敷を歩いていた。
 少しずつ日が傾き始め、青と橙が混ざり合ったなんとも美しい空が頭上に広がっている。
 茹だる暑さは日中に比べると幾分か落ち着きはじめ、犬の散歩やランニングに励む人たちと何度かすれ違った。

 
 招待状には「近くの河原まで来い」と書いてあったが、このだだっ広い河川敷のどこに行けばいいのだろうか。
 そもそも相手ははるか遠い北国の住人だというのに、態々自分のためにこの場所まで赴いてくれたのだろうか。
 しかし先程から幾ら周囲を見渡せど、屋台や店らしい姿は一切見えなかった。
 まだ待ち合わせ時間よりは少し早いから仕方ないかと思いながら、やることもないため河原に向かって少し坂になっている芝生の上に寝転んだ。


 ゆっくりと空を泳ぐ雲。耳をすませば川のせせらぎと、少し遠くの方から吹奏楽部の生徒らしき少し下手くそなトランペットの音が聞こえてくる。
 芝生はひんやりと冷たく、ふわりと心地の良い風が吹き上げてきた。
 小学校の頃は野球、中学は帰り道、高校の頃は時々ズル休みをして昼寝をしたり――この河川敷にはいつもお世話になったものだ。
 こうして芝生に寝転ぶのも酷く懐かしいなと、片方の腕で膝枕をしながら感慨に更けていると突風がひゅう、と吹き信司の手から手紙が離れて空に捲き上る。

「あっ……!」

 手紙はくるり、くるりとゆっくりと宙を舞いながら川の方へと飛ばされていく。
 信司は慌てて起き上がり、急な坂を転がるようにして手紙を追いかけた。何度か取れそうになって手を伸ばしたが、まるで風に弄ばれているかのように掴み損ねてはどんどん手紙は川の方に飛んでいく。
 そうして紙一枚に弄ばれること数度。川まで後数メートルといったところで、ようやく信司の手の中に手紙が戻ってきてくれた。

「っぶねぇ……」

 慌てて掴んだため手紙は皺が寄ってしまったが破れてはいない。
 その瞬間、ほんの一瞬立ちくらみのように目が眩んだ。
 寝転んでいたところから急に走りだしたからだろうかと、目を閉じて呼吸を整えるために数度深呼吸した。

「…………は?」

 呼吸を整え、ゆっくりと目を開けた瞬間信司は目を疑った。
 先程まで夕焼け色に染まっていたその場所には暗闇が広がっていた。
 ランニングしていた人も、草むらで用を足していた犬も、トランペットの下手くそな音も、全てが綺麗さっぱり消え失せ、暗闇の中に川の音が聞こえるだけだった。
 何が起きたかわからずに呆然と辺りを見回していると、少し先の方に赤提灯のぼんやりとした灯りが目に止まった。
 暗闇の中に明かりを見つけると途端に安心感が湧いてくる。
 スマートフォンのライトで足元を照らしながら、灯に誘われるように、ゆっくりと足を進めていくとそこには白字で「よみじや」と書かれた紺色の半暖簾がかかっている、木製の古びたリヤカー式の屋台があった。
 こんなものさっきまでなかったぞ、と震える手で提灯の明かりの下で手紙を確認すると確かにそこには「よみじや」の文字が書かれている。
 ――もしかして、ここが、死者と会うことができるという都市伝説の屋台なのだろうか。

「……す、みません」

 暖簾の向こうに人影が見えるが、化け物が待っていたらどうしよう、なんて嫌な予想を立てながらも信司は恐る恐る暖簾をくぐった。
 店内は明るい裸電球が一つ二つとぶら下がり、暖かな暖色の明かりに照らされていた。
 三、四人ほどが肩を寄せ合ってぎりぎり座れそうな狭さ。古くもよく手入れされた綺麗なカウンターの向こうで、一人の女性が作業をしていた。
 見た所、年は信司より少し年上。肩より少し長い黒髪を後ろで一つに束ねた色白で線が細い女性だ。
 店員は人の気配に気がつくと、作業をしていた手を止めてゆっくりと顔を上げた。電球の明かりに照らされるとその顔がよく見える。薄化粧の儚げな美人だった。

「あ……いらっしゃいませ。坂平信司さん、ですよね?」
「あ、えっと……は、はい。坂平、です」

 真面目そうな女性がいたからか拍子抜けした信司が間の抜けた声で返答すると、店主は微笑みを浮かべた。

「よかった。お待ちしておりました」

 彼女はゆっくりとお辞儀をすると、こちらへどうぞと二つ椅子が並んでいる信司から見て右側の席を手で示した。
 促されるままに丸椅子に腰を下ろすと、彼女はすかさずよく冷えたおしぼりを差し出した。

「お父様と一緒にお酒を飲みながらお食事をしたい、とのことでしたがお間違いありませんか?」
「……は、はい。あの……その、ここが死んだ人間と会えるっていうのは、本当なんですか?」
「はい。ですが……お父様がいらっしゃる前に、何点か注意事項があります」

 怯えたように肩を縮こませながら不安げに言葉を漏らす信司に、店主は微笑みを浮かべたまま口を開いた。


 一つ、故人と会えるのは一生に一度きりです。
 二つ、故人が口にしているものを口にしてはいけません。
 三つ、故人が屋台にいるうちは絶対に屋台の外に出ないで下さい。


「……それを破るとどうなるんですか」
「無事に元の世に帰られる保証はありません」

 彼女の口から飛び出した物騒な言葉に、信司はぽかんと口を開けた。
 自分は実家近くの川にやってきて、河原にあったこの屋台に入ってきただけだ。確かに周囲の雰囲気はえらく変わっているが、どこか違う場所に移動した覚えはない。

「え……あの。ここは、どこなんですか」
「三途の川の河原です」
「……は?」

 店主があまりにも平然というものだから一瞬そのまま聞き流してしまうところだった。
 三途の川といえば、死者がこの世からあの世に行く時に渡るという川だ。
 信司は驚いて周囲を見回した。店主の背後にも、そして自分の背後にある暖簾の向こう側も果てしない暗闇の世界が広がっている。
 しかしよく聞く渡し賃を払いあの世へ送る船頭の姿もなければ、石積みをしている子供の姿もない。
 暗闇の世界は川のせせらぎと、蝋燭の火がじじじと揺れる音しか聞こえない。
 そもそも生きている自分がこんな場所にこれる理由が理解できなかったし、三途の河にこんな屋台があるという話も聞いたことがなかった。

「提灯の灯りが灯されている間だけ、この屋台が現世にいるお客さんと、この場所を繋いでくれるんです」

 全ての川は海に繋がっているように、この三途の川もまた全ての川と繋がっている。だから信司と自分が別々の場所にいても川が繋いでくれるからこうして同じ場所で相対せるのだ、とさらに続けた。
 店主の話が事実であれば、信司は今あの世とこの世の境にいるということになる。確かにあの世とこの世の境であれば、死者と会えるということも有り得るのかもしれない。
 三途の河に現れる幻の屋台--はがきを投函し、招待状が届き、三途の河に導かれる。にわかには信じがたいが、ネットで見た都市伝説通りの現象が信司の身に起こっていた。

「まさか都市伝説が実在するなんて……」
「すぐには受け入れられないと思いますが、お父様がお見えになったらきっと理解できると思います」

 呆然としながらも少しずつ現状を受け入れていく信司に、店主は注意事項さえ守れば怖がることはありませんと、と微笑みを保ったままそう告げた。

「あの……父さんはいつ頃来るんですか?」
「恐らくもう直ぐだと思うのですが……」

 店主の答えに信司は不安げに背後を振り返った。
 暖簾の向こうの暗い景色の向こうからに穏やかな川のせせらぎが聞こえる。
 こんなに暗い中を死んだ人は船で渡るのか、と僅かに暖簾を持ち上げて真っ暗闇を見ていると遠くの方に小さな灯りが灯った。

「……灯り?」
「ああ。始まったみたいですね」

 店主も身を掲げ、暖簾の向こうの景色を目に移しながらカウンターの奥で何やら手を動かし始めた。
 一つだけだった灯りがぽつぽつと数を増やし、一方向へゆっくりと流れていく。
 目を凝らしてその灯りを見つめると、その正体は灯篭だった。

「この灯篭が死者が訪れる合図です。この灯りが消えかけた時が死者とお別れの合図です」

 テレビなどで見る流し灯篭とは比べ物にならないほどの数が流れていく。
 視界の隅から隅まで、川一面を覆う幻想的な光景に信司は呆然と口を開ける。
 まさにこの世の物とは思えない、恐ろしくも美しい光景に目を奪われた。けれども不思議と恐怖は感じなかった。


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