よみじや

松田 詩依

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1.「だいこうぶつ」

1-8

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「………あの、……さ」
「ん?」

 ビールを注ぎながら、父は信司を見た。
 素面なら絶対にいえないけれど、酒の力を借りている今なら父のように饒舌に語れるような気がした。
 信司は勇気を振り絞るように拳を握りしめる。

「高校に落ちた日のこと……ずっと気にしてたんだ」

 信司から話題を切り出したことに父は驚いたのだろう。動きを固めたまま、信司の方を向いた。

「あの時は、自分のことしか見えてなくて。全部全部父さんのせいにして、一人で苛ついてた。なんてくだらない意地はって謝らなかったんだろうって、今になってずっと後悔してたんだ」

 喉まで出かかった言葉がつっかかっていた。
 でも、今を逃せば二度と話すチャンスはない。

「……あの頃は、俺はガキでまだなにもわかってなかった。ずっと父さんを馬鹿にしてたんだ」
 グラスを握りしめ、ポツリポツリと語り出す。

「朝早くから夜遅くまで、殆ど休みもなしに俺達を養うために、自分の体も顧みないでずっとずっと身を粉にして働いていてくれたんだ。その苦労も知らないで、馬鹿にするなんて最低だった」
「…………」
「勉強することだけが偉いと思ってた。でも、父さんはこんな生意気な俺をずっとずっと見守っていてくれたんだ。それなのに、父親面するなとか……本当に酷いこといって悪かった」

 信司は自ら父親の目をしっかりと見つめ、深々と頭を下げた。
 いえなかったことを全部吐き出せた。自分の足元を見ながら、膝に置いた手が震えていることに気がついた。

「……信司」

 父親は信司を強く抱きしめた。
 細くて頼りないと思っていたけれど、意外としっかりとした力強い腕だった。

「……あの日、信司を怒らせてしまったこと父さんもずっと気にしてたんだ」

 肩越しに、父の声が聞こえる。

「俺の話を聞いてくれるかい?」

 ゆっくりと体を離した父と目があった。その表情は今まで見たことのないような、真剣だけれどどこか暖かい父親の顔だった。

「……時々、いい学校に行って、いい会社に就職しろっていう人がいるけど……就職がゴールじゃないんだ。人生なんて働きに出てからの方がずっとずっと長いんだ。辛いこともあるけど、良いこともきっとある。だから、道半ばで諦めてほしくはなかったんだ」

 あの時、信司が志望校に落ちた時、皆が哀れんだ。
 教師は落胆し、塾講師には哀れみの目を向けられた。これまで期待の眼差しを向けていた人々が一斉に冷たい目で自分を睨み、手のひらを返したように離れて行った時の恐ろしさや絶望は今でも忘れられない。

「……父さんも、母さんも、俺が志望校に落ちても責めなかったよな」
「ははっ、誰が責めるもんか。お前が人一倍努力してたことは俺たちが一番分かってるんだからな」

 信司が呟いた言葉を、父は思い切り笑い飛ばした。
 両親は。特に父は、信司が受験に落ちたことを一切責めることはなかった。
 憐れむでもない、悲しむでもない、ただ隣に立って肩を摩りながらお疲れ様、よく頑張ったね、と優しく微笑んでくれた。
 あの日は何をいわれても慰めにしか聞こえなかった。腫れ物に触るように接するなら思い切り責めて欲しいとおもったものだった。

「だから今までの信司の頑張りを讃えて、皆でゆっくり温泉でも行って体を休めよう……と思ってたんだけど、父さんが話すタイミングが不味すぎたって母さんに怒られたよ。あれじゃ過ぎたことなんてどうでもいいから遊びに行こうっていってるみたいだ、って」
「……確かに、タイミングは最悪だったわ」
「母さんに言葉が少なすぎるっていわれた意味がよくわかったよ。父さんはそんなつもりはなかったけれど、父さんが信司を傷つけたのにはかわりないよな。本当に、本当に申し訳なかった」

 父は両膝に手をついて、信司に向かって深々と頭を下げた。
 あの日、怒りに頭が真っ赤に染まっていた間に父が言わんとしていた言葉の続きだった。
 あの後結局旅行に行くことなく、父は入院してしまった。
 そして家族の思い出も作ることなく、苦い記憶だけを残して父は旅立ってしまった。
 口下手な父の、珍しく長い話が乾いた土に染み込む雨のようにゆっくりと体に染み渡る。
 そして父の言葉の真意に気づいた瞬間、壊れたように涙が溢れ出した。

「お、おい……泣くなよ……」
「……っ、悪い。いや、俺……父さん達の気持ち、なにも分かってなかったんだな……って」

 震える手で父親の手を握り、頭を下げた。
 互いの手の上にぽろぽろと雫が落ちると、父が焦ったように声を漏らす。
 毎日勉強していた。けれど、机に向かって勉強するだけではわからないことが山ほどある。
 全て知っていたようで、自分は何もわかっていなかった。父のことも、その言葉の裏に隠された真意も、愛情も、全く気づいていなかったのだ。
 なんでもっと父親と向き合わなかったのだろう。
 なんで足繁く病院に通い、父と顔を合わせて話をしなかったのだろう。
 なんで父が元気な時に、沢山話して、一緒に遊んで、たくさんの思い出を作らなかったのだろう。
 少しでも自分が父親と向き合う気があれば、あんな悲しい別れにはなっていなかったかもしれないのに。
 勉強なんていつでもできた。勉強よりも大切なことが、こんなに、目の前にあったのに。なぜ気づかなかった。
 どれだけ悔やんだところで、失った時間は戻ってくることはない。

「……俺、本当に馬鹿だ。どんだけガキだったんだよ……今更気づいたところで遅いのにさ……」
「ああ……もう泣くなって」
「……何もできなくて、本当にごめん」

 壊れたように何度も謝り続ける信司を慰めるように父はその背中をさすった。

「……こうやって信司と二人で飲めたんだ。父さんの気持ちも全部伝えられた。冥土の土産には最高すぎる思い出だよ。本当に有難う。だからもう、謝らないでくれ」

 嗚咽を漏らす息子に寄り添いながら、父は困惑気味に、でもどこか嬉しそうに微笑んでいた。
 その時、灯篭の明かりが点滅し始めた。
 川の上で止まっていた灯篭は、まるで父の帰りを誘うようにゆっくりと川の上を流れていく。
 これが先ほど店主が言っていた、死者との別れの合図のようだ。

「さて……父さんはもうそろそろ行かなきゃいけないみたいだ」

 父が体を離し、脱いでいた上着を羽織った。
 立ち上がった父を見て、信司は慌てて店主を見た。彼女は首を横に振って、お別れの時間がきてしまったようです、と小さく呟いた。
 ようやく、互いの心内を全て話して。これから仲良く話せると思ったのに、何故。なんでこのタイミングで。

「……じゃあ、な。信司、元気でな?」

 名残惜しそうににこりと微笑んで、父が暖簾を潜ろうとする。
 行ってしまう。この暖簾を潜れば父にはもう二度と会うことができない。いいのか。このまま別れてしまって本当に悔いわないか。
 焦る頭の中で必死に考えた。

「父さん!」

 けれど、頭を回してもいい言葉なんて思いつかず、無我夢中で信司は父の背中に向かって思い切り叫んだ。
 息子の口から聞いたことのない大きな声に、父は驚いたようにゆっくりと振り向いて、しっかりと信司と目を合わせた。
 信司は拳を握りしめて、ゆっくりと口を開いた。
 今まで我慢していたことを。今だけは幼い子供のように、父にいえなかった我が儘をいうのだ。

「……本当は、一緒に遊びたかった」
「……そう、だな」

 いつも父親と公園でキャッチボールをしている同級生が羨ましかった。

「一緒にいろんな場所に行きたかった」
「……父さんもだよ」

 いつも楽しそうに家族旅行の思い出話をしている友人が心底妬ましかった。

「もっと……もっともっと、たくさん話したかった」
「父さんも、話したいことが山ほどあった」

 父が寂しそうに肩をすくめ頷いた。
 そして何よりの後悔が、頭をよぎる。
「俺……父さんに、親孝行なにもできなかった」

 一度は止まった涙が再び溢れ出した。
 ここまで育ててくれたのに。並並ならぬ愛情を注いでくれたのに。自分はその無償の愛に報いることができない。
 大学を卒業して立派な社会人になって、色んなところに旅行に連れて行ってあげたかった。
 父と一緒にしたいこと、家族皆でしたいこと、次々と頭の中に過っているのに、そこにいて欲しいはずの人物がいない。
 それを思うと悔しくて、悲しくて。涙が止まることを知らない。
 必死で泣き止もうと腕で目をこすっていると、頭に暖かくて大きな感触が乗せられた。

「……信司が元気に幸せになって親より長生きしてくれるだけで十分な親孝行だよ。でも、もし悔やんでいるならお父さんの分までお母さんに沢山親孝行してほしいな」

 父が信司の頭の上に手を乗せた。幼い子供にするように、髪がぐしゃぐしゃになる程頭を撫で続ける。

「……いわれなくても、そのつもりだよ」
「ははっ、それは頼もしいな。それでこそ俺の息子だ」

 力強く信司が頷くと、父は満足げに微笑んだ。

「……じゃあ、信司。元気で」

 父は名残惜しそうに背中を向けた。
 そうだ。最後にもう一つだけ、伝えておきたいことがあった。

「父さん! 今まで有難う御座いました!」

 深々と頭をさげると、父は振り返ることなく手をひらりと上げて屋台を出た。
 父親が暖簾をくぐり、布が下がる瞬間、父の目に涙が浮かんでいるのが信司には確かに見えていた。
 そのままゆっくりと父の足音が遠ざかっていく。ゆっくりと灯篭の灯りが落ち、完全な暗闇が訪れると共に父の足音は川の音にかき消された。


「お父さんと会えてよかったですか」
「……有難う御座いました。ようやく、釘が抜けました」

 呆然と立ち尽くしている信司に店主が声をかけた。
 どこか救われたように、涙を流している信司を店主は微笑みながら見つめた。

「……そろそろお時間です。お気をつけてお帰り下さい」
「ありがとうございました。唐揚げ、すげぇ美味しかったです」

 優しげな声を背中に聞きながら、暖簾をくぐると信司は元いた河川敷に立っていた。
 先ほどより少し暗くなった夕暮れ。手には風に飛ばされたはずの招待状。
 少し遠くから下手くそなトランペットの音が聞こえている。慌てて後ろを振り向いたが、そこにあったはずの屋台は忽然と姿を消していた。
 その時携帯のアラームが鳴った。時刻は十八時半。
 屋台には二、三時間いたような感覚だが、こちらの世界ではまだそんなに経っていないようだ。
 呆然としながら、ゆっくりと川辺を歩く。
 全てが夢だったのかと思うように、曖昧だ。
 それでも、父に抱きしめられた感覚が残っている。手に胸を置いて歩く。
 今まで胸の深いところに刺さっていた釘が抜けたようだ。
 川辺に吹く心地よい風を感じながら、信司は涙を拭いてゆっくりと帰路についだのだった。
 
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