鴉取妖怪異譚

松田 詩依

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第伍話「血ヲ吸ウ鬼」

血ヲ吸ウ鬼・捌

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 ——吸血鬼騒動から一月、鴉取と三毛縞は喫茶店「スクイアル」に顔を出していた。

「いらっしゃいませ!」

 巷を騒がしていた「吸血鬼」は人知れず姿を消し、東都は元の賑わいが戻りつつある。
 二人が店に入ると元気に笑顔を浮かべ客を出迎える兎沢の姿も見えた。三毛縞は兎沢と目が合うとぎこちなく会釈をし、席につく。

「ねぇねぇ、この本読んだ?」
「三毛縞公人の『吸血鬼』でしょう? すっごい面白いわね」

 あたりからちらほらと聞こえる声に三毛縞は大きな体を丸めていた。
 まだまだ作家としての名前は売れてはいないが、作品はある程度の知名度があるようで自著の話を耳にするのが慣れずついつい恐縮してしまう。

「そんなに肩身を狭くしなくてもいいだろう。人気が出たんだ、胸を張ったらどうだい? 三毛縞先生」
「……い、今まで僕の話を面白いといってくれていたのは君と井守さんくらいしかいなかったから……褒められ慣れてないんだよ」
「全く、本当に君はどこまでもウブな男だな」

 目の前でそわそわと落ち着きなく視線を泳がせている友人を見て、鴉取は呆れたように肩を竦めた。
 そろそろ注文でも、と女給を呼ぼうとしたとき二人の頭上に影が落ちた。

「あ、あのっ。先日は倒れたところを助けて頂いたみたいで……ありがとうございました!」

 そこには兎沢が立っていた。
 持ってきた珈琲を二つテーブルの上に置いて、深々と頭を下げた。

「これ、私の気持ちです。よかったらお二人で飲んでください」
「い、や……僕は何も……」

 慌てたように首を横に振る三毛縞に鴉取がミケ、と声をかける。

「ユキさんが折角淹れてくれたんだ。ご好意を無下にするつもりかい?」
「…………っ、いただきます」

 三毛縞は想い人が淹れた珈琲をじっと見下ろすと、食事をするように両手合わせ一口啜った。
 砂糖がたくさん入った甘めの味。いつもここで飲んでいる珈琲の味にホッとする。ああ、彼女は本物のユキだ。

「もしかしてお砂糖間違えてました? 二つ、でしたよね?」
「うん。間違ってないよ。美味しい珈琲ありがとう……ございます」

 ぎこちなく笑う三毛縞に、兎沢は嬉しそうに笑った。

「それじゃあごゆっくり!」

 兎沢は深々と一礼すると、ぱたぱたと咳を離れていった。

「くっくくく……」

 兎沢の姿が見えなくなった途端、鴉取はいよいよ笑いが堪えきれなくなったようでくつくつと笑いはじめた。

「……なにがおかしいんだ」
「いや、だって。君。面白すぎるだろう」

 ふふ、はは。とどんどん鴉取の笑いが大きくなっていく。しまいには目に涙まで浮かべはじめて。

「……なにが」
「彼女とよく似た人物と抱き合って、接吻まがいのことをしたのに……本人を目の前にすると話もできないなんて……くくっ。どんだけ初心なんだ……ふ、ふふふっ!」
「君と一緒にしないでくれ!」

 思わず立ち上がって声を張り上げる三毛縞。
 店内に声が響き、周囲から視線を浴びると顔を赤らめながらすとんと腰を落とした。

「……っ、くそ。後で覚えておけよ、鴉取」
「いやぁ、君はそのままでいてくれよ」

 けらけらと腹を抱えて笑う鴉取。
 目には涙を浮かべながら、三毛縞は恥ずかしそうにため息をついて甘い珈琲を飲んでいく。
 何気ない日常。
 人々が恐れる怪異は消え、平穏な日常が戻ってきたのであった。


「血ヲ吸ウ鬼」 完
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