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3. 始まりの日・後編
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……と!――
維人! しっかりしろ!! ――
沈んだ意識の中に誰かの声が下りてくる。
誰かが呼んでいる。
でも、あの香りはしない。
柔らかくて優しい、春の日のような甘い香り。
大切な、唯一の香り。
――どこにやったの? とらないで、奪わないで。
「返して!!!!」
手を伸ばした先にあったのは、見覚えのない真っ白な天井だった。
――ここ、どこ?
維人の部屋ではないということはわかる。まだぼんやりとする視界で少しだけ周囲を探ると、ぶら下がった透明な管が腕につながれていた。
身体を起こそうとしたが、全身に重りを付けているかのように全く動かない。それなのに、心臓は全力疾走した後のようにバクバクと激しく脈打っている。
何とか首だけを動かして横を向くと、ちょうどその先にあった扉が静かに開いた。
「維人!? 意識が……!」
「……、」
入ってきたのは一だった。
いつもと同じように声を出そうとしたが、喉に何かが張り付いているかのようにうまく声が出ない。もう一度、と力を入れるとゴホゴホと乾いた咳が出た。
慌てて維人に駆け寄ってきた一に水差しから水を飲ませてもらうと、干からびかけていた喉が潤ってく。
「維人、大丈夫か? すぐに先生を、」
「は、じめ。マフラー、どこ?」
あの日、諒が忘れていったグレーのマフラー。それを持ったまま眠ったはずなのに、今は手元にはない。
まさか取り上げられてしまったんじゃないだろうか。もしかしたら捨てられてしまったんじゃないだろうか。そう考えるだけで、すでにバクバクと音を立てる心臓がギュッと握りしめられているかのように苦しくなる。
「マフラーってあのグレーの?」
こくりと頷くと、一は戸惑った顔でベッドの横にある棚をガサゴソと探り、取り出したマフラーを手渡してくれた。
受取ったそれをぎゅうっとを抱きしめると、確かに感じる甘い香りに息苦しさが緩み、ほっと気持ちが落ち着いていく。
――よかった、ちゃんとあった。
これがあれば大丈夫、そんな強い安堵に、その様子を複雑そうな、少し悲しそうな顔で見つめていた一の表情には気付けないまま、維人の意識はまたまどろんでいく。
「なぁ……、そのマフラーって、」
コンコン、ガラッ――
一の言葉を遮るように開いた扉がまどろんだ意識を引き戻し、パッと開いた扉の方を見ると、眼鏡をかけた男が入ってきた。
「あれ?! 意識戻ったんだね!」
その男が白衣を着ていたことで、ここが病院であるということに維人はようやく気が付いた。
続いて入ってきた看護師に色々と確認やら検査やらをされた後、高坂こと名乗ったその医者はベッドの横に置かれていた丸椅子に腰を掛けた。
「とりあえず、今の状況は把握できてる?」
「いえ……」
「ここは県立の総合病院。きみは月曜日の朝に意識不明でここに救急搬送されて、それから三日間昏睡状態だったんだよ」
「きゅ、救急搬送?!」
「家で倒れてたから俺が呼んだ」
それからずっと一が付き添ってくれているらしい。父親にも翌日には連絡をしてくれたそうだが、遠くアフリカの地にいる身では早々に駆け付けるというわけにもいかず、予定では明日帰国することになっているという。
仕事を放り出させてしまい申し訳ない。でも、きっとこれからもっと心配をかけることになってしまうのだろう。そんな予感に自然とマフラーを握る手に力が入る。
「さて、これから維人くんの身体に起きていることを話そうと思うんだけど、気分はどうかな? それとも、明日お父さんと一緒の時の方がいいかな?」
全てが変わってしまう、さっきからしているのはそんな“予感”だ。覚悟をきめ、腹からぐっと声を出した。
「いえ、大丈夫です。今聞かせてください」
「わかった。きみにとっては結構衝撃的な話になると思うけど、彼にはいてもらった方がいい?」
そう、高坂が一を指さすと、一は維人が答える前に「はい」と返事をした。
一は昔から口数が少ない上に無表情で、考えていることがいまいちわからない。でも、わりに頑固で、“こう”と決めたことは絶対に譲らない。
高坂からの話を聞くには、おそらく諒との間にあったことを話さなければいけなくなる。それを一にはあまり知られたくはない。一は諒のことをあまりよく思っていないようだったから、余計にだ。
そんな想いを含んで一応、チラリと目線だけ一に送るが、ぷいっと横向かれてしまった。これは、多分ちょっと、いや、結構怒っている。
これまで一が維人に怒った顔を見せたのは、維人が無茶をしてケガをしたり、プチ家出――原因は思い出せもしないくだらないことだった――をして行方不明になったりしたとき。だから、多分、一が怒っているときは心配させてしまったときだ。
今回もそう。きっとすごく心配させてしまったんだ。そんな状況ではとても「出ていってほしい」なんて言えない。
諦めと気まずさで、小さく「はい」とだけ高坂に答えた。
「そっか。なら、さっそくだけど二人は『ビッチング』って知ってる?」
「いいえ、知りません」
維人の答えと同時に一も首を横に振る。
「そうだよね。まぁ簡単に言うと、αと性的関係を持ったα、β性の人がΩ性に転換することなんだけど、今の維人くんはそれが起きてる」
「えっ?!」
驚いた声を上げたのは一だった。でも、維人としては「やっぱり」という、わかっていた結果の発表のような、最後通告のような心持だった。あるいは横で顔を青ざめさせている一のおかげで維人自身は冷静でいられているのかもしれない。
「そんなこと、起こりえるんですか?!」
まだ動揺したままの一が高坂に詰め寄ると、高坂は表情を変えないままぺらりと一枚の紙を維人と一に見えるよう、ベッドの上に置いた。
『被検者名:桜庭 維人。二次性:Ω』
そこに書かれていたのは二次性検査の結果だった。
「世間ではほとんど都市伝説だけど、世界中で確かに事例はあるよ。まさか僕も直接お目にかかれる日が来るとは思わなかった」
二次性が転換するなどおそらくかなり重大な事案だろう。でも、高坂が明るく話すせいか、いまいち重みがない。
黙ったままの維人と、青ざめる一を置き去りにして、高坂は嬉々として話を続ける。
「当然ビッチングは簡単にはできない。まずは、転換者とその相手であるαとの間に強い絆があることが大前提だ。あとは、転換者本人の二親等以内にΩ性の親族がいること。それから、ラット状態のαと性交し、うなじを噛まれること。長期間αの精を体内に取り込み、強いフェロモンでマーキングをされること。とか、大体こんな条件を満たすとビッチングが起こると言われている。維人くんは心当たりがあるかい?」
「……最後のやつ以外は、一応あります」
諒とは恋人関係ではないが、親友だと言えるレベルの絆はある。それから、維人の母方の祖母はΩだし、あの日、諒はラットの状態だった。でも、諒と関係を持ったのはあの日だけで、マーキングはそもそもどういう行為なのかいまいちわからない。
「そっか。きみが意識を取り戻すまでに過去の事例をいくつか調べてみたんだけど、ビッチングが起こるまでに最短で八年、平均で十年から十五年くらいかかっているんだよね。でもきみはまだ十八歳だよね? さすがに十年近く前からαと性的関係を持っていたとなると他の問題が出てくるんだけど、そう言うことではないんだね?」
「そ、そんなことあるはずありません!」
さすがに焦って否定すると、高坂は「それならちょっと安心した」とにっこりと笑って見せた。
「うーん、そうなると、短期間でビッチングが起きた特異事例ってことかな。ちなみに相手は彼?」
そう指を差した先にいたのは一。もちろん違う。ぶんぶんと首を振ると、高坂は「あれ?」という顔をした。
「彼は恋人じゃないの?」
「ち、違います! 幼馴染、友達です!!」
一は整った顔立ちで背も高く、長年短距離走の選手として絞り込んだ体は男でも見惚れてしまうほどに完璧だ。もちろん他のスポーツもほぼ万能だし、勉強もできるからよくαに間違えられるが、両親ともβの生粋のβだ。
今はそのきれいな形をした眉毛を不機嫌そうに寄せているが、同世代の他の男よりも落ち着いた雰囲気も相まって、めちゃくちゃにモテる。
それに対して維人は身長も平均よりやや小さめ、顔立ちも平々凡々。それなのにいつも諒や一と一緒にいるから『 βのくせに両手に不相応な花を抱えている』なんてΩの子や、α、βの女子たちから随分と羨まれた。
「そう、なんだ」
維人の言葉に一がなぜかいっそう眉間のしわを濃くしたことで、部屋に何とも言えない空気が流れている。でも、嘘は言ってない。本当のことを言っただけなのになぜこんなにも一が怒っているのかもわからないから、とりあえず話を進めて欲しいと視線だけで高坂に訴えた。
「えっと……、じゃあその相手とは何年くらい付き合ってるの?」
「えっ、付き合ってないです。友達としてなら三年くらいの付き合いはあるけど……。その、関係を持ったのも事故みたいなもので、一回だけだし……えっとそれが、先週の金曜日で……」
そう、あれは事故だった。諒がどうしてラットになったのか詳しくは聞かなかったが、不本意な状況だったことは間違いない。だから、あれは避けることのできなかった、どうしようもない事故。それによって、維人にこんな変化が起こるなんて誰も予想できなかったのだから。
でも、高坂としては非常に想定外の答えだったようで、驚いた顔をしたあと、「うーん」と腕を組んで悩んでいる。そのうち、はっと何かをひらめいたと言わんばかりに勢いよく立ち上がった。
「まさか、『運命の番』?!」
αとΩの間に成り立つ『番』の中でも、特別に強い結びつきを持つ相手のことを『運命の番』と呼ぶ。医学的には運命の番とは遺伝子レベルで相性の良い相手であることがわかっているが、それこそ運命に導かれたかのように、一目見ただけで強烈に惹かれ合い、求め合うという。
そんな運命にいつか諒が巡り会えればいいと願っていた。でもそれはもちろんβだった維人には関係のない話で、まさか自分がなんて考えたことがあるはずもなかった。
――僕が、諒の運命……?
確かに、諒はβであるはずの維人から“匂い”を嗅ぎ取っていたし、維人自身も諒の香りを心地よいと感じていた。それが、運命的なつながりのせいだったとしたら、今回起こった“事故”の原因も単純明快だ。
αはΩのフェロモンには逆らえない。それが運命ならば余計にだ。
「まだ仮説の段階ではあるけど、今回維人くんが倒れちゃったのは、運命の番によって性急にビッチングが起きたことで身体が急激に変質してしまい、その負荷に耐えられなかったせいだと考えるのが妥当かな」
なるほど、と高坂の話に心の中で手を打った。諒と関係を持ったのが金曜日で、救急搬送されたのが月曜日。それから三日間昏睡状態だったらしいから、たった五日間で維人の身体はβからΩに変わってしまったことになる。当然負荷もかかるわけだ。でも、どこかまだ他人事のように気持ちが冷めたままなのは、起きたことは仕方ない、そう思っているからかもしれない。
「まぁ起きたことはここまでにして、大切なのはこれからのことだね」
考えていたことを見透かしたような高坂の言葉に思わずドキッとした。そうだ、大切なのはこの変化によって何が起こるかだ。維人は高坂に向かってこくりと小さく頷いた。
「まず、番は成立しているね。そう検査の結果が出ている。あと、避妊はした?」
「あっいや……」
「まぁそうだよね。通常、発情期のΩがαと避妊せずに性交した場合、妊娠確率はほぼ100%と言われてる。でも、後天的なΩは統計が取れるほど事例がないし、維人くんの場合かなり特殊事例だ。もともとΩ男性の妊娠はリスクが高いし、今後身体にどんな影響が出るかわからない」
高坂の言葉につい固まる。Ωになっていたことは「もしかしたら」と思っていた。でも、妊娠までは想定していなかった。
思わず俯くと、高坂は頭をぼりぼりと掻きながらふうっとため息をこぼした。
「ちょっといっぺんに話を進めすぎたね。今日はここまでにしよう。まだもう少し検査も必要だし、しばらくは入院してもらうことになるから」
そう言って高坂は部屋を出ていった。
窓の外に浮かぶ夕陽が病室を赤く照らしている。
それが少しずつ、でも確実に闇に飲み込まれていく様子をぼうっと眺めていたら、ぱちりと部屋の中に偽物の太陽が灯った。その人工的な明るさに少し目を細めると、一がさっきまで高坂が座っていた椅子に腰を掛けた。
「……やっぱり木暮なのか?」
ことさらに嫌悪感たっぷりの声色に怯み、思わず一から視線をそらした。多分、それを無言の肯定と受け取ったのだろう。一は小さく「チッ」と舌を打ち、膝の上で強く拳を握った。やっぱり一は諒のことをあまりよく思っていないようだ。
「さっき事故みたいなものだって言ったの、どういうことだ」
「……そのままの意味だよ。金曜日の夜にラットになった状態で諒がうちに来て、多分、僕もヒートを起こしちゃって……。だから、完全に事故。どうしようもないことだった。それに、諒は何があったか覚えてないから……」
「は?!」
怒気のこもった声にビクッと肩が震える。
「し、仕方ないよ。うち来た時にはもうひどいラット状態で、理性なんてぶっ飛んじゃってたから……」
「なんだよそれ……! 無理やりヤられたってこと?!」
「それは違うよ。確かに驚いたけど、最終的に受け入れたのは僕だから。さすがにこんなことになるとは思わなかったけどね」
ははっっと笑って見せると、一がギリッと奥歯を噛んだ音が聞こえた。
笑い事じゃない。そんなことはわかってる。でも深刻になったって、Ωになったことも、番になったことも、もしかしたら妊娠しているかもしれないことも、変えようのないことだから。せめて、『不幸なことではない』と思いたい。だから精一杯、明るい声色を出して見せた。
「あっ入院してることって諒にもう言っちゃった?」
「言ってない」
「そっか、よかった。言わないでね、入院してることも、僕がΩになったことも、全部」
「それでいいのか?! あいつは全部何も知らないまま、維人だけがこんな風になって……それでいいのかよ!」
「うん、それでいい」
あの夜のことも、今の状態も諒には知られたくない。知られたらきっと諒は自分を責めてしまうから。
諒はようやく“箱”の中から出て、自分の決めた未来を歩き始めたところだ。
それを邪魔したくはない。
――それに……。
諒は、親友で、かけがえのない、大切な、大切な人。
高校を卒業したってずっと一緒にいられると思っていた。
大学は別になるけど、お互い予定を合わせて遊びに行ったり、一人暮らしをすると言っていた諒の家に遊びに行ったり。そんな、少しだけ変わって、それでもやっぱり変わらない毎日を一緒に過ごせるのだと思っていた。
でも、“運命”が全てを変えてしまった。
――もう、諒とは会わない。もう、会えない。
全てを隠し通すならそうするしかない。
これから何が起こるかはまだわからない。自信も覚悟も何もない。
今、胸の中にあるマフラーに残る甘い香りもいつかは消えてしまう。
でも、それもいつしかきっと、“いつもの毎日”になっていくから。
前を向いて歩いていくしかないんだ。
縋りつきたくなる弱い心を抑え込むようにグッとマフラーを抱きしめる。
「これだけは一緒に連れて行ってもいいよね」
いつの間にか窓の外は闇に染まり、ぽっかりと浮かぶ月だけが静かにこちらを眺めていた。
維人! しっかりしろ!! ――
沈んだ意識の中に誰かの声が下りてくる。
誰かが呼んでいる。
でも、あの香りはしない。
柔らかくて優しい、春の日のような甘い香り。
大切な、唯一の香り。
――どこにやったの? とらないで、奪わないで。
「返して!!!!」
手を伸ばした先にあったのは、見覚えのない真っ白な天井だった。
――ここ、どこ?
維人の部屋ではないということはわかる。まだぼんやりとする視界で少しだけ周囲を探ると、ぶら下がった透明な管が腕につながれていた。
身体を起こそうとしたが、全身に重りを付けているかのように全く動かない。それなのに、心臓は全力疾走した後のようにバクバクと激しく脈打っている。
何とか首だけを動かして横を向くと、ちょうどその先にあった扉が静かに開いた。
「維人!? 意識が……!」
「……、」
入ってきたのは一だった。
いつもと同じように声を出そうとしたが、喉に何かが張り付いているかのようにうまく声が出ない。もう一度、と力を入れるとゴホゴホと乾いた咳が出た。
慌てて維人に駆け寄ってきた一に水差しから水を飲ませてもらうと、干からびかけていた喉が潤ってく。
「維人、大丈夫か? すぐに先生を、」
「は、じめ。マフラー、どこ?」
あの日、諒が忘れていったグレーのマフラー。それを持ったまま眠ったはずなのに、今は手元にはない。
まさか取り上げられてしまったんじゃないだろうか。もしかしたら捨てられてしまったんじゃないだろうか。そう考えるだけで、すでにバクバクと音を立てる心臓がギュッと握りしめられているかのように苦しくなる。
「マフラーってあのグレーの?」
こくりと頷くと、一は戸惑った顔でベッドの横にある棚をガサゴソと探り、取り出したマフラーを手渡してくれた。
受取ったそれをぎゅうっとを抱きしめると、確かに感じる甘い香りに息苦しさが緩み、ほっと気持ちが落ち着いていく。
――よかった、ちゃんとあった。
これがあれば大丈夫、そんな強い安堵に、その様子を複雑そうな、少し悲しそうな顔で見つめていた一の表情には気付けないまま、維人の意識はまたまどろんでいく。
「なぁ……、そのマフラーって、」
コンコン、ガラッ――
一の言葉を遮るように開いた扉がまどろんだ意識を引き戻し、パッと開いた扉の方を見ると、眼鏡をかけた男が入ってきた。
「あれ?! 意識戻ったんだね!」
その男が白衣を着ていたことで、ここが病院であるということに維人はようやく気が付いた。
続いて入ってきた看護師に色々と確認やら検査やらをされた後、高坂こと名乗ったその医者はベッドの横に置かれていた丸椅子に腰を掛けた。
「とりあえず、今の状況は把握できてる?」
「いえ……」
「ここは県立の総合病院。きみは月曜日の朝に意識不明でここに救急搬送されて、それから三日間昏睡状態だったんだよ」
「きゅ、救急搬送?!」
「家で倒れてたから俺が呼んだ」
それからずっと一が付き添ってくれているらしい。父親にも翌日には連絡をしてくれたそうだが、遠くアフリカの地にいる身では早々に駆け付けるというわけにもいかず、予定では明日帰国することになっているという。
仕事を放り出させてしまい申し訳ない。でも、きっとこれからもっと心配をかけることになってしまうのだろう。そんな予感に自然とマフラーを握る手に力が入る。
「さて、これから維人くんの身体に起きていることを話そうと思うんだけど、気分はどうかな? それとも、明日お父さんと一緒の時の方がいいかな?」
全てが変わってしまう、さっきからしているのはそんな“予感”だ。覚悟をきめ、腹からぐっと声を出した。
「いえ、大丈夫です。今聞かせてください」
「わかった。きみにとっては結構衝撃的な話になると思うけど、彼にはいてもらった方がいい?」
そう、高坂が一を指さすと、一は維人が答える前に「はい」と返事をした。
一は昔から口数が少ない上に無表情で、考えていることがいまいちわからない。でも、わりに頑固で、“こう”と決めたことは絶対に譲らない。
高坂からの話を聞くには、おそらく諒との間にあったことを話さなければいけなくなる。それを一にはあまり知られたくはない。一は諒のことをあまりよく思っていないようだったから、余計にだ。
そんな想いを含んで一応、チラリと目線だけ一に送るが、ぷいっと横向かれてしまった。これは、多分ちょっと、いや、結構怒っている。
これまで一が維人に怒った顔を見せたのは、維人が無茶をしてケガをしたり、プチ家出――原因は思い出せもしないくだらないことだった――をして行方不明になったりしたとき。だから、多分、一が怒っているときは心配させてしまったときだ。
今回もそう。きっとすごく心配させてしまったんだ。そんな状況ではとても「出ていってほしい」なんて言えない。
諦めと気まずさで、小さく「はい」とだけ高坂に答えた。
「そっか。なら、さっそくだけど二人は『ビッチング』って知ってる?」
「いいえ、知りません」
維人の答えと同時に一も首を横に振る。
「そうだよね。まぁ簡単に言うと、αと性的関係を持ったα、β性の人がΩ性に転換することなんだけど、今の維人くんはそれが起きてる」
「えっ?!」
驚いた声を上げたのは一だった。でも、維人としては「やっぱり」という、わかっていた結果の発表のような、最後通告のような心持だった。あるいは横で顔を青ざめさせている一のおかげで維人自身は冷静でいられているのかもしれない。
「そんなこと、起こりえるんですか?!」
まだ動揺したままの一が高坂に詰め寄ると、高坂は表情を変えないままぺらりと一枚の紙を維人と一に見えるよう、ベッドの上に置いた。
『被検者名:桜庭 維人。二次性:Ω』
そこに書かれていたのは二次性検査の結果だった。
「世間ではほとんど都市伝説だけど、世界中で確かに事例はあるよ。まさか僕も直接お目にかかれる日が来るとは思わなかった」
二次性が転換するなどおそらくかなり重大な事案だろう。でも、高坂が明るく話すせいか、いまいち重みがない。
黙ったままの維人と、青ざめる一を置き去りにして、高坂は嬉々として話を続ける。
「当然ビッチングは簡単にはできない。まずは、転換者とその相手であるαとの間に強い絆があることが大前提だ。あとは、転換者本人の二親等以内にΩ性の親族がいること。それから、ラット状態のαと性交し、うなじを噛まれること。長期間αの精を体内に取り込み、強いフェロモンでマーキングをされること。とか、大体こんな条件を満たすとビッチングが起こると言われている。維人くんは心当たりがあるかい?」
「……最後のやつ以外は、一応あります」
諒とは恋人関係ではないが、親友だと言えるレベルの絆はある。それから、維人の母方の祖母はΩだし、あの日、諒はラットの状態だった。でも、諒と関係を持ったのはあの日だけで、マーキングはそもそもどういう行為なのかいまいちわからない。
「そっか。きみが意識を取り戻すまでに過去の事例をいくつか調べてみたんだけど、ビッチングが起こるまでに最短で八年、平均で十年から十五年くらいかかっているんだよね。でもきみはまだ十八歳だよね? さすがに十年近く前からαと性的関係を持っていたとなると他の問題が出てくるんだけど、そう言うことではないんだね?」
「そ、そんなことあるはずありません!」
さすがに焦って否定すると、高坂は「それならちょっと安心した」とにっこりと笑って見せた。
「うーん、そうなると、短期間でビッチングが起きた特異事例ってことかな。ちなみに相手は彼?」
そう指を差した先にいたのは一。もちろん違う。ぶんぶんと首を振ると、高坂は「あれ?」という顔をした。
「彼は恋人じゃないの?」
「ち、違います! 幼馴染、友達です!!」
一は整った顔立ちで背も高く、長年短距離走の選手として絞り込んだ体は男でも見惚れてしまうほどに完璧だ。もちろん他のスポーツもほぼ万能だし、勉強もできるからよくαに間違えられるが、両親ともβの生粋のβだ。
今はそのきれいな形をした眉毛を不機嫌そうに寄せているが、同世代の他の男よりも落ち着いた雰囲気も相まって、めちゃくちゃにモテる。
それに対して維人は身長も平均よりやや小さめ、顔立ちも平々凡々。それなのにいつも諒や一と一緒にいるから『 βのくせに両手に不相応な花を抱えている』なんてΩの子や、α、βの女子たちから随分と羨まれた。
「そう、なんだ」
維人の言葉に一がなぜかいっそう眉間のしわを濃くしたことで、部屋に何とも言えない空気が流れている。でも、嘘は言ってない。本当のことを言っただけなのになぜこんなにも一が怒っているのかもわからないから、とりあえず話を進めて欲しいと視線だけで高坂に訴えた。
「えっと……、じゃあその相手とは何年くらい付き合ってるの?」
「えっ、付き合ってないです。友達としてなら三年くらいの付き合いはあるけど……。その、関係を持ったのも事故みたいなもので、一回だけだし……えっとそれが、先週の金曜日で……」
そう、あれは事故だった。諒がどうしてラットになったのか詳しくは聞かなかったが、不本意な状況だったことは間違いない。だから、あれは避けることのできなかった、どうしようもない事故。それによって、維人にこんな変化が起こるなんて誰も予想できなかったのだから。
でも、高坂としては非常に想定外の答えだったようで、驚いた顔をしたあと、「うーん」と腕を組んで悩んでいる。そのうち、はっと何かをひらめいたと言わんばかりに勢いよく立ち上がった。
「まさか、『運命の番』?!」
αとΩの間に成り立つ『番』の中でも、特別に強い結びつきを持つ相手のことを『運命の番』と呼ぶ。医学的には運命の番とは遺伝子レベルで相性の良い相手であることがわかっているが、それこそ運命に導かれたかのように、一目見ただけで強烈に惹かれ合い、求め合うという。
そんな運命にいつか諒が巡り会えればいいと願っていた。でもそれはもちろんβだった維人には関係のない話で、まさか自分がなんて考えたことがあるはずもなかった。
――僕が、諒の運命……?
確かに、諒はβであるはずの維人から“匂い”を嗅ぎ取っていたし、維人自身も諒の香りを心地よいと感じていた。それが、運命的なつながりのせいだったとしたら、今回起こった“事故”の原因も単純明快だ。
αはΩのフェロモンには逆らえない。それが運命ならば余計にだ。
「まだ仮説の段階ではあるけど、今回維人くんが倒れちゃったのは、運命の番によって性急にビッチングが起きたことで身体が急激に変質してしまい、その負荷に耐えられなかったせいだと考えるのが妥当かな」
なるほど、と高坂の話に心の中で手を打った。諒と関係を持ったのが金曜日で、救急搬送されたのが月曜日。それから三日間昏睡状態だったらしいから、たった五日間で維人の身体はβからΩに変わってしまったことになる。当然負荷もかかるわけだ。でも、どこかまだ他人事のように気持ちが冷めたままなのは、起きたことは仕方ない、そう思っているからかもしれない。
「まぁ起きたことはここまでにして、大切なのはこれからのことだね」
考えていたことを見透かしたような高坂の言葉に思わずドキッとした。そうだ、大切なのはこの変化によって何が起こるかだ。維人は高坂に向かってこくりと小さく頷いた。
「まず、番は成立しているね。そう検査の結果が出ている。あと、避妊はした?」
「あっいや……」
「まぁそうだよね。通常、発情期のΩがαと避妊せずに性交した場合、妊娠確率はほぼ100%と言われてる。でも、後天的なΩは統計が取れるほど事例がないし、維人くんの場合かなり特殊事例だ。もともとΩ男性の妊娠はリスクが高いし、今後身体にどんな影響が出るかわからない」
高坂の言葉につい固まる。Ωになっていたことは「もしかしたら」と思っていた。でも、妊娠までは想定していなかった。
思わず俯くと、高坂は頭をぼりぼりと掻きながらふうっとため息をこぼした。
「ちょっといっぺんに話を進めすぎたね。今日はここまでにしよう。まだもう少し検査も必要だし、しばらくは入院してもらうことになるから」
そう言って高坂は部屋を出ていった。
窓の外に浮かぶ夕陽が病室を赤く照らしている。
それが少しずつ、でも確実に闇に飲み込まれていく様子をぼうっと眺めていたら、ぱちりと部屋の中に偽物の太陽が灯った。その人工的な明るさに少し目を細めると、一がさっきまで高坂が座っていた椅子に腰を掛けた。
「……やっぱり木暮なのか?」
ことさらに嫌悪感たっぷりの声色に怯み、思わず一から視線をそらした。多分、それを無言の肯定と受け取ったのだろう。一は小さく「チッ」と舌を打ち、膝の上で強く拳を握った。やっぱり一は諒のことをあまりよく思っていないようだ。
「さっき事故みたいなものだって言ったの、どういうことだ」
「……そのままの意味だよ。金曜日の夜にラットになった状態で諒がうちに来て、多分、僕もヒートを起こしちゃって……。だから、完全に事故。どうしようもないことだった。それに、諒は何があったか覚えてないから……」
「は?!」
怒気のこもった声にビクッと肩が震える。
「し、仕方ないよ。うち来た時にはもうひどいラット状態で、理性なんてぶっ飛んじゃってたから……」
「なんだよそれ……! 無理やりヤられたってこと?!」
「それは違うよ。確かに驚いたけど、最終的に受け入れたのは僕だから。さすがにこんなことになるとは思わなかったけどね」
ははっっと笑って見せると、一がギリッと奥歯を噛んだ音が聞こえた。
笑い事じゃない。そんなことはわかってる。でも深刻になったって、Ωになったことも、番になったことも、もしかしたら妊娠しているかもしれないことも、変えようのないことだから。せめて、『不幸なことではない』と思いたい。だから精一杯、明るい声色を出して見せた。
「あっ入院してることって諒にもう言っちゃった?」
「言ってない」
「そっか、よかった。言わないでね、入院してることも、僕がΩになったことも、全部」
「それでいいのか?! あいつは全部何も知らないまま、維人だけがこんな風になって……それでいいのかよ!」
「うん、それでいい」
あの夜のことも、今の状態も諒には知られたくない。知られたらきっと諒は自分を責めてしまうから。
諒はようやく“箱”の中から出て、自分の決めた未来を歩き始めたところだ。
それを邪魔したくはない。
――それに……。
諒は、親友で、かけがえのない、大切な、大切な人。
高校を卒業したってずっと一緒にいられると思っていた。
大学は別になるけど、お互い予定を合わせて遊びに行ったり、一人暮らしをすると言っていた諒の家に遊びに行ったり。そんな、少しだけ変わって、それでもやっぱり変わらない毎日を一緒に過ごせるのだと思っていた。
でも、“運命”が全てを変えてしまった。
――もう、諒とは会わない。もう、会えない。
全てを隠し通すならそうするしかない。
これから何が起こるかはまだわからない。自信も覚悟も何もない。
今、胸の中にあるマフラーに残る甘い香りもいつかは消えてしまう。
でも、それもいつしかきっと、“いつもの毎日”になっていくから。
前を向いて歩いていくしかないんだ。
縋りつきたくなる弱い心を抑え込むようにグッとマフラーを抱きしめる。
「これだけは一緒に連れて行ってもいいよね」
いつの間にか窓の外は闇に染まり、ぽっかりと浮かぶ月だけが静かにこちらを眺めていた。
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どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。
リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24)
※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
三人称ですが攻めだったり受けだったり視点がよくかわります。攻め視点多めです。
【短編】売られていくウサギさんを横取りしたのは誰ですか?<オメガバース>
cyan
BL
ウサギの獣人でΩであることから閉じ込められて育ったラフィー。
隣国の豚殿下と呼ばれる男に売られることが決まったが、その移送中にヒートを起こしてしまう。
単騎で駆けてきた正体不明のαにすれ違い様に攫われ、訳が分からないまま首筋を噛まれ番になってしまった。
口数は少ないけど優しいαに過保護に愛でられるお話。
ゲーム世界の貴族A(=俺)
猫宮乾
BL
妹に頼み込まれてBLゲームの戦闘部分を手伝っていた主人公。完璧に内容が頭に入った状態で、気がつけばそのゲームの世界にトリップしていた。脇役の貴族Aに成り代わっていたが、魔法が使えて楽しすぎた! が、BLゲームの世界だって事を忘れていた。
オメガな王子は孕みたい。
紫藤なゆ
BL
産む性オメガであるクリス王子は王家の一員として期待されず、離宮で明るく愉快に暮らしている。
ほとんど同居の獣人ヴィーは護衛と言いつついい仲で、今日も寝起きから一緒である。
王子らしからぬ彼の仕事は町の案内。今回も満足して帰ってもらえるよう全力を尽くすクリス王子だが、急なヒートを妻帯者のアルファに気づかれてしまった。まあそれはそれでしょうがないので抑制剤を飲み、ヴィーには気づかれないよう仕事を続けるクリス王子である。
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