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10. 冬の風

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 ユーリたちがこの街を発って一カ月ほどが経ち、白く残る息がすっかりと季節が変わったことを実感させる。
 バーデルンの街は雪が積もるほどの寒さにはならないと聞いたから、咲玖がもとにいた世界で住んでいた場所とそう変わらないくらいだろうかと思っていたが、太陽のぬくもりをはらむ海からの風は、ビルの隙間を吹き抜ける無機質な寒風とは違い、どこか優しい。
 とはいえ、冷えることには変わりなく、咲玖は中庭で掃き掃除をしながら通り過ぎていく風にぶるりと身を震わせた。
「今日は冷えますね」
 横にいたカールもぎゅっとずんぐりとした自分の体を抱えるように両手を胸の前で窮屈そうに交差している。
 冬の中庭は眠りについているように静かで、彩も少ない。だからやることも少ないのかと思いきや、どこからともなく散らばる枯れ葉や枯れ枝を集めたり、土作りをしたり、霜の対策をしたり、案外やることが多い。
 カールに一度、こんな地味な作業は苦ではないか、と聞かれたことがある。確かに咲き誇る花の香りも、風に揺れる緑もない冬の中庭に物足りなさを感じる人もいるかもしれない。でも、寒さを堪える木々たちが次の春に向けて養分を蓄え、未来を見つめるその不撓ふとうさは眩いほど美しく、耐え忍んで生きてきたこれまでの人生の先にある未来を共に生きてくれるような、そんな勝手な共感を抱いた。
 だからこの庭の木々たちも、こちらの世界に来てできた大切なものの一つ。それを守るためならどんな仕事だって苦になることなんてない。


「外国からのお客様?」
 毎日の日課である夕食時に行う今日の活動報告で、いつもはとろけんばかりの優しい眼差しで咲玖の話を聞いているラインハルトから珍しく話があると切り出された。
「あぁ、少し先にはなるが、春ごろにシン国からこの家に客人を招く予定でね。その時、サクに通訳としてサポートをしてほしいと思っているんだ」
 咲玖がこの世界にやってきた際、世界樹から『言語の自動相互変換能力』なるものを与えられたらしく、こちらの世界の人が話す言葉も、書く文字も全て日本語に自動的に変換される。今のところ咲玖が身をもって実感している“異世界転移”っぽさの唯一の能力だ。
 とはいえ、今のところその能力を活かす場面もなければ、特に意識をしたこともない。“おかげで不便がない”程度の認識だ。
「通訳とは言っても客人たちも基本的なベラーブルの言葉は話せると聞いているし、カイも同席する。だからあくまでサポートとしてきみに負担がないようにしたいと思っているから」
 どうだろうか、と伺ういつもと変わらない優しいエメラルドグリーンの瞳から、咲玖は思わず視線を外した。
 ユーリの従者であるカイとはユーリがこの街を発つ前に会ったが、あいさつ程度の会話しかしていない。ぴんと背筋が伸びるような凛とした立ち居振る舞いから、柔和な雰囲気の中にある種の鋭さのようなものを感じた。簡単に言えば“すごく仕事ができる人”なんだとその少ない時間で察した。ラインハルトと話している様子もお互いに対する信頼が見て取れた。そして、横でその話を聞いていても何を話しているのかちんぷんかんぷんだった自分が恥ずかしかった。

 ――俺は役に立てるんだろうか……。

 言葉をそのまま伝えるだけなら多分できる。でも、そのニュアンスや意図をくみ取れなければ誤った伝え方をしてしまうかもしれない。そもそもの言葉の意味が分からなければスムーズに話もできない。外交や貿易の話題なんて咲玖の知識レベルでは難易度が高すぎる。
 こちらの世界に来てから、オットーにこの国のことや公爵家のことをいろいろと教えてもらっているが、それはきっとこの国で生きている人ならみんな知っているようなレベルの基礎中の基礎。これから学んだにしても、カイのようにラインハルトの仕事を助けることはできない。
 きっとラインハルトは咲玖にそこまでのことを求めてはいない。でも、求められていないことが悲しい。できないくせに、できないだろうと思われているのが悲しいだなんて、ラインハルトへの恋心を自覚してから急に顔を出すようになった自分勝手な想いに胸がざわつく。
「無理にとは言わないよ、難しければ断ってくれればいい」
 まただ。ラインハルトの優しさに自分勝手な想いがチクンと痛む。心が拗ねていく。
「……俺はきっと役に立てない。公爵様の言うとおり俺には“難しい”よ」
 こんな八つ当たりのような言い方、困らせるどころか、咲玖を深く思いやってくれるラインハルトを傷つけるかもしれない。わかっているのに、拗ねた心がささくれ立っていく。
「サク、そんなつもりで言ったのでは……」
 ほら、困っているじゃないか。きっと後ろに立っているオットーたちもハラハラして見ている。
 こんなの甘えだ。ただ、拗ねて甘えてわがままを言うだけの子供だ。大人たちが許してくれることをわかっているからできることだ。
 ラインハルトを真正面から見つめる勇気もないくせに、この家の人たちはこんなことを言っても咲玖に幻滅なんてしない、嫌うことはない、そう思っている自分の傲慢さが心底恥ずかしい。

 ――ここで泣いたら本当に最悪だ。

 瞳からあふれ出しそうになるごちゃ混ぜの想いをグッと飲み込み、せめてもの笑顔を作って顔を上げた。
「俺、部屋に戻るね」
 食事はまだ半分ほど残っている。用意してもらったものを残すなんて最低だ。話の途中で席を立つなんて最低だ。最悪で、最低だ。
 駆け足で部屋に戻り、ベッドに飛び込んだときには堪えきれなかった想いが大粒の涙となってこぼれ落ちていった。
 布団に丸ごと潜り込み、その日の夜はラインハルトと恋人になって初めて一人で眠った。


 翌朝、鳥たちの声で目を覚まし、窓から見えるバーデルンの街並みにふと目を向ける。昨夜のうちに雨が降ったのか、木々たちは雫に濡れ、キラキラと光っていた。重い瞼にその光は痛いほど眩しくて、咲玖はまた布団に潜り込む。
 きっともうすぐアルマたちが咲玖を起こしにやってくる。この泣きはらした無様な顔を見せてもきっと二人は何も言わないだろう。でも、こんな顔でラインハルトには会いたくない。拗ねた心にできたささくれはまだ痛んでいる。またラインハルトにひどいことを言ってしまうかもしれない。そんなことをしたら、さすがのラインハルトだって怒ってしまうかもしれない。いや、もしかしたらもう怒っているかも……どうしよう、どうしよう、と思っているだけで時は無常に過ぎ、ドアの外からコンコンとノックの音がした。
「サク様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
 いつもと同じ、優しくかけられるアルマの声。咲玖は布団をかぶったままもそもそとベッドに腰を掛け、小さく「うん」と返事をした。
 二人は部屋に入るなり、咲玖の様子に少し驚いた顔をした後、エリーゼだけが部屋を出て行った。どうしたのだろうと顔を上げると、アルマがベッドに腰を掛ける咲玖の前にそっと膝をついた。
「サク様、お加減はいかがですか? 痛いところなどありませんか?」
「うん、大丈夫……」
 その優しい声にまた涙が瞳に溜まっていく。アルマは見た目から多分四十代で、小柄な体にどっしりとした落ち着きを詰め込んだような女性だ。夫と共に長くオスマンサス公爵家で働いていると聞いた。
 ちょうど亡くなった母と同じ年ごろで、初めは専属メイドなんて、と恐縮しきりだった咲玖も、アルマの持つ柔和な雰囲気と母を前にしたような懐かしさにすぐに打ち解けた。ちょうどアルマにも咲玖と同じ年ごろの子がいることを「サク様ほどかわいらしくはありませんけどね」なんて軽口を叩きながら教えてくれた。
 さすがに親子のように気安い関係、とまでは言えないが、それでもアルマには随分と懐いている自覚がある。
「朝食は食べられそうですか?」
 朝食も夕食と同じようにいつもラインハルトと一緒に取っている。でも今日は行きたくない。フルフルと首を横に振る。
「承知いたしました。でも、何も召し上がらないままでは体によくありません。簡単なものを部屋にお持ちしますね」
「うん、ありがとう」
 思った通りアルマは何も聞かないし、何も言わない。甘えている咲玖を甘やかしてくれている。「準備ができるまで横になっていてください」というアルマに従い、もう一度ベッドにゴロンと寝転がった。
 すると、またコンコンとドアを叩く音がし、アルマがそれに出る様子を目を閉じたまま聞いていた。どうやら戻ってきたエリーゼに今度は朝食の準備を指示しているようだ。
 咲玖のもう一人の専属メイドであるエリーゼは咲玖よりも少し年下で、明るく、よくしゃべる。たまにしゃべり過ぎてアルマに注意をされているくらいよくしゃべる。その話題は家族のことから街で流行っているもの、人気の本、おいしい食べ物の話まで多岐にわたり、いつもなんでも楽しそうに話す。エリーゼがいるだけでパッとその場が明るくなるようなそんな子だ。
 落ち着きのあるアルマとおしゃべりのエリーゼは良いペアだと咲玖はいつも思っている。専属メイドなんて今でも申し訳なさの方が先に立つが、この二人のおかげで咲玖はこの家にすぐ慣れることもできた。二人には感謝してもしきれない。
「サク様、冷たいタオルをお持ち致しましたので、目を冷やしてください」
 ありがとう、と受け取り寝転がったまま目の上に乗せると、瞼が蓄えた熱が少しずつ吸い上げられていくような心地よさに、ささくれ立った心も少しずつ丸みを取り戻していくような気がした。
「……公爵様、怒ってるかな」
 目の上に乗せたタオルを少しずらして視線をアルマに向けると、アルマは机の支度をしていた手を止めて咲玖の方に向き直り、いつものように落ち着いたほほえみをサクに向けた。
「きっとそのようなことはありませんよ。でも、ご心配はされていると思います」
「そっか……そうだよね。ごめんなさい」
「そのお言葉はどうか旦那様に」
「うん……。アルマ、いつもありがとう」
 ふふっとまた優しく微笑みながらアルマは少しずれた位置にあったタオルを直してくれた。
 その後、戻ってきたエリーゼと三人でたわいもない話をして、食事を終える頃には咲玖の心もすっかり落ち着きを取り戻していた。
 その勢いで、と朝の支度を終えたその足でラインハルトの執務室へと向かった。仕事の邪魔をしたくはないが、こういうことは時間がたつほど気まずさが増す。深呼吸をして部屋のドアを叩き、中からの返事を待つ。ところが少したっても反応はなく、いないのかな、と考えていると後ろから足音が聞こえた。
「あっオットー、おはよう」
「おはようございます、サク様。お加減はもうよろしゅうございますか?」
「うん、もう大丈夫。えっと、公爵様と話がしたかったんだけど、もしかして留守かな?」
「それはようございました。旦那様は早くから港の方にお出になっています。急ぎのご用事でしたか?」
 出鼻をくじかれるとはこういうことだろう。さっきまで張っていた気持ちが風をなくした凧のようにボトリと落ちてしまったのがわかる。どうしよう、次の手を考えないとと思っても脆くなった心は頭の回転を鈍らせる。下を向いたままでいると、カツンとオットーが靴をそろえた音にハッとして顔を上げた。ラインハルトはもちろん、オットーも公爵家の筆頭執事として忙しい毎日を送っている。そんな人の時間を咲玖の自分勝手で奪ってはいけない。ここへ来たのは間違いだった。
「ご、ごめんね、足止めしちゃって。全然急ぎじゃないから、またあとにするね」
「それでは昼食を旦那様とご一緒に取られてはいかがですか? 旦那様は昼前にはお戻りになる予定ですし、旦那様も早くお会いしたいと思っていらっしゃるはずです」
 あぁ、この家の人は本当にみんな優しい。昨日、自分の主人にあんなひどい態度を取った咲玖を思いやって、気遣って、大切にしてくれる。
 昨日から緩み切った涙腺がまた蓋を開けようとしているのを必死に止めながら大きく頷いた。
「うん、そうしたい。お願いできる?」
「もちろんでございます。お伝えしておきますね」
「ありがとう、オットー」
 昨日から感情がジェットコースターみたいに上がったり下がったりしている。これまでは生きていくことに必死で、自分の感情に振り回されることなんてなかった。初めてのことに戸惑うことしかできないが、それもきっと咲玖が他の感情を持てるほどの“余裕”ができた証拠だ。全部、こっちの世界に来たからできること。こっちの世界に送ってくれた世界樹のおかげで、なによりもラインハルトのおかげ、だ。

 ――本当にもらってばかりだな……。

 拗ねてばかりいないで、自分にできることをしよう。グッと心の中でこぶしを握り、前を向いて中庭に向かった。
 昨夜の雨に濡れた木々たちが放つ光は、眩しく、優しく咲玖を迎え入れてくれた。


 雨上がりの日は雑草の手入れがしやすくていいが、如何せん汚れやすい。今日も例にもれず、顔も、服もあっという間に泥だけだ。ラインハルトと昼食をとるのにとてもこの格好ではいけない。身支度をするためにカールに先に戻ることを告げ、中庭から本邸に続く道を戻っていくと、ふと屋敷の方から見たことのない女性が二人前後に並び、中庭に向かって歩いてくることに気が付いた。
 格好もベラーブル王国の人のようないわゆる西洋風のワンピースやドレスとは違い、胸元は前で交差するように合わせられ、幅の広い袖と帯のように腰に巻かれたリボンがどこか着物に似たような装い。違うのは、リボンの下が真っ直ぐに降りた形状ではなく、ドレスのように横に広がっている。着物ドレス、なんて感じかもしれない。優美で美しい作りの服装だ。
 特に前を歩いている女性の装いは赤地に細やかな金糸の刺繍がたくさん入った豪華絢爛なもので、あからさまに高貴な家の人だと物語っている。そしてその服に全く負けていない、その一つで人々を魅了する大輪の花のような美しい顔立ち。遠目から見てもその小さな顔に見合わないほどの迫力を持つ、圧倒されるほどの美人だ。
 この世界の人は男性も女性も美人が多いなぁなんて思っていると、あちらも咲玖に気が付いたようで視線が向いたのを感じた。
「こんにちは、お客様ですか」
 少しだけ距離を詰め、話しかける。にこやかに、失礼のないようにしたつもりだった。でも、その女性は美しい顔をあからさまにゆがめた。あっ、と思わず一歩下がると、その女性の後ろにいた侍女と思われる女性が、パッと咲玖とその女性の間に立ち、声を荒げた。
「使用人風情が気軽に話しかけるなどなんと無礼な。公爵家の評判はただの噂にすぎぬようですね」
 しまった、やってしまった。この世界には日本とは違って身分制度がある。相当に親しい間柄でもない限り、下位の身分のものから上位のものに話しかけてはいけない。そうオットーから習った。それなのに、今の咲玖は庭仕事のための帽子をかぶったまま、顔も手も服も泥だらけ。どこからどう見ても使用人にしか見えない。使用人の評価はその主人の評価につながる。ラインハルトに泥を塗ってしまった。全身の血が一気に下に落ちていく。何とか言葉を振り絞り、せめてもと帽子を取って勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありません、失礼を……」
 ふんっと嫌悪のため息が頭の上に落ちてくる。震える手を握りしめながら頭を下げたままでいると、先ほどの侍女とは違う静かな声が下りてきた。
「ヨウ、仕方がありませんわ。公爵様はお優しい方だと伺っておりますから、きっと使用人にも気安く接していらっしゃるのでしょう。それに公爵家は長らく女主人が不在なのですもの。使用人の統率を取るのも難しいはずですわ」
 川のせせらぎのように滑らかで美しい声。美人は声まで綺麗なのか。
「お嬢様はお優しすぎます。でもそうですね、お嬢様がこの家に入られればこのようなことはなくなるでしょう」
 やっぱり“お嬢様”なんだ。それより、「この家に入る」とは? 咲玖がまだ頭を下げたまま、頭の中でハテナをかみ砕いている間も二人は話を続けている。
「それにしても、公爵邸の中庭はとても美しいと聞いておりましたが、何とも殺風景ではありませんか。わたくしめはお嬢様の行く末が少し心配になってまいりました」
「あら、やりがいがあってよいのではなくて? こういうものも女主人の腕の見せ所でしょう?」
「さすがでございます、お嬢様」
 やりがい?? 女主人??? またかみ砕けないハテナが増えたところに、屋敷の方からこちらに向かってカツカツと靴音が聞こえた。聞きなれたその音に顔をパッと上げると、やっぱりラインハルトだ。オットーを後ろに連れ、速足でこちらに向かってくる。でも、その姿にほっと胸を撫で下ろしていられたのはその時だけだった。
「失礼、この家の当主、ラインハルト・フォン・オスマンサスだ」
 ラインハルトの顔からは少し困惑の色が見て取れる。もしかしたら予定外のお客様だったのかもしれない。もう一度美人の方をチラリと見ると、彼女は思わずドキッとさせられるような美しい笑顔をラインハルトに向けていた。
「初めまして、公爵様。わたくしはリナ・ウィローと申します。一刻も早くあなた様にお会いしたく、無礼を承知ではせ参じてまいりました」
 ドレスの裾を広げ、優雅に礼をして見せた美人、もといリナのあまりの美しさに、咲玖はひゅっと喉元からせり上がる何かに息を止めた。
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