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17. 負けられない戦い

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 アーデベルトが同じ体質フォークであると知ったとき、ただ単純にショックだった。フォークと言う存在が自分以外にもいるということを全く想像していなかったからだ。

 咲玖のいた世界でケーキは売買の対象になると言っていた。と言うことは、フォークもケーキも商売が成り立つ程度、一定数はいるわけで。それならば、こちらの世界にだっていても当然だ。
 それなのに、ラインハルトは咲玖の香りも味も自分にしかわからない、自分だけのものだと思い込んでいた。
 とんだ思い上がりに、穴を掘りたくなるほどの恥ずかしさがこみ上げてくる。それを打ち消すようにラインハルトはふうっと深く息を吐いた。
 すでに決闘の場である王宮内の闘技場でアーデベルトを前にしているのに、穴など掘っている場合ではない。

 闘技場には咲玖と立会人であるマティアス、後学のためにと今年で五歳になるマティアスの長子であるヴィクトル、その護衛騎士と侍女が数人いるのみだ。
 貴族たちからは公開試合にしてほしいと要望があったようだが、見世物ではないと国王が一蹴したとか。
 そのおかげもあって咲玖は階段状になっている闘技場の観覧席の一番下で、両掌を胸の前でぎゅっと組んでこちらを見つめている。
 今にも泣きそうなほど強張った顔をしているのに、それでも目をそらすまいと懸命に涙をこらえるその姿がいじらしくて、本当なら今すぐにでも抱きしめに行きたい。
 だが、まもなくマティアスの号令と共に決闘が始まる。
 腰に携えた剣を鞘から抜き、顔前に掲げながら目を閉じ、再度息を吐く。
 そして、目を開くや否や正面から睨みつける濃緑の瞳を射返すように強く見据え、互いの剣先を合わせた。

「始め!」

 号令と共に振り下ろされたアーデベルトの剣を受ける。キンッと言う金属同士がぶつかる音が静まり返った闘技場に響いた。

 受けた剣を薙ぎ払い、踏み込んでアーデベルトの左肩めがけて全力で剣を振り下ろす。
 一対一の戦いでは、互いの技量を計るために徐々に間を詰めていくことが多い。だが、この戦いにおいてはそんなものは必要ない。
 これは咲玖への思いがどれほどなのかを知らしめるための試合なのだ。様子見など一切無用。最初の一撃から全身全霊で挑んでいることをアーデベルトも察しただろう。だが、そのくらいでは難なく受け止められてしまうことも想定内だ。
 予想通りに危なげなくラインハルトの剣を受け止めたアーデベルトに向かってさらに一歩踏み込み、剣に力を掛ける。すると、さすがのアーデベルトも歯噛みし、後ろへと身をひるがえしてラインハルトから少し距離をとった。

「随分と性急だ。公爵らしくもない」

 確かに、何事においても慎重派であるラインハルトとしてはらしくない戦い方だろう。
 だがそれは自分に自信も余裕もあるときの話だ。今はそのどちらもない。

「それだけ必死なのです」

 剣を左下段に構え一気にアーデベルトへと距離を詰める。そのまま切り上げ、アーデベルトがかわしたところへまた剣を振り下ろす。受け止められた剣を今度は押し込むことはせず、すぐに右わき腹へと向ける。これも弾かれ、その勢いのまま左肩めがけて振り下ろされたアーデベルトの剣をすんでのところで打ち払った。
 正直これだけだけでも息が上がりかけているが、アーデベルトはまだ一縷の乱れもない。
 長引けばラインハルトが不利だ。少しだけ距離をとり、額から流れる汗をぬぐった。

「彼の人のためならばそうも必死になれるのだな。騎士の座などあっさりと捨てたくせに」
 嘲るような笑みを浮かべたアーデベルトのピンクブロンドの髪がふわりと翻ったのを合図に再び激しい応酬が始まる。
 アーデベルトは細身で上背もラインハルトの方が高く、力も強くはない。だが、それを逆手に取ったスピード勝負が得意だった。
 それは今も変わらずどころか、明らかに打ち手の巧みさが増している。ラインハルトが騎士団に所属していた当時は負け越したことはなかったが、今は迫りくる剣を受けきるだけで精一杯だ。
 鍛錬は続けていたとはいえ、体力を維持する程度だったラインハルトとは違い、アーデベルトはこの十年、騎士団長に上り詰めるまで幾重もの研鑽を積んできたのだろう。
 普通に考えて勝てるはずのない相手だ。
 だが、咲玖に「負けたら許さない」と言われた。もとより負けるつもりなどないが、咲玖との約束をたがえるわけにはいかない。

 これは勝たなければならない戦いなのだ。

 受けた剣をはじき返さずその横に刃を滑らせ、一気に間合いを詰める。そのまま鍔同士を競り合い、力を籠める。互いに押し引きできない状態で睨み合いとなった。

「愛するものを奪われぬために必死になるのは当然でしょう?」

 軽口を叩く余裕など決してありはしないが、それでもこのような口上一つとっても一対一の場では重要な駆け引きとなる。決して剣に籠める力を緩めることも、視線を外すこともないまま余裕気ににいっと口角をあげて見せた。

「騎士の座を捨てたということには反論しないのだな」
「違うと言えばご納得いただけますか?」

 眉を顰めるアーデベルトの顔を見れば、その答えなど聞かずともわかりきったものだ。
 ラインハルトが何を言おうとも、アーデベルトの中でラインハルトは『騎士の座を捨てて逃げた臆病者』でしかない。それをアーデベルトに誤解だと必死に説くほど感情もない。
 そんな考えが伝わったのだろう、これまでで一番強い力で剣を払われた。

「私には逃げ道などなかった。兄上のように体格にも恵まれず、貴殿ほどの才覚もなく、……寄りかかることのできる相手もいない」

 それまで射し込んでいた陽の光を雲が遮り、アーデベルトの声の中にある陰鬱さに呼び寄せられたかのように闘技場の中に影が落ちた。
 その影の中に表情を隠したまま、アーデベルトは一度剣で空を切ると、静かに剣を鞘へと納めていく。
 その動作はまるで神聖な儀式のように厳かで、ラインハルトは思わずゴクリと息を呑んだ。

「貴殿には“公爵”という逃げ道があった。それならば、何もない私に彼の人だけでも譲ってくれてもよいではないか」

 アーデベルトが騎士としては痩身なのは、間違いなくラインハルトと同じように味覚を失ったことが大いに影響しているのだろう。
 そして、いずれは爵位を継がなければならなかったラインハルトとは違い、第二王子であるアーデベルトは自分自身で立場を築かなければならない。そのために凄まじい努力をしてきたであろうことは想像に難くない。
 他の者であれば公爵の座を逃げ道と呼ぶことなど決して許さないが、アーデベルトにだけはそう思われても仕方がないと多少なりとも思ってしまう。
 だが、その苦難な道のりを行くことを選んだのもまぎれもなくアーデベルトなのだ。それに同情する理由も、責任を負わされる謂れもない。

「お断りします」

 はっきりと言い切ったラインハルトの言葉に、そうか、と小さく答えた声と、アーデベルトの剣が全て鞘に収まると同時にカチンという金属音が闘技場に静かに響く。

 雲が去り、再び陽の光が闘技場に注ぎ込んだその瞬間、アーデベルトは地面を強く踏切り、一瞬のうちにラインハルトとの間合いを詰めると、鞘に収まっていた剣を勢いよく抜き放った。
 やはり、という言葉が頭に浮かぶ。
 これはアーデベルトが最も得意とする居合術。過去にも受けたことがある。
 剣を一度収めることで爆発的なスピードをもって敵との間合いを詰め、その勢いを殺さぬまま剣を抜いた遠心力を利用して相手を切り伏せる。予想はしていたが、スピードも剣に加えられた力も当時とは比較にならない。
 何とか受けたと思ったが、その勢いに耐えられなかったのは剣の方だった。高い金属音と共にラインハルトの剣は二つに折れ、剣先が宙に舞う。
 当然その好機をアーデベルトが見逃すはずもなく、素早く上段へと構え直された剣がラインハルトめがけて振り下ろされた。

 ――負ける。

 その言葉が脳裏をかすめたと同時に、甘い香りが鼻に触れた。

『ライ、絶対に勝って。負けたら許さないから』

 そうだ、負けることなど許されない。
 曇りかけた視界は一瞬のうちに晴れ、間もなくラインハルトを切り裂こうとしていたアーデベルトの剣を折れた剣で受け、左手で握った鞘を全力でアーデベルトの左わき腹へと叩きこんだ。

 ところが、その一撃によりアーデベルトが倒れると同時に上がったのは歓声ではなく、耳をつんざくような悲鳴だった。

 咄嗟にその悲鳴の方向に視線を向けたラインハルトは、まるで熱波のように全身に強く浴びせられた香りに思わず片膝をついた。

 ――こ、これは……!

 これまでに嗅いだ中で最も強くて濃い、甘い、甘い咲玖の香り。一気に体を覆うようなその香りに全身が粟立つ。
 ただ事ではないと叫ぶ頭から本能を振り切り、口内にあふれ出した唾液をゴクリと飲み下して必死に香りの元へと駆け寄る。

 そこには背から血を流した咲玖が倒れていた。

「サク!!」
 青白く血の気を失っていく咲玖を抱き起すと、咲玖はうっすらと目を開け、何かを探すように視線をさ迷わせている。
「ら、い……、ヴィクトル様、は……」
 担架を早く! 医師を呼べ! などと叫ぶ周囲から泣きじゃくるヴィクトルの姿を見つけると、ホッと顔を緩ませ、咲玖はそのまままた目を閉じた。
「サク、何が…、しっかりしろ、サク!!」
 傷はそう深くはないようだが、背から流れ出る血の量と共に甘い香りが一段と強くなっていく。息を止めても吞まれそうになるその香りに必死に抗いながら止血のできそうなものはないかと周囲に視線をやると、咲玖が倒れ込んでいるすぐそばに血の付いた剣先が落ちていた。
 それは先ほどアーデベルトの剣を受けた時に折れたラインハルトの剣先だった。
 折れた勢いで宙に舞った剣先はそのまま観覧席の最前列で決闘を見ていた咲玖に、いやヴィクトルに襲い掛かり、そしてそれを咲玖がかばう。そんな情景がパッと目に浮かんだ。

 なぜ、こんなことに。
 なぜ、咲玖がこんな目に合わなければならないのか。

 どんどん青白さを増していく咲玖の腕を取ろうにも手が震え、力が入らない。
 息が吸えず、昏くなり始めた視界の端でピクリと咲玖の腕が小さく動き、ゆっくりと持ち上がったかと思うとそっと冷たい指先がラインハルトの頬に触れた。

「そんな顔しないで…、おれは、だいじょうぶ、だから」
「サク……」
 色を失った唇からこぼれる声は今にも途切れてしまいそうなほどにか細く、弱い。それなのに咲玖は柔らかくラインハルトに向かって笑顔を見せた。

 ――何て、なんて強い人なのだろう。

 頬に触れる咲玖の手をぎゅっと握り、指先に口付ける。敬愛と最愛の意を込めて。
 もう大丈夫だ、と笑顔を作って見せると、咲玖は安心したように再び目を閉じた。

 騎士たちが持ってきた担架へと咲玖を寝かせ、急いで闘技場から運び出すため立ち上がろうと足に力を入れた、その時。ラインハルトの頭上に、ゆらりと人影が揺れた。
 ゾワリと背を這う悪寒に、咄嗟に咲玖をその陰から背に隠しながら振り返る。
 視線をあげたその先にいたのは、荒げた息を押し込めるように口元を手のひらで覆いながらも、その隙間から抑えきれない涎を漏れ滴らせるアーデベルトだった。

「……を渡せ」
「殿下……」

 唸るように低い声でラインハルトを威嚇し、濃緑の瞳を欲に染めるアーデベルトの様相は、世間をにぎわせる桜の王子様の面影などまるでなく、飢えた獣そのものだ。
 アーデベルトは完全にフォークの本能に呑まれかけている。
 確かに今この闘技場に漂う咲玖の香りは、多少なりとも慣れのあるラインハルトでも意識を持って行かれそうになるほどに強い。
 ほとんど咲玖ケーキの香りに耐性のないアーデベルトが中てられてしまうのは当然かもしれない。

「邪魔をするな。そこをどけ」

 向き出しになった欲望に、抑えられない情動。
 これがフォークの本能。
 が自分の中にもある。
 目の当たりにしたその姿にラインハルトは背を凍らせた。

 周囲の騎士たちも普段とは明らかに様子の異なるアーデベルトに戸惑っている。
 今はとにかくこの場から早く咲玖を遠ざけねばならない。
 咲玖を乗せた担架を持つ騎士たちに目配せをし、ラインハルトはアーデベルトの前に立った。
「殿下、堪えてください。吞まれてはなりません」
「うるさい! その香りだ、それこそ私が求めていたものだ。さっさとこちらへ渡せ!」
「できません」
 その時アーデベルトが武器を持っていなかったことは幸いだった。
 今いる位置から咲玖を乗せた担架が離れたことを確認すると、ラインハルトは身を低くしアーデベルトの腹部へと拳を叩きこむ。
 反撃してこないでくれよ、と祈りつつ様子を伺うと、アーデベルトはうめき声と共に憎しみのこもった瞳でラインハルトを睨みつけた後、静かにその場に倒れ込んだ。

 ふうっと息を吐くと、ラインハルトの名を呼ぶ声が聞こえた。
「マティアス殿下! サクは、」
「大丈夫だ、軍医のところへ運んだ。アーデベルトはどうしたんだ?」
 騎士のけがを治療する軍医であれば、剣による切創は慣れたものだろう。とは言え咲玖が流した血はかなりの量だった。安心はできない。
「第二王子殿下は気を失っているだけです。事情は後でご説明します。ですから今は、」
 どうか咲玖の側にいかせてほしい、その想いをくみ取ってくれたのだろう。マティアスがわかったと小さく頷くと、ラインハルトはすぐさま咲玖の元へと走り出した。
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