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12.新学期

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「なんで涼音くんは数学選択じゃないんですか」
「僕は計算よりプログラミングが好きだから」
 抱いた不安はあっという間に的中し、選択科目が同じものではなかったことに、伊野が大いにごねていた。
 他の教養科目なんかでも別の講義を取っているものがもちろんあるが、学部の選択科目は今後進むコースにもかかわってくる。だから余計にぐずっているのだろう。
 選択科目を決めたのがまだバグを知られる前だったこともあり、意図せず別の選択となったが、涼音はこれでよかったと正直思った。
 それほどまでに伊野は常に涼音にべったりとくっついて離れようとしない。

「涼音くんと離れるなんて無理。俺もこっちに変わる」
「敦也、さっさと連れてって」
 同じ科目を選択した敦也に引きずられて連れていかれた伊野を見ながら、涼音は伊野のどこが好きだろうか、と少し自分の気持ちを疑いたくなる。
 でも、こう強く求められることも『悪くない』と思ってしまっていることも確かで、どんどんと深みにはまって行ってしまっているような気がした。

「あれ? 遠野 涼音?」
 そんなことを考えている時に急に名を呼ばれ、驚いて目線を上げた。そこにいたのは茶色がかった短い髪に、少し上に向いた大きな猫目が印象的な男。でも、知り合いではない。
「だれ?」
 涼音が警戒心たっぷりに眉をひそめると、その男は少し残念そうに片眉を眉間に寄せ、涼音の方に体を向けて前の席に座った。
矢崎やさき 衣織いおり。一応、中高と毎年大会で顔合わせてたんだけどな」
「……覚えてない」
 矢崎は涼音とずっと同じ種目で上位争いをしていたというが、涼音はそもそも自分の記録にしか興味がなかったし、ましてや他校の人なんて、顔も名前も気にしたことがなかった。
「高二の全国大会、あんたの代わりに俺が出たんだ」
 矢崎の言葉に涼音は一瞬息を止めた。
 もう、どうあがいても晴らすことのできない涼音の“心残り”を、自分の代わりに果たしてきた人が目の前にいる。それを急に突き付けられ、涼音の中でいくつもの感情が飛び交っていく。
 それは、羨望、悔恨、悲哀…どれもマイナスな感情で心を暗くしていった。
 それと同時に、“上書き”に成功して、少しは減らせたかもしれないと思っていた心残りが、まだ消化しきれず、重く圧し掛かっているとこに涼音は気が付いてしまった。

「悪い、こんなこと急に言われても気分悪いよな……。でも、ずっと話してみたいと思ってたんだ。これもなんかの縁だし、よかったら仲良くしてよ」
 明らかに顔色が曇った涼音を見て、矢崎は慌て、不安げな目で涼音を見つめた。
「……考えとく」
 涼音が持つマイナスの感情は涼音自身のもので、矢崎には関係ない。だから、ここで拒否するのは躊躇われ、涼音は曖昧に答えたつもり、だったのだが、矢崎はそれが通用するタイプではなかった。
「それはOKってことだな?! じゃー涼音って呼んでもいい?」
「えっ、いやだ」
「あはははっ、俺のことは衣織って呼んで」
 矢崎はスポーツマン然とした見た目から醸し出すさわやかさでごまかしながら、涼音の答えなど無視して自分本位に話を進めていく。
 伊野も似たようなところはあるが、どこか陰のある伊野とは違い、矢崎は強烈な明るさから来る強引さだ。
 とはいえ、どちらも涼音にとっては“扱いに困る相手”であることは間違いない。
「そういえば、ずっと涼音に聞きたいことがあったんだけど、涼音って緋雨ひさめと仲いいよね?」
 ちょうど伊野のことが頭に浮かんだところでの突然の問いかけに、涼音の心臓はドキッと一度大きな音を立てた。でもそれに答える前に聞こえてきたチャイムが講義が始まることを知らせ、矢崎は『後で』と小さく言って、体を前へと向た。

 授業が終わると、矢崎は涼音の方に体を向け、また話を始めた。
「さっきの話だけど、涼音は緋雨と昔からの知り合い?」
「違うけど」
「そうなんだ? 緋雨も一緒に全国行ったんだけどさ、その時にあんたのこと“なんでいないんだ”ってすごい詰め寄られたんだよね」
 以前、伊野から話を聞いた際、全国大会の場で同じ高校の部員から涼音が事故にあった話を聞いたと言っていた。その部員というのがどうやら矢崎だったということらしい。
「でも、全国大会の後から部活に来なくなっちゃって……あいつ、すごいセンスあったのに、ほんともったいない」
「……なんで部活に行かなくなったかは知ってる?」
「あー、なんかプールに行くと泣いちゃうからって聞いた。監督とかは大会の結果が悪かったからそのせいかもとか言ってたけど、あいつはそんなの気にするようなタイプじゃないと思うんだけどな」
 伊野は涼音が事故にあったことを知ってから、部活にはいかなくなったと聞いていたが、“プールに行くと泣いてしまう”という話は初めて聞いた。
 伊野にはまだ聞かされていない何かがあるのかもしれない、と思い下を向くと、自分が落とした影の上にもう一つ影が重なった。
 上を見上げると、明らかに不機嫌な顔をした伊野の顔があった。
 伊野は涼音を抱え込むように前から肩に手をまわし、威嚇するような低い声を矢崎に向けた。
「なんで衣織がいるの?」
 明らかに敵意に満ちた伊野の視線に、矢崎は少したじろぐが、すぐに人当たりのよい笑顔に戻し、伊野の質問に答えた。
「久しぶりだな、緋雨。そろそろ行くわ。じゃあ涼音、またね」
 手をひらひらと振りながら教室を出て行った矢崎を睨みつける伊野を見て、思わず涼音はため息をつく。
「なんで呼び捨てにされてんの?」
「はぁ、向こうが勝手にしてるんだよ。っていうか、やたら人を威嚇するのやめなよ。それから離れて」
「涼音くんは警戒心が足りないと思います」
「それなら、僕が一番警戒しないといけないのは伊野だと思います」
「敦也くん、涼音くんがひどい……」
「俺を巻き込むのやめて」
 その後も伊野は不満を隠さず、涼音に文句を言っていたが、次の講義が始まるチャイムにより強制終了となった。

「涼音、あれ、放っておいていいの」
 結局、その日の講義が終わっても伊野は不機嫌のままでいた。いつもなら真っ先に涼音の元へ『一緒に帰ろう』と飛んでくるのに、今日はスマホをいじったままでいる。
「いいんじゃない? 今日バイトあるから僕はもう帰るね」
 涼音は教室を出る際に、チラリと伊野の方を見たが、結局伊野は涼音の方に目を向けることはなく、スマホに目線を落としたままだった。

「伊野、これからカラオケ行くけど行く?」
 様子を伺うように伊野の前に座り、話しかけてきた男を伊野はチラッと一目見たが、すぐにカバンを手に取り立ち上がった。
「いや、帰るわ」
「お前さ、姫とつるむようになって変わったよな。なに、姫のこと本気なん?」
「まじか! まぁあれだけかわいかったらなー」
「えーーないない、いくらかわいくてもチンコついてんだぜ?」
 茶化すように口々に囃し立てる男達に、教室を出かかっていた伊野は立ち止まり、思いっきり鋭い眼光を向けた。
 それに怯んだ男達はすぐに黙り込んだため、伊野は何も言わずに教室を出た。

 久しぶりに一人で歩く道のりで、伊野は自分でもどうしても感情が抑えられないことに頭を悩ませた。こんな様子ではすぐに涼音に愛想をつかされてしまうかもしれない。そうは思っても、どうしても涼音のこととなると冷静ではいられなかった。
 伊野にとって涼音はそれほどまでに、好きで、好きで仕方がない、ずっと恋焦がれた相手なのだ。
 今日、涼音はバイトに行っている。いつものように終わるころに迎えに行き、謝ろうと心に決め、自宅のマンションではなく、駅へと足を向けた。
 電車に揺られ、数駅先の総合駅で降りると、直結している大きなデパートの地下へと向かう。仲直りのためにスイーツで機嫌をとろうだなんて、自分でも浅はかだとは思うが、何もないよりはましだろう、とかわいらしいケーキを買い、唇を尖らせながらそれを食べる涼音の顔を想像する。
 にやけ顔のまま、自宅へと向かう電車の時間を確認するため、目線を上げると、かわいらしい男の子と手をつないで歩く、きれいな女性が目に入り、思わず足を止めた。
 その女性は、柔らかい笑顔で男の子に話しかけていたが、伊野の視線に気が付き、目線が合った。それは一瞬の出来事で、女性はすぐに何事もなかったようにまた横を歩く男の子に視線を戻し、そのまま去っていった。


 夜の九時を回り、バイトを終えた涼音はカフェを出てあたりを見回すが、いつも店の前で待っている伊野の姿はない。スマホを確認するが、特に連絡もきていなかった。
 とはいえ、いつも迎えに来ることを約束しているわけではないし、今日の出来事に少し腹を立てている涼音は、自分から連絡することも気が進まず、そのまま自宅へ帰ろうとバス停へと足を向けた。

「あっれー、カフェのかわいい子!」
 正面に現れたのは、以前も同じ場所で絡まれたことのある酒に酔った男たち。また同じように道いっぱいに広がって歩きながら、涼音の行く手を阻んでいる。
「今日は彼氏いないの~?」
 男は、ニヤニヤと嫌らしい顔でわざとらしくあたりを見回して見せる。涼音は無視して通り過ぎようとしたが、また腕を掴まれてしまった。
「離して!」
「この前さーきみの彼氏に殴られたとこ、めっちゃ痛かったんだよねー。きみが代わりに責任取ってよ」
「離してって!」
 涼音は掴まれた腕を振りほどこうと必死に力を籠めるが、びくともしない。
 前は伊野が助けてくれた。そうでなければ、どこかに連れ込まれ、乱暴されてたかもしれない。同じ状況の中、涼音は心の中で伊野を呼ぶが、後ろからした声はそれとは別の人のものだった。
「お巡りさん! こっちです!」
 その声にすぐに涼音の拘束は解かれ、男たちは一目散に逃げて行った。
「よかった、大丈夫?」
「矢崎? ……うん、大丈夫」
 振り向いた先にいた矢崎は、大きなネコ目の真ん中にしわを寄せ、心配そうな顔で涼音をみていた。
「男でもかわいいと大変だな~。気をつけろよ」
「うん、ありがとう、助かった」
 警察はハッタリで、実際には呼んでおらず、『バレたらどうしようかとドキドキした』と笑顔で話す矢崎に、涼音の強張った気持ちも少しほぐれた。

「涼音くんっ!!!」
 大きな声が聞こえ、驚きながら目を向けると、息を切らしながらこちらへ走ってくる伊野が見えた。伊野は涼音と矢崎の間に入り、今日学校でしたのと同じようにまた矢崎を睨みつける。
「なんでまたいるの?」
「部活の帰りだよ。涼音とは偶然会っただけ」
 明らかに敵意を向ける伊野に矢崎は戸惑った顔をし、ちらりと涼音を見た。
「伊野、いい加減にしなよ。僕、もう帰るから。じゃあね、矢崎」
「えっ?!」
 伊野は少し怒気を含んだ涼音の声に驚いて振り向くが、すでに涼音は背を向けてバス停に向かって歩き出しており、慌てて後を追った。
「す、涼音くん、待って」
「伊野、あぁやって誰彼構わず威嚇するの本当にやめて。僕も、周りも気分悪い」
「でも!」
「しかも、自分の思い通りにいかないと拗ねるなんて子供じゃないんだから」
「わかってるよ……でも、」
「もういい、バス来たから。じゃあね」
 そう言って涼音はバスに乗り込んで行ってしまった。伊野は、遠ざかっていくバスを見つめながら思わずその場でうずくまった。
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