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19.今も昔も

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 翌日、涼音があくびをしながら歩いていると、矢崎に後ろから声をかけられた。
「おはよ、涼音。昨日は大丈夫だった?」
「おはよう。まぁ大丈夫」
 おそらく矢崎が意図している部分の答えは『大丈夫』だが、昨日、案の定一回で伊野が解放してくれるはずもなく、結局最終バスの時間ギリギリまで粘られ、体はだるいし、寝不足だし、コンディションとしては全く大丈夫ではない。
『嫉妬くらい、いくらでもしたらいい』とは言ったが、こうも体に負担を掛けられてはたまったものではない。
「マネージャーどう? いけそう?」
「うーん、やっぱりすぐには無理そう。でも、前向きには考えてるよ。だから、少しずつリハビリさせてほしい」
「昨日のシャワーもリハビリ?」
「うん。次はプールサイドに立つことかな」
「そっか、いつでも来たらいいよ。監督には言っとくからさ」
「うん、ありがとう」
 教室に向かう廊下を二人で和やかに話していたが、ふと背後からジトッとした気配を感じ、涼音が振り向くと、きれいな二重に縁どられた切れ長の目を半眼にして、もの言いたげな視線を投げかける伊野がいた。
 涼音はその視線を無視して再び矢崎の方に向き直ると、伊野に聞こえないよう小さな声で矢崎に耳打った。
「ねぇ、矢崎のせいで伊野がめんどくさいんだよ。あれ、責任もって何とかして」
「え~そう言われても……。涼音からうまいこと言っておいてよ」
「何回も言ってるけど、全然ダメないんだって。そのせいで昨日だって散々な目に……」
「えっやっぱり大丈夫じゃなかったんだ…?」
 余計なことを言った、と涼音は口をつぐんだが、どうやらそのやり取りも後ろから二人を見つめていた伊野には、仲良く、楽しそうに話しているように見えたようで、眉間に深いしわを寄せたまま涼音の腹に腕を回し、まるで荷物を持つかのようにひょいッと涼音を持ち上げた。
「わぁっ! 伊野なにしてっ?! おろして!!」
 伊野は涼音を小脇に抱えたまま、矢崎をギロリと睨みつけ教室へと入っていった。
 その様子を見ながら矢崎は、『あーあ』と呟くしかなった。

 じたばたとする涼音を小脇に抱えたまま教室に入ってきた伊野を見て、教室内は一瞬ざわめいたが、すぐに『見てはいけない』ものと認識したようで、皆一様に目をそらし、うわべだけ元の状態に戻った。
「何してんの……?」
 普段、涼音と行動を共にする敦也だけはスルーというわけにいかず、不本意ながら問いかけると、ようやく涼音を下ろした伊野は不機嫌そうな顔で敦也をちらりと見た。
「浮気してたから捕獲してきた」
「は…?」
「はぁ?! 誤解を招くようなこと言わないでよ!」
「昨日あんなに言ったのに、またイチャイチャして……ほんとにひどいと思う」
「だから違うって言ってるじゃん! 水泳部の話してただけだし!」
「これ、犬も食わないやつじゃん……」
 敦也はため息をついて、二人を放置して自席へと戻った。
 その後、チャイムと共に入ってきた講師にたしなめられ、犬も食わない痴話げんかは強制終了となったが、昼休みになっても涼音はプンプンとふくれっ面だし、伊野はムスッとしたままだしで、間に挟まれる敦也はため息しか出ない。
「もうお前ら、いい加減にしろよ。俺を間に挟むな」
「わからず屋の伊野が悪いんで、僕は知りません」
「わからず屋なのは涼音くんの方でしょ。俺だって怒るときは怒ります」
「怒るポイントがおかしいんだって! そんな気になるなら本人に聞いてきなよ!」
「衣織と話すことなんてないね」
「だーかーら! いい加減にしろって! 痴話げんかは二人でやれ!」
 珍しく大きな声を出した敦也は涼音と伊野を置いて席を立って行ってしまった。

「伊野のせいで敦也に怒られたじゃん」
「もとは涼音くんのせいでしょ」
 とりあえずここは学食。大勢の学生がひしめく中で言い争いをしていれば注目を浴びるだけなので、階段の踊り場に場所を移したが、お互いにゴールを見つけられない状態になっていた。
「はぁ……これ、すごい労力の無駄なんだけど……」
「涼音くんが衣織と絡むのやめればいいだけじゃん」
「伊野が嫌がるから話しかけないでって言えってこと? なにそれ、小学生じゃん。もう埒が明かない」
 イライラがピークに達しそうだった涼音はスマホを手に取り、『今すぐ来て』と矢崎にメッセージを送って置かれていた椅子にドカッと座った。

「あのー……」
 しばらくして顔を出した矢崎に伊野は明らかに嫌な顔し、涼音を少し睨んだ。
「さっきスマホ触ってたの衣織を呼んでたんだ。いつの間に連絡先交換してたの」
「そんなこと伊野に言う必要ある?」
「ちょいちょい、マジでケンカするのやめて。俺が悪かったよ。その……涼音に絡んでたのは緋雨の反応が見たかっただけで、涼音が好きとかそういうのじゃないから」
「は…?」
 矢崎の言葉に伊野は完全に虚を突かれたような顔をし、矢崎は気まずそうに頬を掻いた。
「お前、部活やめる時何も言ってくれなかっただろ。結構ショックだったんだぞ。その上、久々に会ったら、すごい睨むし……」
 矢崎の瞳が少しうるみ、それを隠すように俯いたのを見て、伊野は完全に戦意がそがれ、戸惑っている。
「きっと、俺が涼音に絡まなかったら、お前は俺のことなんて気にもしなかっただろ。だから……」
 俯いたままの矢崎を見下ろしながら伊野は深いため息をついた。そのため息に矢崎は小さくビクッと体を震わせる。
「何も言わずに部活をやめたのは悪かったよ。あの頃はそんな余裕もなくて……」
 伊野は涼音が事故にあったことを聞いた後、涼音を思い出すようなもの、とりわけ水泳に関わることを全て自分から排除した。そのため、部員である矢崎とも距離を取るしかなかったし、相手がそれをどう思うかを考える余裕もなかった。
「……今はもういいのか?」
「あぁ、うん。涼音くんいるからね」
「そっか……」
 結局、今も昔も、ずっと伊野の中には涼音しかいない。
 矢崎はグッと自分の思いを呑み込んで顔を上げ、伊野を真っ直ぐと見た。
「俺のせいでケンカさせてごめん。でも、俺は涼音とも緋雨とも仲良くやっていきたいと思ってる。だから、また二人で水泳部きてくれよ。いつでも歓迎する」
 震える手を必死に抑えながら、矢崎は精一杯の笑顔を伊野に向ける。
 その顔を見て、伊野はまだ困った顔をしたまま、ふーっと息をはいた。
「俺も態度悪かった。ごめん。水泳部は……涼音くんと要相談かな? あと、涼音くんと俺のいないところで仲良くするのはダメだから」
「ははっ。そんなことばっかり言ってると、そのうち涼音に愛想つかされるぞ」
「大体、涼音くんのこと呼び捨てにしてるのも気に入らないんだけど」
「はぁ~小さい男だなぁ。っていうか、高槻だって呼び捨てにしてるじゃん」
「敦也くんのほうがまだ信頼感がある」
「なんだよそれ、ひでーの」
 じゃれ合うように言いあう二人を見ながら涼音はフッと小さく笑い、やっぱり伊野にとって矢崎は決して“その他大勢”の一人ではない、そう感じた。


「で、伊野は僕に何か言うことはないのかな?」
 バイトの後、涼音はいつものように伊野の家に来ていた。明日は休日だということもあり、今日は泊っていくことにしている。
 たっぷりと時間もあるのだからと、これまでのことをなあなあにして涼音に触れようとしてくる伊野を床に座らせ、自分はベッドに腰を掛けた。
「えっと……すみませんでした」
 矢崎が涼音に関わるようになってから、必要以上にやきもちを焼く伊野に涼音は何度も『そうではない』と言っていたが、伊野は一向に取り合おうとしなかった。
 伊野が信じられないこともわからないでもないが、それでも涼音としては腹の虫がおさまらない。
「僕は信用がないみたいで、悲しくなったなぁ」
「ち、違うよ! 涼音くんじゃなくて、周りを信用してないんだよ」
「ふーん? まぁいいけどさ。とりあえず一件落着してよかったよ。矢崎とも仲直り? できたみたいだし」
「別にケンカしてたわけじゃないけど……」
 伊野は少し不貞腐れたような顔で涼音から目線を外すが、そんな顔もかわいらしいなとつい涼音はクスッと笑ってしまった。

 思い起こしてみれば、大学に入ってすぐ見かけた伊野は、きれいな顔立ちと、光る金色の髪が印象的で、思わず目を惹かれた。
 付属校出身の学生ですでに関係性の出来上がってる中で、伊野と話すきっかけがないまま過ごしていたが、それでもふと気になって目で追っていると、その人当たりの良さと穏やかさに混ざる、陰りを帯びた無機質な表情をする瞬間に気が付いた。
 今思えばそれは孤独から来るものだったのかもしれない。

 それが一気に崩れたのはあの夏の出来事。
 それまで見たことのなかったどう猛さに、涼音は圧倒されるしかなかった。
 そこからは不信感でいっぱいになったのに、一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、自分にだけ向けられる優しい笑顔や、甘い態度にどんどん絆されていった。
 自分でもチョロいとは思うが、そうならずにはいられないほど伊野の全てに涼音への愛が詰まっていた。
 そして、恋人となった伊野は嫉妬深く、存外子供っぽい。
 まさか痴話げんかのようなことをするようになるなんて思ってもみなかったし、今も拗ねたような顔をしながら涼音の機嫌を伺っている。
 初めて会った時から180度違う伊野の印象に、そんなところも愛しいと思うようになった自分も“大概”だな、と涼音は小さくため息をつき、伊野に手を伸ばした。
「来て、伊野」
 立ち上がって涼音の手を取った伊野は、その手にキスをし、少ししおらしい顔をして見せた。
「もう怒ってない?」
「え、怒ってるよ? そう簡単に許してなんてあげない。だから、がんばって機嫌とって」
 涼音の言葉に伊野は一瞬焦った顔をしたが、すぐに目じりを下げ、ベッドに座ったままの涼音の前に跪く。
「仰せの通りに、俺のお姫様」
 そのまま伊野は涼音に唇を重ね、涼音をベッドにそっと倒した。
 先ほどのしおらしさはどこへ行ってしまったのか、獲物を前にした肉食獣のように欲を乗せた伊野の瞳に、涼音はゾクゾクとせりあがる興奮に身を震わせた。
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